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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/18神の人モーセ(3)召命 出エジプト3:1〜5
9/18神の人モーセ(3)召命 

出エジプト記3・1〜5
1モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。2すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。3モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」4主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。5神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」

 以前マックス・ルケイド「神があなたの名をささやくとき」という本の冒頭部分を紹介したことがあります。(“When God Whispers Your Name”)
 最初に、このモーセの話が出て来るのですが、こんな風に始まります。

 「静まり返った廊下に、モップバケツのコロの音と、年老いた男の足音だけが聞こえていた。バケツのコロの音も、男の足音も、妙に疲れて聞こえる。ヘンリーは、もう20年も同じ床を掃除して来た。
『ちょっとすみません。廊下を掃除しますから』と廊下の角を曲がる度に声を出すのが彼の習慣。しかし、周りからは何の反応もない。午前三時。

 ヘンリーの健康は、以前のようなわけにはいかない。リュウマチのせいで、どうも最近指が動かない。メガネ越しに彼を見ると、その目は異様に大きく見える。肩は落ち、腰は少し曲がり気味、しかし仕事は丁寧で、手際もよい。予定よりも30分前には終了。ここ20年、そのペースは変わることがない。

 自分の持ち場が終わると、相棒の帰りを待つ。絶対独りで引き上げることはしない。

 廊下以外にも、フロアの扉が開いている時、ヘンリーは時折り会社の中にも入ってみる。時には、重役室にも入ってみる。立派な机、革張りの椅子、長いソファー。

 思い出す。自分もかつては、こんな部屋で仕事をしていたことがあった。掃除夫が重役だった頃、昔のことだ。夜勤に就く前、モップとバケツの仕事をする前、グレーの制服を着る前、それはスキャンダルの前であった。
      
  ヘンリーは昔のことなど、思い出したくもない。問題を起こして首になって、静かに暮らして来た。誰にだって、思い出したくない過去がある。」

 こう述べてから、ルケイドは、続けます。
「作り話ではありません。状況と名前は少し違って、創作も入っています。でも、物語そのものは実話です。いや、実話と言うだけでなく、それはよくある話なのです。誰もが夢を見、その夢が破れて行く現実の世界で、よくある話です。 

 ヘンリーは過ちを犯しました。人を殺してしまったのです。無実の人に手を下してしまいました。自制心を失った、一瞬の出来事でした。彼は逃げたのです。逃亡者となって20年生きて来ました。

 誰もがヘンリーのように極端に走るわけではないですが、実話であり、よくある話です。

 その晩、ヘンリーが重役室から出てバケツに戻ろうとすると、バケツの方から彼を呼ぶ声を聞きました。
『ヘンリー、ヘンリー』
 回りを見ましたが、誰もいません。
『ヘンリー、ヘンリー』

 バケツが何やら赤く光っています。そばによると、熱を放っているのが分かりました。そして、もう一度、声がしました。
『これ以上近寄ってはならない。あなたの靴を脱ぎなさい。あなたは、聖なる床の上に立っている』

 その時ヘンリーには分かったのです。彼の名を呼んでいるのが、神さまであることが。
私の適当な作り話ではありません。ヘンリーは、モーセです。そして、モーセは私です。」
          
 これが、ルケイドの「神があなたの名をささやくとき」という本の始まりの部分です。

1)人は誰もが、過去を背負って生きている、ということ。
  10歳の子であれ、80歳の老人であれ、人は誰でも過去を背負って生きており、その過去には、失敗があり、挫折があり、恥が塗られています。
  錨(いかり)を海底に沈めたまま、上げないで上げないで、航行している船のようです。重い錨を引きずって、思うように身動きが取れません。その錨には、海草だの、ゴミだの、いろいろ絡まって、それを吹っ切ることができません。
  かもめの声が聞こえます。「羽を折った鳥は、二度と高く飛べない。羽をくじいた鳥は、二度と高く舞 い上がることができない。」

 モーセの人生の前半は力に溢れていました。当時、世界最大の文明を誇っていたエジプトの王宮に育ち、あらゆる学問と言葉を身につけ、才能を磨きます。しかし、彼は子どもの頃から自分がエジプト人ではなく、ヘブル人であることを知っていました。
  彼の乳母として連れて来られた実の母親は、ヘブル人としての生き方を彼に叩き込んだことでしょう。神を恐れること、神を信じること、神に委ねること。正義感に燃えるように、真実に生きるように、そして、何よりも自分はヘブル人であるという自覚を彼に持たせて来たはずです。

  そんなモーセが40歳になった時、自分の力・自分の立場をどうにかして、イスラエルの民をエジプトの束縛から解放できると正義感を燃やした、次の瞬間、彼は同胞のヘブル人に鞭打つエジプト人を殺します。
 動機は間違っていませんでした。それは、自分の同胞の兄弟を守るためです。しかし、結果は悲劇的で残虐でした。彼は、証拠隠滅のために死体を隠します。

 正義感に燃え自分の袖をまくり上げ、「この俺が」と言わんばかりに。しかし結果は悲劇的、しかも自分の内側の残忍な人間性を暴露しただけでした。
  その翌日、ヘブル人同士がケンカしているのを見たモーセは、仲裁に入ります。すると、ヘブル人は、彼に食って掛かります。
「おまえは何様のつもりだ。おまえなんかに、俺たちの苦労が解るものか。大体、おまえは人を昨日、殺しただろう。見ていたぞ」と逆に脅されます。

 この出来事で、彼の人生は大きく変わりました。いや、人生が変わったと言うよりも、自分の人生が崩れて行くのが分かりました。ここで終わった、本人はそう思ったでしょう。殺人を犯し、同胞からは見放され、王家を追われ、逃亡の生活に入ります。

 それから40年間、モーセは人里離れたミディアンの荒野で、逃亡生活をします。エジプト人の追手を逃れて、人目を恐れて、神の目を逃れて、やがて、その地で家庭を持ちます。子どもにも恵まれます。そして、物悲しい名前を自分の息子に付けます。そこに彼の物悲しい人生が現われています。
出エジプト2・22「彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。『私は外国にいる寄留者だ。』と言ったからである。」

2)そんな彼がそんな私たちが、ある日、思いがけないある日、偉大な光景に出くわします。
 それが3章2節です。何か向こうで燃えているのです。柴の中の火が燃えているのです。めらめらと燃えているのですが、どんなに燃えても、その柴は焼け尽きません。
 焼け尽きない柴の炎が何を意味していたのかは分かりません。モーセの燃え尽きない情熱でしょうか。いいえ、彼の情熱は燃え尽きてしまいました。彼の人生は、夢は、計画は、あの40年前の殺人ですべて消えた。彼はそれから寄留者として、舅の下で生きる決意をしたのでした。人の情熱は、あることをきっかけにぱたりと消えて無くなります。

 燃え尽きていないのは、神さまのイスラエルに対する祝福の約束と、神さまのモーセに対する思いです。40年前、彼は神を失望させ、自分に失望し、民に失望させられ、現実から逃亡して自分を隠しました。
 しかし、神さまは、まだモーセを諦めていませんでした。40年後、神さまはいきなり燃える柴の中から現われてモーセを呼ばれたのです。「モーセ、モーセ」と。
  
 ここで、神さまがモーセに現れた場所は、1節に、モーセが羊を飼って、「神の山ホレブにやって来た」とあります。神の山と呼ばれていますが、それはこの場所で神さ まがモーセに出会ったからです。それ以前は普通の山です。モーセはただ羊を飼ってこの山に来た、というだけです。ただ家族の生活のために、ヘンリーが会社のビルの床をモップがけをしていたときと同じです。それが今日も、明日も、ずっと続いて行くと思っていたのです。そういう在り来たりの日常の場面に、神さまが突然、彼に語りかけてくださったということです。

 神さまと出会おうと思って出会ったのではなく、全くそんなことは考えずに、自分と家族のためだけに生きている日常の中で、ある時、神さまが語りかけて来られるのです。するとその場所が神の山になる。

(注***ここで、先生の若き日の証し、昔何度も証しされたことらしいですが、聞いた人も聞いてない人も楽しめますので、簡単に記載することにします。)
 大学三年生の夏、アメリカのボストンの大学の夏季学校に行った時、当時まだ成田空港が無く、しかもジャンボジェット機が無い時代で、ボストンに行くには、L.A.で税関を通って、つまり一泊しなければならなかった。
 タクシー乗り場でホリデーインと言うと、乗せてくれる気配がなく、どうやら、「そんなところにおまえさんを連れて行きたくない」ということらしく、いわゆる乗車拒否に遭う。近いと言っても車で十分はかかるところなので、仕方なく、十ドルをチップとして渡して乗せてもらった。
 夜の食事にレストランに入ると、身長が2mもあるかと思える、初めて見る黒人のウェートレスに圧倒され、あのイスラエルの斥候隊が、アナク人を見て巨人と恐れて(民数記13・33)帰って来た気持ちが分かった。
 メニューを見てチーズ・バーガーを頼んだら、彼女が自分の顔を見て“Is that all?”(以上ですね?)と注文を確かめる意味のフレーズを、日本語で考えて「たったそれだけか?」と誤解してあわてて他のものを頼んで、一人で5つぐらいの皿を食べる羽目になった。
 部屋に戻って、お父様に言われていたので、安着の電報を打つことになった。電報をやっているところの番号をもらって電話を掛けたら、「受取人は栄造藤本」そこから始まるのですが、E、I、Z、O…と言いかけて、そのZでつまづく。何回ゼットと言っても通じない。そこでABCからずっと順番に発音して行って最後にゼットと言うと、「あ〜あ、ズィー」と分かってもらえた。
 何とか電文を伝えたら、彼が言うには「どうやって払うの?」と言われてもうアウト。1時間かけてやっと電文を伝えたのに、代金の支払い方法まで来て電話を切ることになった、その脱力感。(と、私たちは笑い話のように笑って聞いていますが、言葉もよくわからぬ見知らぬ土地へ、真面目なご性格、若い身空でお一人でお出掛けになり、どれ程心細かったことかとお察しします。私にも同じようにハワイで、もっとひどい体験もあり、とても共感が持てる出来事です。T・Y)
 
 そして翌日フロントに行って、20ドル渡してその用を済ませたが、その晩一睡もできなかった。夜中の5時頃に、ホテルの備え付けのギデオンの聖書を見て、【あなたが不安になったとき】という所を開けると、それが「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、わたしを信じなさい。」(ヨハネ14・1)だった。確かに後ろに立っておられるイエスさまに出会った。(先生にとっては、)ロサンゼルスのホリデーインは「聖なる山」。ここが自分の人生の一番最初に、とてつもない不安に襲われて、みことばの慰めによってイエス・キリストの臨在を感じた、聖なる山です。

 皆さんの人生にも、「聖なる山」というのがあるのですよ。それはごくごく日常の、ヘンリーにとっては掃除をしていた床かも知れない。モーセにとっては、ミデアンの荒野の西側のそのある一角かもしれない。でもある時、過去の現在のさまざまな課題を負って苦労をしている私のところに、イエス・キリストは現われてあなたの名前をささやかれるのです。

 3章4節で驚くべきは、モーセの応答です。「はい。ここにおります。」モーセの心には、自分の名前を呼んでくださる神さまに返事をする、素直な信仰が残っていたのです。40年して、いやもしかしたら80年の生涯の中で、初めてまともに神さまに返事をしたのかも知れない。

 しばらくモーセの召命を学んで行きますが、私はモーセの「はい。ここにいます」と神さまの呼びかけに答えている姿が、決定的に重要だと思います。自分の名前が呼ばれた時に、彼は神さまに名前を呼んで頂いたということを意識して、返事をするのです。

 六年前の礼拝で、こんな話をしたことがあります。
  ジェームズ・エドワードというアメリカの長老派の牧師が、その本の中で記している証しで、彼が神学校で教えていた頃の、学生から聞いた証しです。
  
 その学生は、大学生時代、信仰から離れて、在り来たりの生活をしていたそうです。ある夏、アフリカで過ごして、そこへ妹さんが遊びに来ました。到着時刻に、バス停まで迎えに行きます。ところがそこに悪い知らせが入って来て、ゲリラが一つ向こうの町でバスを襲って、乗客を人質に取ったというのです。

  彼は、不安でおろおろして、しかしそのニュースを確認するすべもなく、バス停で待っていました。祈ったそうです。――もし妹が無事に到着したなら、神さま、あなたを信じます。一生をかけてあなたにお仕えします。

  そうして、20分後、バスが到着しました。そして妹は無事に元気な顔で降りて来ました。そして、彼はこう言ったそうです。
「妹が無事である姿を見た途端、わずか20分前、神さまに祈ったことも誓ったことも忘れてしまった。その途端、神さまは以前にも増して、自分に遠い存在になってしまった。」

 神さまは何度も私たちに出会われるでしょう。でもちゃんと返事をしないと、以前にも増して、神さまは私たちにとって、遠い存在になって行くのです。恐らく私たちの人生で、私たちは何度となく神さまに出会っている。でも出会う時に、きちんと神さまだということを自覚せず、信仰をもって素直に返事をしないなら、神さまの存在はますます遠くに感じて行くのです。もしモーセが、柴の中から自分が呼ばれていながら、その声に応えないのなら、燃える柴の出来事がどんなに大いなる光景であったとしても、神さまは、以前に増して遠い存在になって行くのです。
 そう考えますと、自分を呼んでおられるのは神だと、今この出来事を通して自分に何かを教えようとしておられるのは神だと、意識することのできる人は幸いです。そして、神さまが何度も呼んでおられるのに、いつでもその声にふたをしてしまう人は残念です。

 あの過ちを犯してから40年後、モーセの情熱は燃え尽きたが、神の思いは燃え尽きていませんでした。そして神さまが語りかけられた時に、モーセがふたをしてしまったならば、なんてことはない、ミデアムの逃亡者として、モーセは死ぬまで荒野にいただろうと思います。

3)モーセが人の命を殺めて、ヘブル人を捨てて、逃亡して、再び神さまのもとに帰るとしたら、最初に求められたのは、礼拝です。

 5節をご一緒に読みましょう。
出エジプト3・5「神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」
  聖なる地とは、この山が特別に聖なる山という意味ではありません。日常的な山です。しかし、その日常の場面で、神さまが声をかけてくださるような体験をするなら、そこは聖なる地となります。
  そこで求められることは、「履物を脱ぐ」ということでした。――奴隷が主人の前で履き物を脱ぐように、あなたは履物を脱いでわたしを礼拝しなさい。

 皆さん、礼拝するって、とんでもないことですよ。例えばどれほど会社の上司を尊敬しても、靴を脱いでその人の前でひれ伏さないでしょう?基本的に人は人の前でひれ伏さないです。にもかかわらず、礼拝もしない人物の言うことを聞くじゃないですか。
 私たちに問題があるとするならば、足の履物を脱いでひれ伏して礼拝しているにもかかわらず、その神さまの言われることを聞かない。礼拝をするということは、奴隷が自分の履物を脱いで主人の前に座るように、神さまの言われることを聞くということなのです。

 私たちは礼拝もしていない人の言うことを聞く。だとしたら、自分がひれ伏して礼拝しているこの神を何と考えているのか。その神を礼拝するということは、いったいどういうことなのか。
 それは、その神を自分の人生の主人として、主人のみこころを求めるならば、すべてのことを面倒を見るのが主人――イエスさまはおっしゃいました。「何も心配するな。先ず神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それら必要なことはすべて面倒見る」(マタイ6・33)と。――その主人に信頼することを信仰と言います。

 人は誰でも過去の重荷を背負って生きています。時に自分の人生をあきらめることもあるでしょう。しかし、神さまは燃えても燃えても燃え尽きない柴のように、私たちを思っていてくださり、私たちの日常のふとした場所、ふとした場面で声をかけてくださいます。それは、決して見放すことのない神の愛です。私たちは、その愛に応えて「ここにいます」と礼拝する、それが今日の礼拝です。
 礼拝するとはどういうことか?それは紛れもなく、私たちの不安や私たちの計画や私たちの焦りやさまざまなことを主の御手に委ねることです。

  すると、こういう事態になります。コリント人への手紙第二の5章17節をご一緒に読みましょう。
Uコリント5・17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
  
 何とこれから先、神さまはモーセを全く新しく用いられます。私たちが今朝、聖なる神があなたの名前を呼び、私たちが「はい。ここにいます」と意識し、そして神さまを礼拝することはいったいどういうことなのか、それは神さまを主人として生きていくことであり、主人のみこころを求める者は、そのすべてを主人が世話してくださる。自分は人生をあきらめた。でも神はなんと40年も経ったモーセを諦めていない。たとえ人を殺したモーセであったとしても、そのモーセを神は捨ててはいない。
 そのモーセに神さまは声を掛けてくださり、モーセがその呼びかけに答えた時に、あの40年前の出来事には全く触れられていない。これから先も触れられないです。あたかも40年前の出来事がなかったかのように、実に新鮮に神さまはモーセを用いてくださる。それが私たちの礼拝でありたいと思います。
 端的に言うならば、私たちの1週間に何があったのか、ということはすべて神さまの御手に委ねて、私たちの1カ月に半年に1年に何があったのかということもすべて主に委ねて、「すべてが新しくなりました」と言って、私たちをこの礼拝の場から押し出して行ってくださる、イエス・キリストに信頼する一週間でありたいと思います。

祈り
 恵み深い天の父なる神さま、 仮に私たちが人を殺したら一生忘れないでしょう。仮にもし私たちが、自分の人生の計画を全部覆されたのが40歳だとしたならば、そのことを一生忘れないでしょう。おそらくモーセのように、自分の人生は終わってしまったと思うでしょう。
 でも、そんな私たちを忘れず、何度も何度も声を掛けてくださる、あなたの恵みに感謝致します。モーセはなんと40年目、この荒野の山の中で、あなたの呼びかけに「はい、ここにおります」と答えることができました。
 私たちの人生も、その節目節目にあなたが声を掛けてくださるなら、「はい、ここにおります」と素直な気持ちであなたを礼拝し、幼子のようにすべてをあなたに委ねるような信仰を私たちにも授けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


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