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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto (http://www.tkchurch.comhttp://www.tkchurch.com)
Subject   聖餐式・彼らはみなその杯から飲んだ
聖餐式・彼らはみなその杯から飲んだ   
     マルコ14:22−25


 ノンフィクション作家、柳田邦男さんによる『ガン――五〇人の勇気』の中に「涙して洗った茶碗」という話があります。私は2000年の主の祈りの講解をしたときに引用しました。そこには作家の中山義秀さんがどういう最期を迎えたかということが綴られています。彼は、最後の日の前日、見舞いに現われた友人の門馬という牧師に、いきなり酸素テントの中から、「洗礼をやってくれ」と願います。牧師は、あまりの突然さに、「そうか、その気になったら、いつでもしてやるけど、まあ、今日、明日と言うこともないだろう」と答えた。
 すると彼は、真剣な表情で言い返した。「俺が、今日、明日にも死ぬかも知れないのはわかっている。間に合わないといけない。いますぐやってもらいたいから、君を呼んだのだ。」「洗礼を受けたか受けないかは、俺にとっては大変な違い、天と地ほどの違いがある。洗礼を受けたという事実 を、俺は頼りにしたい。頼むから、俺の力になってくれ。」
 「わかった」――友人の牧師は、いままで自分がお茶を飲んでいた茶碗を、洗い場に持っていき、涙を流しながら、水道できれいに洗い、そこに新しい水をくんで、洗礼のために戻ってくる。
 洗礼が済むと、中山さんは明るい顔をして言うんです。「広い世界が目の前に開けたようだな」。それから、彼はこういいます。「おまえたちが毎日やっている祈りがあるだろう。覚えておきたいから、おしえろ」。そして、主の祈りをいっしょに唱えて、彼は翌日意識不明に陥り、世を去った。
 洗礼という教会にさずけられた聖礼典の尊さが、よくわかります。「洗礼を受けたか受けないかは、俺にとっては大変な違い、天と地ほどの違いがある。洗礼を受けたという事実を、俺は頼りにしたい。頼むから、俺の力になってくれ。」
 私は、いまから15年ぐらい前に、教団の雑誌に、この話を引用したときに、見知らぬ方からお手紙をいただいたことがあります。山形のシモンペテロこと、○○さんという、教団外の方でした。彼が言うには、洗礼という儀式を頼りにする信仰は本物ではない、というのです。
  もちろん、彼の言うことは間違っています。そんな頼りにもならない礼典を、イエスさまがわざわざ定めて、教会に託すでしょうか。私たちは、イエスさまが、ご自身で定めて、教会に神の働きとして託された、聖なる礼典は二つあると  考えています。それが洗礼と聖餐です。
 今の私でしたら、おそらく病床洗礼を授けて、主の祈りをしたら、病院の売店で、ぶどうジュースを買って、パンを買って、聖餐式をします。私たち夫婦は、いつも、それを心がけます。ときどきぶどうジュースがなくて困ります。ファンタグレープをふって、炭酸を抜いても、無果汁ですから、心が痛いです。それでも、病床のお見舞いで最も貴いのは、聖餐だと思っています。なぜでしょうか? それは、病院の見舞いを重ねる度に、わかってきました。ここが大切ですから、たましいに刻んでおいてください。
 死に直面する中、大切なのは個人の信仰がとぎすまされていくことでしょう。神の国にふさわしくなって自分を見つめながら、子どものように素直になって主の十字架にすがることでしょう。
 しかし、それ以上に大切なことは、自分が、こんなに弱い、こんなに罪深い自分が、キリストの教会に連なり、愛する兄弟姉妹と一つになされているという事実を確認することです。
 つまり、病の床で受ける聖餐は、個人的に罪の赦しを味わう以上に、ハデスの門も打ち勝つことができないとイエスさまが宣言された、イエスさまの教会に、愛する兄弟姉妹と共に連なっているんだ、ということを実感したいのではないでしょうか。
 彼らはみな、その杯から飲んだ、と聖書に記されています。私もその杯から飲むのです。これこそが教会の聖餐にあずかる特権です。
 「彼らはみな」の中に、自分もまた連ならせることです。自分一人ではありません。教会の家族の一員とされていることを、私たちは頼みにするのです。自分一人の信仰以上に、教会の信仰を頼りにするのです。

1)教会は家族です。聖餐によって、同じ主の杯に与る、聖餐によって私たち一人ではおぼつかない、か弱い信仰が、互いに助けられ、支えられて、永遠のいのちにあずかっているのです。

2)次に目を留めていただきたいのは、「杯」です。聖書の中には、様々な杯が出てきます。憤りの杯とは神の裁きです。救いの杯、悲しみの杯、慰めの杯……ほとんどのケースで、杯を与えるのは神です。あるいは、私たちの人生が杯で、そこに何を注ぐかは、神が決められるのです。苦難が注がれ、救いが注がれ、悲しみが注がれ、慰めが注がれます。
 私たちに求められていることは、注いでくださったお方を信頼して、その杯を飲むことです。古来、王宮には王が徹底して信頼を寄せてきた二人がいました。旧約聖書にも出てくる、料理官長と献酌官長です。いずれも、王が口にするものに毒をもって、一瞬にして王を抹殺することができる立場にいる人です。用意された食事を安心して口にする、注がれた酒を一気に飲み干す、というのは料理官長や献酌官長に対する信頼を意味しています。
 これは、日本の社会にあっても、昔からそうだったではありませんか。「俺のついだ酒が飲めないのか」――いまでは、こんなことをいったらアルコールハラスメントと指摘されます。しかし、こういう言葉の背景にあるのは、酒に毒を盛ることが簡単だったからです。
 杯につがれたものを飲み干すことは、ついでくださる方に対する信頼です。彼らはみな、その杯から飲んだ。その杯に注がれたものは、祝福だけではありません。そこにはイエスに従うことの苦難、それから世にあっての試練も悲しみも含まれていました。

 でも、それを私たちは、みなで飲むのです一人ではありません。この教会に連なっている家族みなで、同じ杯から飲むのです。
 月曜日、嶋田さんのところに男の子が生まれました。まだかな、と思っていましたが、水曜日の朝に、小山君・涼子さんのところに女の子が生まれました。その日の夕方、玉木さんが天に召されました。
 私は、水曜日の祈祷会の後、召された玉木兄の額に手を置いて祈りました。木曜日の午後、妻と嶋田さんが出産された病院に行って、その同じ右の手を赤ちゃんの背中に置いて祈りました。
 いのちの誕生も、そして死も、同じ杯に注がれた主の恵みです。主が差し出される杯の中には、祝福もあれば、試練もあります。喜びもあれば悲しみもあります。自分の人生の中でさえ、さまざまなことがあるのです。だとしたら、教会の家族がみな、同じ杯から飲むとき、主はさまざまなものを注いでくださるでしょう。そこからみながいっしょに飲みなさい。一人が味わる喜びは、みなの喜びです。一人が味わる悲しみは、みなの悲しみです。
 
 8月3日になりますと、大西カジャ姉が40才で天に召されて1年になります。昨日から今日にかけて、同じ難病と闘っておられる患者さんと家族、それにお医者さんが岐阜で会合を持っています。昨晩は、大西姉の追悼の会がもたれました。私はそこに追悼の辞を頼まれ、文章を送って、同じ病と闘う大西姉の友人がそれを代読してくださいました。私はメッセージを作りにあたり、今ひとたび、彼女の文章を読み返していました。
 大西姉は、自分の思いをブログでこういう綴っています。彼女の人生の指針となった言葉は、ジェラール・シャンドリの「一生を終えてのち残るのは、我々が集めたものではなく、我々が与えたものだ」でした。
 まだカナダに住んでいた学生の頃、どこかでこの言葉にふれて、深い感銘を覚えました。大学卒業後、就職して初めてのお給料を貰った時、再びこの言葉を思い出しました。思いつきで新聞の広告で見たキリスト教慈善団体・ワールドビジョンに電話をして月々$20でフィリピンに住む男の子のフォスター・パレントになりました。日本に来るまで2年間余り、男の子から時折送られてくる季節のグリーティング・カードに返事を書いたりクリスマスプレゼントを贈ったりと楽しい交流が続きました。
 ……本当にいつ終わってもおかしくない人生なら、自分の事だけを考えて生きることは虚しい。大きな事は出来なくても、せめて誰かの心に暖かくやさしく刻まれるような人でありたい。誰かが楽しかった記憶をたどる時、その中で笑っていたい。
 それは本当に大げさなことじゃなく、例えば美味しいパンを一人でこっそり食べるより、誰かと分け合って食べて美味しい事を共に感じたり喜んだりできたら、その美味しさ、楽しさの記憶は何倍も素晴らしいものになるじゃないですか。 また辛いことや悲しいことの記憶の中でも、傍にいた人として思い出してもらえたら十分だと思うのです。

 メッセージは明確です。誰かと分け合って益のあるのは楽しいこと、おめでたいことだけではない。辛いことや悲しいことも、傍らにいる人と分かち合って、同じように幸せを与えてくれる、ということです。大西姉は、同じ難病と闘う人たちの支える回を立ち上げました。そのメンバーの中には、ご自分を含めてすでになくなって、残された遺族もいます。共有しているのは、楽しみよりは、むしろ悲しみの方が多いことでしょう。しかし、それは同様にすばらしい、というのです。
 主は高津教会の杯の中に、多くの喜びと祝福を、同時に多くの試練や悲しみを注がれます。私たちは、主への信頼を抱いて、それを飲み干します。みなが同じ杯から飲んだ、とあるように、私たちはみな、この教会に与えられた喜びと悲しみを分かち合います。そして何よりも頼りにするのです。このキリストのからだにつらなっていることを。自分の信仰以上に、この大きな恵みの共同体に連なっていることを、誇りとするのです。ハデスの門も、それに打ち勝つことはできないからです。

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DATE: 2007.07.23 - 00:35

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田代 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 123.219.69.234
主がお与え下さる杯を教会の兄姉と共に飲み干させて頂く恵みを感謝いたします。
2007.08.22 - 20:53 
絹田 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 203.138.111.142
杯に注がれるあらゆることを受け入れる事ができますように。
2009.01.14 - 00:40 
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