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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/30説教「パウロ(25)ただならぬ騒動」使徒の働き19:23〜41
5/30説教「パウロ(25)ただならぬ騒動」使徒の働き19:23〜41


☆お知らせ
私たちの教会の(というと申し訳ないのですが)黒川先生が朝日カルチャーセンターで、「西洋史とキリスト教、古代から中世へ」というタイトルで、7/3,7/17,7/31,8/7の4日間、講演をされます。この講義に参加されたい方、後ろに貼っておきますので是非ご覧いただきたいと思います。

黒川先生は6月の最後にこの講壇でメッセージをしてくださいます。黒川先生のご家族はいつも私たちと共に、礼拝を守っておられますが、先生ご自身は愛知教育大学の教授、東京大学で教えたり、慶応大学の講師や東京外大でも講師をされておりますけれども、先生ご自身はいくつもの教会を開拓しておられます。開拓して、後継者に渡して、でもその教会にやっぱり行かなければならない。「先生は今安孫子でしたっけ?」(よく黒川さんのお返事が聞こえませんでした。T・Y)「そうですか」。

いくつもの教会を責任を持っておられ、大学は愛知教育大学、いったいこの先生何をしておられるのだろうと思いますけれども(大笑)、しかし6月に「西洋史とキリスト教」という本が教文館から出版されます。それに合わせてのこの講演になりますが、先生ご自身の著書としては、恐らく10冊目ぐらいになるかと思います。是非ご関心がありましたら、出席していただくとともに、6月の最後の日曜日の先生の説教も楽しみにしていただきたいと思います。

☆説教
使徒の働きからパウロの生涯を学んでいますが、今日はその25回目でございまして、19章、その最後のひとつの出来事を見ていただきたいと思います。先にざーっと説明していきますので、しばらく聴いてください。

19章はパウロの第3回目、第3次伝道旅行、エペソでの働きが中心でありました。それで、4回目になりますか、特にペンテコステ、聖霊という観点から学んで行きました。
1番最初はエペソに、その前に行っておりましたアポロの悔い改めの説教とは違い、パウロは聖霊が神の愛を私たちの心に注いでくださるということを語った。聖霊は悔い改めるとき以上に神の愛を私たちの心に注いでくださる。

でも2回目のメッセージでは、魔術師の出来事から、聖霊は私たちの罪深さを教えてくださる。もうすでに洗礼を受けていたエペソの人たちが、自分がいまだに抱えていた罪から離れる力を聖霊によって与えられたという話をしました。

そして先週のペンテコステでは、第3回目、パウロがエペソの教会にいたときに、エペソを超えてローマ、それを超えてスペインへと伝道の働きを広げることを、聖霊に示され、聖霊に導かれ、心に定めたということを学びました。
そしてタイトルは「聖霊を唯一の備えとしている」。パウロは自分のこれから先の道のりが非常に厳しく、不安な、迫害に満ちた道であることを覚えていました。これまでもそうでした。しかし彼はさまざまな情報を得てそれに備えることはなく、あるいは単に自分の決意だけに頼って備えることでもなく、聖霊に聴き、聖霊に相談し、聖霊に委ねながら、自分の人生、自分の働きの唯一の備えは聖霊以外にない、という自覚を持って、第3次伝道旅行を閉じ、エルサレムに帰ろうとしているというお話をしました。

今日はその続きからで、23節こう始まります。「そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった」。そのころというのは、エペソの教会で牧会をしていたころですね。この道というのは、後に話しますがキリスト教のことです。ただならぬ騒動が持ち上がったというのが、23節から41節の出来事でありますが、先ずこのただならぬ騒動というのを見てみたいと思いますが、発端はデメテリオという銀細工職人でありました。彼は、24節見てください、「銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが」。

アルテミスというのは、美しい女神です。今でもさまざまなアルテミス像が発見されていますが、ひとつの共通の特色があるとすれば、体中に乳房が付いている、平均して18個付いています。女神なのですけれども、乳房が体中に付いていて、これをもってこの世界を、あなたの人生を豊かにしますという、所謂日本人の発想と同じ、護国豊穣の神。これを祭っていたアルテミス神殿がエペソにあった。

この発掘現場から直径約2メートル、正確に言いますと1.8メートル、高さ16メートルの大理石の円柱が100本立ち並んでいたと言われる遺跡が出て来ます。神殿の間口は43メートル、奥行きは100メートルです。これはギリシャ圏で最大の建造物で単純に言いますと、アテネのパルテノン神殿の4倍、そして、これには、庭があり、門があり、参道があり、町があると考えたら、どれほど大きいか?明治神宮があり、表参道があり、という規模ではない。

それはもうエペソという町そのものが門前町という、それを中心にアルテミスの神殿があった。この神殿の参道に店を構え、銀細工で模型を作り、お参りに来た人にそれを売って商売をしていたデメテリオという人物、その人物のもうけは相当なもので24節の最後に「職人たちにかなりの収入を得させていたが」というのは、そういうことだろうと思います。

その彼が職人仲間の先頭に立って、パウロの伝道の働き、そしてエペソの教会を追い出そうと企みます。
26節、見てください。「ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです」。
(27節)、「これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです」。
ここから大騒動が始まります。28節見てください。人々は、怒り狂って「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と叫び始めます。
そして29節見てください。「そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕え、一団となって劇場へなだれ込んだ」。もう収拾がつきません。
32節、「集会は混乱状態に陥り、大多数の者は、なぜ集まったのかさえ知らなかったので、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいた」。
34節(にありますが)、騒動は2時間も続きます。そして、最終的には、解散させられるわけですが、この騒動、さて、3つのポイントで今日はお話したいと思います。

1) この騒動を起こしたデメテリオの心を考えていただきたいと思います。

彼が人々を扇動していることば、27節をもう一回読んでみます。「これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです」。何気なく読んでしまいますけれども、少し読み下げて考えますとね、デメテリオの最初の発想は、15節ちょっと見てください。「私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです」。でも最後はこのままでは、「女神のご威光が地に落ちてしまう」、こういうものの言い方をします。

つまりデメテリオの本心は“金儲”けなのです。銀で神殿の模型を作りそれで儲けるという“金儲け”、“金儲け”と言ってはデメテリオが可哀想なのかもしれない、それは彼の生活が掛っていますから。しかし、パウロの伝道が盛んになり、パウロがエペソから始まってアジヤ全域に教会を建てて行きますと、生活の種が無くなってしまうぞ、しかし本心を隠して、女神アルテミスのご威光が地に落ちてしまう、だから女神の威信を守る、そのご威光を守るというものの言い方で、人々に訴えて行くのです。でもこの騒ぎを起こしている人たちの根底にあるのは、実はアルテミスではない。結局は自分の利益、自分の名誉、自分の立場、だからこんなに怒り狂っている。

このパウロの発想をちょっと見ていただきたいのですが、後ろの方にピリピの手紙があります。ピリピの3章19節をご一緒に読みたいと思います。あまりいいことばではないのですが。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」。

彼らというのは、手で造った神殿、偶像を拝んでいる人々のことです。一生懸命神殿にお参りし、一生懸命神に手を合わせるけれども、最後19節の終わり、彼らの思いは地上のことだけです。つまり、自分の願い、自分の利益、自分の立場、それを守るために、神を礼拝にし、そして有名なことばがこの19節の真ん中に出て来ます。

『彼らの神は彼らの欲望であり』。文語訳聖書ですと、『彼らはおのが腹を神とし』ですね。つまり、自分の腹の中にあるものを神としていた。その方がギリシャ語の原語に近いのですが、自分自身の欲望を、自分自身の名誉や立場を、成功や満足を神としているだけだ。それを満たすために、そもそも神が存在し、それを満たすためにそもそも神を拝む。これが偶像崇拝の本質です。

聖書で偶像崇拝があれほど禁じられているのは、例えば、きつねを拝むとか鳥を拝むとか蛇を拝むとかいろいろあるでしょうが、単にそんなつまらないものを拝みなさんなということだけが偶像礼拝の本質ではない。それはロマ書1章でパウロが言っているように(ロマ1:21〜25参照)、人はまことの神に背を向け、自分の欲望を神とする。そして、自分の欲望を叶えて欲しい存在を神として崇め、自分の思い通りに叶えてくれない神であれば、人は平気でその神を捨てる。

そういう思いはキリスト教の中にもありますね。たとえば人生の困難に出会い、あるいは病んで、それを癒してもらうために教会の門をくぐり、祈ってもらい、そして実際に癒されますと、よく言いますでしょう。“退院するがごとく”に教会から去っていく(笑)。病院は病気だから行く。病気は治れば病院を退院する。だから自分の人生の問題課題が終われば、退院するがごとく教会から去っていく。その方にとっての神、どういう神であったかというと、やっぱり申し訳ないですが、『おのが腹を神とし』(でしょう)。

そして、ある意味、私たちも気をつけなければなりません。自分自身の主張、だれしもがこだわりのある主張があるわけですが、これが神さまの栄光のためと言っておきながら、それが本当に神の栄光のためなのか、あるいは自分の願望が神となって、いつの間にか、「自分の願望が」と言わずに、「神の栄光のために」と言っているのか。

時々話を聞くことがあります。立派な教会堂を建てる。何もこんなに立派にな教会堂を建てなくてもと思います。その教会堂を立派にするがために、教会員に献金を募ります。そして教会員の経済は疲弊し、教会の中でさまざまな不協和音が起こり、しかし教会は立派、そして牧師が語ることばがあるとすれば、「教会は神の栄光を顕す建物だ。そんじょそこらの建築ではだめだ」。そう言われますと、立派な会堂を建て、ステンドグラスをはめ込み、しかしそれによって逆に苦しんでいる人が教会にたくさんいる。これは典型的な例ですけれども、しかし、私たちは理論をすり替えてはいけない。自分の願望なのか、神の栄光なのか、そしてもし、自分の願望を神の栄光にすり替えたものの言い方をすれば、私たちもまた偶像崇拝に等しい。


2)この世に騒動を起こす福音

さて2番目のポイントを見ていただきたいと思いますが、一番目のポイントは実はマイナーで、ここからが今日の話をよく聞いていただきたいポイントなのですが、それは聖霊の力に押し出されたパウロはこの世に騒動を起こした。それが今日のポイントです。「この世に騒動を起こす福音」、あるいは「この世にやっかいものになる聖霊の力」。

キリスト教の福音が宣べ伝えられることによって、デメテリオならびにこのアルテミス神殿近辺の人たちは何となく脅威を抱いた。そして教会を排除する方向に行くわけです。この場面では、銀細工職人しか出て来ません。しかし、この豊穣の女神のアルテミスの周りには、娼婦の宿が至る所にある。偶像の数よりも娼婦の数の方が多い。そしてそこに礼拝する人は、その娼婦と交わることによって、娼婦の恵みを実際に得ることができるという、全く別の商売があった。ここで出てきているのは銀細工職人が起こした騒動です。しかしおそらくその背景には、そういうものがあった。

明治の頃に町に宣教師がやってきて、そして教会が建ちますと、その教会に仏壇屋さんが殴りこんで来るとか、あるいは町の遊郭の経営者たちが教会に殴りこみに来るというのは、もういくらでもあった話ですね。私は今日ひとつの話を紹介したいと思いますが、有名なのは矯風会。

キリスト教婦人矯風会というのは、今ではそれほど知られていませんが、明治以来、日本のキリスト教が、遊郭・娼婦を廃止する廃娼運動を担ってきた最大の組織ですね。私は昨日それを調べていて、ひとつおもしろい記事に当たったので、ご紹介したいと思います。

昭和3年、1928年の夏の夜、秋田市内の一角から火が出て、秋田の遊郭地帯が焼失したという出来事がありました。11軒の遊郭のうち、9軒が焼失し2軒しか残らなかった。すぐに遊郭を復興しようとする動きの中、遊郭復興反対を、 売春婦解放を叫んで立ち上がった人物に、早川かいという女性がいました。ご主人は、お医者さんで娘さん5人全員お医者さんになりますけれども、彼女は秋田矯風会の支部長を務め、秋田メソジスト教会の教会員でした。
        
自宅の二階を開放して、逃げ込んでくる娘たちを匿い、その借金の始末に奔走し、そして脅してくる遊郭業者を相手に、このひとりの女性が運動を展開します。遊郭が焼失した。そして逃げ込んで来る娘たちを自宅に匿いますけれども、それは匿い切れないです。ですから、裏の垣根から連れ出して、夜汽車で東京のキリスト教婦人矯風会の会館に送り届けることも何度もありました。その度に、秋田の教会員も協力した。

とうとう、この運動が大きくなり、県議会は娼婦遊郭の廃止を決議します。そこに至るまで、早川かい姉も、また秋田メソジスト教会の会員も、地元の遊郭業者を相手に命がけの戦いをしています。

これが騒動です。これがパウロが置かれている、エペソの教会の人々が置かれているのと同じ騒動です。23節をもう一回見てください。「この道のことから、(イエス・キリストの教えから)、ただならぬ騒動が持ち上がった」。

それは、キリストの愛を真実に生きようとするなら、神の義を心から求め、もうちょっと単純に言うと、正直であり公平であり、正しくあろうとするなら、ましてや天地万物を創造された神のみを神としようとするなら、ただならぬ騒動を避けて通ることができないのが、イエスさまが教えてくださった福音なのだ。

イエスさまは私たちにおっしゃいました。「あなたがたは罪と姦淫の時代を生きる」と(注***マルコ8:38参照)。罪と姦淫の時代を生きるとすれば、まっすぐに生きているだけで、神の正しさを生きるだけで騒動になる。別に私たちの側から騒動を起こしたいと願わなくても、神を神として生きることを願うだけで騒動となる。

公立学校のキリスト教の教師が国旗に礼拝しないだけで騒動となる。なんでそんなことが騒動となるのかと(笑)思いますが、イエスさまはおっしゃった。「あなた方が生きているのは罪と姦淫の時代です」。あなたがたが正直に公平に神の正しさを追求しようとするだけで騒動となる。そしてそれを担い、世の光として生きて行くのが、聖霊の力を受けたあなたがただ。

私たちの祈りがあるとすれば、ああ主よ、同じ福音によって救われた私たちをも強めてください。そしてその正しさを、正直さを、公平さを貫く力を私にも与えてください。パウロは輝いた、早川かい姉のような、そんな力を私たちにも与えてください。別に騒動を振りまいている私たちではない。でも罪と姦淫の時代と、平穏に何の騒動もなく教会が生きているとしたら、もしかしたら教会はその輝きを失っているのかもしれない。私たちは自ら迫害を招くことはしません。しかし自分自身のこの強さ、自分自身の輝き、イエスさまはおっしゃったでしょう。「塩が塩気を失ったら何の役に立とうか?」(マタイ5:13、マルコ9:50、ルカ14:34参照)と。どうか塩気を保つキリスト者であらせてください。

3)「この道」を行く

さて、23節を見ますと、キリスト教が当時、「道」と呼ばれていたことがわかります。 何ともありがたい呼び名です。まさに道そのものがキリスト教だからです。イエスさまは「わたしが道です。」(注***ヨハネ14:6参照)とおっしゃった。

人間の手で造られた神殿に祭られる、手で造られた神は本当の神ではありません。そこに願い事を持って行くでしょう。そこで祈るときに何らかの安らぎを得られるでしょう。しかし、それは道にはならないのです。そこでの礼拝が、人生の指針を定める道しるべとはなりません。

日本で最終的に、日本の思想と相まって行く、仏教の禅のような世界ですね。それは道になって行くと思います。それで、華道(歌道も?***T・Y)があり、茶道があり、柔道があり、何かに専心することがその人の道となって行くというものの考え方は日本人にはなじみがあるかもしれない。そういう日本人も最近はあまりいないような気がしますが。

何かに専心する、もしそれが礼拝であるとすれば、それが道となるとはどういうことか? その道を歩むことが人生を変えて行くでしょうし、自分の生き方を決定するでしょう。逆に、願いごとだけをもって、神を礼拝に行くのでしたら、それは道にはならない。それは祈りにはなるかもしれませんが、単に願いごとを述べるだけのことです。

人は、アルテミスの18の乳房から流れ出る豊穣にあやかろうと、アルテミスのその何とも言えない豊かさにあやかろうと、家内安全を求めて、受験必勝を求めて、病が癒されることを求めて、神殿に通うのです。でも、それは道にはならない。その神殿礼拝の人生を、人は所詮送らない。神殿から出たら、それでおしまい。

キリスト教の福音は違う。私たちはこの道に入門し、この道を歩むんだということを、私は早川かい姉のようにいつまでも大切に思っていただきたい。
主イエス・キリストを信じ、その十字架による罪の 赦しを得、罪に対して死に、神に対して生きる、永遠の命の道を、一つの道を歩んでいくために、私たちはこの礼拝にやって来る。そして礼拝堂を出たら変わらずにその道を行く。その道は、イエス・キリストによって開かれ、イエスが先立って歩んで行く道です。先程の(交読の)詩篇の85篇の13節です。

これはちょっと詩篇85篇13節を皆さんご一緒に読みましょう。「義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします」。『神の義は主の御前に先立って行き』というのはイエス・キリストの前にはいつも義(正しさ)がある。そしてイエスキリストの足跡を道として私たちは、みことばに親しみ、主を賛美し、キリストの辿って行かれたその道を歩むことが私たちの人生、それが私たちの人生を変える道です。

もしそういう人生を歩むなら、銀細工職人の造った神殿の模型を喜んでいた人は、もうそんなものを欲しがらなくなるでしょう。早川かいさんの訴えをくみ取れば、遊郭に通っていた人は、その行いをやめるでしょう。それが、キリストの道を行く者たちですよ。キリストの道を行く者たちは、その憐れな娘たちを、救い出すことを考えるでしょう。主に従う者、主イエスを礼拝する者一人一人が、新しい道を行き、その送り出された場所において、周囲を変えていくような力を聖霊からいただく。正直に、公平に、善に飽きることなく、(Uテサロニケ3:13でしょうか?T・Y)疲れることなく、主の道を行く。そしてその道の先に、人生の終わりがあり、天国の門が開かれていく。

早川かいさんは、昭和29年(1954)、秋田楢山教会から同じメソジストの杉並区の阿佐ヶ谷教会へ転会されました。ご主人を先に天に送り、一人で、視力が衰え、駅の手すりを頼りに世田谷の住まいから阿佐ヶ谷教会へ通われました。

私は先週の月曜日(注***5/24ウェスレーの回心記念日の大会で藤本先生が講演なさった日でしたね。T・Y)、大村勇先生の息子さん(注***HPによると、現阿佐ヶ谷教会の先生の伯父様に当たるのが、大村勇元牧師のようですね。T・Y)に会いましたが、当時の牧師大村勇先生が、早川かいさんにおっしゃいました。「働き者のマルタがマリアになりましたね。」――そのようにねぎらってもらったことを、早川かいさんはとても喜んでいたと聞きました。

若いころは遊郭業者を相手に奔走していた働き者のマルタが、年を取ってご主人を天国に送り、そして自宅から教会まで電車を乗り継ぎ、視力が衰え、そして牧師先生に言われたことは、働き者のマルタがじっとイエスさまの足元にひざまずいて、熱心に祈りみことばに耳を傾けるマリアになりましたね。マルタがマリアに変っても同じ道を歩んでいるにすぎない。このようにねぎらってもらって、姉妹はとても喜んだ。

この喜びは どこから来るのか?それは、この道を歩んで来た者が祝う喜びです。今は、皆さんはこの教会に来ることができる。でもやがて、勝間田兄のように、この教会に来ることができないでしょう、年老いたら。でも同じ道を歩んできた者の喜びは何か?それはいつもイエスさまを先頭に、信仰の道を自分は歩んで来た。それは単に自分の願いごとを叶えてもらうために、“神殿詣で”を繰り返していた人生とは違う。

「振り返って、あなたの60年、70年、80年の人生は何だったのですか?」と言われれば、「私はひたすらキリストの愛に生かされ、聖霊の力を受けて、イエスさまの足取りを自分も歩んで来ました。ある時はマルタのように奉仕し、あるときはマリアのように静かに備え。しかし、私の歩いて来た道に何ら変わりはありません。」と言うことができたならば、私たちもまたパウロのように、この生涯を閉じることができます。  

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、この日本にも騒ぎを起こしてきたキリスト教会が沢山ある事を感じますが、また今この中にもあなたに真実であるがゆえに、この罪深い時代にあって、厄介者と呼ばれ、騒ぎを起こすような私たちであることを心から感謝致します。どうか、この塩気を失うことがありませんように。のみならず、この塩気を保ちながら真っ直ぐにこの道を歩み、やがて天国の門に迎え入れられるような私たちでありますように。

時にこの道から外れることもあるかもしれません。しかしもし外れてしまったならば、あなたの愛によってまた私たちを連れ戻し、最後の最後まで皆ひとつとなってこの道を行くことができるように、私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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