名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 733 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   8/21 使徒信条(23) 我は身体のよみがえりを信ず
     8/21 使徒信条(23) 我は身体のよみがえりを信ず

Tコリント15・35〜49

 ヨブ記に有名な問いかけがあります。
14・14「人が死ぬと、生き返るでしょうか。」
 ヨブは自問します。木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない(同7節)。でも、人間は死ぬと倒れたきりだ(同10節)。それですべてが終わってしまうのだろうか、と。
 「人が死ぬと、生き返るのでしょうか。」――これほど、あらゆる時代のあらゆる人に共通した問いはないでしょう。他人の死は現実として、毎日のように見聞きします。人が死んだら、すべてが終わりなのだろうか。それは、知らない人の死なら、いつの間にか流れていく疑問なのかもしれません。しかし、もしそれが愛する者の死なら、生涯決して心から離れることがない悲痛な体験となり、「人が死ぬと、生き返るでしょうか」という問いかけほど、重いものはありません。ましてや、それが自分の死となると、周囲の人たちになりふり構わず聞いて回り、話を聞いて答えを求めることはしなくても、重たい石のように心の底 にいつも沈んでいる質問となるでしょう。
 死の現実がいつもそこにあり、そして「死んだら、すべてが終わりなんだろうか」という悲痛の叫びが充満している世界で、私たちは毎週日曜日に「身体のよみがえりを信ず」と告白しているのです。これは驚くべきことだと、あらためて考えてみなければなりません。

●キリストの復活に結びつく
  キリスト者は、キリストの十字架を信じて、罪を赦されました。十字架が私の罪のためであったと信じる信仰は、キリストに「つぎ合わされる」信仰だとパウロは教えています。だとしたら、私たちはキリストの復活とも結び合わされていることになります。
ローマ6・5「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」
 パウロはこのローマ人への手紙6章で、洗礼をたとえに説明しています。洗礼を受けるときに、身体を水の中に沈められます。それは、キリストの死に与って、キリスト共に葬られたこと、つまりキリストが罪に対して死なれたように、私たちも罪に対して死ぬことだと、パウロは説明します。沈められた身体は、今度は引き起こされます。それは、キリストの復活と結び合わされて、「いのちにあって新しい歩みをする」(4節)ことであると。
ローマ6・8「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」
 ですから、私たちが「身体のよみがえりを信ず」と告白したとき、それはキリストの復活に結び合わされ、キリストがよみがえられたように、わたしもまたよみがえることを信じているのです。
 その意味で、パウロはまた、キリストの復活を「初穂」(Tコリント15・20)と呼んでいます。初穂とは、その年の収穫の最初の実りです。初穂の後ろで、色づいた畑から豊かな収穫が待っています。初穂は、それに続く豊かな収穫の予告であり、約束です。キリストが先によみがえられたと言うとき、キリストを信じている人たちが大収穫となって復活のからだを戴いてよみがえることを、私たちは信じているのです。
 大学時代にイタリアを訪れたときに、私はローマの郊外にある地下の共同墓地、カタコンベに観光に行ったことがあります。ローマの周りには何百もの地下の共同墓地があるそうです。階段を下りて行くと、とても涼しくて、地下三階、五階と幾層にも蟻の巣のように広がっていて、その壁に遺体が横になって寝かせられるようなスペースが掘られています。ところどころに狭いスペースがあって、子どもが家族とともに葬られたことがわかります。何百人と埋葬されます。ひとつの教会家族が、そっくりそのまま地下の共同墓地に移ったかのようです。初期キリスト教会の姿がお墓からも想像できます。
 聖餐式の杯が壁画として描かれていました。その共同墓地は約2世紀位のものだと言われていました。地下のカタコンベになくてはならないものがあります。それが蟻の巣のような地下に広がる共同墓地のどこかに、地上に通じる穴が開いているのです。ガイドさんは、復活を信じているキリスト者は、キリストの再臨とともに、その光を受けて死者もまた墓からよみがえることを信じていた、と説明してくれました。だから、天に通じる明かり窓のような穴が開いているのです。
 キリスト者は身体のよみがえりを信じていると知って、迫害していたローマ皇帝は、キリスト者を殺した後に、その遺体を放置するなと命じました。キリスト者は焼かれて骨を粉々に砕かれて、海に捨てられました。しかし、当時のキリスト者は毅然として告白します。土の塵から人を造られた創造主なる神(創世記2・7)は、どんな灰からも、よみがえりの身体を創造して与えてくださる。当時のキリスト者に何の動揺もありませんでした。

●あえて「身体」
  さて、キリスト教信仰は、よみがえりはよみがえりでも、身体のよみがえりにこだわります。どうして、こういう言い回しをするのでしょうか。当時のギリシャの世界には、魂の不滅という思想がありました。魂と肉体の二元論で成り立っていました。肉体は悪の温床であって、その肉体を滅却して離れて初めて、魂はまことの自由と喜びを得るというのがギリシャ思想です。
 紀元前五世紀のソクラテスは、政治的な策略のもと死刑に処せられますが、あえて抗することはありませんでした。死こそ、魂の自由を得る機会だと喜んで死刑を選びました。ソクラテスは著述を残しませんでしたが、弟子のプラトンがソクラテスの思想を書物にし、またプラトン自身もそのギリシャ思想を集大成して行きます。
 やがて、このギリシャ思想はグノーシス(知)思想と呼ばれ、ピークを迎えて、しきりとキリスト教に入り込んで来る、それが2千年前なのです。ですから、パウロもヨハネも、そして初代教父たちも皆、このグノーシス主義と戦いました。
 グノーシス主義は完全な二元論でこの世界には二つの現実があって、その両方共に永遠に続いて行きます。一つは魂の、霊の世界。もう一つは身体の、物質の世界です。私たちが今生きている世界は、物質の世界で、本質的に悪の世界です。そこからの救いを求めるならば、純粋に霊的なことだけを志し―――難行苦行をこの身体に課したり、そして死をもってこの身体・肉体から離れる以外にないのです。
 キリスト教は、これとは全く逆のことを教えました。この世界は神によって創造された世界で、それをご覧になった神は、「非常によかった」(創世記1・31)とおっしゃいました。神は身体を持った人間を創造されました。あるいはキリストは受肉し、心も身体も魂もすべて神のそれですけれども、同時にすべて人間のそれであったこと、つまり、キリストは身体を持った人となられたと教えます。
 もちろん、この身体はやがて朽ちて行くものです。しかしその身体に聖霊が宿り、この死ぬべき身体を聖霊が支えていてくださいます。
ローマ8・11「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 また、キリスト教信仰では、私たちはこの身体をもって神を礼拝します。
ローマ12・1「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
 身体は軽んじられるべき存在ではありません。それは神の御子が受肉され、聖霊が宿ってくださる神殿なのです。それでも身体は弱くなり、さまざまに病んで行きます。やがて、私たちが死ぬとき、この身体は焼かれます。そのときの祈りの言葉はこうです。
「私たちは今、藤本満兄のなきがらをあなたの御手にゆだね、土は土に、灰は灰に、塵は塵に、かえそうとしています。藤本満兄の肉体は、私たちの目からは消え失せますが、終わりの日には、神の大能の力によって栄光のからだに変えられることを信じます。」
これが「身体のよみがえりを信ず」です。
 では、身体のよみがえりは、どのようなものなのでしょうか。その質問にパウロは応えています。
Tコリント15・36「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」
15・37「 あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。」
15・38 「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」
 種は、ある形を持って生きています。地に蒔かれてから、地に落ちて種は死にます。しかし、そこからよみがえって来るものは、以前の種とは全く違った、美しい花になります。同じ原理をパウロは、死者の復活、つまり身体のよみがえりに当てはめているのです。
人は肉の身体をもって生きています。やがて地に蒔かれて、地に落ちて死にます。しかし、そこからよみがえって与えられるのは、以前の朽ちてしまう肉体とは違う、すばらしい「御霊のからだ」です。
 これがどういう形をしているのか―――たとえば、何歳の時の自分に似ているのか……―――それは、肉の身体の発想にしかすぎません。「御霊のからだ」は、よみがえりの身体は、そのような感覚ではありません。肉の身体がよみがえるのではなく、霊の栄光の身体によみがえるという。「御霊のからだ」、これが復活の希望なのです。私たちの多くは、このようにして与えられる、新しい身体への憧れがわかっていないかも知れません。
 以前に伺ったある教会では、日曜日の礼拝に、車椅子の方々がたくさん来ておられました。近くの障害者の施設から来ていた方々が、ことばにならない賛美を、動かない口を何とか動かして、歌っておられました。礼拝が終わった後に、先生が説明してくださいました。施設から来られるこれらの方々にとって、よみがえりの栄光の身体がどんなに大きな希望であるか、と。
 目の見えない方、身体のどこかに障害のある方、衰弱している方、足の不自由な方、さまざまなバランスが崩れている方、身体にあるいは頭脳に苦悩を抱えた方々です。この不自由な体がどれほどよみがえりの身体を待ち焦がれているか、地に落ちて、朽ちないものへと生まれ変わるのです。卑しいもので蒔かれ、栄光あるものへとよみがえらされます。(43節)
 身体の不自由を味わえば味わうほど、「我は、身体のよみがえりを信ず」が希望となります。このことを意識して告白しないと、いつの間にか、私たちはよみがえりの身体ではなくて、今の肉体、この身体の要求を満たすことが生き甲斐になって行きます。
 今の肉体の身体をいかにして元気に保つか、これは素晴らしいことです。今の身体も神から与えられたものですから、大切にするのです。でもそれ以上に、やがて死を迎え、そしてさらに与えられるよみがえりの身体は、その何倍も素晴らしい。その何倍も素晴らしいという概念を忘れて、今の身体だけに執着して行きますと、「我は、身体のよみがえりを信ず」と告白することにはならないのです。今の身体も大事にしましょう。でも後に与えられる身体を憧れるようなキリスト者でありたい。

●そんなに身体にこだわるなら……
 そんなに身体の復活にこだわるなら、私たちは今の身体を重んじるべきです。それは必ずしも、健康意識を高めて、身体を大事にしましょう、歩きましょう、運動しましょう、不健康な生活はやめましょう、それだけではないのです。私たちは、今の身体が抱える不自由さ、今の身体の弱さをも、神から与えられている者として、聖霊に支えられている者として、尊ぶような優しい眼差しを、自分に対しても、他人に対しても向けなければならない。
40節「また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、」
41節「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。」
 確かに地上の身体の栄光と、よみがえりの身体の栄光とは違います。しかし、両方とも「栄光」とあります。つまり、その両方に神はご自身の栄光を分けてくださり、それを尊んでくださるということです。それがどんなに不自由な身体であれ、どんなに老いた身体であれ、どんなに障害を持った身体であれ、神はそれを尊んでくださる。なぜなら、そのうちにご自身の栄光を分けておられる。今、この肉体をもって生きる地上の歩みもまた、神が与えてくださったものだとパウロは言うのです。私はそういう目で自分の身体を見ているだろうか、また、さまざまな弱さ、欠け、障害、不自由さがある身体を、そのような優しい目で見ているだろうとかと考えさせられます。
  しかも、41節にあるように、それぞれの身体には個性があり、その栄光が違うというのです。個々の星によっても、輝きは違うというのです。41節の言葉は、キリスト教会では少し有名です。文語訳聖書では、「この星はかの星と栄光を異にす」となっています。
 浜松の精神障害児施設の理事長をしておられた山浦俊治先生は、この聖句から『この子らは栄光を異にす』という題名の本を書かれました。
 この子らはとは、施設の精神障害を持っている子どもたちです。人を健常児、障害児というレッテルで人を分けてはいけない。。「この子らは栄光を異にす」というのは、違う次元の栄光、しかし、同じ神の栄光で、人の身体にはそれぞれ異なる次元の栄光が神から与えられている、という優しい視線をもって、自分の身体をいたわり、周囲の人の身体を尊びなさい。
  自分の輝きを誇って、人を見下さすような醜さに陥りませんように。自分の輝きを見い出せずに絶望することがありませんように。主よ、私の身体にも、あの人の身体にも与えられているあなたの輝きを同じように(見えないものを)見させてください。どうか、そういう優しいまなざしで、老いて行く、朽ちて行く身体を、病気で病んで行く、蝕まれていく身体を、あるいは先天的な理由で姿勢を異にしている身体のうちにも、あなたの栄光を等しく見るような人物と、私をさせてくださいというのが、身体のよみがえりを信じる私たちの祈りです。

祈り
Tコリント15・41 「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって、栄光が違います。」
 恵み深い天の父なる神さま、どうか今の自分の身体に執着せず、よみがえりの身体の希望に生かされる私たちでありますように。そして、よみがえりの身体がそんなに素晴らしいとしたならば、別の次元の素晴らしい栄光を、あなたは今の私たちに与えていてくださり、私たちはそういう意味で、この人間に与えられている心、頭脳を含めたこの身体というものを、尊重する互いでありますように。
 ときにあまりにも不自由で、自分自身の不自由さを受け入れることができない程、私たちは身体の栄光を見いだすことができません。ですから、悔い改めます。
 そしてどうか、身体のよみがえりを信じる私たちが、今の身体も尊ぶような、あなたの視線に立った信仰者となることができるように、私たちに限りない恵みを注いでください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2011.08.24 - 07:49

175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; OfficeLiveConnector.1.5; OfficeLivePatch.1.3; BRI/2; BOIE9;JAJP)

Name   E-Mail   Password

 前文 8/28 使徒信条(24)永遠のいのちを信ず
 次文 8/7 使徒信条(22)     我は罪の赦しを...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
322Simple view *^^*10/23 神の人モーセ(7)歩み出すモーセ [4] T・Y 2011.10.25 7754
321Simple view *^^*10/16 神の人モーセ(6)ぐずるモー... T・Y 2011.10.20 4472
320Simple view *^^*10/9神の人モーセ(5)こんな私を支え... T・Y 2011.10.12 1680
319Simple view *^^*10/2 聖餐式礼拝 神の人モーセ(4)... [1] T・Y 2011.10.04 5215
318Simple view *^^*9/18神の人モーセ(3)召命 出エジプ... [2] T・Y 2011.09.22 5283
317Simple view *^^*9/11 神の人モーセ(2) 挫折の中に... T・Y 2011.09.14 4981
316Simple view *^^*9/4 神の人モーセ(1) 誕生    ... [4] T・Y 2011.09.06 2005
315Simple view *^^*8/28 使徒信条(24)永遠のいのちを信ず T・Y 2011.08.30 4711
314現在参照中の文章です...8/21 使徒信条(23) 我は身体のよ... T・Y 2011.08.24 5219
313Simple view *^^*8/7 使徒信条(22)     我は罪の赦しを... T・Y 2011.08.08 4515
312Simple view *^^*7/24使徒信条(21)我は罪の赦しを信... T・Y 2011.07.27 5076
311Simple view *^^*7/17使徒信条(20) 我は公同の教会... [2] T・Y 2011.07.19 157
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*