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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/13 母の日礼拝:母に背負われ、神に背負われる
5/13 母の日礼拝:母に背負われ、神に背負われる

☆お知らせ
@5/17(木)の婦人会について
ご案内してまいりましたように、ボリビア派遣宣教師であります三森先生ご夫妻をお招き致します。先生方はもう70歳になられます。もしかしたら6月に派遣されますけれども、その期が最後になるかもしれません。是非ご夫妻でいらっしゃってくださいますので、婦人会ですけれども、婦人会という枠を除けてしまいますので、ぜひ男性の方もお出でいただきたいと思います。いつものように10時半からです。

A5/19(土)の被災地支援イベントについて
――活動全体の責任をもっておられる窪倉兄よりお話・概要――
今週19日の土曜日に、いわき市内郷(うちごう)キリスト福音教会と共に、仮設住宅での、炊き出しと、チャリティー・マッサージと、小柳姉のオリーブのコンサートの3本のコラボレーションが企画されています。
下作延3丁目に整骨院(高津の山本家経営)が新設されることになり、その開所祝いに、1回100円のチャリティーのマッサージを行います。100円分ではなく充分しますので、100円でも200円でも献金をしていただきたいと思います。
この被災地支援のイベントのため、高津教会からは14名の参加があり、あと二人を整骨院スタッフが協力することになりました。
また戻ってまいりまして、5/26(土)と5/27(日)にも、こちらでチャリティー・マッサージとして貢献させていただければと思います(この日の礼拝に出席された整骨院院長Hさんのお話)。
この活動をもっと大きく続けて行って、被災地の方に(義援金を)お送りできればと思います。

――藤本牧師よりお話――
お話にありましたチャリティー・マッサージについては、出口のところにチラシがありますので、是非お持ちください。
福島県で一番被災者の多い所がいわき市です。そして、いわき市のさまざまなキリスト教会の中で、被災地支援を最も積極的にしているのが、内郷福音キリスト教会です。
私たちは震災以来、ずっとこの教会を通して被災地支援をしてまいりました。ここへ来て、今までで一番大がかりな協力体制が組めることをとっても感謝しています。
(経営者)山本家からの献金と、先日のバリトン・コンサートの募金があります。またそれとは別個にさまざまな支援も頂きました。炊き出しの材料から、交通費から、現地の教会に迷惑をかけずに、ほとんど高津教会でこの活動が持てるように、窪倉兄が今いろいろと段取りを組んでいただいています。
是非ご理解と共に、当日の天候も本当に祝されたらいいなぁと思います。お祈りいただきたいと思います。

Bロビーのところで、何かあった時のための緊急連絡網を、今作っています。私たちの教会はしばらく前から、個人情報保護のために、教会員名簿の作成を止めました。今回は名前と電話番号のみです。それが携帯の場合もありますけれども、大体同じ地域の方々が一つのグループになって、何かあった場合は互いに助け合う体制を作りたいと連絡網を作っています。是非ご協力いただきたいと思います。

☆始めのお祈り
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。(この日の交読詩篇32篇より1〜2節・新改訳聖書第3版)

恵み深い天の父なる神さま、今日のこの日あなたは私たちの罪を赦してくださり、私たちを招いてくださいましたことを、心から感謝を致します。およそ聖なるあなたを礼拝するのにはふさわしくない者でありますが、ともに賛美を歌い、ともに祈る恵みに与ることができました。今日は母の日の礼拝です。

あなたはこの世界を創造され、この世界にあって一番大きな責任をお与えになったのは、母なのでありましょう。でもこの世界にあって、あなたを愛する力と希望を一番表わしているのは、母なのでありましょう。ですからどうかお母さんお一人お一人を祝福してくださり、助けてください。さまざまな苦労を、さまざまな涙を、さまざまな犠牲を背負いながら、子どもたちを育てていますが、あなたが力をもって支えてください。

私たちはいつの間にか、母親に対する感謝を忘れてしまいました。いつの間にか、母親と日々敵対してしまうものでありますが、今日はことさら小さな頃に受けたさまざまな思い出を思い出すとともに、母に対する感謝の思いを私たちの内側に満たし、それを表わすことができますように私たちを助けてください。

今日初めて教会にいらっしゃった方々もおられますが、どうかあなたが特別な恵みをもってそのたましいを救い、また教会にいらっしゃることができますようによろしくお願い致します。

19日に、私たちはいわきの教会を通して被災地の方々を助けたいと願っています。きっと大したことはできませんでしょう。しかし私たちが、神さま、あなたの御名のもとにすることであるならば、あなたはそれを何倍にもして、祝福し導いてくださることを心から信じています。どうか天候を支え、また特別にコンサートをなさるオリーブの方々の健康を祝し、無事に終えることができますようによろしくお願い致します。

しばらく聖書のみことばに耳を傾けます。どうか助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所         イザヤ63:8〜14

8 主は仰せられた。
  「まことに彼らはわたしの民、
  偽りのない子たちだ」と。
  こうして、主は彼らの救い主になられた。
9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
  ご自身の使いが彼らを救った。
  その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
  昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
10 しかし、彼らは逆らい、
  主の聖なる御霊を痛ませたので、
  主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

11 そのとき、主の民は、
   いにしえのモーセの日を思い出した。
   「羊の群れの牧者たちとともに、
   彼らを海から上らせた方は、
   どこにおられるのか。
   その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、
   どこにおられるのか。
12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
   彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、
13  荒野の中を行く馬のように、
   つまずくことなく彼らに深みの底を
   歩ませた方は、どこにおられるのか。
14  家畜が谷に下るように、
   主の御霊が彼らをいこわせた。」

    このようにして、あなたは、あなたの民を導き、
    あなたの輝かしい御名をあげられたのです。

☆説教          母に背負われ、神に背負われる

今日は「母の日」です。「母の日」はアメリカのキリスト教会から始まりました。ですから日本でも一般的に「母の日」と言われていますけれども、どこの教会でも今日は母の日礼拝をしているはずです。今日は説教の一番最後に、子どもたちの特別賛美があります。(***説教の前の牧会報告の初めに)

寒〜い寒い夜に、沢山雪が降りました。次の朝に、家の前の雪かきを、若い奥さんが重いシャベルを持って、一生懸命やっていました。
隣のおじさんが、
「奥さん可哀想だねぇ。旦那さんは家の中かい?」と声をかけました。
「ええ、子供がぐずって仕方がないから、どちらかが子どもの相手をしなければ仕方がないんです。それで、じゃんけんしたのです」
そしたら、隣のおじさんが、
「かわいそうに、奥さん。じゃんけんに負けて雪かきかい?」
すると奥さんが、
「いいえ、おじさん。じゃんけんに勝ったのは私の方です」(笑)

雪かきを取るか、ぐずった子どもの相手を取るか(笑)、そうですねぇ。雪かきを取るだろうと思います。今日一日、是非お父さん頑張っていただいて、特に小さなお子さんを抱えているお父さんは、お母さんを少し自由にしてあげるといいと思います。

私は以前言ったことがありますが、子どもが小さかった頃に、子どもたちはそれなりに一生懸命母の日のプレゼントを買っていました。それで、「お父さんは何もしないの?」って言われた時に、「お母さんはお父さんの妻であって、お母さんじゃないから」(大笑)と言った途端に、冷たい視線が飛んで来て(笑)、「そんなこと言うんだったら、父の日もしないから」(笑)(と言われました)。おおよそお父さんも子どもでありますので、子どもたちと一緒に母の日の感謝をすることにしてください。

聖書の中には、神さまと私たちの関係を、父親と子どもの関係、あるいは、母親と子どもの関係にたとえて語られているところが沢山出て来ます。神さまと人との愛の関係は母と子どもとの関係に等しいと、何カ所も書かれていますが、私はそうした中でも最も優れている個所は、今日読んでいただいた聖書の箇所だろうと思っています。イザヤ書の63章9節からちょっと読んで行きます。

9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
    ご自身の使いが彼らを救った。
    その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
    昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

神さまと私たちのことでありますけれども、「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」今日お話したいイメージは、「背負う」というイメージです。

神さまは、私たちが神さまのことを知っていようといなかろうと、ずっと私たちを背負って、抱いて来られた。それは母親が子どもを背負い、抱っこするように。
私たちはだれもが、母親に、そして神さまに、抱かれて背負われて人生が始まります。

私は、子どもの頃ひどいぜん息でした。幼稚園生の時に、私は高津に引っ越して来まして、言わずと知れた公害の町、川崎でありますから、ひどいぜんそくになりました。今でもそうなのですけれども、今では良い薬がありますからほとんど発作はないです。高津にはお医者さんが無くて、かかりつけは、二子新地のところの堺医院でした。急いで歩いたら大人の足で10分でしょう。

そこを母は、よく私を背負って、連れて行きました。痩せていましたから、それほど重くはなかったと思います。でも、あの距離を子どもを背負って歩いたら、15分以上もかかったと思います。

小学校の低学年の頃だったと思います。水曜日の夜の祈りの会が始まって、発作が始まりました。母は急いで堺医院に電話をして、緊急診療をしてもらうように、母は祈祷会の最初のピアノを弾いて、そして父の説教が始まったら、私を背負って急いで病院に行き、注射を打ってもらい、そして40分ぐらいの説教が終わるまでに、最後のピアノに間に合うように、急いで走りながら、私を背負って行きました。その時の母の息づかいというのは、私は今でも覚えています。子どもというのは、母親に抱かれて、背負われて、大きくなるのです。誰でもがそうだと思います。

「背負う」ということの中に、何が伝えられているのか、今日は3つのポイントで短く考えてみたいと思います。

1)人は母親に背負われることによって、一体となる。一つとなる

一つとなってその愛情を感じます。63章の9節にはこういう風に表現されています。

63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、……

背負われている私たちの苦しみ・悲しみ・涙が、背負ってくださる主に伝わっている。いや、伝わっているどころか、共に苦しんでくださる。
母親と子どもがその背負われている状態で、苦しみも悲しみも喜びも一体として、一つになって感じているかのように、神さまと私、私が神さまに背負われているときに、この2つの人格は一体である。
子どもの苦しみが自分の苦しみになる。子どもの辛さが、自分の涙になっていることは、母親は痛いほどよくわかります。

先日孫の翔太が幼稚園に入りまして、入園式でもう半べそ。次の日、幼稚園バスに乗る時からもう大泣きして、大泣きして、数日が経過して行きました。やはり母親は心配だったようです。
ある日、幼稚園に行きまして、園庭の方をそっと覗いて、一人でお砂場で遊んでいる姿を見て、少しほっとしたと(聞きまして)、あぁ母親の気持ちってそうなのだろうなと(思いましたね)。
泣きながらバスに乗せて送り出した子が、果たして幼稚園でどうしているのだろう、もう気になって気になってしようがない。ある日こっそり幼稚園に行って、その姿を確認して、胸をなでおろす。

有名なキリスト教のクリスチャン(作家)で、詩と絵を描く星野富弘さんという方がいます。恐らく日本のクリスチャンでこの方が一番有名だろうと思いますが、この方の書物で、「愛、深き淵より」という本があります。
星野さんは群馬大学の体育学部を卒業して、体育の先生になります。生徒の前で跳び箱の模範を示したときに、誤って首から落ちて頸椎を損傷します。それから、今に至るまで、首から下が完全に麻痺です。
やがて、星野さんは病院でイエス・キリストを信じるようになった、その経緯が、闘病記録と共にこの本の中に記されています。
     
事故から安定するまで約2ヶ月、その間、人工呼吸器を使ったり、肺炎を起こしたり、尿が出なかったり、高熱が続いたり、その一番大変な時期を、彼はお母さんと病室で過ごしました。
お母さんは、彼を離れず、彼に付き添いました。当時の病室での様子を回想しているその一章のタイトルが、「母を道連れに」です。

ちょっと、その一節を読んでみます。

「夜中苦しくて、眠れず、目がさえて一睡もできずに朝を迎えることもしばしばある。そんなとき、患者の場合は昼間寝ることができる。しかし付き添いの母は昼間に眠ることなど許されない。第一眠る場所すらない。夜だって、私のベッドの脇の狭いスペースに仮眠用のベッドを借りているが、ゆっくりそこで休むこともできない。
こんな状態がいつまで続くのだろう。期限付きならともかく、あてもない旅に、母を道連れにしてしまった。」

あてもない旅に、母を道連れにしてしまった――狭い病室に母と二人きりいなければならない。その苦しみも悔しさも、そのすべてを母と共にしてしまったその申し訳なさ。           
やがて、星野さんの涙を、苦しみと重荷を、イエスさまが背負ってくださるのです。

2)成長すると、どこかで反抗し始める私たち

不思議なものですが、私たちはみな、母に背負われ、神に背負われ、一体となって人生を始めます。しかし、成長すると、どこかで反抗し始めます。ですから63章の10節の1行目を見てください。

10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、……

私たちはどこかで逆らい、主の聖なる御霊を痛ませる。人は、母親と父親に反抗することで自立して行くのだと思います。反抗することは、とっても健全なことで、自然なことです。親に反抗しない限り自立の道を歩むことはできないでしょう。でも、本当に反抗して出て行ってしまいますと、母親の心は痛んでしまいます。   

人は、同じように神の存在を否定します。神を信じることなど、弱い者のすることだ、と言って自立を試みます。
神を信じることなど弱い者のすることだ、と強がって見せても、それでも人間は所詮弱い者です。

詩篇8篇の4節に「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」という、有名なことばがあります。

詩篇8:4 人とは、何者なのでしょう。
               あなたがこれを心に留められるとは。
               人の子とは、何者なのでしょう。
               あなたがこれを顧みられるとは。
  

ここに出て来る「人」というのは、ヘブル語でエノシュです。
「人」を表わすへブル語は、二つあります。一つはアダム。アダムというのは、アダマー(土)からできている。土から出来ている人は、やがて死んでしまうと土に戻るという意味で、やはり人はアダムです。
エノシュというのは、弱いとか、死ぬべきとか、もろいとかいう意味です。
へブル語の世界で、人間と言った時に、それは土のようにもろい(アダム)か、あるいは肉体を持ちながらも、元気でありながらも、やがてどこかで病み、死んでいく弱さを持っているエノシュか。   
私たちは元気なときや順調なときは、神さまに背負われながらも、暴れ回るのです。暴れ回るほど元気なのです。
しかし、私たち皆、弱い者です。

やがて、反抗に反抗を重ねていくと、人は母親のことがわからなくなります。同じように、人は神さまのことがわからなくなります。
(イザヤ)63章の11節からちょっと読んでみますね。

11 そのとき、主の民は、
    いにしえのモーセの日を思い出した。
    「羊の群れの牧者たちとともに、
    彼らを海から上らせた方は、
    どこにおられるのか。
    その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、
    どこにおられるのか。
12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
   彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、
13 荒野の中を行く馬のように、
    つまずくことなく彼らに深みの底を
    歩ませた方は、どこにおられるのか。

3回連続して、どこにおられるのかという表現が出て来ます。
かつて、あんなに親しく神さまを信じ、共に歩むことができたのに、かつてあんなに母親を愛し、近くに感じたのに、私たちは母親の背中から暴れ回り、神さまの背中に抱かれながらも、かつて抱いていた一体感が消えて行き、母親が近くに感じられなくなる。そのように、いったい神さまはどこにおられるのか、どこにおられるのか、どこにおられるのか、といつしか遠い存在になる。
        
そして、17節を見てください。人は神さまに訴えるのです。

17  主よ。なぜあなたは、
      私たちをあなたの道から迷い出させ、
      私たちの心をかたくなにして、
      あなたを恐れないようにされるのですか。
      あなたのしもべたち、
      あなたのゆずりの地の部族のために、
      どうかお帰りください。

前半部分――なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷いださせたのですか。心をかたくなにさせて、あなたを恐れないようにされるのですか――これは屁理屈です。ものすごい屁理屈です。

自分勝手に神さまを否定して、自分勝手に心をかたくなにして、神を恐れずに、自分の願望だけを追求した人生を行くのですが、それでも、そうしたのは自分ではなく、神さまだという、そういう屁理屈を人間はこねるのです。
よくわかりますよ。理不尽なことが私たちの人生に起こると、日頃神さまを信じてもいないのに、私たちは訳もなく神さまを責める――どうして神さまはこんなことが起こるのを許されるのか。いやいや、あなたが神さまを信じているならまだしも、日頃全く信じていないのに、いきなりここで、神さまの世界に文句があり、私たち人間はそういう時だけ神さまを責める。

お話しましたのは、1)人は生まれてこの方、神さまに背負われて生きて来た。しかし、2)不思議なことに私たちは成長するにつれ、母に逆らい、神に逆らい、そして最終的に距離感がはなはだしく、その存在すら感じられないところに自分は行ってしまう。行ってしまっておきながら、屁理屈をこねて、こんなところに来てしまったのは母親のせいだと言う。あるいは神さまのせいだと言う。

3)果たして、私たちは神のもとに帰ることができるのだろうか

そんなふうに母の愛も疎ましく思うようになってしまう私たち、そんなふうに神さまの存在さえ見えなくなっていく私たち、そんな私たちは、果たして母親の元に、神さまのところに帰ることができるのだろうか?

これが聖書に出てくる最大の疑問です。聖書には沢山の疑問がありますが、一番大きな疑問は、自分は罪深い人間だと意識した時に――果たしてこんな自分が再び神さまのもとに帰ることができるのだろうか。64章の5節を一緒に読んでみたいと思います。
 
64:5 あなたは迎えてくださいます。
          喜んで正義を行なう者、
          あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。
          ああ、あなたは怒られました。
          私たちは昔から罪を犯し続けています。
          それでも私たちは救われるでしょうか。

それでも私たちは救われるでしょうか――聖書の最大の疑問です。
5節をもう一回読みます。

64:5 あなたは迎えてくださいます。
          喜んで正義を行なう者、
          あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。

それはわかっているのです。お母さんは、良い息子を、良い娘を、かわいい子どもをいつでも迎えてくれるでしょう。
しかし疑問があるのです。5節の続きを読みますと、

同後半 ああ、あなたは怒られました。
              私たちは昔から罪を犯し続けています。
             それでも、私たちは救われるでしょうか。
              
この「それでも」は、ものすごく大きな「それでも」です。6節を読みますと、

64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、
      私たちの義はみな、不潔な着物のようです。
      私たちはみな、木の葉のように枯れ、
      私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

それでも私たちは救われるのでしょうか――この疑問に対して、この分厚い聖書は一つの答え方しか啓示していない。
一つの答え方というのは――それでも救われる。なぜならあなたを背負われた神は、あなたの罪をも背負う―― それがイエス・キリストの十字架です。
  
イザヤ書の53章を読んで終わりにしたいと思いますが、53章に少し戻っていただいて、3節〜6節を交替に読んでいきます。彼はというのはイエス・キリストのことです。

53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
     悲しみの人で病を知っていた。
     人が顔をそむけるほどさげすまれ、
     私たちも彼を尊ばなかった。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、
   私たちの痛みをになった。
   だが、私たちは思った。
   彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
   私たちの咎のために砕かれた。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
   おのおの、自分かってな道に向かって行った。
   しかし、主は、私たちのすべての咎を
   彼に負わせた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、父なる神は、私たちのすべての咎を、イエス・キリストに負わせた。その十字架に掛かられたイエス・キリストの姿は、悲しみの人で、蔑まれ、人が顔をそむけるほど蔑まれた。私たちはその十字架を見ながら思うのです。何だ、神によって罰せられた十字架かと。でも実はそうではなかった。
イエス・キリストは5節にありますように、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

「それでも私は救われるでしょうか」という疑問に対して、聖書が出している答えはこれしかない――はい、それでも救われます。なぜなら、イエス・キリストはわたしたちの病を負い、痛みを荷い、私たちのすべての咎を背負われたから。

生まれたときから背負われている私たちが、どこかで暴れ出し、自分勝手な道を行き、神の存在さえわからなくなっていきます。
しかしそんな私たちの罪をキリストは背負ってくださり、私たちが神の子どものとして再び、神さまの背中に乗せられるようにしてくださる。

それでも、救われるのでしょうか?
それでも愛されているのでしょうか?
母親が子どもを愛し続けるように、神は私たちへの愛を忘れず、罪深い私たちが救われる道を備えてくださいました――それが十字架です。

私は昔、インドの神学校で教えていたことがありました。あるとき、神学生から、「先生、インドの子どもたちはみんなこの話を聞いて育つのです。日本にも同じような話があるのですか」と聞かされた話がこうです。

ある山奥のインドの村に純朴な青年がいた。彼は、隣村のある女性を心から愛した。まぁ、男性と女性が逆だったとしてもいいです。
彼は心の優しい青年だった。しかし、恋をした女性は邪悪そのものだった。最初からこの純朴な青年の愛を嘲笑うことしか考えていなかった。

彼は彼女を愛し、ある日、プロポーズしました。
「僕と結婚をしてくれ。君のためなら何でもする」
女性は、あざ笑うように言いました。
「もし、私と結婚したいなら、貴方の愛を証明して頂戴」
「一体どうしたらそれが証明できるのだ?」彼が訊きました。

彼女が言います。
「貴方のお母さんを殺して。心臓を取りだして、私のところに持って来て。あなたがお母さんよりも、私の方を愛していると証明して欲しいの」
青年は答えます。
「そんな馬鹿なことを言うな。僕が母親を愛する愛と、僕が君を愛する愛とは、全く違った次元の話ではないか」
「そんなことぐらい分かっているわ。でも、どうしても証明して頂戴。家に帰って、お母さんを殺して。そして、その胸から心臓を取り出して、私への愛の勝利のトロフィーのように、あなたの右手にそれをかかげて、私の村まで走って来て頂戴」

青年は家に帰りました。そして、この狂気の計画を思い巡らす。(「寓話です。実話ではないのです」という藤本先生のことばに一同ほっとして笑)
青年は朝から晩まで、そのことを思い巡らす。
彼は、その女性を死ぬほど愛していました。
悩んで、悩んでノイローゼになったかのように、とうとう、彼はお母さんを殺して、その心臓をお母さんの胸から取り出しました。

その心臓を片手に持って、トロフィーのようにかかげて、隣村まで、野山の道を岩だらけの道を彼は走って行く。
走っている間に、青年は石につまづき、転び、心臓は彼の手から落ちて、何処かへ転がってしまいました。

彼は、そこら中を血眼になって捜すのですが、なかなか見つかりません。林の中を、草むらを、岩の間を捜しまくり、とうとう、石の上に落ちた壊れたお母さんの心臓を見つけます。
彼は、丁寧にそれを拾って、砕けた心臓を元に形に組み合わせます。そして、その手を休めて、かがんで転んだときについた膝の泥を払い落とします。

そのときでした。その壊れた心臓から、その傷ついたお母さんの心臓の隙間から、優しい声を彼は聞いたのです。
「坊や、大丈夫?」 「坊や、怪我しなかったかい?」

その神学生は「先生、インドの子どもってみんな、この話を聞いて育つのです」(と言いました。)――母親の愛です。

キリストは私たちの罪を背負って十字架にかかられた。それでも罵倒する私たちに向かって、おっしゃったことば――「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
私たちの罪深さをすべて背負い、そして変わらぬ愛を私たちに伝えていることば――「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」

私たちは覚えておくべきです。母親に感謝することは神に感謝することです。そして私たちは母親の愛の深さを思う時に、母親も人間ですからさまざまな愚かさがあり、ゆがみがある。しかしそれは聖書にも言われていることで、地上の母親には限界もある。しかし、わたし(神)の愛には限界がない。だとしたならば、母親の愛の究極を神の愛に取り込むということを、私たちは語られているということを覚えていたい。

☆お祈り

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:6)

恵み深い天の父なる神さま、あなたの愛を、あなたの限りない愛を少しでも私たちが分かることができるように、あなたはお母さんを私たちに備えてくださいました。私たちはお母さんの背中を通して、お母さんの腕を通して、背負われる安心感を味わってまいりました。しかし同時にそのような愛に逆らうことも私たちはしてまいりました。

しかしどんなに私たちが逆らったところで、母の愛は私たちから消えることなく、今生きていることを考えますと、神さまの愛は、母を造られた神の愛は、なおのこと私たちを愛して、私たちを離しておられないことを心から信じます。

私たちをあわれんで、十字架のもとへと私たちを引き付けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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