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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/23 神の人モーセ(7)歩み出すモーセ
10/23 神の人モーセ(7)歩み出すモーセ

☆聖書個所       出エジプト記4:18〜26
18それで、モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」イテロはモーセに「安心して行きなさい。」と答えた。19主はミデアンでモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」20そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。21主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。22そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子(ういご)である。23そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」
24さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。25そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」26そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに、「血の花婿」と言ったのである。

☆説教
ヘブル人の子どもでありながら、40年間エジプトの王宮で過ごし、あらゆることばと働きに秀でていたモーセが、同胞が奴隷として苦しんでいる姿を見て、何とかしなければと思って、自分の力で立ち上がった時に、逆に窮地に追い込まれて、エジプトを脱出しなければなりませんでした。40年間、彼はミデアンの荒野で遊牧民としての生活をします。

そこで、家庭を持ちました。二人の息子も与えられました。そして80歳になったとき、神はイスラエルの民を奴隷とされていたエジプトから救い出すために、モーセに声をかけます。
「あなたを指導者に立てて、民を解放する」
モーセは思わず、
「えっ、なぜ私ですか? 私には無理です」
とさまざまな言い訳をしますが、モーセの口を封じて、神は、モー セを遣わします。

いよいよ、モーセは、神の救いの働きを、イスラエルの民に及ばせるため、エジプトに向かいます。
40年間、モーセはイテロという人物のもとにいました。イテロの娘を奥さんに迎え、彼から羊を飼うことを学びました。イテロには、エジプトに行く本当の理由は言えませんでした。
18節「どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。」 
モーセは40年離れているのですから、彼らがどうなっているのか見に行きたいとだけ言って、本当のことは言いませんでした。本当のことを言っても信じないと思ったのか、止められると思ったのか、モーセはごまかします。
イテロは「安心して行きなさい」と、何も知りませんから快く送り出してくれます。

しかし、19節を見ますと、一歩を踏み出したモーセの心には不安がいっぱいであったことがわかります。
19節「主はミデヤンでモーセに仰せられた。『エジプトに帰って行け。あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。』」
当時の事件を知っている者は40年経過した今ではいないぞと、神は声をかけられたということは、裏を返せば、モーセの気持ちは恐れでいっぱいであったということです。しかし、彼は第一歩を踏み出して行きます。
        
それが今日、読んでいただいた場面です。第一歩を踏み出す彼が、通らなければならなかった教訓がある。一歩踏み出した彼が学ばなければいけなかったことが、少なくとも二つあったことを見ていただきたいと思います。

1)世を恐れぬ者となる
これから故郷に帰り、エジプトの王に対面するに当たり、いやそれ以前に、自分が捨ててきたイスラエルの人々に会いに行くに当たり、モーセは、先ず世を恐れぬ者、人々を恐れない者とならなければなりません。

彼自身の自覚が求められます。それは自分ではない、エジプトに遣わされるのは神だ。自分は断った。でも自分の後ろには、神がおられる。私のやることではない、神がなさることだ。そう言い聞かせるように、
20節「そこで、モーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せてエジプトの地へ帰った。モーセは手に神の杖を持っていた。」
以前は、それは羊飼いの杖でした。しかし、彼はその杖を地面に投げると蛇になり、その尾っぽをつかむと再び杖に戻るという奇跡を見ました。そして神はおっしゃいました。
17節「あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

ミデヤンを出て、エジプトに向かうモーセは、もはや遊牧民ではない。でも彼は当時持っていたその杖を、「神の杖」として、自分の手に握って出て行きます。それを握っているときに、神がともにいてくださること、全能の主が彼を遣わしておられることを、彼は実感したに違いない。

考えてみました。果たして、私にモーセのような「神の杖」があるだろうか、と。これをもってして、世を恐れない、人を恐れない自覚に立たせてくれるような、何かがあるのだろうかと。

18世紀、イギリスのキリスト教会にいのちの息吹を吹き込んだジョン・ウェスレーは、当時の教会から煙たがられ、押し出されて仕方なしに野外で説教をするようになります。
やがて迫害に会います。扇動された暴徒に石を投げられたこともあります。教会で説教をさせてくれないから、野外で説教をしたのですが、それでも彼は、イギリス国教会の司祭としてのガウンを脱ぐことはありませんでした。
教会の講壇もない、そしてそこには、聖さん卓もなければ、オルガンという楽器もないでしょう。
それでも、彼はガウンを脱ぐことはない。野外で炭坑夫相手に、文字を読むことができない人を前にしても、自分は司祭として説教をしているという自覚でガウンを着ていたのだと思います。

モーセは杖を持ってエジプトに行きます。そしてエジプトの王はきっと思ったに違いない。おまえは遊牧民じゃないのに、どうして杖なんか持っているんだ。おまえは遊牧民か?と。でもモーセにはこの杖を握ることで一つの自覚があった。――私は確かに遊牧民であった。しかしそこから、神に召され、それを握りしめたときに、神は私の後ろにおられる。考えてみてください。

しかし、そういうウェスレーにしても、また私たちにしても、モーセのように、手に握りしめる「神の杖」があるとしたら、それは聖書のみことばです。考えてみたら、それ以外にないではないですか。いや、十字架や聖餐の恵みも大切かも知れない。
でも、新しい環境に、とっても高いリスクのある仕事に、大きな健康の課題に、顔をまっすぐに向けて進んでいこうとしたら、もちろん背後に多くの方が祈ってくださる。でも、私たちがこの手に握りしめているのは、神のことばです。それは、折りにかなって与えられる神のことばです。

世を恐れぬ者となるために、人々の顔を恐れない者となるために、神はモーセにもう一つ教えられます。
21節「主はモーセに仰せられた。『エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロ(エジプト王)の前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。』」

モーセは、なかなか民を去らせないエジプトの王の前でさまざまな奇蹟を見せます。力強い、恐ろしい奇蹟、神の力を見せるために、最終的に10の奇蹟を行うことになります。

ということは、エジプトの王は去らせると言って去らせないのです。奇蹟を見たときには、思わず「あぁ、そんな恐ろしいことを……」と言って、イスラエルの民を解放しようとしますけれども、しかし、しばらくすると「やっぱりやめた」と、最後は死の陰がエジプトの町を包むという、恐ろしい奇蹟、神の裁きを受けるのでした。

でも、現段階のモーセは、いったい何回それが続くのか、エジプトの王がかたくなだと言われるけれど、それがどれぐらいなのか、そんなことは何にも知りません。

神がおっしゃっているのは
――王が抵抗してもびびるなよ。そんなことは想定しておきなさい。王が簡単に要求をのむわけがない。あなたの要求をのんだように見えても、次の瞬間、何度でもそれをひっくり返してくるのがエジプトの王だよ。それくらいのことは心得ておきなさい。
世の中は、あなたに逆らう。人々はうまくいかない。しかし、恐れることはない。王の心をかたくなにするのは、わたしだ。

もう少し柔らかく解釈して申し上げますと
――わたしの手が届かない問題などないんだよ。この世がどんな世であれ、王がどんな王であれ、わたしはそれらを支配している。
もし彼の心がかたくなであれば、わたしが彼の心をかたくなにしている。そして、最終的に彼が身に滅びを招くために、わたしがそうさせているのだ。だから恐れてはいけない。

神は私たちにも、きっとそう語ってくださっているのです。
私たちは神が導いてくださった道であるならば、きっと神はすべてのことを整えてくださる、と考えます。
でも神は、あるいはイエスは、モーセを送り出すに当たって、私たちを送り出すに当たって、「人々には気をつけなさい」(マタイ10:17でしょうか?T・Y)「この世にあっては、あなたがたは患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)とおっしゃった。
――この世界を甘く見てはいけないぞ。でも同時にこの世界を恐れることはない。なぜならわたしはこの世界のありとあらゆることに手を入れることができるから――とおっしゃったのです。

2)世を恐れるのではなく、神を恐れる者となる
24節に不可解な出来事が記されています。
24節「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。」
これは不可解です、あれほど嫌がるモーセを奮い立たせて、エジプトに送り出しているのは神ご自身なのに、その神が、彼を殺そうとする?どうしてなのでしょう?

旧約聖書学者による注解書をいろいろ調べました。最近の注解書はほとんど、これはそもそもの資料が違う、と言います。モーセに関する伝説を最後誰かが編集するという発想で、私(藤本牧師)も誰かが編集したのだろうなという印象を持っていますけれども、モーセという人物を勇敢な指導者として、真っ直ぐな信仰者として描いている資料と、それからもう少し複雑な資料と、いくつもの伝説があっただろうとは、私も思います。
それが、最終的にちぐはぐな形でパズルであるかのように本に収まっているから、前の記事とこの「神がモーセを殺そうとされた」という記事が合わないと言うのです。
私はそうではないのではないかと思います。そうした学問的な研究を足げにするつもりではありませんが、そういう意味ではないのではないかと思います。

ちょっと、出来事を見ておきましょう。
25節「そのとき、チッポラ(モーセの妻)は、火打ち石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。『まことにあなたは私にとっての血の花婿です。』」
26節「そこで、主はモーセを放された。……」

アブラハム以来、旧約聖書の神の民は、男の子であれば、生まれて間もなくして割礼を施されました。
割礼とは、男性器の先の皮を切り取ることで、それが神との契約のしるしでした。
別に指を捧げたわけではありません。あってもなくても良いような物です。
でもそれを切り取る。モーセの息子はすでに40歳を超えているでしょう。身体の一部を神に捧げる、血を流して、犠牲と痛みを味わいながら、神のものとなる――そのようにしてイスラエルの民全員は神と契約を結んできたという、その割礼の儀式は、私たちクリスチャンには関係がありません。でもその儀式が存在している意義はよくわかります。

私たちが洗礼を受けたときに、これからクリスチャンとしての歩みを踏み出していこう、続けていこうと思いますけれども、往々にして私たちは犠牲を伴わない洗礼にあずかりますと、自分の一部分を神に差し出して、自分もまた血を流して犠牲と痛みを感じながら、神と契約を結ぶというような思いがありませんと、どこかで信仰が妥協していきます。必ず。
それが何であるかはわかりません。ある人にとっては、例えばお酒、ある人にとっては、自分のさまざまな習慣を断つことかもしれません。人によってさまざまでありましょう。人によって、神に捧げるように言われていながら、犠牲と痛みを味わいながら捧げるものというのはみんな違うと思います。
でも神の民となるということは、神は私を祝福してくださり、守ってくださり、私に愛を注いでくださり、ご自身の民として、やがて神の国を相続する者としてくださる。そのときイエスはおっしゃいました――「あなたは自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」(マタイ16:24)
私たちは何の十字架も負わず、自分の何ものも捨てずに、イエス・キリストに従うことはできないのです。

モーセは、その割礼を息子に授けていませんでした。詳しい事情はわかりません。もうイスラエル人ではないのでその必要がないと思ったのか、もしかしたらそのことを神に求められていて、それを怠って先延ばしにしていたのか。
しかし、妻はとっさに自らの手で火打ち石を取って、息子の包皮を切りとり、それをモーセの足につけて、「血の花婿」と叫びながら、「神さま申し訳ありませんでした」と(言ったでしょう)。そしてモーセも、「神さま、申し訳ありませんでした。私はすべて、いや私の家族はすべてあなたのものです」と言ったときに、神はモーセを放された。
                  
いったい、どんな教訓があったのか?
それは、この出来事を通して、神を恐れるということをモーセは学んだ。どれほど恐れたのか?それは自分のいのちが危なくなるほど、危機にさらされた。
神が大切にしておられることは、自分も大切にしなければいけないということを学んだのか?
神が尊ばれることは、自分も尊ばなければならないということを学んだのか?
あるいはもう少し言い方を変えますと、「徹底すること」を学んだのです。
「神を第一にすることに徹底すること」をモーセは学んだに違いありません。そこに妥協はない。そういう信仰者にモーセはなって行く。そうならないときに、イスラエルの民を引き連れて、エジプトから出て行くことができないし、エジプトの王に対面することもできない。

トーマス・ビルネイ。16世紀のイギリスの宗教改革の第一人者です。当時イギリスはまだローマ・カトリック教会でありました。ヘンリ8世が、結婚問題の都合上、ローマ教皇から独立を宣言して、国中一斉にプロテスタントに、というより、英国国教会になる。そのプロテスタント信仰を率いる第一人者が、トーマス・ビルネイでした。
ところが、ヘンリ8世は、晩年心を翻し、カトリック信仰へ逆行していきます。そして、お抱えの国教会の神学者たちを次々に抹殺しました。

裁判しだいで、即、火あぶりの刑に処せられるところを、法廷はビルネイに数日の猶予を与え、彼に状況を再考するように勧めました。
もし「人が救われるのは、十字架のみ、信仰のみである」という福音の主張を取り消せば、放免のご褒美が与えられるぞと。そんな忠告には、目もくれなかった彼です。

しかし、しばらくするとロンドン・タワーに拘置されている彼の元へ、次から次へと友人や先輩が訪れ、主張を取り消すように説得します。
「取りあえず、今は折れて、時期を待とうよ」
「いずれ、また時が来る」

敵の前に屈服するようなビルネイではありませんが、そう常識的に言われると、だんだん妥協の道を行くようになります。そして彼は、福音の本質を曲げる方向へと動き、福音の主張を取り下げて、ロンドン・タワーから釈放されます。

しかしそれは、ビルネイには、後味の悪いことでした。彼は家に帰って悩みます。
彼が踏みつけた踏み絵は、それによって彼自身が死から光へ、闇から光へ、絶望から希望へと移された福音です。それは、キリストの十字架そのもの、キリストが、死をもって勝ち取られた真理です。自分はそれを踏みつけた。
それは、神を第一とする信仰そのものでした。

しばらくしてビルネイは自分を恥じ、十字架のキリストだけが人を救うことができると宣言して、再びロンドン・タワーに舞い戻って来ます。
覚悟はできていました。火あぶりの刑の当日、群衆の前に姿を現わした彼は、ひざまずいて祈り、使徒信条を唱えます。
そして、キリストの十字架に対する信仰を皆の前で告白し、最後を遂げます。

これは考えさせられます。
世の中の常識的な考え方が、いつの間にか、神を第一とする徹底した信仰を砕いていく。
いつの間にか、神を恐れる代わりに人の目を見るようになる。
真理を尊ぶ代わりに、少しでも儲かる道を考えるようになる。
そのようにして、私たちは妥協の道を生き延びることを考えるようになるのです。

モーセは神に押し出されて、エジプトに向かうのです。
私を召してくださった方は、真実な方で、私を離れず、私を捨てない、ということを確信してエジプトに行くのです。 
しかし、このとき、彼は確信します――私がついて行く、私を守ってくださる、私とともにいてくださるこの方は、神だ。神に係わるときに、妥協はない。徹底して神を尊び、徹底して神に信頼し、この方だけを自分は恐れよう。
妻とともに、家族とともに、モーセは神の杖を持って出て行くのです。だからモーセは神の人と呼ばれるようになる。私たちもそういう者でありたいと思います。

☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、あなたはモーセを召されたとき、あなた自身の目的のために、モーセを遣わしていかれます。そのようにして、私たちもこの世に遣わされ、あなたの民として生きようと思いますけれども、どこかですべきことをせず、世の声を恐れ、妥協の道を歩んで行ったときに、神さま、あなたは、「わたしの前に徹底した信仰を持つように。そうでなければ、あなたは最終的には、世を恐れ、人を恐れる者になってしまう。今ここで、すべてを捧げなければ、あなたはエジプトには向かえないぞ。王の前には立つことはできないぞ」と、モーセの前に立ちはだかられました。どうかそのようにして、私の前にも立ちはだかってください。

そして私たちの心に、どこまでもあなたのみ旨に従い、どこまでもあなたのことを信頼していくのだ、この世にあってさまざまな問題課題を抱える私たちが、それを乗り切っていくとしたならば、神以外にはないということを、私たちもまた学んでいくことができるように、励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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