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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/9母の日礼拝説教「このわたしはあなたを忘れない」イザヤ49:7〜16

☆説教
今朝は母の日ですので、イザヤ書49章のみことばを見て頂くことにいたします。15節と16節をご一緒にお読みしたいと思います。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」。

ユダヤ人の格言にこういう文章があります。「神はどこにでもおられる。その事を証明するために神さまは母親を創られた」。

ある日、6歳の男の子が母親と一緒にヨーカドーに行きます。そして食料品売り場で、その子はカートに乗せられて、母親の名前を呼びます。「圭子〜けいこ〜」と6歳の男の子が母親の名前を呼び捨てにしています。(笑)お母さんは「あれほど言ったでしょう。お母さんの名前を呼び捨てにしないって」。と注意します。するとその子は言うのです。「だってここには、お母さんが沢山いるんだもの。これほどお母さんばかりの中で、お母さんと言おうと思ったら、お母さんの名前を呼ぶしかないじゃない」。それほどこの世界にはお母さんがたくさんいるのです。そして神さまは、ご自身の思いを受け渡しさせるために、この世界に伝えるために、母親を創られた。

こんな話があります。神さまがこの世界を創造されたときに、相当な時間をかけられた。天使が言います。「神さま、随分と集中しておられますね」。神さまは天使に言います。「君、このモデルの性能を読んでくれたか?」「私が考えているのは、プラスチック製ではない、でも頑丈で、洗濯機で洗えるような頑丈な母親を創る(笑)。その腕に抱きしめられたら、折れた足から、壊れた心に至るまですべてのものを癒すことができる、暖かさを備えている。その力をこの母親のモデルに入れ込もうとしている。まともなご飯だけで生きていのではなく(笑)、余り物、残り物でも動くように作らないといけない。それに6組の腕が必要だ」。「6組、12本の手ですか?」

「いや、難しいのは、腕の数ではない、目の方がもっと難しい。最低でも、3ペアの目が必要だ。子どもの悩みを見抜く目だ。姿を見せないところでいたずらしているのを察知する目。忍び寄る危険を見抜く目だ。しかも、そこに、視線だけで愛を伝える微妙な工夫が必要だ」。

「神さま、それって贅沢じゃないですか? 一つのモデルに、それだけたくさんの性能を盛り込むのは困難ですよ」。「だから慎重に、時間をかけているんだろう!」「じゃあ、せめて、神さま、お休みになって、明日にしたらどうでしょう。もう遅いですよ」。「いや、もう少しだ。もう少しで、私に最も近い存在、母親が完成する」。

天使がじっと見て言いました。「神さま大変です。このほっぺたの所、すでに壊れていますよ。なにか水滴が内側から漏れています。ほっぺたから漏れてます」。「いや、天使よ。それは水滴が漏れているのではない。そのほほにあるのは、涙だ」。

母親こそ、神の愛を現すことができる、その事を神さまご自身がよくご存じであり、期待しておられるから、今日のイザヤ書の表現があるのです。

1) まず、神さまの愛する子どもたちの嘆きを見てみましょう。

49章7節「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。(『王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方が、あなたを選んだからである。』」)。

イザヤ書の後半には、神さまの慰めのメッセージが記されています。神に対して罪を犯し続けてきたイスラエル、預言者の警告を足蹴にして、自分の好きなように生きてきた神の民は、とうとう、その罪の代償を払うことになります。北のイスラエル王国は、アッシリア帝国に滅ぼされ、南のユダ王国は、バビロニア帝国に滅ぼされます。エルサレムの神殿は崩壊し、城壁は壊され、民はバビロンに捕囚に取られて行きます。

ですから、この7節の4行目、支配者たちの奴隷というのは、イスラエルの民のことです。バビロンで人にさげすまれ、バビロンの市民に忌みきらわれているユダヤ人たちに向かって、イスラエルを購う者、その聖なる方が、励ましの言葉をかけて行かれます。エルサレムの神殿が崩壊し、城壁が壊されて行ったときに、民はバビロンに捕囚に取られ、そしてそれが自分たちの罪に対する神の裁きであることを受け止めました。しかし、自分たちの祖国が崩壊していくという大きな裁きを、現実には受け止めることはできませんでした。おぼろげな彼らの信仰は、神に帰るどころか、ますます神から離れて行きます。それは信仰というよりは、あきらめのようなものでありました。どうせ、以前の自分たちには戻ることができない、どうせ神は私たちを捨ててしまわれた、どうせ神さまは私たちを忘れてしまわれた、いやそうなっても仕方がないような生き方を自分たちはして来たのではないか?苦しい境遇からは、信仰は生まれず、却ってあきらめと無力感が漂っていました。

そのあきらめと無力感を抱いている民に、7 節「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる」。そのメッセージの内容は7節の最後、「イスラエルの聖なる方が、実はあなたを選んだ」のだということ。歴史はるか昔にさかのぼるところ、わたしはあなたを選んだ。

そして、8 節「主はこう仰せられた。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。』」
一番最初の、『恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた』というのは、歴史に現された神さまの真実です。

その真実なる神さまが、今再び語り、出よと言われます。
9 節「わたしは、捕われ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者には、『姿を現わせ』と言う」。
バビロンで捕囚として捕われている者たちには『出よ』という。裁きの暗闇の中にいる者に『姿を現してもう一度エルサレムに帰って来い』と言う。ところが、現状にあきらめている人びとは、自分たちの罪深さにあきらめている人びとは、神さまから突き放されて、無気力になってしまった人びとは、出て来ない。姿を現さない。どんなにエレミヤが、エゼキエルが、イザヤが「神のもとに立ち帰れ」と言っても、彼らは帰ろうとしないです。それが、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルが抱えていた一番大きな問題です。

その民の諦めのムードが、明確なことばになっています。
14節「しかし、シオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた。』と」。
一番最初に神さまを忘れ、神さまを捨てて、自分勝手な道に歩んで行ったのは私たち人間です。その罪の果てに私たちの暗闇の世界があり、私たちの悩みがあり、時に試練がある。その試練の中で神さまはひたすら「わたしのもとに帰って来い」と声をかけてくださる。しかし暗闇の世界に長〜く腰を降ろしていますと、「帰って来い」とおっしゃる神さまのことばさえも白々しく聞こえて来ます。自分がこんな果てに住んでいるのだから、主は私を見捨ててしまわれた。主は私を忘れられた(と嘆きます)。

そう考えさせられることが私たちにもあります。祈りがなかなか答えられない。神さまは聞いておられない、神さまは顔をそむけておられるのではないかと(悩んでしまいます)。もともと、神さまを見失ったのは自分ではないか。しかし、同時にそんな私が見捨てられた、とだれもが思うものです。これが人の嘆きです。

2)それに対して、神さまはご自身の愛を母親の愛にたとえて、おっしゃいました。

もう一回15 節をご一緒に読みましょう。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子を憐れまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」。

母親が自分の子どもを見捨てるだろうか? 子どもを忘れるだろうか?自分のおなかを痛めて産んだ子を憐れまないだろうか?どんな事情があったとしても憐れまないだろうか?神さまはそういう事情を知っておられます。だから、1 5 節の真ん中に、『たとい、女たちが忘れても』と、複雑な事情を込めておられます。たとい、母親たちが忘れても、いや、複雑な事情の中で母親が子どもを置いていくことがあるかもしれない、しかし、おおよそ母親は忘れない。その子を想う母親の思いを思い返して、わたしがどれほどあなたを思っているかを考えてみなさい(と神は言われる)。

この神の忘れることのない愛、変わることのない愛にイスラエルの救いがかかっているのです。これが今日の説教の主題です。私たちの救いがかかっているのは、私たちのまじめさでも、私たちの忠実さでも、私たちの一生懸命さでもない。この神の変わらぬ愛に、子どもを忘れることのない母親の愛に、私たちの救いがかかっているのです。

もう一度言いますと、私たちの真面目さでも、私たちの忠実さでも、一生懸命さでもない。私たちの救いがかかっているのは、私たちの忠実さの故にかかっているのではなく、どんなに不忠実な者であっても、一旦救った私たちに対して、変わらずに真実であり続けてくださるこの神さまの真実さ、変わることのない愛に、この私(たち、それぞれ)の救いがかかっているのです。

かなり前に、小学校の教科書に「小さな青い馬」という絵本作品が載っていました。きれいな絵といっしょに載っていました。いまえよしともさんという童話作家の作品です。

「のぼるは、母ちゃんの顔を知らない。」で始まる。「母ちゃんは、のぼるがまだずっと小さいときに死んでしまった。しかし、のぼるは毎日元気に暮らしている。いい父ちゃんがいるからだ」。

父ちゃんは踏切番、二人は人里はなれた山小屋に住んでいる。だからのぼるには、友達がいない。のぼるは時々寂しい。特に、父ちゃんが夜勤の日の夜は寂しい。

のぼるは、そんな夜には母ちゃんの夢を見る。「母ちゃんの顔ははっきりと覚えていなかったので、夢を見る度に母ちゃんの顔は、みな違っていた。それでも、のぼるはなぜか嬉しかった。」

ある夏の夜、父ちゃんが夜勤の夜、のぼるは眠れなくて外に出ると、小さな青い馬と出会います。その馬と話をし、友達になり、やがて一緒に遊ぶようになります。最後は、父ちゃんが病気で寝ているとき、のぼると馬は、町から協力してお医者さんを連れてきます。 でも、父ちゃんが治ってその日以来、2 度と小さな青い馬は、のぼるの前に姿を現わすことはありませんでした。

毎日のように、姿を現わさない馬を待っているのぼる。のぼるの肩に手を乗せて、父ちゃんは言います。「のぼる。来年から、学校だど。」「学校? 」「んだ。お前は小学校へ通うのだ。」物語の終わりは、こうなっています。

その夜、のぼるは夢を見た。久しぶりで、母ちゃんの夢だった。「のぼるちゃん、もう学校に行く年になったね。」母ちゃんは、そう言って、本当に嬉しそうににっと笑った。黒い目がきらきら光った。
「おっ。次郎の目と同じ色じゃ」次郎とは、夢に出てきた青い馬です。父ちゃんが病気で寝ているときに、のぼるといっしょに町からお医者さんを連れて来た、あの青い馬です。あの青い馬は実は母ちゃんだった。

母ちゃんの目が黒く大きく広がり、もう一度のぼるに笑いかけた。のぼるはどこかで、この馬の足音を聞いたように思った。自分が何かに乗って、運ばれて行くような気持ちがした。そうだ、うんと小さいとき、ちょうどこんな風に、母ちゃんにおんぶしてもらったけんのう。

物語ですけれども、なんとも言えない温かみがあります。のぼるが夢で出会ったあの「青い馬」を創り出したものは、何だったのでしょう。おんぶしてもらって体で覚え、今も体の中に残っているお母さんの温かみなのか?そんなお母さんを忘れられなくて、恋しくて、寂しくていくら元気に振舞っても、母さんがいない寂しさは消えません。少年の中には、絶対に忘れられないお母さんへの思いがあって、それがあの「青い馬」の幻想を創り出したのでしょうか?

いいや、そうではないと思います。少年のお母さんを慕う、その思いが創り出したのではないでしょう。逆に、お母さんの少年を思う愛が、「青い馬」となったのでしょう。たとえ死んで見えなくなったとしても、決して自分の息子を忘れたわけではない、今も変わらずに、愛している。その母の思いが、「青い馬」となって少年に出会い、少年を助けて来たのでしょう。

少年は、「ぼくを絶対に忘れないお母さんの愛」に、ひとつ安心したように、小学生になります。あっ、お母さんは僕のことを絶対に忘れてないんだという、その温かな愛に包まれて、青い馬は少年の夢から消えて行くのです。ぼくが、お母さんを絶対に忘れないのではありません。お母さんが、ぼくのことを絶対に忘れていない、その確信を胸に、少年は大人になって行きます。ここに聖書の信仰、キリスト教の福音の本質があります。

私たちが、絶対に神さまのことを忘れない、いつまでも神さまに忠実である、その信仰をしっかりと持っている、それはそれは大切なことです。時には、自分の信仰がきちんとしていることを、私たちの祝福のよりどころとすることもありますでしょう。自分が神さまを忘れていないから、救いを期待できるということもありますでしょう。

しかし、福音の本質はそうではないのです。母親が自分のおなかを痛めた子を決して忘れないように、神さまがあなたを忘れないから、あなたは救われる。私のような罪深い者が神さまのもとへと帰ることができるとしたら、神さまが私を忘れておられないからです。私のような者が神の道を歩んで行くことができたとしたら、私のような愚かな者が信仰を捨てないでいられるとしたら、神さまが、母親が子どもを憐れむように、私を憐れんでいてくださるからです。

ですから母の日で大切なことは、母親に感謝することは神に感謝することにほかならない。私が少し胸を張っていられるのは、私が神さまを忘れていないからではない。神さまが私を忘れておられないから― ―その事実の上に私たちはまたひとつ安心して、大人になることができます。

神に見捨てられた、神はわたしを覚えていない、いやそんなことを言うな。母親が、自分の子どもを忘れるだろうか?自分のおなかを痛めて産んだ子を、憐れまないことがあるか?忘れないだろう。わたしはあなたのことを忘れない。たとえこの世界の母親が、忘れることがあっても、このわたしは絶対にあなたを忘れない。それが16節です。

3 ) 絶対に忘れないということをさらに、確証付けるためにおっしゃいました。

16 節「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」。

16節前半「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」。まぁ、冗談めいた話をここでしてもあんまり問題ないと思いますが、私はこの前、自分のかかりつけの溝の口の歯医者さんに1万円をつぎ込みました。歯医者さんに7千円のネクタイを買い、そして受け付けのお嬢さんたちに3千円ぐらいのを買い、そして歯医者さんに頭を下げて改めて謝りに行った。それは2回連続予約をすっぽかしたから(笑)。1回目はまだ許せた。でも2回目はもう許されないです。私はもうそれから恐怖症になってしまって、予約を取っていないです。予約を取らずに、夕方空いていたら入れていただくという方式でこの3回歯の治療を終えていますが、そんなに忘れるのだったら手のひらに書け。ところが最近のボーペンは水性インクなので、(笑)シャワーに入ると消えてなくなるのですね(笑)。朝予約したばっかりの歯医者の予約が、夕方にはもうすでに忘れている。

人は手のひらの上に書いても忘れている。でも仮に刻むことができたならば…..。「わたしはあなたを手のひらに書いた」とは神さまはおっしゃらない。手のひらには(実際には)刻めないです。石版ではないのですから。でも神さまは、どれほどこれが消えないかということを示すために、わざわざ、「わたしはあなたを手のひらに刻んだ」とおっしゃる。そして(さらに)「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」と(おっしゃる)。

(16 節後半「あなたの城壁は、いつも私の前にある」。)「城壁」というのは、今崩れ落ちているイスラエルの無惨な姿です。それは紛れもなくイスラエルの現状です。あるいは私たちの現状、また問題課題です。子どもが一つのことに悩む。子どもが学校での友だち関係に悩んだり、子どもが人と対等の弱さを抱えたり、さまざまなことを考えますと、子どもが自分で自分のことを悩んでいる以上に、母親はひと時たりとも、その問題課題を忘れない。そして1日の中で、機会ある度に子どものために祈る。

「あなたの城壁はいつも私の前にある」という神さまのみこころはどういうことか?それは、あなたが自分の問題課題を意識している以上に、あの母親が子どもの問題課題のためにいつも祈っているように、わたしはあなたに目を注いでいる。あなたのことを忘れていない。あなた自身の問題課題を手のひらに刻んだ。それは一生消えない。そこにあなたの救いのよりどころを置け。だから「主は私を見捨てた、主は私
を忘れた」などと2度と言うな。わたしの愛はどれほど大きいか。その事を少しは心のうちに捉えて、心のうちにある不安、悲しみ、あせり、悩みからあなた自身もひとつ大人になれ。なぜなら、あなたの城壁はいつも私の前にあるから。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、今ここに座っておられる母親おひとりおひとりは、どれほど大きくなってしまった自分の子供のために祈っていることでしょうか。もう成人して子どもを持ち、しかしそれでも、自分の息子、娘を忘れずに、その問題課題をいつも自分の前に置いて祈っている母親の姿、その姿はわたしの姿だとあの母親に語りかけてくださり、また私たちひとりひとりに語りかけてくださることを感謝致します。

自分が子どものことを絶対忘れていないように、神は私のことを絶対忘れていないのだ、そこに私の救いのすべてがかかっているのだということを恵みの源とし、信仰の原点として、私たちが日頃の信仰生活を歩んで行くことができるように、私たちを憐れんで下さい。

特別に子どもの問題課題を、子どもの城壁を前にして祈っておられる母親の願いを、主よ、どうか今朝聞き留めてください。そして、その母親の心のうちに平安を与えてくださり、どこまでもあなたを信頼する信仰を授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 23:32
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