10/16 神の人モーセ(6)ぐずるモーセ
☆聖書個所 出エジプト記4:1〜17
1モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現れなかった。』と言うでしょうから。」2主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」3すると仰せられた。「それを地に投げよ。彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。4主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。5「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」6主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。7また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そしてふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。8「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこれらの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」 10モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」11主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。12さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」13すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」14すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人(びと)アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。15あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。16彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。17あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない。
☆説教
神の人モーセという題で、モーセの生涯を学んでいますが、モーセという人物はイスラエルの人々――数百万の民がエジプトの奴隷となっていた――この民をエジプトから連れ出す指導者として神に立てられます。まだ、ファラオのところに行って交渉すらしていない。神に召されたという出来事でありますが、召されたすぐその後に、モーセは神に答えて申し上げた。 4:1「ですが、彼らは(イスラエルの人々)は私を信ぜず、私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった』と言うでしょうから。」 4:2「主は彼に仰せられた。……」 という風に、今日読んでいただいた個所では、「さあ行け」とおっしゃった神に、モーセがどれほどの言い訳をもって抵抗しているかというところを一緒に見ていただきたいと思います。
1)人は無数の言い訳をする
一番最初の言い訳は、すでに3:11に出てきます。 3:11「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
ここで明らかにモーセは40年前に、イスラエルの人々から退けられ、エジプトから追われる身となったその自分が、今更エジプトに行って、イスラエルの人々を解放できるわけがないと言っているのです。
過去の失敗の故に今の自分――遊牧民となって40年暮らして来た自分――があるモーセです。
第2の言い訳は、4:1から始まります。 4:1「モーセは答えて申し上げた、『ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。……」
モーセの言い訳は、「ですが、……」と始まります。 つまり「あなたが共にいてくださり、あなたが味方してくださる、支えてくださる、ということが事実だったとしても、……」ということです。 つまり、一つの言い訳を神が封じられますと、今度モーセは新しい言い訳を持って来る。
前回の学びで、ひるむモーセに対して、神は「どこまでもわたしがあなたとともにいる、わたしは有りて有る者で、この絶対的存在をもって、あなたを送り出す」とモーセを奮い立たせてくださいました。
でも、モーセはそれでも不安です。「わかりました。あなたはともにいてくださる、と言われる。でも、誰がそれを本気にするでしょう。私の背後にあなたがおられると、誰が納得するでしょう。」
第3の言い訳は、10節から始まります。 10節「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」 もう徹底して、私には到底無理ですと、断っています。
神はこれにもおっしゃいます。 11節「主は彼に仰せられた。「だれが人に口を付けたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。」 12節「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
モーセの言い訳は、よくわかります。 人は、自分の能力の限界を、ある程度想定できます。そして、それ以上のことは、自分にはできないことです。私は器ではない、私には向いていないと、思うに、「私はできる、できそうだ」と、自分の能力の範囲を想定して、仕事を引き受けている。当然のことです。 皆さんもそうでしょう。自分にはできそうか、できないか、向いているか、いないか、この分野は、自分の才能を生かすことになるのか、これなら自分で何とかなるのかと、想定して考えます。
人間というものは、自分の傾向性をよ〜く知っているのです。そして何かを引き受ける時に、「さぁ行け」と言われて行こうとする時に、自分に向いていることなのか、あるいは自分の思うことの範囲なのかということを当然考えて出て行くのです。
教会というものには、ひとつの伝統があります。これは私たちの教会だけでなく、どこの教会にもあるもので、牧師に言われたら、嫌とは言わない。これは高津教会にはこれまでも立派に守られているので、これからも破らないでください(大笑)。この原則が通用するかどうかは、わかりない。
と言いますのはね、人は嫌なものは、嫌なのですよ。だから嫌だという自由がありますし、牧師はその自由を尊重します。無理なことを押しつけるような牧師は、滅多にいないと思いますよ。でも昨日の夜、私は説教を準備していて、この伝統はいいかもしれないと思いました。
なぜかと言いますと、おおよそ、人間というものは、自分の能力の想定内でしか動かない。つまり、人は、私たちは、神の能力を想定して動くようなことはしないということです。 モーセの数々の言い訳を見てみますと、自分という現実、自分の過去、自分の能力をネタにして断っているのであって、そこに神が新しく与えようとしておられる可能性、力には、全く目を向けていないということがよくわかります。
2 )では神はこれに対して何とおっしゃるか
2節と3節を合わせて、ご一緒に読んでいただきたいと思います。 4:2「主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」 3節「すると仰せられた。『それを地に投げよ。』彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。」
モーセは羊飼いですから、普通に杖を持っています。それは自分の杖です。自分が握っている杖が地に投げたとたんに蛇になります。思わずモーセは身を引きます。
4節をご覧いただきますと、神は「手を伸ばしてその尾っぽをつかめ」とおっしゃる。すると、自分の手の中ですでに元の杖に戻っていた。
神は明確におっしゃっている――これはあなたに計り知れない私の力だ。確かにあなたが投げたのは、あなたが普段使っているあなたの杖だ。だけど普段使っているあなたの杖を、蛇に変える力がわたしにはある。
6節「主はなおまた、彼に仰せられた。『手をふところに入れよ。』彼は手をふところに入れた。そして出した。なんと、彼の手は、ハンセン病に冒されて、雪のように白くなっていた。」 モーセは仰天して、恐らく立っていられなくなった。腰の力が抜けてしまったに違いない。
9節「もし彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それを乾いた土に注げ。あなたがナイルから汲んだその水は、乾いた土の上で血となる。」
モーセが手に持っていた杖も、モーセ自身の手も腕も、川の水もすべて日常、モーセがよく知っている、私たちが持っている、私たちのそばにある、普通のものです。つまり特別のものではない。 しかし、神はこうおっしゃる。 ――あなたの手の中にあるその杖で、そこにある川の水で、わたしは特別なことをする。あなたが持っているその能力を、わたしが特別に用いることができる。
ということは、明らかに、神は、モーセに特別な能力を期待しておられたのではないということです。モーセの才能、経験、能力、そうしたものを根拠にモーセを召されたのではない。言い方を変えますと、あるがままのあなたでよい。「羊飼いの杖でよい。その重たい口でよい。」
12節「わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」 あなたの重い口のままで良い。わたしはそれをもって語る。 だから、自分の限界を言い訳とするな!自分の性格や自分の傾向性を言い訳にするな!なぜなら、あなたが出で行こうとしている働きは、あなたのものではない、わたしのものだ、と神さまはおっしゃっています。
3)なんとモーセは、それでも抵抗します。
13節「すると申し上げた。『ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。』」(笑)
よくわかります。私も言います。 ――何も私でなくても、他にもいるではありませんか。(究極的にはここです)。別に、他にできる人はいくらでもいるではないですか。なぜ私なんですか? どうして私なんですか?
人はぐずるものです。逃げるものです。 ここまで来ると、忍耐深い神さまでも、「すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり……」(14節)ひとことで言えば、「いい加減にしろ!」でしょう(笑)。
神はお叱りになります。 ――わたしがついている、というのでは不満か。それで不十分か。あなたは、そこまで、自分の能力、傾向性、自分の性格、自分の関心――それにこだわるのか。 ――自分にはできない、どうせ信用してもらえない、どうせ受け入れてもらえないと言うが、あなたは自分の想定を越えたことを考えられないのか? ――(ひとことで言いますと)それほど、あなたには信仰がないのか?
「主の怒りが燃える」とは、恐ろしい表現です。これは神が裁かれるときに使われる旧約聖書の表現です。ですからモーセは神の裁きにあうという意味です。大体、旧約聖書で、主の怒りが燃え上がると、人は死にます。
ですから、主の怒りが燃え上がって、モーセに何か言われると、次の展開は、大体モーセは死ぬのだろうと思います。 ところが、この個所をじっくり見てください。言い訳して、ぐずって、逃げて、裁かれるのでしょうか?
14節「……こう仰せられた。『あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。」 15節「あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。」 16節「彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。」
神の理解は、もっと深いところに届きました。なんと神は「いい加減にしろ!」と言われましたけれども、裁かれたのでなく、それをもって、モーセにアロンという助け手を用意された。 モーセにはアロンという兄がいた、この人はモーセと違って雄弁な人であった。「わたしはあなたの口とともにあり、アロンの口とともにもある」。彼があなたのスポークスマンとなると、ここまでぐずるモーセを、神はあくまで立ててくださり、生かしてくださるのです。 モーセは、神の怒りに触れて、立ち上がったのではありません。そこまで配慮してくださる、考えてくださる、約束してくださる神を信頼して、立ち上がって行くのです。
それを来週から見ていただきますが、モーセは4章を境にして、もはや、自分の限界を想定に生きるのではなく、 ・奇跡をもって、あるがままの自分を用いてくださる神 ・重い口にことばを与えてくださる神、弱い身体をも用いてくださる神 ・折りにかなって助け手を用意してくださる神 を信頼して出て行きます。 前回学びました「わたしは有りて有る者」、絶対的な存在ということを、不安で仕方がないモーセの前に、ご自身を明らかにしてくださり、またモーセはこの方の背中に乗っている自分を意識して、出て行くようになります。 モーセは変わらず、年老いていました。80歳になり、敗北者としての過去を背負っていました。しかし、彼はあるがままの自分を用いてくださる神を信じて、民の指導者として、民の先頭を切って進んでいく人物に変えられていきます。
グレイディーズ・エイルワードというイギリスの夫人宣教師をご存じでしょうか。 1902年にロンドンで生まれ、若いころからお金持ちのお手伝いさんの仕事をしている中、ある日教会のリバイバル聖会に出席し、そこで中国の伝道のために宣教師となる決意をします。 志願したのはハドソン・テイラーの中国奥地伝道。しかし、教育がないという理由で受け入れてもらえませんでした。
しかし、グレイディーズのその志は消えず、彼女は仕事をしながらお金を貯め、しばらくして、南京に近い村で宣教していた、高齢のジェニー・ローソンという73歳になる婦人宣教師が、後継者を捜しているというニュースを聞いて、応募します。手紙を書くと、 「いいですよ、あなたが(イギリスから)中国まで来ることができるなら、来てご覧なさい」と返事が来ました。 彼女は、お金がなかった。貯めたお金で、何とかして、シベリア鉄道でウラジオストックに、それから船で日本に、それから南京に渡って、歩いて南京のはずれの村に辿り着きます。
彼女は自伝『スモール・ウーマン』を書いています。彼女は背の低い女性でした。教育もなく、家柄もなく。 しかし、彼女はそこで偉大な働きをして、戦後、1950年代に映画にもなります。ですからお年を召した方なら、ご存じかも知れません。彼女を演じたのは、イングリッド・バーグマンでした。私の母がイングリッド・バーグマンのファンでしたから、それで私がこの映画を知っているのですけれども…。
太平洋戦争が始まり、日本軍が攻めて来たとき、逃げていく親たちからはぐれた孤児を引き取るようになります。 彼女のもとには、13歳以下の孤児が50人いました。
1937年、地域一体が日本軍に飲み込まれそうな時期、 彼女は、遠くの村から逃げ延びるトラックが数台出る、というニュースを聞きつけます。それに間に合えば、トラックで逃がすことができるというのです。 その時点で、孤児の人数は93人になっていました。その93人の子どもを連れて、彼女は山を越えて、逃げ延びていくという映画でした。
あまりにも無謀でした。食料も十分ではありません。日本軍の危険は到る所で待ち伏せをしています。
映画の中では、こうです。 ある朝、憔悴しきったグレイディーズを見て、13歳の女の子が励まします。 「先生、モーセと同じじゃない? 私たちは先生に率いられて、エジプトを出て、紅海を渡っていくのね。私たちは助かるのでしょう?」
すると先生は言います。「ごめんね。私はモーセじゃないの」 小さな女の子が言います。「大丈夫、先生。先生はモーセじゃなくても、神さまは同じだから。」 グレイディーズは、「そうだなぁ」と思って、その日もまた93人の子どもたちを率いて、山道を歩いて村に向かう。
あぁ、そうだなぁ、と思っていただきたい。それが今朝のメッセージです。 私たちの前に課題が置かれると、それを避けるいくつもの言い訳がある。時には避けてよかったと思うこともあれば、避けるべきだという出来事もあるし、考えただけでも疲れてしまうような課題が私たちの前には沢山ある。 ――そもそもこれは私のしたい事ではなかった。私のするべきことではない。私の能力・私の可能性を考えたら、私は間違ったことをしているのではないかと思えることもたくさんある。 でも、神は(言われる。) ――あなたの手の中にある杖でいい、あなたの口は重いままでいい、わたしはあなたの口を雄弁な口にするつもりはない。 わたしはあなたの杖を強力な武器にある変えるつもりはない。その杖はそのまま。その口もそのまま。でもわたしはそれをわたしの栄光のために用いることができる。 さあ、自分の限界を見ないで、わたしを見なさい。わたしはあなたとともにいる。あなたを通して力を現わす。その肩肘張った姿勢を解いて、わたしがそのままあなたを用いるということを信じなさい。
モーセでさえひるんだ、私たちはモーセほどの強さもないのですから、同じようにひるむでしょう。 でも、「わたしは同じ神だ。わたしはあなたを助ける」とおっしゃっておられるこの方を見上げることができますように。
☆祈り モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません」(4章10節)。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わして下さい」(同13節)。「ですが、主よ。彼らは私を信ぜず、……」(同1節)
父なる神さま、私たちの口には、私たちの心には、次から次へと自分は向いてない、そもそもその仕事を引き受けることは間違っている(と、言い訳が出てまいります。)
もちろん私たちは無理をしませんし、あなたも無理なことを私たちに押し付ける方ではありません。でもどこかで私たちは、自分の能力ばかりを見つめて、あるがままの自分の能力を用いて、神の力が自分の可能性を超えて働かれるということを前提にせずに、さまざまな課題から背を向けてしまう傾向があります。
ですから今日、このモーセのこの場面に励まされました。本当に無理だと思っているならば、そしてそれでもやれと言われるのならば、アロンのような助け手を備えてください。
そして「いい加減にしなさい」と私たちを怒られながらも、私たちを滅ぼされるのでなく、私たちを憐れんでくださり、折りにかなった助けを私たちに備えてくださり、さまざまな試練、難題を超えて行くことができるように私たちを力づけてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2011.10.20 - 13:09 |
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