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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/9神の人モーセ(5)こんな私を支えてくださる絶対的存在
10/9神の人モーセ(5)こんな私を支えてくださる絶対的存在

☆聖書個所     出エジプト3:7−17
7主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。8わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。10今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」11モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」12神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」
13モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいでしょうか。」14神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」
15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。16行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現れて仰せられた。『わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。17それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。』

☆説教
前回、私たちは出エジプト記の3章7−8節の言葉に焦点を絞って、ここに聖書の語る救いの原型があると、というお話をしました。

旧約聖書を見ても、新約聖書を見ても、神は、私たちの悩みを確かに見る方、私たちの叫びを聞いてくださる方、私たちの痛みをご自身のものとして知っておられる方。それゆえ、神は天から私たちのこの現状へ下って来られ、私たちを罪と死の奴隷から救い出してくださり、最後は天国へと連れ上ってくださる方、だと。

ここに出て来る、6つの動詞をもって、私たちは、出エジプトの出来事も、イエス・キリストの降誕、生涯、十字架、復活、そのすべてを集約することができるという話をして、そして、最後に私たちを神の国へと連れ上ってくださる主イエスの内に留まる、この方から離れることはない、という信仰をもって聖餐にあずかりました。

このようにして、出エジプト記に見る、神の救いが始まりました。そして神は、民をエジプトから救い出すための指導者としてモーセをお選びになりました。
10節「今、行け。わたしはあなたをパロのもとへ遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」

簡単に2つのポイントでお話したいと思います。

1)モーセの不安

11節「モーセは神に申し上げた『私はいったい何者なのでしょう?』」
それは、そうでしょう。今、突きつけられている課題を前にして、モーセの正直な気持ちです。エジプトの王となれば、当時の中近東で絶大な力を誇っている、巨大な帝国です。ミデヤンの荒野で羊を飼っていたモーセに、しかも老齢のモーセ、味方もいないモーセに何ができるのでしょう。

ましてや彼は、以前に苦しめられている同胞をエジプト人の手から救い出そうとして立ち上がって、見事に挫折した経験があります。立ち上がったはいいのですが、そのとき、当のイスラエルの人々はモーセを拒否しました。そんな自分などには、イスラエルの民をエジプトから救い出すような力は到底ない。なのに、どうして今行けとおっしゃるのですか?
        
神と出会ったモーセは今更にように、自分の存在のもろさ、小ささ、弱さを体験することになります。私たちは、人生の困難な課題を前にして、どんなに励ましを受けたとしても、「さあ、今行け」とどんなに力づけられたとしても、逆に「私はいったい何者なのでしょう」と困ってしまうものです。

そんなモーセは、今自分に語りかけている、あるいは自分が今礼拝をしている神が――自分を召しておられる神が――いったいどのような御方なのだろうか、初めて知ってみたいと思いました。それで、彼は神の正体は何だという質問をします。
13節「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに、『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。」

その名は何ですか―――これは神の正体そのものを知ろうとしているのです。
「わたしの前で靴を脱げ」とおっしゃる方、礼拝している方です。神は、すでにご自身の正体をおっしゃっています。
6節「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

もちろん、モーセは先祖に現れた偉大な神を知っていました。しかし、そうではないのです。「神さま、あなたは私にとって、今の私にとって、どのようなお方なのですか?あなたはそもそもどのようなお方ですか?」モーセは真剣に問いかけました。

つまり、民のところに遣わされたときに、何と言って説明したらいいのですか、誰のもとから遣わされたと言えばいいのですか、あなたの名前を教えてください、と言っていますけれども、それは薄っぺらな質問ではありません。  
「あなたの立っている地は聖なる地だ」とおっしゃる、今自分が礼拝しているこのお方は、どのような存在なのだろうか。

2)あなたは何者なのでしょうか?

私たちが神さまに、そう質問したら、どんな答えが返ってくるのでしょうか?

以前、使徒信条の初めで、岩波新書に「日本語をさかのぼる」(大野晋著)という本があるのを紹介しました。日本語において、神という言葉がどういう語源のもとに、どのような理解を受けていたかを、その中で国語学者の大野さんが説明しています。

「古来日本人は、漠然と神という存在を、恐ろしい、大きな力と考えてきました。
大きな力とは、一般の考えでは、恐ろしい力を持った鬼、あるいは狐、オオカミ、妖怪などと考えてきた。
それらのカミガミは、普通、人間にその姿を見せずに行動し、それでいて人間界を支配する恐るべき存在です。」と記しています。

ですから、人は神を恐れて祭るというのが、お祭りの原点にあります。大野さんはクリスチャンでも何でもないですが、そういう風に説明します。「お祭り」って何だと言えば、ものを出して、捧げて、恐ろしい存在の機嫌を静めてもらう儀式であり、それが日本人にとって、とても重要になります。

やがてこうした日本古来の神信仰は、平安時代に仏(ほとけ)が広まることによって、人を愛し、赦し、救うという意味を少しは持つようになったのですが、しかしこの本は、こう指摘しています。
「外来のこの思想は(仏教)、本当に根深く人々の心の底、文化の諸々の根底に届くようには浸透しなかった。」
いまだに浸透していない。だから仏教は日本には、根づかなかった。キリスト教もそうでしょう。
            
さらに、この本はこう続けます。
「古来日本人は、収穫が豊かでありさえすれば、それをもってして幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救済などは考えていなかった。」
なるほど、そうだろうなと思います。

古代オリエントの宗教も同じようなものです。神と言えば、肥沃神といいますか、地の産物を豊かにする雨を降らせ、太陽を輝かせる神です。別に日本だけではありません。それが、農耕民族特有の神信仰です。

前に学びました、あのパウロが戦っていたエペソのアルテミス神殿、アルテミスの女神が祭られていて、今でも発掘すればいくらでも出てくるのですけれども、乳房が身体中に30ぐらい付いている。それ程、栄養を、大地の恵みを人々に与えることができる。

そういう世界では、豊作であれば、私たちは幸せになる。人生が思うように運んでくれれば、私は幸せだ。しかし、そこには人の心を慰めるとか、苦難の中で人の心を力づけるとか、孤独な私たちと共に神はいてくださる、そういう概念はさらさらない。

すると、ここでモーセが、自分に現れた神の名前を尋ねている、つまり神の本質を尋ねていることは、とても尊いことです。質問はとても単純です。
あなたは、そもそもどのようなお方なのですか。――who are you?

14節、神は答えられました「わたしは有る」という者である。
英語では、I am who I amです。口語訳は、「わたしは、有って有る者」と訳しました。
英語の I am who I amに近いです。
   
ヘブル語ではヤハウェですが、この言葉の中には、「有る」「存在する」という言葉が二つ入っています。ですから、I am who I amとか、「有って有る者」と訳されているのです。

どういう意味なのでしょうか?私の解釈は非常に単純で、これまでにも申し上げました。この世界は、あるのだかないのだか、わからないものばかり。人の愛も信頼も、今日の自分も明日の自分も、社会も国も、希望も喜びもあるようでない、ないようである、あるのだかないのだかわからない、すべてが不確かです。存在そのものが不確かです。最たる実例が自分です。一番存在の薄っぺらさを不確かさを感じているのは、自分に対してです。

あまりにも薄っぺらだと、自分はいったい何のために生きているのだろうかという所まで行くのです。あまりにも薄っぺらだと、私たちは不安のどん底に叩き落とされて、果たして自分にこの課題を乗り越えられるのだろうか、生きていて何の意味になるのだろうかと思うのです。      

モーセは、それを痛烈に感じました。だから彼は、自分はいったい何者なのでしょう、と問いかけ、その中で、神にあなたはいったい何者なのですかと問いかけているのです。 そして、神だけは、「わたしは在る」とおっしゃった。動きません。永遠です。変わりません。確かな存在だとおっしゃった。

12節「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』」

神は、ご自身の名前を、12節の「わたしはあなたとともにいる」という事実と結びつけられました。つまり、神の本質は何かと問われて、先ずご自身が明らかにしてくださったことは、「わたしは確かにいる、あなたとともにいる」ということです。つまり、モーセが薄っぺらな存在で、どこの馬の骨かもわからぬ存在でも、あなたを支えているのは、「わたしだ」とおっしゃるのです。

岩のような課題を前にし、川のような流れに流され、私たちは思います。「私はいったい何者だろう」と。しかし、そんな私たちを神は「わたしはあなたとともにいる。わたしは有りて在る者だ。わたしは確かにいる。わたしは絶対あなたの前から離れない。」とおっしゃる神が支えておられるのです。

私たちが抱いている、自分の不確かさ、自分の弱さ、はかなさ、それらを感じれば感じるほど、神は私たちの前に現れて、「わたしは確かに、あなたとともにいる」という、権威を教えてくださる。
自分の不確かさ、弱さ、はかなさ、そんなことを問いかけるな。そんな質問に埋もれてしまうな。わたしを見上げなさい。わたしは確かにいるだろう。あなたの味方だと神はおっしゃるのです。

フランスの実存主義哲学者が、自分自身に悩んだ時にこういうものの言い方をしました。自分自身に悩んで悩んで、いったい自分は何者なのだろうか?牧師という皮をはぎ、50代中盤という男性の皮をはぎ、夫という皮をはぎ、本当の自分を見つめるためにどんどん仮面をはいで行ったら、あなた自身は玉ねぎのような存在だ。全部はいだら、何も無くなってしまう(笑)。つまりあなたはどこまで行っても、自分と言う存在を明確に掴むことは難しい。

人間は玉ねぎのようなもので、一つ皮をはいで正体が分かるわけではない。モーセって、そんな思いだったのではないかと思うのです。

へブル人の家庭で生まれ、子どもの頃にパピルスで作ったかごに乗せられて、ナイル川に流され、エジプトで発見され、エジプトの王妃のところにもらわれていって、でも自分の母親が乳母として雇われて、乳母が王宮に一緒に住むようになる。お母さんは「おまえはえブル人なのだよ」と一生懸命へブル人のことを教える。

だけどモーセはいつの間にか、自分はエジプトの王だというアイデンティティーを持つようになる。つまり、最初からアイデンティティーは2重です―――言わば2重国籍。ある日、意を決して自分はもうへブル人の国籍で行こうと思ったら、へブル人が拒否した。当然その段階でエジプトが拒否しますから、彼は無国籍になった。

それで彼はミデアンの荒野に逃れて、ミデアン人の奥さんを貰ってミデアン人として40年生きたのです。そうすると、40年のエジプトの王宮、その素晴らしい精鋭として生きた40年の実績が何にも役に立たないミデアンの遊牧民、その40年と40年を足したら、80にはならない。その40年と40年を足したら0になる。私はモーセはそういう風に考えていたのではないかと思います。

私たちは順調でいけば50を足すことができるかもしれない。だけど、わずか1日の大失敗、とんでもない出来事でマイナス70に転じることもあるのです。それほど人間の人生というものは、ある意味不確かで、その不確かな状態で、モーセはこれから先の大きな課題に向かって行けと言ったときに、こんなどこの馬の骨かも分からない、野の草のような私を捕まえて、「さぁ、今行け」と言われて、どうするのですか?と(神に訴える)。

神は言われます。「心配ない。わたしがともにいる。わたしは、絶対的な存在者としてあなたの傍らにいる。」
そう言われると、聖書のすべてが何となくわかる。例えば、神がアブラハムにおっしゃった。例えば(開かない)

創世記15:1
「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
私たちにしてみると、そう言われてもなぁと…。でも不安な私たちを絶対的な盾として、私たちを守ってくださる。
 
ヘブル13:5
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
人は私たちからどんどん離れて行きます。私たちはそこで、いつでも捨てられたような環境に置かれるわけです。でもイエスは、潮が引くように人があなたのもとから引いて行った時でも、あなたとともにいるという、絶対的な存在です。

イザヤ41:10
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

マタイ11:28
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

こんなことを言えるのは、「有りて在る者」だけです。皆さんの友人がどんなに励ましに満ちた存在であったとしても、所詮人は野の草のようなのです。やがて、離れて消えていくのです。でもどんな時でも、どんなにパピルスの一本の折れた葦のような存在であったとしても、くすぶる燈心であったとしても(イザヤ42:3)「有りて在る者」であるわたしは、あなたのそばにいる。

絶対的な存在者が、私をかくまってくださり、私を支えてくださり、私を守ってくださるのです。
この方がおられなければ、この方がついていなければ、モーセは複雑な人生を送った、どこの馬の骨ともわからぬ、遊牧民にすぎない。誰もモーセの昔を思い出す人はいない。
でも「有りて在る者」とおっしゃる神が、彼の背後に立つときに、彼は神の人モーセになるのです。

最後に一つ話をして終わります。私はこの話を読んでようやく聖書の意味が分かったような気がしたのですが…。
アメリカの有名な説教学の教授、ヘンリー・クラドックが、奥さんと休暇を取って旅行中の出来事のことを記しています。(彼の本は3冊ほど日本語になっています。ほとんどが難しい書物ですが。)

静かなレストランに入って、奥さんと二人で食事をしようと思って座ったそうです。そこにちょっとお酒の入った一人の男がいて、他の席を回って声をかけていました。ああ、こっちに来ないでくれ、と祈るような思いだったと。

案の定やって来ます。「どこから来たんだい?」
「オクラホマ」
「ホー、そりゃすばらしいところだなあ、俺は行ったことないけど」

クラドックは心の中で言いました。
「行ったことがないなら、すばらしいなんて言うなよ」(笑)

「それで、どんな仕事をしているんだ?」
ほうら、来た、この質問。これが来ると厄介だなと思いながら、先生は素直に答えました。
「神学校で説教学の教授をしているよ」
「ホー、牧師の卵に説教を教えるってことか」
                  
クラドックは嫌な展開になりそうな気配を感じました。

男はいきなり握手を求めてきて、名前を名乗りました。
「俺は、この町の近くの生まれで、母親に育てられて、父親の顔は見たことはないよ。それでよ、子どもの頃、土曜日に町に出かけていくと、とっても嫌な思いをしたよ。

誰もがお互いの顔を知っている小さな町で、皆もがお互いの素性を知っているわけだ。子どもの俺を見ながら皆が、いつも、この子はいったい誰の子だい?という嫌な目で、おれは見られたよ。

12才になったとき、行ってた教会に新しい牧師が赴任してきたんだ。
礼拝にはなるべく遅れていき、早々と抜け出すように帰っていた。でもある日、牧師が牧師の祝祷があまりにも短かったので(笑)、抜け出すタイミングをはずして、牧師よりも遅く出口に来ちゃった。

みんなとぞろぞろ外に出て行く感じがいやだったなあ。
出口をすり抜けようとした瞬間、牧師の大きな手が俺の肩を掴んで、言ったんだ。
『良く来たね。名前は? 君はどこの子だ?』
見上げると、牧師は俺の目をじーっと見ていた。重たいものを感じた。

すると、彼は大きな笑みを浮かべてこう言った。
『ちょっと待てよ。わかった。君がどこの子かわかった。
君は、神さまの子どもだ。確かにそうだな。君はすごい家系だぞ。しっかり大きくなれよ。』」

その老人は、テーブルの向こう側にいたクラドックを見て言いました。
「これまでの俺の人生で、この人のひとことが最高の言葉だね」
そう言うと彼は、笑顔で、挨拶をしてテーブルを離れていきました。

限りなく薄っぺらな存在のモーセです。言わば、12歳の男の子が「おまえはいったいどこの子だい?」と周囲からも牧師からもそう見られるような存在、そして自分自身もその生きざまを隠して生きなければならなかったような少年とまたモーセです。
でも神は、この少年の肩を掴んで言いました。――間違いなく、君は神さまの子だよ。すごい家系だよ。しっかり大きくなれよ。

「間違いなく、君は神さまの子だよ。すごい家系だよ。しっかり大きくなれよ」というのは、今ここで、モーセが送り出されて行くときに、とっても大切なことで、神はモーセにおっしゃっている。
「わたしはあなたの存在価値のゆえにあなたを捕まえたのではない。モーセ、あなたは知っているだろう。でも、わたしこそは『有りて在る者』だ。無きがごとき素性の分からぬあなたの後ろにあって、これからの神の働きの中で、わたしはあなたを支えていく。」

私たちにはいろんな肩書きもあるかもしれない。いろんな家庭の事情もあるかもしれない。私たちはそれなりの素性の人間かもしれない。でも最も大切なことは、私は神の子どもだ。そしてこの方は、決してあなたを前にして離れないということを頭に入れておいてほしい。それが神の名だ。神の名とはいったい何か?それは絶対的存在者があなたを離れない。だからそういう意味で、「ある」”I am"という言葉が、2回入っているのだなぁという風に私は実感しています。

☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、一生懸命生きて、自分の誕生日を祝い、私たちの頭の中にはさまざまな記憶があり、短いながらもそれなりの人生を歩んで来たかのように思いますが、でももし私たちが振り返って考えるならば、こんなに薄っぺらで、わけの分からない、乏しい、罪深い、弱い存在はありません。

なぜなら順調にいっていたとしても、人生の一つのできごとで簡単に転んでしまうのが、私たちだからです。今日は元気だと思っていても、もし明日、検診で肺に影ができただけで、私たちは恐らくどん底に叩き込まれるような思いになるに違いありません。

でも、そんな私の傍らに、そんな私の前と後ろに、絶対的な存在者であるあなたが、いつもいてくださり、「わたしがあなたの砦(とりで)となり、わたしがあなたの城壁となり、わたしがあなたの隠れ家となり、わたしの義の右の手であなたを守る」と言ってくださる、この恵みを心から感謝します。

神の子供らしく堂々と生きることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。



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DATE: 2011.10.12 - 12:41
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