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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/7 使徒信条(22)     我は罪の赦しを信ず(二)
8/7使徒信条(22)  我は罪の赦しを信ず(二)   

マタイの福音書18・21〜35

 前回、この告白によって、「私の罪が、キリストの十字架によって赦される」恵みを学びました。それと一対にして学ばなければならないことがあります。それは、「私が、私に対して罪を犯した者を赦す」ということです。この二つは、罪の赦しにあっては対をなしていることを、私たちは知っています。なぜなら『主の祈り』で毎回祈るからです。
 マタイの福音書(6章)の表現で『主の祈り』を祈れば、「我らに負い目のある者を、我らが赦すごとく、我らの負い目をも赦したまえ」となります。ルカの福音書(11章)の表現で『主の祈り』を祈れば、「我らに罪を犯した者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となります。「自分の罪が神によって赦される」ことと、「人の罪を私が赦す」ことが、対をなしていることは明らかです。

●まず神が赦してくださる
  『主の祈り』で、我らに負い目ある者を、我らが赦すごとくと、「私たちが人を赦す」ということが先に来ています。そのごとくに、神さま、私の負い目を赦してください、と「神の赦し」を祈ります。では、神の赦しを受けるためには、まず私たちは人を赦さなければならないのでしょうか。それを条件として、私は赦されるのでしょうか。そんな風に読んでしまいがちですが、決して、そうではありません。「神の赦し」が先です。
ローマ5・8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
 私たちが正しいから私たちを赦すのではない。私たちが罪人であるがゆえに私たちを赦すというのは、聖書全体の教えです。
Tヨハネ4・10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
 つまり、いつも神の赦し、そしてその赦しを満たす十字架が先だと、これはもうキリスト教の大前提です。恐らくこのことを、一番的確に表わしている個所があるとすれば、今日読んでいただきましたマタイの福音書の18章21〜35節です。
 23節から描かれている、主人に対して一万タラントの借金を作ってしまったしもべは、私たちのことです。イエスは、あえて、その負債を一万タラントというとてつもない額に設定しています。一デナリが一日の平均的日当として、それを八千円とします。すると、一タラントは六千デナリですから、一タラントで四千八百万円です。一万タラントは、なんと四千八百億円となります。当時のユダ、サマリヤ、ガリラヤ、パレスチナ一帯の税金の総計が、現代の日本円で約一億円ですから、考えられないような負債です。この数字が、イエスの言わんとしているところです。私たちが、神に対して負っている負債は、生涯かけても返せるような額では有り得ません。もし返す方法があるとしたら、それはこのいのちと引き換えにするしかないです。
 王は、これほどの額を使い込んで借りを作ってきたこのしもべに対して、それなりの原則を示します。
25節「彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。」
 しもべは、自分のしたこと、自分が置かれている状況が厳しいことを自覚して、ひれ伏して言います。
26節「どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。」
 しかし、しもべは「猶予」、つまり期限の延長を願っているわけで、「時間をください、そうすれば何とか五千億円都合をつけます」と憐れみを求めます。ここはとっても大切なところです。しもべは自分の負債というものを明確にとらえていない。だから時間があれば、負債は五千億円というとてつもない大きさであるにもかかわらず、自分の努力で何とかなると思っている人間―――それがキリスト教というものの、罪のとらえ方をよく表わしています。
 難行苦行で自分の罪から脱するという宗教もあれば、巡礼や出家などの償いをもって神の厚意を得ると考えるのが、普通の宗教的感覚です。そこに人間の愚かさがある、と言わんばかりのイエスのたとえです。時間さえあれば、努力さえあれば、何とか自分でできる―――努力することによって、奉仕することによって、捧げることによって、難行苦行を課すことによって、自分の罪がどうにかなる―――それはまさにしもべのような発想です。
 しかし、イエスがおっしゃたのは―――いや、私たち人間の罪は神の御前にそういうものではない。いわば五千億円の借金負債を背負っているようなものだ。そのように自分の罪深さを甘く考えている私たちの姿を、このしもべにたとえて語っておられるのです。
 主人は猶予という憐れみではなく、全く次元の異なる発想に転じます。
27節「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦してやり、借金を免除してやった。」
 主人は、しもべが願った以上の憐れみを施し、なんと彼を赦し、その債務を無効にしてやりました。それは、パウロがコロサイ人への手紙で言っていることと同じです。
コロサイ2・13「あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、」
同2・14「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」
 ここがキリスト者の始まりです。まず神は私たちを愛してくださり、憐れんで下さり、そしてキリストの十字架のゆえに、それを信じる者には、すべてその罪を赦してくださいました。この恵みを土台として、私たちは人を赦すことが求められています。

●人を赦すことの難しさ
 しかし、私たちは人を赦すことの難しさに直面します。このしもべは、王のもとから出て行くと、仲間のしもべにばったり出くわします。その顔を見るなり、血相が変わります。この男に百デナリを貸していたことを思い出したのです。百デナリとは八十万円相当です。すると今し方、約五千億円の負債を免除してもらったばかりであることをすっかり忘れて、この仲間に飛びかかって、首を絞めて、借金を返すように迫ります。
 仲間は懇願します。「頼むから、もう少し待ってくれ。絶対に返すから、もう少しだけ待ってくれ」と、少し前にこのしもべが主人に言ったことと同じです。彼は仲間を赦しませんでした。牢屋に打ち込みます。このしもべは自分が負っていた負債を全部棚に上げて、それを主人によって赦していただいた事実もすべて棚に上げて、同僚の首を絞めます。自分に対しての負債は赦さないのです。このしもべは、確かに愚かです。しかし、これが私たちの姿でもあります。赦すことの難しさを、私たちはよく知っています。
 マックス・ルケードというアメリカの牧師が、本の中で、ケブン・タネルという青年の話を記しています。彼は毎週金曜日にある家庭に一ドル(八十円)の小切手を送らなければなりません。その家族は彼に、以前一億五千万円の損害賠償を求めました。しかし、とても彼は払えない。そこで、家族はそれを諦めて、わずか九三九ドル(十万円)に変えて来ました。しかし、その支払いは一回一ドル、毎週金曜日と要求されました。それには理由があります。
 一九八二年の一月の金曜日、ケブン・タネルはひどく酒に酔って車を運転して、事故を起こして人をひきます。彼は十七歳。亡くなったのは十八歳の女の子でした。彼は酒気帯び運転・過失致死で実刑を受け、その後も、酒気帯び運転反対キャンペーンに七年間ボランティアで奉仕をします。でも、毎週金曜日に八十円の小切手を送ることを怠ってしまうのです。この毎週の義務を、亡くなったお嬢さんの両親は、娘の年齢十八歳に合わせて、十八年間としました。彼は小切手を犠牲者宛に書いて、家族が受け取って奨学基金に積み立てています。
 彼が何度も支払いを滞納するということで、彼は四回裁判所に出頭を命じられました。彼は何度か裁判所で、滞納の理由を話します。裁判所の命令を無視しているわけではないのです。しかし、彼はいつもこの少女の死を思い出して、その記憶に苦しめられ、精神的に参ってしまい小切手が払えない。彼は向こう数年分の小切手をまとめて全部書いて、家族に渡しましたが、家族は受け取ることを拒否しました。被害者のお母さんの気持ちはとても固いものがありました。
「毎週金曜日、事故を起こした日に事故のことを思い出してほしい。自分の犯した罪を悔いてほしい。そのことを十八年間、必ずしてもらいます。」
 これは譲ることのできない母親の思いです。私たちは、被害者の家族の怒りはだれにでもわかります。はつらつとした高校生です。これから大学で輝かしい未来があるのです。それが、何の落ち度もなく、つまらぬ酔っぱらい運転で、いのちを奪われてしまうという、そんな理不尽なことはありません。
 こういう話を聞く度に、自分だったらどうするだろう、どれほどの苦しみと悲しみを味わうだろうか、と考えます。十八年間毎週の支払いで、被害者の家族はどんな納得を得るのでしょう。十八年間それを受けて、それが終わったら彼を許せるのでしょうか。いや、そもそも、赦す赦さないの問題ではなく、償いをさせるということなのでしょう。でも、娘を失った悲しみは決して尽きることはないでしょうが、十八年の償いが終わったら、その次の年から憎しみ、悔しさをどこにぶつけるのでしょう。心の中に残ったままでしょう。
 赦しは大きな人生の問題です。なぜなら、私たちは生きている限り、何らかの形で傷を受けるからです。だれかがどこかで私を傷つけます。その時、いったいどこまでその問題を引きずるのでしょうか。どういう方向を提示するのでしょうか。自分は赦せるのでしょうか。どのようにして癒されて行くのでしょう。それはとんでもないほど、難しいことなのでしょう。
 イエスのたとえに出て来るしもべは、この出来事が王の耳に届き、あれほどまで赦してもらったのに同僚を赦そうとしない彼は、牢屋に入れられます。暗い冷たい牢屋です。私たちにしてみれば、自分に対して害を、あるいは厳しい言葉を、卑劣な行為をした人間を赦さない、どこまで行っても赦せないとなれば、当然、『赦せない』という『怒りの感情の牢屋』に自分自身を閉じ込めることになるでしょう。
 先ほどのような事件が、我が身に降りかかったとき、自分は赦せるのか。そう簡単にできないでしょう。  イエスが言われることは、―――自分も赦されるべき人間であり、自分も罪人であり、そして自分は赦されている、神によって五千億という負債を免除して頂いたということをどこか、いつも頭の隅に留めておきなさい。自分が下ろした重荷の重さ、受けた恵みの大きさを、少しでも頭の隅に留めておきなさい。そうすれば自分が理不尽な言葉で傷つけられた時に、卑劣な行為でおとしめられた時に、少しでも、あなたが自分自身を怒りと恨みの感情の中に閉じ込めることがないように、祈ることができるでしょう。
 そして、もしそんなに難しい状況に立たされたとしたら、赦せない、忘れられない自分を決して責めるのではなく、その悲しみを癒すことができるのは、私たちの心の内に新創造をもたらす聖霊の力以外にないと、主の前に静かにひざまずくことでしょう。

●キリストの模範
 自分を傷つけた人を赦す、自分に対して悪を働いた人を赦すという、このたいへん難しい場面で、私たちは最終的にキリストの模範を思い出します。「赦しなさい」というのは、イエスの命令でもあります。ルカの福音書の23章を見てみましょう。
33節「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」
34節「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
 ここでイエスがおっしゃったことばは本当に意味がある。とっても意味がある。そしてこれが私たちクリスチャンの模範となるのです。
 映画などでもよく見ますが、欧米などのキリスト教の国では、死刑囚が死刑に処せられる前に、神父か牧師が呼ばれて最後の祈りをします。祈りと言うよりも、その前にいわゆる告白聴聞というものです。
「これであなたの人生は幕を閉じ、あなたは神の前に立ちます。地上の裁判の一連の出来事が全部終わり、これから天上の裁判が始まります。あなたに、地上でまだ赦しを得ていない。告白する罪はありますか」
 そう尋ねた後に、死刑囚に付き添った牧師は、必ずもう一つの質問をします。
「まだ地上で赦していない人はいませんか」
 この後半の質問はとっても興味深い。私たちが地上の人生の幕を閉じて、神の前に立つとき、自分の罪が「赦されている」ということは大切です。しかし、同じように大切なのが、「人を赦している」という心の状態です。「私の罪は赦されました。これで天国へ行けます」というだけでなく、「私は人を赦して天国に行きたい」という思いが与えられるはずです。
 これがどんなに大切なことなのか、イエスが十字架の上で身をもって教えてくださいました。
34節「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか分からないのです。」
 これは、イエスの祈りであり、宣言でした。―――父よ。わたしを十字架にかけた人々を赦してあげてください。わたしは、彼らを赦します。―――それが十字架の上で、息を絶える前におっしゃった、パラダイスに向かっている主の口から発せられた言葉でした。
 イエスは、地上生涯で人を赦すことを教えて来られました。しかし、罪のないキリストが罪の陰りを持つ落とし穴があったとしたら、この十字架の場面であったということです。その清らかな心に、今まさに黒雲が湧き上がろうとしています。自分に対してこのような仕打ちをする人々に、どのような感情を抱かれるのでしょうか。自分を裏切ったユダに対して、自分を否んだペテロに対して、その深い悲しみと失望を抱えたままなのでしょうか。偽証の裁判で死刑を決めたユダヤ人指導者に対して、顔を殴ったローマの兵士に対して、十字架につけろと叫んだあの群衆に対して、「おまえがキリストなら十字架から降りて自分を救え」とあざける道行く人々に対して、イエスはどのような感情を抱いて、息を引き取られるのでしょうか。怒りの感情か、憤りか、恨みか、怨念か、そのどの感情に包まれても、不思議ではありません。それを責める人などいない、このイエス・キリストの十字架の場面です。
 しかし言えることは、そのような怒りや憤りや恨みという感情を持って、天の御国には行けないということです。イエスはおっしゃいました。「父よ。彼らをお赦しください。」「わたしは、彼らを赦します。」こう祈ることで、主はご自身の心の中から、一切の悪い思いを追い出されたのではないでしょうか。パラダイスに行くのに、一点の陰りも無い状態で昇って行かれたのです。
 やがてキリスト教の最初の殉教者ステパノも石打の刑で、石を投げつけられながら、最後に言った言葉は「主よ。この罪を彼らに追わせないでください」(使徒7・60)。そこから始まって、初代教会から現代に至るまで殉教者たちは同じことを繰り返して来ました。殉教する前に使徒信条を告白し、つまり自分の信仰を明らかにし、それから主の祈りを唱え、最後に自分を刑に処する者への赦しを祈ります。皆そのパターンです。天国に行くときは、清らかな思いで行きたい、地上の生涯で受けたさまざまな心の傷を、すべて洗い清めていただいて、一点の陰りもなく純白な心で神の御前に立ちたい、そういう願いを私たちはその瞬間抱くのではないでしょうか。
 「我は罪の赦しを信ず」と罪の赦しを意識して告白するならば、私たちは、人に対する怒り、不愉快な気持ち、批判された悔しさ、そうした心の中の卑しい思いを全部捨てようとするのです。そして主よ。どうかあなたの恵みの大きさを私の心の底まで届かせてくださり、私が何とかして、人から受けたさまざまな傷を、それに対する怒りの思いを、捨て去ることができますようにと祈る祈りなくして、キリスト者は成り立たない。そのことをなしてくださるのは、神の全能の力と憐れみの御業による以外にない、と信じて告白するのです。

祈り
 恵み深い天の父なる神さま、私たちは、イエスさまが話されたこのたとえのしもべを、決して愚かな者とは思いません。まさにこれが自分の姿であると思いますし、また実際にケブン・タナルという青年が酔っぱらい運転で殺してしまったその女の子のお母さん、何とかしてその罪を償わせてやるという、固い憤りの思いも私たちにはよく解ります。なぜなら、私たちもその状況に立たされたならば、同じような反応をするに違いないからです。
 しかし私たちがやがて天国に行くときに、一点の陰りもなく、「父よ。彼らをお赦しください」と祈るに違いありません。だとすれば、「罪の赦しを信ず」という時に、自分の罪が赦されていることを深〜く受け止めさせてください。そしてそれがあまりにも深く受け止められたがゆえに、自分が受けたさまざまな傷をも、逆に解放して行くような自由を私たちに授けてください。
 今日この場にそのような解放を求めておられる人がいたら、イエスさまどうか、その方に触ってくださり、その方の心から、さまざまな恨みや辛みや憤りを、あなたが抜き取ってあげてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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