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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/16説教「パウロ(23)魔術からの解放」使徒の働き19:8〜20

☆説教
パウロの学びの23回目、今日は「魔術からの解放」ということで、使徒の働きの19章をご覧いただきたいと思います。パウロの第3回目の伝道旅行が先週から始まりました。第3回目の伝道旅行の中心は今日読んでいますエペソです。

第2次伝道旅行の最後にパウロはエペソに立ち寄りました。人々はもっと長く滞在して沢山のことを教えてほしいと頼みましたけれども、しかし、パウロはそれを振り切るようにエルサレムに戻ります。それが18章の19節20節21節に記されています。彼は最後、「もし神のみこころなら、また私はエペソに戻って来ます」と21節で述べて帰って行きましたが、実際神さまはパウロをエペソに導いておられました。パウロがいない間、ユダヤ人の伝道者アポロが説教しにやってまいります。それが18章の最後に記されています。そして19章にはいって、パウロがやって来たということを、前々回母の日の聖日の前にお話をしました。

そして今日は19章の8節から、(8節を読む)「それから、パウロは会堂にはいって、3か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努め」ていました。3か月、それから10節、(10節を読む)、「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」と、いう風に広がって行きます。約三年間パウロは腰を落ち着けてエペソで伝道しますが、エペソは当時のローマ帝国のアジア州の州都でありました。州都と言うのは、県庁所在地のようなものです。ですから、幅広く言った時に、アジヤには、コロサイがあり、ラオデキヤがあります。聖書に出てくるこういう教会は皆、パウロがこの時期、エペソを拠点に建てて行った教会です。

さて、今朝はパウロのエペソ滞在中のある出来事から学びたいと思っています。パウロは街頭で伝道し、また主はパウロとともに立ってパウロを祝福してくださいました。そしてこれまでの記述には一度も出て来ない多くの奇蹟が、ここで初めてパウロを通してなされている様子が記されています。11節(を読む)、「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。」(12節も続けて読む)、「パウロの身につけている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った」。ちょっと神がかり的な表現の仕方でありますけれども、神はパウロを奇蹟の管として用いられたことが記されています。

ところが、13節(を読む)、「諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。』と言ってみた」。15節(を読む)、「すると悪霊が答えて、『自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもおまえたちは何者だ。』と言った」。(16節も続けて)、「そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した」。

逆に祈祷師の方がやられてしまうという出来事から、今日は共に学んで行きたいと思います。

1)忍び寄る魔術
13節に、「諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師」と書いてあります。これはとても考えさせられます。というのは、ユダヤ社会は魔術、占い、祈祷師を徹底して嫌います。申命記にこういう言葉があります。「占い師、卜者、易者、魔術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死人に伺いを立てる者はことごとく呪われる。」と、書いてあります。彼らは異教の神々に仕えることと同じく、厳しく断罪されていました。(注***申命記18章9〜14あたりでしょうか?T・Y)。

ところが反面、これほど魔術や占いを嫌うユダヤの社会から、こういう習慣をなかなか追い払うことができなかったことも旧約聖書に記されています。なぜ追い払うことができないのか?それはとても単純で、私たち人間というのは呪文一つで人を支配し、呪文一つでこの世界を自分の思い通りに動かしてみたいと、そういう願望が強くある。

本屋さんに行きますと、『人を動かす言葉』という本がある。単純に職場の人間関係を良くする、家族と仲良くなるだけでなくして、職場でいかに上手に部下を動かすか、それがほめ言葉であったり、もちろんそれは魔術の言葉ではないです。しかし、私たち人間にとって一番やっかいなことは、自分の思い、自分の考えで周りが動いてくれない、だったら自分を動かせばいいんじゃないかと思いますけれども、自分を動かす以上に簡単に人を動かしてみたいという思いが私たちの内には誰にもあります。

12節を見ていただきますと、魔よけの祈祷師たちはこのパウロの奇蹟に関心を持って集まって来るのです。誰でも奇蹟や超常現象に弱い。仮にですよ、仮に、私がいつもこの講壇で鼻をかむこのハンカチですが、このハンカチが会堂のロビーに落ちていた。わあ、汚い。蹴飛ばそう、(笑)ではなくして、このハンカチを拾った人が突然癒されたら、この教会は偉いことになりますよ(大笑)。牧師が鼻をかんだハンカチで癒されるのかなんてことが掲示板に書かれたら(大笑)もう…、それほど私たちはこういう事柄に関心もあれば、こういう事柄を求めていると言ってもいいです。ですから、旧約聖書であれほどまでに占い師が断罪されても、ユダヤ人祈祷師というのは存在していたということはよくわかりますね。私たちはこの出来事から、魔術の本質というものを理解することができます。

祈祷師たちはパウロのまねをしようと思いました。13節、もう一回見てみますが、中盤から、「ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、『パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。』と言ってみた」。ためしにそう言ってみた。「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる」こういうものの言い方をした。彼らはイエスさまのことは知らない。もちろんイエスさまのことを信じていない。ただパウロがこの名前によって奇蹟を行っているから、この名前には特別な力があるに違いない、この名前は呪文に等しいに違いない、そうやってイエスさまの名前を彼らは利用したのです。

つまり、イエスも神の国も、イエスに従うこともしない彼らが、ましてはイエスさまに心から信頼することもなく、ただ自分の都合のために神さまの力を利用しようとして、イエスの名を使う。イエスに聞くより、自分の都合のために神さまの力を利用したいというのが、いわば魔術的な発想です。神さまでも仏さまでも何でもいい。頼りになりそうな力を利用する。それがまじない、それが占い、それが魔術ですね。

以前私はタクシーに乗りましたら、そのタクシーに交通安全のステッカーが、今さまざまな神社がお守りと言ってステッカーを出しますでしょう、それが、一面に貼ってあったのですね。私はそれを見てとっても不安になりました。(笑)そんなに自分の運転に自信がないのかと(大笑)。そんなに貼らないでしょう、普通に。それがべたべた貼ってあって、ああこの人運転が下手なんだぁ(笑)このタクシーに乗ってしまって…と思ったことがあります。

神でも仏でも何でもいいから利用したい。しかし、自分が利用しているこれらのものが何であるかを知らない。悪いことが続くので占い師に見てもらったら、あなたの名前の画数が悪いと言われて、そして改名した。これよくありますね。私に言ってくだされば、私がいくらでも関与します(笑)。改名してもらった。その時はそれで一安心なのかもしれない。それで人生の苦しみや不安がなくなるわけでない。また別の苦しみがやってくるでしょう。もう一回名前を変えるのか、いや、そうはいかない。今度は違う所へ行きますと、住んでいる家の方角が悪いと言われ、また引っ越すわけですね。時には、先祖のたたりがあると言われる。もう、きりがない。問題課題に振り回され、その一時しのぎの魔術に振り回され、名前を変えたり、高価な印鑑を買ったり、引っ越ししたり、まさにそれこそが魔術に取りつかれた病んだ人生。

皆さんが占いの本を買って読まれたり、あるいは自分の人間関係を改善するために、さまざまな本を読みあさったり、読まないより読んだ方がいいのかもしれない。しかしある人はこう言う、教会ではこう言う、そして振り回されて生き始めますと、まさにそれは魔術に取りつかれ、病んだ人生になってしまう。

2)魔術の恐ろしさ
ユダヤ人の魔術師たちは、悪霊に取りつかれている人に、「イエスの名によって、お前たちに命じる。『悪霊よ、出て行け』。」ところが、形勢はいとも簡単にひっくり返されます。15節に、悪霊が言い返す。「イエスは知っている、パウロのこともよく知っている。だがお前たちは何者か?」と。そして16節にありますように、悪霊に取りつかれた人たちは祈祷師たちを襲います。祈祷師は裸にされ、傷つけられ、そしてボロボロにされて逃げて行きます。

ちょっと考えさせられます。悪霊は「イエスのことは知っている。パウロのことも知っている。」と言いますが、この『知っている』とは、『かなわない』という意味です。悪霊にとって、イエスもまたイエスを信じているパウロもかなわない。これはみなさん自分によく言い聞かせるといいですね。いったい自分は悪霊にやられてしまうのだろうか?悪い夢を見た。これは悪霊のせいなのだろうか?そんなこと考えない方がいいです。皆さんの心のうちにイエス・キリストが住んでおられるなら、皆さんが夜寝る前にそのたましいをイエス・キリストに委ねられるなら、脳の中のさまざまな現象や、私たちのストレスで、悪い夢は見るでしょう。しかし、悪霊が私たちを見てあなたにはかなわない(と言うでしょう)。なぜならあなたのうちにはイエスがおられるから。私たちがイエス・キリストに人生を明け渡し、イエスキリストが内側に住んでおられるなら、イエスさまの力がパウロの内側にあったように、私たちの内側にイエスさまの力がある。

ところが、この祈祷師はイエスさまの名前を借りて来て使います。その名によって、悪霊を追い出すことを試みますが、その心のうちにも生活のうちにもイエスさまの力は何の影響も及んでいない。悪霊は、イエスさまの力が及んでいない人間など恐れるにも及ばない。簡単に彼らを縛りあげてしまうことができる。これはイエスさまもおっしゃいました。イエスさまは私たちに向かって、「悪霊を甘く見るなよ。悪霊を縛り上げることができるのはわたしだけだ。悪霊を甘く見てはいけない。悪霊にとってあなたは家財道具のひとつにすぎない。悪霊にとってあなたはちゃぶ台だと(笑)。あなたは椅子の一つにすぎないと。椅子が邪魔だなぁと思ったらちょっと椅子を片づけて、ちゃぶ台なんて簡単に畳んでしまって壁にもたれかけさせるでしょう。私たちがどんなに強く、どんなに屈強であろうとも、悪霊に遭ってあなたがたは抵抗する力も抵抗する自由もない。忍び寄る魔術は、いつの間にかあなたの人生の主人となり、あなたを自由に処分することも扱うこともできる。悪霊を甘く見るな」。

この世界には悪霊とは関係のないたわいのない占いもある。TVの朝の番組の最後に「今日のあなたの運勢は…」(笑)。聞くだけでばかばかしい。聞くと思わず、「ああ、きょうはB型は運がいいのか」(大笑)と思っちゃう自分が情けない(大笑)。人間ってそれほど愚かなんですよね。しかし私たち信仰者が占いを警戒し、たとえこっくりさんでも否むのは、そういう魔術的な世界に悪霊が寄って来るから。

以前横溝達夫兄(注***当時中学校の先生)が私たちの祈祷会で興味深い証しをしてくださいました。当時彼は50代の半ばですね。私はあの証しを忘れないですね。朝学校に行った。ある女の子が「今日学校に来たんだけれど調子が悪いので」保健室で寝ている。事情はこうだ。夜中こっくりさんをしていた。突然体が硬直して、お父さんが困ってしまって、朝軽トラックの荷台に寝かせられて学校に出て来た(一部から笑)。ここがおかしいですよ。どうしてお父さんは病院に連れて行かずに学校に、軽トラックの荷台に寝かせて来たのだろうと(大笑)。学校はしょうがないから、保健室に寝かせた。

それを聞いて達夫兄は、保健室のドアを開けた。ドアを開けたとたんに中から聞こえて来た声は、その女の子の言葉ではなかった。太〜い声で「わたしが主だ。おまえは出て行け。」という声を達夫兄が聞いたんですよ。彼はすぐにドアを閉めて、そして学校にもう一人クリスチャンの先生がいることを確認した。それから二人して主の祈りを唱え、悪霊を追い出すことに時間がかかって、2時間かかったという証しでした。それから1ヵ月後ぐらいでしたかね。福岡の学校でこっくりさんをしていた子が、同じように学校の窓から飛び降りたと、ニュースで、九州の方面では禁止になったということが記されていましたね。あんなもの何だと言うでしょう。それなりに効果があり面白いじゃないかと人間は思いますが、そういうものに悪霊は寄って来る。

ユダヤ人祈祷師たちはそれを追い出すことを専門としていた。専門としていたということはそれなりの技術を積み、また修練も積んでいたのでしょう。しかしながら彼(悪霊)はすぐさまに切り返す。「私たち(***複数なのでしょうか?)はイエスをよく知っている。パウロも知っている。イエスとパウロには手を出せない。パウロはただの人間だ。しかしその内側にイエス・キリストの力が宿っているので手を出すことができない。しかしおまえなんかひとひねりだ」。

悪霊は知らないうちに、さまざまな方法で私たちに近づいて来ること、そして人間の心の内側には、どこか魔術を慕う思いがあるということ。2番目(のポイント)は知らないでそういう世界に近づくことの恐ろしさ。なぜなら、何の害にも見えないように思いながら、そこには信仰の落とし穴があるのみならず、悪霊が寄って来るから。

3)エペソの人々は、きっぱりとこの世界から別れを告げます。
17節、18節、19節、ちょっと長いですけれども、ご一緒に声を合わせて読みましょう。「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった」。「そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した」。(また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった)。

これが今日の話のメインです。ちょっと見ていただきますと、前々回の19章の頭で、アポロの伝道を受けた人々は聖霊のことを知らなかった。そこへ、パウロがやってきて、聖霊の話をして、そして6節に「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」。(7節)、「その人々は、みなで十二人ほどであった」。というのは、これに比べたら、マイナーな出来事です。マイナー呼ばわりするのは申し訳ないのですが、聖霊が臨んで異言を語ったり、預言をしたりしたというのは、小さな小さな出来事です。これに比べたら。そのこれっていったい何ですか?

霊の力に恐れを感じて、18節「信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。」、(19節)「また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた」。こちらの方が、はるかに意味のあることです。18節で、信仰にはいっていた者というのはクリスチャンです。ではどういうことか?それはクリスチャンであった人の多くが、このパウロと祈祷師と悪霊につかれた人とのやり取りを見ながら、悪霊の恐ろしいまでの力を見た。それだけではなくして、彼らは悪霊を押さえつけ、追い出し、打ち負かしてしまうキリストの力も見た。そして恐ろしくなって、クリスチャンですから、自分の罪を告白した。自分の罪とは、すなわちキリストを信じて洗礼を受けたと言っていながら、神のみこころと全く一つとなっていない、そして依然としてこの世界の悪の影響を受けているかのような行い、依然として悪霊の影響下にあるような、自分自身の心の問題です。それを告白して捨てた。これは大きなことです。

私は洗礼を授けますが、洗礼を授ける人に、「洗礼を授けたその日にあなたの全部が変わるわけではない」。(と言います)。たとえば、お酒が止められない、たばこが止められない、悪習慣が止められない、パチンコが大好きだ。できたら止められたら方がいいですけれども、それが全部きっぱり…、必ずしもそうではない。そりゃもう筍の皮状態です(笑)。竹の子は皮をかぶった状態で出てくるでしょう。ですけどそれが成長するにつれ、その皮が全部落ちて行く。だからいかに筍の皮をはがすかよりも、いかに成長するかを考えなさい。先週も洗礼の準備会がありましたので、そのようなことを申し上げました。時には、この人からこの皮をはがしてやりたいと思うぐらい、その皮が問題の時もありますよ。無理やりにでもはがしてあげたい…(注***先生も私たちも笑っておりましたけれども、これこそが私たち人間がほかの人のことをどんなに思っても、できないことなのでしょうね。自分と同じように、その人が神さまから啓示を受けないと罪がわからない。分かったとしても自分では解決できない。イエスさまのみが、解決してくださるお方。エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」T・Y)

私たち信仰者は、どこかでキリストの名を??(よく聞き取れませんでした。T・Y)のように思っていて、キリストを信じて、キリストにその生涯を捧げることなく、キリストに祈りキリストに信頼していると言っている。でも自分の心の中には悪意があり、罪深さがあり、依然として性格が変わらない。たとえば怒りっぽい、あるいは不安にかられる。そしてそれをそのまんま、20年30年もしてもず〜っと引きずっている。10年したら少し変わればいいのになぁ、その日に変らなくても、5年もみことばに親しんだらもう少し変わればいいのになぁと思うのですが、私自身も含めてなかなか変わらないです。

それがこうした劇的な出来事を体験し、悪霊の恐ろしさだけではない、キリストの霊の力強さを見て、恐れて自分の内側にある、魔術的ないい加減なものをさらけ出して告白した。これは聖霊が下って、異言を語ったり預言をしたということとは比べ物にならない。そして、19節を見てください。魔術を行っていた者が本をかかえて来たのです。羊皮紙に書かれた写本です。ものすごく高価です。ですからざっと見積もって銀五万枚になったというのは事実でしょう。それを全部焼き捨てた。徹底的に処分した。彼らは神さまのみこころにかなわないことを悟った。そしてすべてイエス・キリストに捧げて、徹底して悪霊の影響を焼き捨てた。こういうのを『きよめられた』と言うのです。

私たちは6節のことを『きよめられた』と呼ぶわけではない。聖霊を知らなかった。パウロが手を置いたときに、聖霊が彼らに臨んで、異言を語ったり預言をしたりした。これを『きよめ』とは言わないですね。素晴らしい聖霊の賜物、聖霊の現象であることは間違いないです。そしてそのようにして聖霊が臨んだ人は異言や預言だけではない、きっと内的なさまざまな変化があったに違いない。でもそれに対してパウロは何にも触れていない。むしろ普通にクリスチャンと言う、洗礼を受けていながら、依然としてこれまでの人生の中でさまざまな矛盾を抱えていた人たちですが、それをさらけ出して、それを処分して焼き捨てた。これを私たちは『きよめ』と言います。

私は5年前に礼拝で十戒から連続で説教をしました。その時にこんな話をして、神さまだけを神さまとすること、そして自分の内側に、神さま以外のもの、魔術であれ、偶像であれ、それを抱えないで、それを焼き捨てることという話を、十戒の3番目の説教でしました。その時に使った実話がありますので、もう一回お話します。とても意味があると思います。それで今日の説教を終わりとします。

1946年、第2次世界大戦の後、イギリスがインド領をインドとパキスタンに分割する。と宣言したとたん、一夜にしてイスラム教徒とヒンズー教徒の対立が激化する。そしてインドは血の海と化したと言われています。北のパキスタンに住むヒンズー教徒はみな、南に逃げようと必死です。南のインドに住むイスラム教徒はパキスタンの故郷へ帰ろうと必死です。そして、国境では2つの流れがぶつかり合い、推定何十万、恐らく百万の命が奪われたと言われています。インドとパキスタンの問題は、今も尾を引いていますでしょう。イスラム教、ヒンズー教徒のテロの問題は今も尾を引いています。

当時クエーカーの宣教師だった、クリフ・ロビンソンはカルカッタで働いていました。カルカッタの治安は完全に乱れていたある日のこと、クリフが住んでいた地域に、若いイスラム教徒の過激派が軍を組織して、やがて、ヒンズー教が支配していた町を完全に制圧します。クリフと妻ベティとは、アパートの3階から、この暴徒が街を荒らしている様子を見ていました。外に出ることはできないので、見ていた。狂った暴徒は、家々を巡り、人々を引きずり出して撲殺する。その痛ましい状況を上から見ていた。

暴徒はひと塊りになって、クリスチャンが住んでいる道路にやって来た。住んでいるのは、クリスチャンですから、クリフの友人たちですね。クリスチャンの家族は4軒隣り合わせのアパートに住んでいた。当時クリスチャンは車や家やドアに赤い十字架をつけていた。そして自分たちがヒンズー教徒でもイスラム教徒でもない、ということを皆の前で表明していた。争いに巻き込まれては困りますから。この中立の立場でやりくりしたクリスチャンは、当時であっても、医療活動や社会活動を全インドで展開することができたという。

クリスチャンは4家族、皆自分のアパートの扉に十字架のマークをつけていた。そこへイスラム教徒の暴徒がやってきます。赤い十字架のついた最初の家のドアの前で立ち止まり、なにやら口論していた。クリフは通りの騒音で口論の内容まで聞くことができませんでした。暴徒は2つ目のアパートのドアに向かい、赤い十字架のドアの前で通り過ぎ、4つ目のドアの前も同様にして通り過ぎるのですが、3番目のドアの前でもう一回戻って来て、暴徒のひとりが激しい訴えをしていた。突然リーダーが赤い十字架のドアを蹴破って中にはいり、中にいた女性、子どもを引きずり出して、道路の真ん中で殺害するのです。それをクリフは見ていた。理由が分からない。十字架がついていた最初のドアは助かった。2番目も、4番目も助かった。でも3番目のドアだけがどうして、同じ十字架が付いているのに?

街の治安が戻った時に、クリフは調査を始めます。そこで、彼は3番目のアパートの住人が木工職人だったことを突き止めた。そして彼らはクリスチャンであったけれども、アルバイトでヒンズー教の偶像を彫っていつも売っていた。それをイスラム教徒が見た。イスラム教徒と言うのは、偶像を見ただけでも唾を吐くぐらい激しい一神教です。猛り狂ったイスラム教徒は、この家族はいわゆるクリスチャンとは聞いていて、十字架は扉の前にあるけれども、ヒンズー教の偶像を彫っていたと聞いたときに、「彼らは絶対クリスチャンではない。クリスチャンが偶像を彫るはずがない。彼らは死刑だ。」と、家族全員を殺害しました。残虐な恐ろしい話ですけれども、考えさせられます。

なぜなら私たちも人生のドアに十字架を描いて、生ける神が心の中を支配しているかのように私たちは振舞います。しかし実際には、魔術なしというキリストの名前を使って、キリストに何にも捧げていない。ただ教会生活を楽しみ、神の祝福を自分のものにしようとしている姿。あるいは家の中に、占いもあれば聖書もある、仏もあればキリストもある(笑)。ぐちゃぐちゃに混ざっている様子。私たちは考えなければなりませんね。魔術だけに限定されませんでしょう。それは洗礼を受けていながらなおも、悪の影響下で、時に占いに耳を傾け、時に自分なりの偶像を体験し、神以外のものを偶像として拝んでいるのなら、我々もまた同罪です。

エペソのクリスチャンは、ここで神の国に移ることを決意した。彼らは罪を切り捨て、自分の内側にあったことを告白し、罪深さを焼き捨て、悪霊の支配を完全に切り捨て、そしてイエス・キリストだけを仰いで生きることを決意した。するとどうでしょう。20節、これが最後の結論ですね。「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」。悪から離れたときに、教会も信仰者も驚くほどの恵みを受けて行った。私たちもそうでありますように。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、この魔よけ祈祷師の話は考えさせられます。もちろん私たちははるかに深く、あなたに信頼しています。悪霊が退散していくほど、心のうちに、イエスさまあなたがおられます。それでも、時に危険を感じるほど罠があり、私たちの周りに陣を張り、私たちの隙を狙って来ます。どうか圧倒的に強いあなたの力で、私たちのたましいをお守りください。

そしてもしドアに十字架のその図柄はあるが、心の中はそうでないという反省がありましたならば、今朝あなたの御前にその反省を押しやります。私たちの心の中にあるさまざまな複雑な思い、素直でない入りくんだ思いを捨て去り、あなたの心に、まっすぐ素直に聞き従うことができますように助けてください。そして、心の隅々に至るまで、あなたに明け渡すことができますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの聖名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 23:40
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