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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/11説教「パウロ(28)告別説教」使徒の働き20:17〜35
7/11説教「パウロ(28)告別説教」使徒の働き20:17〜35

☆説教
パウロの生涯を学びまして今日で28回目。そしてとうとう使徒の働きの20章の告別説教に到達致しました。

第三次伝道旅行では、パウロはほとんどエペソの教会にいました。3年の歳月を費やして、この教会を拠点にアジヤ全域に伝道を致します。恐らく、以前学びました黙示録の7つの教会はこの時期に建てられたと言われています。

彼は、ここからコリントの教会にいくつもの手紙を書いています。第三次伝道旅行を終えて、エルサレムに戻る前に、彼はどうしても行っておきたかったコリントを訪問します。つまり、エペソという小アジアの町から、エーゲ海を渡って、ギリシャのコリントへ。しかし、そこから直接エルサレムに行かずに、彼はもう一度小アジアに戻ってきて、今日ご覧いただきました17節の、(エペソの近く)ミレト という港町にエペソの教会の長老たちを呼んで、そして彼の告別説教が18節から始まって行きます。

この説教の後、36節を見てください。

36節「こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った」。
37節「みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、」

と最後の別れをします。

第三次伝道旅行の最後であるのみならず、これが世界を巡って教会を建ててきたパウロの伝道の最後を締めくくる説教となりました。今日から数回にわたって、この説教を見ていただきます。パウロの遺言と言ってもいいと思います。今日は、24節までにしておきますが、そこで語られているのは、パウロの生き方です。それを3つのポイントで短くお話します。

1)涙して主に仕える

19節「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀により我が身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました」。

涙を流しながらとありますが、それは、次の『またユダヤ人の陰謀により我が身にふりかかる数々の試練』にかかっていますので、その試練の中で流された涙でしょう。でもそれだけではないと思います。自分の信仰を周囲の人々に理解してもらえない涙もありますし、自分が一生懸命にしたことが誤解される悲しい涙もありますし、自分の奉仕が正当に評価されない悔しい涙もあります。中傷や無責任なうわさ話によって心を傷つけられるという涙もあります。

でも大事なことは、パウロは、涙を流しますけれども、それを耐え忍んで来たということです。それが19節冒頭の『私は謙遜の限りを尽くし』です。怒りを爆発させて相手と喧嘩を交えようとは思わなかった。
  
なぜ、そのように涙を流し、そして耐えているのか――それはこの説の一番最後に彼が、『主に仕えている』からです。人に仕えているのではなく、主に仕えているのです。私の罪のために十字架にかかり、それでも口を開かず、罵声を浴びながら、屈辱に耐え、愛を貫かれたイエスさまに仕えているから、悔し涙を流し、迫害の中で涙を流し、しかしそれでも、相手を言い負かすことを考えずにそれに耐える。

以前日本キリスト教団の東京神学大学というのがありますが、そこに高崎毅先生と言う有名な学長がおられました。私はこの話は一回礼拝でしたことがあります。その先生が引退されることになり、インタビューで二つのことに答えることになりました。

「先生、先生の伝道者生涯で最も大きな喜びは何でしたか?」「最も大きな喜びは、私がこの手で人の頭の上に手を置き、洗礼を授けることです」。「では、先生の長い伝道者生涯の中で一番辛かったことは何ですか?」先生はじーっと考えて、そしてぽつりとおっしゃったことばが、「自分の伝道者生涯の中で、一度でもいいから、『悪いのは僕ではない、悪いのは君だ』と教会員に言ってみたい(笑)。そのことばを一度も言わずに耐えた」。

私はしょっちゅう言っていると思います(笑)。すると皆さんは「悪いのは僕ではない、悪いのは先生です。」と言われるような(笑)牧師でありますから、高崎先生のようなそんな大きなことは言えないと思います。

しかしとてもよくわかりますね。涙しながらそれに耐えると言うのは何ゆえかと言うのは、それは、人に仕えているのではなく、主に仕えているのだ。この力強いパウロの人生の中で泣くほどの出来事が何回もあったに違いない。しかし、謙遜の限りを尽くして主に仕えたと皆に証しするということは、その最後、私は主に仕えている、という意識をどれだけ私たちが持ち続けるか?

涙の体験、それが悲しみの涙であれ、悔しさの涙であれ、理解されない涙であれ、そういう涙の体験を人はいくらでもするでしょう。しかしそれを超えて、私たちキリスト者は耐えることを学ぶのです。忍耐することを学ぶ。それはストイックに耐えているだけではない。自分自身が人に仕えているのでなく、神に仕えているいう意識を持って、どれほど日常生活を送れるかということが時に問われる。それが私たちがパウロの生涯から学べる一つのこと。


2)パウロは聖霊に導かれて生きて行きました。

22節と23節をご一緒に読みたいと思います。

22節「今私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません」。
23節「ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです」。

この個所は何度も見ていただいたことがある。何度説明しても、しばらくすると忘れてしまいますので、もう一回説明させてください。

22節に、パウロはこの告別説教の心境を『心縛られ』、エルサレムに行くと述べています。それは22節の最後で『そこでどんなことが起こるかわからない』、しかし、23節の『なわめと苦しみが待っている』ことだけははっきりしていると言うのです。皆さんが仕事を変わって引っ越しされるときはこういう心境でしょうし、これから先どんな痛みと苦しみが待っているか分からない。けれども一つ明確なことがあるとすれば、それはとっても厄介、とっても大変、とっても辛い。それだけは分かっている。だから心縛られるという気持ちはよくわかると思います。

この『心縛られ』は、新共同訳では『聖霊に縛られ』と訳されています。この新改訳聖書でも、欄外に「聖霊」と書いてありますから、訳としては決め難い。聖霊と解釈することもできるし、自分の霊に縛られると言うこともできます。

なぜ、新改訳では『心縛られ』と訳したのでしょうか?それは、23節に、「聖霊」と言うことばが出てくるから。ギリシャ語では(聖なる霊ハギオス・プネウマ)ときっちりなっているのに、この22節では「霊」と表現が違うからです。それで、これは訳を変えた方がいいのではと言うことで、『心縛られ』になっています。

では、なぜ新共同訳では『聖霊に縛られ』と訳したのでしょうか。理由は二つあります。それは@パウロの言葉遣いでは、「霊」とだけあっても、「聖霊」を意味することが多いこと。そして、A最大の理由は、19:21にあります。ちょっと私が読んでみます。

19:21「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、『私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。』と言った」。

これは、第2次伝道旅行の最後で、これらのことが一段落すると、「パウロは御霊の示しにより、……..エルサレムに行くことにした」と書いてある。

そうしますと、先ほど読んでいただきました20章の22節にもう一回戻っていただきますと、これは第3次伝道旅行の最後ですね。
すると、第2次伝道旅行の最後で,『御霊の示しにより』と、パウロは自分がエルサレムに帰還するその動機を記しているとすれば、第3次伝道旅行でも同じように聖霊に縛られて、そして今度はもっと厳しい状況を聖霊から伝えられて、自分は聖霊に縛られて、エルサレムに帰るのだという方が、その訳の方が適切だというのが実は一般的です。
それで私も、聖霊に縛られてと訳します。「心縛られて」よりも、「聖霊に縛られて」の方が正しい訳だと私は思います。

パウロの告別説教からパウロの人生について学んでいますが、まず第1番目に申し上げたのは、「涙を流して主に仕える」、「謙遜の限りを尽くして主に仕える」、敢えて争いを起こさずに、それは主に仕えている人生だから。
2番目は「聖霊に導かれて生きて行く人生」。パウロはこれまでも「聖霊がアジヤの伝道を禁じた」という表現を使っています。「キリストの霊がある町の伝道を開いた」という表現もしています。伝道旅行を開かれるのも聖霊で、その門を閉じられるのも聖霊だというパウロの意識が明確に出ています。どんな門が開かれ、どんな門が閉じられるのか、それはあくまで聖霊の導きによるのです。
それが時に成功の門であれ、時に苦難の門であれ、聖霊が導かれて行くのであって、パウロは聖霊に自分をゆだねて、その門をくぐります。

皆さんが大腸検査でがんだとわかったら、自分は聖霊に導かれてがんになったとは思わないですよね。私もそういうものの言い方はしません。できるだけ情報を集めてそのがんの治療のために最善のお医者さんに当たるように、そして信仰をしっかりと持って、気を落とさずに真っ直ぐに進んで行くように(勧めるでしょう)。そして、教会では「神さまが復活のいのちをあなたに注いでくださると毎週祈っています」と約束し、私たちは祈ります。

しかし、仮にですね、その方の病状がどんどん悪くなり、一年後に天に召される日が近いとしたならば、その方は私が何を言わずとも、「神は私の人生をこのように運んでくださった」と言う告白に到達するでしょう。最初の頃はもっと健康な食事をしておけばよかった。自分はもっと自分の健康に気を付けていればよかったという風に、さまざまな後悔の念を持つでしょう。

しかし信仰者であるならば、最後までその後悔の念を引きずることはないです。それは痛みと戦っているうちに、どこかで自分の足りなさ、自分の愚かさも、それらすべてを包んで有り余るほどの聖霊の助けと導きというものに気がつくはずです。ですから回復に至るとしたならば、それは回復という門を聖霊が開いたのであって、回復しないという道であるならば、それは聖霊がその道を開いて(回復の道を閉じての意味?***T・Y)くださったのだという風に、どこか信仰で自分自身の人生を受け留めて行くはずです。

私たちは大きなことにあっても、小さな事にあっても、「聖霊の導きに従って生きる」とはいったいどういうことか?私たちはね、「聖霊の導きに従って生きる」と言う時に、右に行こうか左に行こうか分からない時に、聖霊にその導きを請うのです。それを「聖霊の導きに従って生きる」、こういう表現をする。
でもパウロは、ここで自分は右に行こうか左に行こうか迷っている、そこで聖霊に伺いを立てたところ、神の霊は右と言ってくださっている、そんなことを言っているのではない。
自分の人生はこの先、苦しみ、それからなわめというのは投獄される迫害、それはもう明らかだ。しかし、その道を行けと聖霊は私を縛って連れて行くという事実を私は受け留めているということです。

私は受けとめている------聖霊に従って私は生きたいと願うならば、それは自分に振りかかるそのような矛盾や試練を、ある意味で委ねることを学ぶのです。そしてパウロが言うように、私は試練に遭ったけれども、勝ち得て余りある。これは一緒に見ていただきたいと思いますが、ローマ人への手紙が使徒の働きの次にあります、その8章を見て頂きましょ
う。
ロマ書の8章は聖霊についてパウロが語っているところです。そして、35節から37節まで一緒に読みたいと思います。

ロマ8:35「私たちを、キリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」。
36節「『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』(注***詩篇44:22)と書いてあるとおりです」。
37節「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。

キリストの愛が注がれているからです。そして自分に振りかかる35節の、患難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も、それらの門を開いてくださるのは聖霊であって、自分の人生に振りかかるこれらの出来事を受け止めたときに圧倒的な勝利者となる。病、苦しみ、人生のさまざまな苦難を乗り越えて、勝利者として生きるということができると言うのは、パウロの遺言です。

ローマ人への手紙はパウロがエペソに滞在している時に書かれたと言われている。ですからどちらかと言うとパウロの人生の後半です。このさまざまな試練を乗り越えて来たパウロだから言えるのであって、もしかしたら私たちはまだその境地に立っていないのかもしれない。しかし御霊に導かれて生きるというのは、人生の指針を単純に聖霊から戴くだけではない。自分の人生に振りかかるさまざまな出来事を、神がことをこのように運んで来てくださったと受け留める生き方をその中に含んでいます。

3)いのちさえ惜しいと思わないパウロ

もう一度使徒の働きの20章に戻っていただいて、そして24節をご一緒にお読みしましょう。これが最も有名なことばかも知れません。

使徒20:24「けれども私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」。

これまでもパウロはどのような町でも迫害を受けました。しかし、聖霊は「これから先は、もっと厳しいぞ!」と、パウロに伝えたはずです。そして、パウロはこの有名なことばを残すのです。自分には走るべき行程がある。それを走り尽くすことができるなら、つまり最後まで信仰を捨てずに、信仰の道を行くことができるなら、そして主イエスから受けた神の恵みの福音を、果たし終えることができるとするならば、私は自分のいのちが惜しいとは全く思っていない。

よく皆さんも訊かれますでしょう。「どれだけ長く生きたいですか?」という質問があります。私は「なるべく長く生きたいです。最低でも75歳までは」。「どうして75歳なのですか?」私は30歳から国民年金を払いましたので(笑)、5万円に満たないのですが、でも国民年金をもらって10年は生きてみたい。それほど何もしなくても通帳に毎月5万円ばかり、そういうのきっと嬉しいだろうなと、今の内から期待しているのですけれども、ひとことで言って実に10年。そんな人間がですよ、「走るべき行程を走り尽くすことができたなら、私は自分のいのちを全く惜しいと思ってない」とは言えない。そんなことが言えるか?

でも恐らく、ここに座っておられる方全員が、本当の苦しみ、苦境、悩み、そして抜け出ることができそうもないトンネルの中に若くして入ったら、きっと皆さんもパウロと同じようにおっしゃる。こんな私でも、聖霊が死と言う扉を開かれて、そして自分の人生がここまでだとおっしゃるとしたら、自分が願ってることは自分が走るべき信仰の道のりを走り終えることであって、自分にとってはいのちは少しも惜しいとは思っていない。せめて自分の残す家族に迷惑がかからないようにはしたいと思うけれども、とここにおられる方全員がおっしゃると思う。それほど私たちは実は天国の門に直結して人生を送っている人間なのだ。

日頃は日常の楽しみ、辛さ、忙しさに紛れて、そんなことはついぞ口にしないかもしれないけれども、洗礼を受けたときから、私たちは天国の道のりを歩んでいるのです。いのちにさえ執着しないとしたら、もう何にも執着しないです。自分のこだわりにも、自分の考えにも執着しないのですね。そういう人間は実に自由で、そういう人間は実に強い。それがこのパウロの強さです。そして私たちは普段はこの強さを発揮することはできない。でもいざという時は私たちは必ずこの強さを発揮するのです。であるがゆえに、パウロの言葉、走るべき道のりを走り抜けることができるなら、自分はこのいのちさえ惜しいとは思っていない。

ヨゼフ・ツンという、ルーマニアの共産政権で生き残ったバプテスト教会の牧師がいます。というお話を10数年前にしました。彼についてはいくつものいろんな証しが残っていますが、当時チャウシェスクという政権、独裁政権で、最後彼(チャウシェスク)は民衆の革命によって銃殺刑になりますけれども、このチャウシェスク政権に対する様々な政府批判を、ルーマニアの中心的な教会で展開し、国家警察から目を付けられます。

しばらくして、ツン牧師への警察の尋問が始まります。週に5日呼び出されて、一日7時間の尋問を問われます。警察の作戦は簡単で、精神的につぶしてしまうためのものでした。

それが数週間続いたあるひ、ツン先生は絶えられなくなって、自分の書斎で泣き崩れて、「神さま、もうこれ以上、私に担うことができません」。でも、そのとき彼は、イエスの声を聞き、聖霊の力付けを与えられる。そしてイエスさまは彼に「私は十字架を荷った。あなたも荷え」。そしてこの過酷な尋問をキリストの助けによって、自分の十字架として受け止めることができた。

次の日、彼は同じように呼び出されますが、先生の姿勢は変わっていました。昨日と打って変って雄々しい彼に、警察はおどします。
「このままでは、おまえは処刑されることになるぞ」
すると、彼の口は、こう言っていた。
「わかりました。処刑というのがあなたがたの最終兵器ですね。何でも難しくなると、あなたがたはいつも人を処刑するという、最終兵器に訴える。しかし、私にも最終兵器はあるのです。あなたがたがそれを使うというのなら、私もそれを使います」。

「おまえの言う、最終兵器とは何だ」
「あなたがたの最終兵器が処刑だとすると、私の最終兵器は死ぬこと、このいのちを投げ出すことです。私は死んだとしても、それは私には益になるのです。天国に生きることになるわけですから。しかし、その時点から、あなたがたは問題を抱えるようになる。わかりますか?私が死ぬことによって、私のこれまでの説教を収録したテープ、私が書いてきた書物、すべてに殉教者の血が、振りかけられます。その血が振りかけられると、テープも書物もさらに力を得て、問題は今よりさらに大きくなるでしょう。死ぬことこそ、私の最終兵器です」。

この答えに、警察は頭を悩まし、彼を諦めて釈放します。
ヨゼフ・ツン牧師は、こう述べています。
「自分のいのちを救うために、あらゆる綱にしがみついていた時には、私は崖っぷちに立っていました。しかし、綱を掴む手をゆるめ、このいのちを全くキリストの御手に委ねたとき、私は自由になりました」。

私たちはこだわっていることがたくさんある。誰でもそうです。しかし時に、そのこだわることを、手放すことを私の最終兵器としてしまう。最終的にはいのちさえも、主の御手に委ねてしまう。すると驚くほど自由を味わい、その強さを体験するのです。
     
24節のみことばで、「私はこのいのちを少しも惜しいとは思っていない」と言い切ったパウロは、このことばをもって、彼を待ち受けているエルサレムの迫害に向かって行くのです。
私はこの告別説教のことばは、エペソの教会の人びとのためにあったのではなく、パウロ自身のためにあったのではないかと思います。
パウロはこの説教によって、自分が向かって行こうとする、苦難の道へと自分をきちんとセットしようとしたと思えてなりません。実に力強く、とてもすがすがしい響きを持っていたに違いない。

私たちの天国に直結する所の信仰の道の、この行程を走り終えることができるなら、おおよそ執着していることを、手放すことも少しも惜しいとは、実は思ってはいないのだ。惜しくはない。一番自分にとって大切なことは、天国の門をくぐることなのだということを、ふっと気付かせていただく恵み、これが礼拝の恵みなのだということを覚えて頂きたいと思います。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、パウロにもあなたの召された一生があるとすれば、私にもあなたに召された一生があります。パウロにも走るべき行程があるとすれば、私にも走るべき行程があります。
どうか、涙しながらも主に仕え、聖霊に導かれるのみならず、聖霊によって自分に振りかかるさまざまな出来事を恵みの中にとどめ、そして最後は、自分のいのちさえも惜しまず、走るべき道のりを走り終えるような信仰者と私たちをなしてください。
日常の生活の中で、パウロと同じ道を生きている自分を意識するよう助けてください。イエス・キリストの聖名によってお祈り致します。アーメン。


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DATE: 2011.03.26 - 23:56
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