名前検索
メール送る

名前検索
メール送る

名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
::: 高津教会 説 教 :::


394 433 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   5/20 神の人モーセ(19)共に重荷を担う者たち
5/20 神の人モーセ(19)共に重荷を担う者たち

☆始めのお祈り

なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎる時も、そこを泉のわく所とします。
(この日の交読詩篇84篇より5節と6節前半)

恵み深い天の父なる神さま、今朝の私の心のうちにシオンへの大路が確かに見えているでしょうか?今週の私たちの集会の中に、しっかりとシオンへの大路を踏みしめて歩むことができましたでしょうか?シオンへの大路は、日曜ごとの礼拝に繋がり、やがて天国の門へと繋がり、私たちは皆一人ひとり、この心のうちにシオンへの大路を持ち、また私たちは一人ひとりのみならず、一つ一つの教会にキリストの十字架と復活によって切り裂かれたシオンへの大路が輝いています。どうかそんな教会すべてを祝福してください。

今日は特別に猪俣(俊平)先生【***いわき市にある好間(よしま)福音キリスト教会・内郷福音キリスト教会と同じ群れ】をお迎えすることができました。好間キリスト福音教会の中にあなたの臨在が豊かにあり、ペンテコステを前に聖霊がその教会を行き廻ってくださり、刷新してくださるいのちに満ち溢れさせてください。

私たちの多くの兄姉が(***高津教会から17名+2名の整体師さん)今日は内郷福音キリスト教会に集っておりますけれども、主よ、どうか、特別に先生ご夫妻のご健康を支えてください。金成先生は、特にいわき市の復興の働きの大きな責任を荷っておられます。いろんな所を忙しく飛び回っておられますけれども、先生をなおも祝福し、尊い福音が被災地にそして復興のために用いられることができるように、あなたが強めて差し上げてください。

私たちはこの春、多くの兄姉をさまざまなところにまたイギリスへと送り出しました。今日もその地にあって礼拝を守っている一人ひとりを祝福してください。特別に先週高熱に見舞われましたKちゃんのために祈ります。小さな子どもでありますから、さまざまなことがあるかもしれませんけれども、イエスさま、どうか温かな交わりの中で、また日本人キリスト者のその交わりの中で、あなたが育ててくださり守ってくださり、あらゆる事故や事件からご家族をお守りください。

しばらく聖書に耳を傾けます。どうかあなたが語りかけてくださり、私たち一人ひとりのたましいにメッセージを届けてください。主イエス・キリストの御名によって、お祈り致します。アーメン。

☆聖書個所         出エジプト18:13〜27

13翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。
14モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」
15モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。
16彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
17するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。
19さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。
20あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
21あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
22いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。
23もしあなたがこのことを行なえば、――神があなたに命じられるのですが、――あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」
24モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。
25モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。
26いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。
27それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った。

☆説教         共に重荷を担う者たち

今朝は出エジプト記の18章を見ていただきました。「神の人モーセ」のシリーズの今朝は19回目で、「共に重荷を担う者たち」と題して、しばらく見ていただきたいと思います。

モーセはイスラエルの民百万を連れてエジプトを脱出し、そして民を率いて荒野を旅して行きました。旅の途中で水がない、食料がない、民の不平不満が出て来て、やがて民の間に問題が起こるのですね。そしてそれをモーセが一人で取り仕切って、朝から晩まで、民はモーセの天幕の前に並んで順番を待っている、という状況が展開されていたということです。待っている方も大変ですが、その苦情を聞いて、ひとりで対処しているモーセはなおも大変です。

久しぶりにモーセと娘のチッポラに会いに来た、義理のお父さんイテロが言いました。それが(出エジプト記18章の)17節です。

17するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。
18あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。

と一人でこの百万の民をさまざまな問題を処するということは難しいだろうと、改めてモーセに突きつけます。そして、21節――

21あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければいけない。

といういわゆる政治的な機構が民の間に出来上がって行く過程を記しています。

先日私は、アメリカの宣教師が10年間日本で宣教師として奉仕して、それからアメリカにもう一回戻って修士を終えた、その論文を読んでいました。論文の主旨は「日本の教会成長のために何ができるか」。世界中に宣教師を送っている訳ですけれども、最も宣教が難しい国といえば、もうイスラム圏を除いたら、日本がどんな国よりも伝道が難しい。教会が伸びない。日本にはカトリックを入れますと約6千ぐらいの教会がありますが、その教会を全部均しますと、信徒の平均値は30名を切ってしまいます。それはもちろん、地方の小さな教会もあります。

猪俣先生が昨日教会にいらっしゃって、いろいろお話を伺いました。キリスト福音教会という名前の付いている教会はいくつか福島にあります。それは全部ノルウェーの宣教師が開拓していった教会で、彼らの方針は一つで、ノルウェーの教会がお金を出す、そして宣教師を派遣して開拓して行くけれども、まぁ日本人が牧会して、ひとつの目標は、なるべく教会のないところ、福音が届いてないところ、なるべく漁村、山村に教会を建ててほしい、こういう伝道方式を落下傘伝道と言います。

それはノルウェーの宣教師だけでなくして、メソジストの宣教師も多くは落下傘伝道を致しました。つまり山の中、森の中に落下傘のようにして、物資と人間を落として行くのですね。そしてそこで教会をさぁ始めてくださいと言われて、日本各地に教会ができていきますから、それはそれは一つの教会っていうのはとっても小さい、そして伝道のあえて難しい所を狙って、教会が建てられていくのです。

私が読みました論文では、どうして日本はそんな風に伝道が難しいんだというようなことがさまざまに書いてあったんですけれども、特に私の目を引いた大きな理由が記されていました。それは日本の牧師というのは、教会のすべてを掌握したがる。教会の全部のことを自分の手に握りたがる、という日本の牧師の体質が牧師を疲れさせ、そして教会の成長をとめてしまっていると論じられていました。もちろん体質に対しては正当な理由も書いてありました。なぜそういう体質なのか?

それは多くの教会が、その牧師が開拓してきた。ですから、最初は5名あるいは3名。それが10名やがて30名。最初は3名、5名でしたから、その何でも自分でやらなければいけないというその習慣が、教会が30名になっても50名になってもず〜っと変わらないのです。もうすべて一人で握ってしまうという体質が、日本の教会の成長を止めてしまっているのではないかという、つまりリーダーシップ論といいますか、指導者の資質、指導者と教会とのその関係で主に論じられた論文でありました。

私はそれを見ながらう〜んとうなってしまいました。私は、何でも掌握したい、しなければならない――とは思っていません(大笑)。
思ってはいませんが、私はよく神学生には言うんですね。あれもできない、これもできないと言う牧師になるなと。つまり牧師は聖書のことに、祈りに専念するということは、それは大切なんですけれども、こういう問題も解りません、ああいう問題もできません、教会がちょっと崩れた、破れただけで、すぐに見積もりを取りましょう、と言うなと。先ず自分で直してみなさいと(笑)。

皆さんは私との付き合いが長いですから、これはもう私のことは――何でもやりたがる、専門知識もないのに(笑)、壁は塗りたがる、壁紙は貼りたい、床は外したい――私はどちらかというと確かにそういう性格ではあります。

でも日本の牧師の気迫、責任感というのもあるんですね。つまり、モーセのように百万の民ならしようがないですけれども。だけど、50人や100人で、その教会を任されたら、おおよそ何でも自分でやるぐらいの気迫がなければ、やっぱり教会はできないよと(言いたい)。
  
でも私が読んだその論文は、そういう気迫はある意味で愚かだと(言っているのです)。今日は、少しその論文と対話しながら、モーセの出来事を少し掘り下げていきたいと思います。

1)イテロの見識の確かさ

(出エジプト記18章の)18節を見ていただきたいと思います。モーセの天幕に民がみんな並んで、朝から晩まで、モーセひとりが問題を決している。苦情を聞いて、そして裁判を行っているという事態に対して、イテロは(言います。)

18あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。

これはイテロの見識なのでした。実際にモーセは潰れかけています。これは同じ出来事を民数記で見るとよくわかりますが、民数記の11章をちょっと見てください。同じ出来事なのですけれども、民数記と出エジプト記は書き方が違うのです。私は何とも言えません。注解はいくらか違うので、ぴったり同じという訳にはいかないんですけれども、歴史的には同じ状況であると言えます。11章の14節を私が読みますので、皆さんが15節を読んでください。

民数記11:14私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

同11:15私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

状況をお話しますとね、民数記ではマナの問題から出て来た民の不平不満を、モーセはこれ以上自分だけでは受け止められない、というところから来ている。それは出エジプト記でも同じです。百万の民を連れて荒野を旅するときに、飲食の不平不満、それが民数記の記したことです。

出エジプト記では、飲食の不満に加えて、民の間にさまざまな争い事が生じて、それをモーセ一人が決しているというその重荷(が描かれています)。民数記の11章の15節ではモーセは実はもう限界に来ていたというのがよくわかります。
「私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください」(15節)というのは、重くて重くて仕方がないのです。

その時、出エジプト記では、義理の父のイテロが、もう見ていられない、あなたはこのままだと潰れるという助言を与えますが、民数記では、その助言を与えているのは神さまです。(民数記)11章の16節(と17節)を見てください。

民数記11:16主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。

同11:17わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。

責任を分けよと提言されたのは、民数記では神さま、出エジプト記では義理の父のイテロです。ひとことで言いますと、減らしなさい。重荷を分担しなさい。

モーセは、神さまが願っている以上に、重荷を自分のものにしてしまったということは言えると思います。なぜなら指導者はモーセだけではない、アロンもいたからです。いつの間にか、すべての責任はモーセに行くようになってしまう。それだけ、卓越した能力と信仰の持ち主でありましたけれども、それでも、神さまが願っている以上の責任を、自分で勝手に背負っていった。

最近、「牧師の燃え尽き症候群」というのが、しきりに取り沙汰されるようになりました。私はまたそういうのが実はあまり理解が及ばなくて、燃え尽き症候群の人を見ますと、燃え尽きるほど忙しくないだろう(大笑)って、ついそういう風に(思ってしまうのですが)、私はいい加減に見えて厳しいのです(笑)。

一つ私は、燃え尽きて行く先生方のいろんなケースを見て(思うのですが)、大きな教会の先生はなかなか燃え尽きない。燃え尽き症候群になる先生は、わりと小さな教会の先生が多い。あぁなるほど、人が燃え尽きるか燃え尽きないかというのは、自分が抱えているその人数や許容範囲の問題ではない。つまりですね。人数が少なくても、それと深〜く関わり合う先生、人と距離の取り方が上手に行かない。そうすると、深〜く関わり過ぎてしまいますと、その人に生じた何かの出来事のすべての責任を自分が負うようになる。

むしろこれぐらいの教会になりますと、ある人がつまずいても誰かがカバーするでしょうし、人と人とのダイナミックさは牧師と信徒だけではなくして、信徒同士いろいろありますから、まぁ仕方ないねとか、あるいはそういうこともあるよとか、私たちは割と鷹揚に、いろんな人の流れを受け止めることができるのだと思うのです。

しかしこれが10人だとしたら、一人が難しくなったら、全部の責任を私が感じてしまうのです。そしてこの人の家庭が難しくなったら、何とか建て上げようと、私は全部こう、尽くしたのかもしれない。今の自分ですと、他に忙しいことがあるので、全部に関われないという自分なりの言い訳があります。でももし私の責任が他になくて、もうここだけだとしたならば、もうここだけに注ぎ込む、そして問題は――人は難しい。人はみな難しいのです。その難しい問題とあまりにも深く、がんじがらめにしばられていきますと、その人の問題で私たちの心の傷はものすごく深くなっていきます。

私はイテロの見識というのは正しいと思いますね。それが小さい教会であっても、百万の民であっても、問題を自分一人で負うというような仕事体験に、生活体験に、人との関わりに、人は持って行ってはいけない。私はモーセのすばらしさ(***神さまの助言、人の助言を受け入れる謙虚さ)を感じるのですけれども、民数記11章を開いていますので、24節をちょっと見てみましょう。

民数記11:24ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は、民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。

こういう会話があるのです。(同じく民数記の11章)28節を見てください。モーセの弟子でありましたヨシュアは反対するのです。

同11:28若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」

というのは、モーセひとりでやっていたことを他の人たちもできるようになった。神の霊がとどまったことによって、他の七十人もモーセと同じようなわざができるようになったときに、ヨシュアは思わず嫉妬して、「彼らを止めさせてください。指導者はあなたひとりであるべきです」ということをヨシュアはモーセに言うのです。すると29節――

29しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

と、モーセは責任が分担され、特権が他の者に行きわたっていくことをよしとする。

日本の牧師の問題点というところを挙げれば挙げるほど、私の立場がまずくなるので(大笑)、あまり下手なことを言えませんけれども、やっぱり先生、先生と呼ばれ、そして牧師牧師と、敬語を使われれば使われるほど、やっぱりどこかで自分は牧師なのだという妙な気負いで自分を追いつめ、そしてそれは最終的に神さまの特権を一人占めしているような、そういう構図が教会の中に見られる。
                
2)モーセの本分

さて、イテロの助言に戻って、出エジプト記の18章の19節と20節を交替で読みましょう。

出エジプト18:19さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。

20あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。

イテロはモーセの重荷を軽くすること、分担することを教えただけではない。イテロはモーセの本分を、あなたの本分、本職はどこにあるのかというと、19節を見ていただきますと、「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい」というのは――あなたは祈りに専念しなさい(と言っているのです)。

20節は、あなたはみことばを教えなさい(ということです)。つまり、イテロの助言は負担の軽減ではなかった。あるいは、合理的な裁判制度を整えるということでもなかった。

あの使徒の働き6章に出て来る初代の教会の事情と同じです。人数が増えて、食事の配給のことで忙しくなってしまった弟子たちは、教会のみんなに提案しますね。自分たちがもっぱら祈りとみことばの奉仕に専念することができるように、この配給の仕事を担ってくれる人はいませんかと。すべてのことは自分たちにはできないのです。そして、「私たちが一番しなければいけないことは」と使徒たちが言ったことは、「祈りとみことばの奉仕に専念したい」(ということでした)。

イテロがモーセに言いました――あなたがそれをするときに、この民は祈られ、あなたがそれをするときに、この民はみことばに従って、(神の民として)整えられていく。奴隷のエジプトから脱出した、神さまの奇跡を共に体験した、それだけで神の民になれるわけではない。あなたは神の民になれるように、彼らのために祈らなければいけないし、みことばを説き明かして、神の御心の中を歩むように、しなければいけない。

この前、病気をしていた先生が復帰して教会に戻られたのですね。2年ほどとても病んでおられて、とうとう戻られたのです。それで報告のお手紙をいただきまして、その中にこういうことが書いてありました。

「先生のおっしゃったことは本当です。病気になるのも悪くはない。――私はそんなこと言ったかなと思いますけれども(という藤本牧師に一同大笑)。
病気になることによって、弱い人の気持ちが解るようになりました。そして先生の助言は正しかった。教会員は、やたらと薬に詳しい私を頼るようになった。」

私も割と薬に詳しい方です(笑)。それは病弱だったからで、今もさまざまな問題を抱えている。昔薬剤師だったM・Sさんに「先生は薬好きね」と言われたこともありますし、家内から「あなたは牧師になるのもいいけれども、富山の薬売りになったらいい(大笑)」と言うのですね。私が薬を勧めたときに、異様に説得力がある。それは私もその薬を飲んでいるからですね。

牧師っていうのは、それぞれの特性がある。
例えば音響に関心がある牧師は、そういう教会に行きますと、見事な音響装置がある(笑)。イスはボロボロなのですが(笑)スピーカーはピカピカですよ。
パソコンに長けた牧師ですと、どこのシートに座っていても無線LANが通じて、iPhoneから説教がその場で観れる。今、後ろの方はモニターを観ていますけれども、ここでUstreamで電波を飛ばしてしまえば、後ろの方々はスマートフォンがあればその場で説教が観れてしまう。そういうことに、とっても長けた教会もあるのです。
日曜大工が好きな先生は、講壇から(笑)週報ラックまで、みな作ってしまいますでしょう?
料理が大好きな先生なら、愛餐会に花が咲きますよね。
     
それはみな、すばらしいことです。どこの教会でも、そういう風に先生の癖が出る、先生の色があるということは当然のことなのです。でもイテロが言っていることは、大切なのです。――あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。(19節)
 
子どもが熱が出た、交通事故にあった、あるいは、こんな風に解釈のむずかしい問題があると言ったときに、牧師はいつも民に代わって神の前に行き、その出来事を神さまのところに持って行く、という仕事を本分としているのが牧師なのだよ、ということをイテロはモーセに言っているのです。

あなたがどんなに、音響に詳しかろうが、薬に詳しかろうが、日曜大工が詳しかろうが、あなたは先ず神さまの「おしえとおきて」(20節)に精通しなさい。でなければ、どうしたら、民を「歩むべき道、なすべきわざ」(同)へと導くことができるのでしょう(、ということをここで提言しているのです)。

3)共に担う祝福

イテロの助言は共に担う祝福を教えています。22節を私が読みますので、23節を皆さんで読んでみてください。

22いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。

23もしあなたがこのことを行なえば、――神があなたに命じられるのですが、――あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」

23節の最後に「あなたはもちこたえることができ」というのは、モーセの重荷が軽減されるということでしょうね。「この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう」というのは、民も潰れないという意味もあると思うのですが、でもこの「平安のうちに」というのは、「祝福のうちに」と訳してもいいのです。祝福のうちに彼らは帰る。

22節の最後「彼らはあなたとともに重荷を担うのです。」
イテロの助言は@ 分担して重荷を軽くしなさい。
A あなたの本分を第一にして、責任で職務で他の人に渡せるものは渡していきなさい。そのことによって、あなたはすべきことをまず第一にすることができます。
B そのように分担していく、共に担うことを彼らが学ぶと、彼らは祝福されます。

「平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう」(23節最後)というのは、ものすごく大きな意味を、私は持っていると思います。つまりモーセは、モーセと共にさまざまなことを担う人物を育てなければいけない。
  
もしそういう方々が育っていったら、モーセと共に、喜びも悲しみも共に担え、祝福も失敗も共に担う。そしてモーセとビジョンを共有する。つまり人を育てると、育った人もまた同じ祝福に与る。

私が最初に紹介しました論文が訴えていたことは、「人を育てる」ということを日本の牧師はよくわかってないのではないか、日本の牧師は、人の世話をするということはとても長けているけれども、人を育てるということがよくわかっていない、神学校ではそういうことまで教わっていないのではないか、という訴えでした。

もう少し平たく言いますとね、世の中で働いている信徒の方々は皆、世間のリーダーシップ論の常識というものを持っている。だから、上司が部下をどういう風に育てていくのか、経営者が会社全体を人をどういう風に作って行くのかということを、信徒の方々の方がよっぽど精通している。ところが、肝心の牧師は、日本の教会は、神学校でそういうことを教えもしないし、あるいは、教会の中でそういうことを学びもしない。私は確かにそうだなぁと思います。

日本の教会や日本の神学校は、明治期に始まります。当時の教会史をさかのぼって考えますと、当時の教会も神学校も、もちろん宣教師が入って来るのですけれども、どこか幕末の影響ってすごく強いのです。

幕末の影響の中で、恐らく私は、神学校に一番影響を与えたのは、言うまでもなく、長州藩士・吉田松陰の有名な松下村塾(しょうかそん塾)です。
松下村塾から吉田松陰は、多くの明治維新を担う立派な人物を造り出して行くじゃないですか。それは同じところに住み、同じ釜の飯を食い、そして吉田松陰という立派な人物のもとで、弟子が造られていくのです。
非常に優れた教師がいて、その教師のもとに塾的な弟子を育てていく。寝食を共にし、互いに切磋琢磨しながら、師の教えを尊ぶ。
それは、イエスさまと十二弟子との関係で考えると、そうした塾のすばらしさを評価することはできます。

しかし、その塾で、弟子たちが師の重荷を共に担うということを訓練されませんと、卒業して自分が師になったときに、自分の重荷を弟子たちと共有することができません。どこまでも先生を師と仰ぎ、尊敬し、そうこうしているうちに、自分もあの先生のようになろうと思って牧師になってしまい、そのことを目標に牧師になりますと、自分が牧師になった時に、先生はいつまでも先生であって、弟子に自分の重荷や問題を共有することをしない。私は、日本の神学校というのは、どこかそういう体質がいまだに抜けていないのではないかと(、思うのです)。

神学校にいる頃から重荷を共有することを学ばないと、教会が大きかろうが小さかろうが、やがて遣わされて牧師になったときに、自分の課題を共有するということは実践できない。つまりいつまでたっても、人が育たない。
 
共に重荷を担うということは祝福です。イテロは多くのことをモーセに教えました。全部自分で抱えていないで、それを分担するように。どんなに沢山の重荷や課題を担っていても、自分の本分が何であるかということは、忘れてはいけない。そして重荷を共有するということは、あなたにとってよいことだけではない。あなたが共有した相手も喜びを味わい、ビジョンを味わい、共に育っていく。それがあなたのすべきことだと、モーセに教えたのです。私たちもそういう教会でありたいと思います。

牧師は少々歪んでいます。しかしその歪みを皆さんが共に担いながら、私が考えているその教会のあり方、教会のビジョン、教会の課題、いつも教会総会で何度も何度も繰り返して申し上げていることでありますけれども、共にそういうことを担える教会でありたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、すべての重荷はあなたの重荷です。宣教の重荷も、救いを伝える重荷も、あなたの愛を知ってほしいという重荷も、あなたの愛のうちに成長してほしいという重荷も、すべてが主イエス・キリストの重荷です。それを私たち皆が共に担うことができますように。

そしてこの教会が、キリストの身体としてふさわしく整えられていくためには、牧師がその本分を忘れず、いつも民に代わって神の前に立つことができるように。しかし、それをすることは牧師のみならず、主だった人たちに、また一人ひとりに聖霊が与えられ、一人ひとりが皆の代わりに、神の前に立つことができるような人物に成長することができるように、この教会をさらに導き助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。


掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2012.05.22 - 22:59

175.133.12.55 - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 6.0; Trident/5.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; InfoPath.2; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; OfficeLiveConnector.1.5; OfficeLivePatch.1.3; BRI/2; BOIE9;JAJP)

jn6g7v 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.159.37.111
<a href=http://SlammaTep.com>SlammaTep</a>
7yy1ej6g3joo85yld6
2017.06.24 - 03:16 
33gaa5 簡単意見修正::: 一言削除 ::: IP: 178.159.37.111
<a href=http://SlammaTep.com>SlammaTep</a>
rlmx243raatu6vozra
2017.06.25 - 03:34 
Name   E-Mail   Password

 前文 5/27ペンテコステ 「主の民にみな霊が...
 次文 5/13 母の日礼拝:母に背負われ、神に...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
358Simple view *^^*8/5 神の人モーセ(25) 十戒(5)... T・Y 2012.08.06 4554
357Simple view *^^*7/29 神の人モーセ(24)十戒(4)安... T・Y 2012.07.31 4290
356Simple view *^^* 7/22  神の人モーセ(23) 十戒(3... T・Y 2012.07.25 3991
355Simple view *^^*7/8 神の人モーセ(22)十戒(2) T・Y 2012.07.09 4431
354Simple view *^^*7/1献児式、聖さん式礼拝  キリストは... [1] T・Y 2012.07.03 618
353込書P...pdf [654 KB] ダウンロードSimple view *^^*林間聖会のお知らせ T・Y 2012.07.02 3865
352Simple view *^^*6/24 神の人モーセ(21)十戒(1)... T・Y 2012.06.26 4180
351Simple view *^^*6/17神の人モーセ(20)契約 [144] T・Y 2012.06.19 13380
350Simple view *^^*6/3怒りを委ねる 詩篇109:1〜10, 21〜... [1] T・Y 2012.06.04 19821
349Simple view *^^*5/27ペンテコステ 「主の民にみな霊が... [1] T・Y 2012.05.30 4010
348現在参照中の文章です...5/20 神の人モーセ(19)共に重荷を... [2] T・Y 2012.05.22 4581
347Simple view *^^*5/13 母の日礼拝:母に背負われ、神に... T・Y 2012.05.15 3877
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前頁 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*