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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/28 使徒信条(24)永遠のいのちを信ず
使徒信条(24)永遠のいのちを信ず
  
ヨハネ14・1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

伝道者の書3・11「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」 
  永遠への思いとは逆に、伝道者の書は空虚感にあふれています。この書は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに苦労しても、それが人に何の益になろう」と始まります。この言葉こそが、この書のメッセージと言えましょう。栄華を極めたソロモンが、地上における知恵・芸術・事業・富・成功を極め、その果てに得た結論が、「空虚」「むなしさ」でした。
 彼は、「日の下」という表現を使いますが、つまり地上のあらゆる成功をもってしても埋めることのできない風穴が心にあいている、というのです。そのむなしさの根拠は死です。どんなに地上で成功を収め、人に目に幸せと映った人も、死んでしまえば、獣の死と同じではないか(同3・19)。死の圧倒的な現実の前に、地上で栄華を極めたソロモンも空虚感に包まれてしまいます。
 灰色の虚脱感で書かれている書物に、光り輝く希望が、いくつか記されています。そのひとつがこれです。「神はまた、人の心に永遠を与えられた」――それは死の向こう側にある永遠へのあこがれです。心の中にある永遠が何であるのか、詳しく説明されていません。しかし、確かに人の心の中には永遠があります。永遠への思いが様々な哲学や宗教に出現してきます。
 ギリシャ思想も、またヒンズー教や仏教もたましいの永遠を信じます。たましいは、永遠の生命を持っていて、それが故に肉体から解放されたときに、しばらくして、また次なる身体へと生まれ変わっていく、つまり輪廻転生という思想を考えるようになります。肉体が滅びても、いかにしてかたましいが生き続けるという、たましいの永遠性の現れです。
 日本古来の考え方では、死んだ人はよみの国に行きます。しかし、死後も定期的にこの世と往復します。それがお盆であり、お彼岸です。お盆のはじめには、先祖の霊をもう一度家に迎えるために迎え火を焚きます。お盆の終わりに、よみの国へと送り出すのが送り火です。京都の大文字焼きは、送り火です。海の送り火には、灯籠流しがあります。こうして人の心には、宗教思想の差はあれ、永遠へのあこがれが息づいているのです。
 死という不安と悲しみに満ちた一点のできごと、あたかもこれまで積み上げ関わってきた人生のすべてがそこで終わってしまうかのように感じる出来事の先に、何があるのでしょう。私たちは、永遠の生命を信ず、という言葉で何を告白しているのでしょう。

●死の不安と悲しみ
 「我は永遠のいのちを信ず」という信仰告白は聖書の様々なところに明確に描かれていますが、ヨハネの福音書一四章を取り上げてみましょう。それは、イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちと最後の晩餐をともにした席上のことでした。主ご自身も動揺の中にありました。
13・21「イエスはこれらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、証ししていわれた。……あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
 イエスを待ち受けているのは十字架の苦しみだけではありません。ユダは、イエスのいのちを狙っていたユダヤ人指導者の手に、イエスを売り渡します。イエスが逮捕されると、弟子たちはちりぢりに逃げていきます。ペテロは、イエスを知らないと三度厳しい口調で否みます。そして、イエスは去っていくのです。弟子たちとともに過ごした時間、交わりを後にして、一人去っていくのです。
 イエスの動揺が一気にその場を包みました。ペテロが尋ねます。
13・36「主よ。どこにおいでになるのですか。……わたしが行くところに、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」
 この言葉の中に、死に対する独特に不安な要素が込められています。それは、死ぬときは一人だと言うことです。愛する家族が、死の床に至るまで看病したとしても、集まって手を握り、思い出を語り、祈り賛美をし、別れの言葉を繰り返し告げたとしても、死の陰の谷へと出て行くとき、人はひとりになるのです。誰も、そこに同伴することはできません。
 残される者は、不安以上に悲しみが強いでしょう。T列王記17章に、ツァレファテの女の息子が重い病気にかかり、そのまま母親の腕の中で死んでいく記事が記されています。女は預言者エリヤに訴えます。エリヤは、自分が泊っていた屋上の部屋の寝台に寝かせ、男の子が生き返るように祈りますが、そのとき、ツァレファテの女にこう言います。
 17・19「彼は彼女に、『あなたの息子を私によこしなさい』」と言って、その子を彼女のふところから受け取り……」
 この情景が、死の悲しみを象徴しているではありませんか。母は、息子を離さなかったのです。ふところにしっかりと抱いています。重病で息を引き取った息子は、母の腕に抱かれ、母はその遺体をふところにしっかり抱えています。心震える悲しみで、母は息子の遺体にしがみついているのです。これが私たちを取り囲んでいる死にまつわる情景です。人生が終わる、人の一生が閉じられるときに実感する、死の不安と悲しみです。
 イエスは、ご自分の心も激しく揺れ動き、弟子たちも別れの雰囲気を感じ取り、その独特な不安の中で、力強くおっしゃいました。
ヨハネ14・1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

●信じなさい
 神の世界のことも、死後の世界のことも、永遠のことも私たちにはわかりません。わからないことがたくさんある中で、不安におののく私たちに、主は、ともかくやってみなさい、とおっしゃったわけでもなく、大丈夫、きっとどこかに行き着くと慰めているのではなく、明確に、「わたしを信じなさい」とおっしゃいました。
 罪の赦しを信じることも、身体のよみがえりを信じることも、永遠のいのちも信じることも、結局すべてがイエスを信じることです。この方を信じることがキリスト教信仰です。
ですから、使徒信条は「キリスト教の真髄」ではなく、「キリスト教信仰の真髄」と呼ぶべきだろうと思うのです。キリスト教というとき、そこには、キリスト教の歴史的過ちもあります。世俗的な教会の姿もあります。しかし、キリスト教信仰とは、キリスト教宗教よりもより純粋なものです。そして、一言で、キリスト教信仰とは、「わたしを信じなさい」とおっしゃるキリストに人生をゆだねること、全身全霊をもってキリストについて行くことです。
 「ケセラセラ」という歌があります。ヒッチコックの映画の中で、アメリカの女優ドリス・デイが歌った曲です。映画も歌も英語ですが、「ケセラセラ」とはスペイン語に由来するフレーズです。
 私が小さな女の子だったとき、お母さんに聞いてみた。
 私は大きくなったらどうなるの? 私はきれいになるの?
 お金持ちになる? 私の未来はどんなかんじなの?
  するとママはこう答えたの。
 ケ・セラ・セラ。何事もなるようになるのよ。
 先のことはわからないの。ケ・セラ・セラ。なるようになるの。
 最後の晩餐の席上のように、まったく見当もつかない未来のことを提示されたとき、周囲は凍りつき、心の中は不安でいっぱいでした。主よ、どうなるのでしょう。すると、主は答えられました。ケ・セラ・セラでしょうか。いいえ、主はしっかりと、はっきりとおっしゃいました。
「心を騒がすな。神を信じ、わたしを信じなさい。」
主イエスは確信を込めておっしゃいました。その確信の土台として、三つ上げることができると思います。

●永遠の世界から来られた教師
 以前、実際の使徒信条にはありませんが、「我は真の教師であるイエスを信ず」と学びました。真の教師としての姿勢が良く現れている表現がここに出てきます。
14・2「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。」
 死んだ後の天国の世界、それをイエスは父の家と呼ばれますが、それがないならないで、妙な期待を持つことがないように、はっきりと「ない」と言っています。永遠のいのちなど私たちにはおぼろげに想像できません。誰もその世界を見た者はいないのです。ですから私たちは勝手に想像して、勝手に死後の世界を想定して人生を生きる。イエスは、それらの子どもじみた想像をきちんとした現実として捉えるように教師の口調でおっしゃいます。――ないならないで、前からはっきりと言っておいたよ。
 ヨハネの福音書でこのことは繰り返されています。
1・18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」
3・13「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」
7・16「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものなのです。」
8・26「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」
 私たちが何かしらないことについて情報を得ようとしたら、その情報の源をまず確かめなければなりません。それと同じです。イエスは一貫して、ご自身の教えていることがどこから来たのかを強調しているのです。死後の世界のことは、永遠の世界のことは、だれも行ったことがないのですから、そこから来た者だけが教えることができる、というのです。
 そのイエスが、不安に包まれ、十字架の死と別れの雰囲気に包まれた部屋で、しっかりと確信をもっておっしゃったのです。
「わたしを信じなさい。」

●永遠のいのちそのもの
14・6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
 主が「わたしを信じなさい」とおっしゃったのは、この方がいのちそのものだからです。15章で主は重ねて、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。いのちであるイエスを信じるとは、いのちの中にとどまり続けることであって、そのまま私たちはやがて永遠のいのちの世界へと移されることになります。
 人間にはみな、おへそがあります。それは、かつてお母さんのおなかの中で、お母さんのいのちとつながっていた証拠です。でも、この世界に生まれ出るときに、へその緒を切ってしまいます。それによって、私たちは自分で呼吸をし、この口から栄養をとっていく、一人の自立した人間になるためのスタートを切るのです。そのように、神とのいのちの管を切って、自立したように思っているのが、私たちでしょう。哲学者フォイエルバッハもニーチェも、いかにして神と自分を切り離すか、自分が自分の力で、神なしに自分を信じて生きていくかを追求しました。いや、哲学者ではありませんが、私たちもまた同じでしょう。あるときは、教会に熱心であり、しかしいつの間にか教会がへその緒のようで、じゃまで、それがある限り、自分の自由をつかめない、自分は自分になれないと思って、へその緒を切ってしまうのです。
 主イエスはおっしゃいました。
14・4「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」
主にとどまるならば、それは永遠のいのちの中にとどまることであり、同時に死に必ず至る私たちの身体に永遠のいのちがとどまることになります。

●あなたのために備えに行く
  たとえ永遠のいのちがあるとしても、それに欠けだらけの罪深い私があずかる保証がどこにあるのでしょうか。そんな私に、主が「わたしを信じなさい」とおっしゃることに、どれほどの意味があるのでしょう。
 いえ、それは完全に保証されているのです。家があるだけではないのです。主イエスは2節「わたしは場所を備えに行く」とおっしゃいました。十字架のことです。イエスは私の罪を代わって背負われ、私のような者の罪が赦され、神の子どもとされ、天国に迎え入れられ、いや天国に私の居場所があるようにしてくださいました。
 私は、仕事のために移動するとき、時間に余裕がない場合が多いので、きちんとした予約を徹底するようになりました。行き当たりばったりはありません。行って自分の場所がなかったらたいへんです。ホテルのフロントに行って、「一泊で予約した藤本です」と言うと、「はい、ご一泊のシングルで承っております」と対応してくれます。数年前、クアラルンプールで飛行機の乗り継ぎのために空港に併設されているホテルを予約しました。とっても素敵なホテルでした。フロントで名前を言うと、当時の私には忘れられない言葉が返ってきました。
「藤本さま、お待ちしておりました」。
ええ、そうなの? 見知らぬ国からやってくる私のことを、待っていてくれたの? まあ、普通の対応なのでしょうが、不思議に温かな気持ちになりました。私のために部屋を用意して待っててくれたのかと、ありがたい気持ちになりました。
 主は、父なる神の家に私のために部屋を用意していてくださるというのです。
 いえ、それだけではありません。
3節「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」
 死とは、地上生涯、また愛する人たちとの別離です。しかし他方、それはイエス・キリストの再会で、永遠の永遠のいのちの世界へと迎え入れられる平安の時だというのです。私のような者が、永遠の生命を信ず、とよく告白できる者だと、この告白には感動と感謝が伴っていなければならないと思うのです。なぜなら、おおよそ、この地上生涯にあって、永遠のいのちにふさわしく生きてきたとは思えないからです。この恵みにあずかることができる唯一の根拠は、「わたしを信じなさい」とおっしゃるイエス・キリストです。

 「キルト」という話しをどこかで読んだことがあります。
 最後の審判の日、私は多くのクリスチャンと共に主に御前に立っていました。しばらくすると、私たちはみな、人生の断片を布きれのように積み重ねることになりました。
 一人一人の前に天使が座り、布の断片を縫い合わせて、大きなキルトを作るのを手伝ってくださいます。私についた天使が、それらの布きれを一枚一枚とりあげたとき、それが時にきたなく、中には大きな穴まで空いているのです。それらの布には、私の試練の年々、誘惑に揺さぶれた年々がつづられていました。私が耐えた試練が最も大きかった年は、布きれはぼろぼろで穴だらけでした。  
 周りの人を見回したのですが、それほどではありません。中には、きれいな彩りで出来上がっているキルトもありました。ぼろ切れを縫い合わせたような自分の人生を見たとき、さすがにがっかりしました。
 出来上がったキルトを並べるときがやって来ました。一人一人立ち上がってキルトを光にかざします。私の番が来たとき、あらためてそれを光にかざすと、汚れや穴がいっそう目立つのです。恥ずかしくて、思わず顔を伏せました。
 私の人生は、苦労の連続でした。笑いも楽しみもありましたが、苦悩や病、愛する者の死、人からの誤解、非難、順調なものではありませんでした。挫折から立ち直るのに、ものすごく時間がかかったこともありました。でも、そんなぼろぼろの人生で、貧しくても、一生懸命に主にすがり、祈って支えられて、ここまで来ることができたのです。
 しかし人生のキルトをつなぎ合わせてみると、無惨でした。それが、やはり私の本当の姿でした。偽らざる自分の人生にあらためて私は直面したなければなりませんでした。
 ゆっくりと、主の光の前に私の人生のキリストを差し上げました。たくさんの穴を通して、主の栄光の光がまぶしく私の目に飛び込んできました。不思議なもので、それらの穴を総計して、そこからもれる光が、主の御顔のかたちになっていました。
 主はほほえんでおっしゃいました。
「あなた挫折を捧げると祈ったとき、その挫折はもはやあなたのものではない、私のものとなった。あなたがその失敗と恥を十字架にゆだねたとき、それらも、私のものとなった。あなたが自分で握りしめていた挫折や失敗や恥や苦悩を、私に明け渡したとき、それはみな私のものとなった。だからつなぎ合わせると、私の顔になっているのだ。
 私は、あなたの弱さを通して、それらの挫折や恥や苦悩から、わたしの栄光を輝かせてきたのだ。よかったね。それらをわたしに捧げて」

 そのとき、私たちは主にお応えするでしょう。
「感謝します。信じなさいとおっしゃったイエスさま、あなたを信じて、あなたについてこれたことを感謝します」

   「我は、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」と告白することは―――いのちの源であり、そして永遠のいのちのことを天からの教師として教えてくださり、その永遠の世界に私の居場所を備えるために、十字架にかかられ、そして時が来て私の人生が終わるときに、ご自身が自ら迎えに来てくださる―――イエス・キリストを信じ、この地上生涯を生き渡って行くこと。それが「永遠の生命を信ず」という告白の意味です。
そう考えますと、使徒信条というものが「我は、永遠の生命を信ず」で閉じられていることの意味深さを、しかと心に留めておきたいと思います。

祈り
14・2「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」
14・3「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」
14・6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。』」

恵み深い天の父なる神さま、あなたがどのような表情で、どのような口調で弟子たちに語りかけられたか―――「心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(14・1)と。それはきっと優しい眼差しで、しかし明確なはっきりとした断言するような口調で、私たちの心のざわめきを一遍で静めるような口調で「わたしを信じなさい」とおっしゃったに違いありません。
あなたはそのことばを、これまで私たちの教会家族に、天に迎え入れられた兄弟姉妹、一人ひとり一人に語って来られました。やがてその日が私たちにも来るでしょう。
主よ、どうかその時に、同じ口調で語りかけてください。必ず語りかけてくださることを信じて、「我は、永遠の生命を信ず」と毎週告白している私たちに、感謝と感動をあなたに捧げることができるよう、私たちに永遠の生命への希望を吹き込んでください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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