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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/27ペンテコステ 「主の民にみな霊が注がれ」
5/27ペンテコステ 「主の民にみな霊が注がれ」

☆お知らせ

●来週6/3にラブローフの回収を行います。 私たちはワールドビジョンを通して、発展途上国の恵まれない子どもたちを救援しています。3,6,9,12月の第一聖日に回収しています。
今回は、祈祷会で報告があったことですが、下作延の小学校2年生が、心臓移植をアメリカで受けるので、その費用を溝の口全体で1800万円の募金をするとのことで、今年前半(のラブローフ募金)はできたらこの心臓移植のための募金にしたいと思っております。案内は後ろの掲示板に貼ってあります。

●6/15日に、日本聾話学校でチャリティー映画会があります。タイトルは「アメイジング・グレイス」で、以前講壇からもご紹介したことがありますが、【***長年にわたってジョン・ニュートン(元奴隷船の船長で当時聖職者)等の仲間の支えを得て、イギリス議会で奴隷制度と闘った末に1807年に】奴隷貿易廃止令を議会で通した、下院議員のウィリアム・ウィルバーフォースの映画です。指定席2000円、自由席1600円。加藤兄から買うことができます。映画の時には、聾話学校の子どもたちのハンドベルの演奏があります。
(ホール)中央テーブルにチラシが置いてありますので、是非持って行っていただいて、協力していただきたいと思います。
その「アメイジング・グレイス」の歌になっております、257番を歌いましょう。(***イ讃美歌「いかなる恵みぞ」ジョン・ニュートン作詞)

☆始めのお祈り
エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。(この日の交読イザヤ書62章より6節)

恵み深い天の父なる神さま、あなたは私のことを覚えていてくださり、私の家族のことを、私の過去のことを、私の明日のことを、あなたは気にして忘れずに、この世界に何億と人がいるのに、私のことを覚えていてくださいます。ですから決して私たちは悲しみの狭間に、絶望の墓に、苦悩の渦の中で黙り込んでしまうことがありませんように、私たちを励ましてください。

あなたはイスラエルの民におっしゃいました。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために黙りこまない」(同62:1)。神さま、あなたはわたしたちのために黙りこまず、私たちの人生のさまざまな出来事に介入してくださり、励まし助けてくださるのですから、どうか、自分で自分の問題に諦めてしまうことがありませんように。自分で自分の問題に悩みこんでしまうことがありませんように。あなたに祈ることができるように、あなたにお話することができるように、私たちに刺激を与えてください。

なかなか祈れと言われても、霊的なことに覚醒に鈍い者であります。しかし今日私たちはペンテコステを迎えています。2000年前、イエス・キリストは復活されてから50日目に、父なる神がそしてイエス・キリストがこの世界に聖霊を送られました。私たちの心に聖霊を宿してくださり、教会が誕生しました。教会は聖霊が満ちている場所です。

どうか私たちのキリストを仰ぎ、父なる神を信じるだけでなくして、私たちの心に住み、常に私たちを励ましてくださる聖霊なる神に心を傾け、力を得、決して一人ではない、聖霊が私のうちに住んでおられる、という自覚に立つことができますように、主よ、どうか導いてください。

今日初めて来られた方に、あなたの恵みが豊かでありますように。○姉のお母さま、あるいは中村兄の奥さまのお母さま、片岡兄の奥さまのお父さま、高津教会の家族もさまざまな形で病んでいます。あなたは私たちの(教会の)家族をも、私たちの信仰のゆえに助け、病をいやしてくださることを信じます。どうか本当に助けてください。そして助けている者を助けてください。介護する者もどんなにか大変だと思いますが励ましてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所         民数記11:16〜30(新改訳聖書・第3版)

16主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。
17わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。
18あなたは民に言わなければならない。
 あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。
19あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、
20一か月もであって、ついにあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう。』と言ったからだ。」
21しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。
22彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」
23主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」
24ここでモーセは出て行って、主のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。
25すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。
26そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。――彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった――彼らは宿営の中で預言した。
27それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」
28若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
29しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
30それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。

☆説教      主の民にみな霊が注がれ

ペンテコステは、クリスマス、イースターと共に、教会の3大イベントでありますが、わりと知られていないのが実際だと思います。今日は聖霊が教会に、私たちに与えられた、神の霊が私たちの心に与えられたということを記念する聖日でありますけれども、今、ずっとモーセの生涯から学んでいます。先週少し引用致しましたが、民数記にもう一度心を留めて、そこからペンテコステについて学びたいと思います。民数記11章の29節をご覧ください。これをご一緒に読んでみたいと思います。

民数記11:29しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

モーセは言いました――神の民がみな、預言者のようになればよいのに。神さまがその一人ひとりにご自分の霊を与えられるとよいのに。

場面は、モーセが百万の民を引き連れて荒野を旅しているという、その苦難の状況ですね。パンがない、水がないと言って民は不平不満にあふれ、そしてやがて百万の民の間にさまざまな問題が生じ、その裁判官までモーセは務めているという状況の中で、先週見ました。モーセの義理の父、イテロの助言。民数記ではイテロではなくて助言を与えたのはむしろ神であった。神さまは助言というよりは、打開策を与えられた――モーセよ、一人で何でもできるわけではないだろう。七十人を選べ。

25すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。

七十人のうちの二人――26節にありますが――実はエルダデとメダデは、その時宿営にとどまって、この場におりませんでした。にもかかわらず、彼らは長老でしたから、神さまは同じように聖霊を注がれます。それを見ていたモーセの付き人であったヨシュアは言います。

28若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」

いきなり事の次第を知ったヨシュアは(、モーセに訴えます)――こういう霊的なことはモーセだけに赦されたことで、ほかの人間には赦されていない。エルダデとメダデの預言をやめさせてくれ。

その時に言ったのが先ほどの29節のことばです――私のために嫉妬してくれてありがとう。でも私はそんなことは考えていない。主の民みなが預言者になればよいのに。神さまの霊というのは、主の民みなの上に与えられるとよいのに――というこのモーセの思いは、聖書を貫いています。

ヨエルという人物は旧約聖書の終わりの方で預言を致しました。彼はイザヤと同世代の預言者です。ヨエルはこう言います。これは神のことばですが――
(ヨエル書2:28)その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
(同29)その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。

モーセから何百年もしたヨエルが同じ思いを伝える。しかしその時、しもべにもはしためにも神の霊が注がれるという事態は起こっていませんでした。神の霊が注がれることがあるとすれば、それは例えば牧師であるような、私たちのような者です。

人が牧師になるときに、もちろん学校にも通います。もちろん訓練も受けます。しかし決定的なのは、按手礼という儀式があります。按手礼の儀式で牧師は「牧師の務めを全うします」という誓いを証しし、そして先輩牧師に祈ってもらって、ちょうど大統領の就任式のようなものです。誓ったことを為すことができるように、神さまの霊があなたのうちにとどまる人になるようにとお祈りをしてもらいます。

でもモーセも、そしてヨエルの言っていることはそういうことではない。特定の人に神の霊は注がれるだけでなくして、神の民みなに注がれたらいいのに(とモーセは言っています)。聖霊が、祭司だけではない、預言者だけではない、すべての者に注がれるということは、しもべにも、はしためにも注がれると(言うのです)。社会的な地位や宗教的な権威に関係なく、求める者すべてに注がれる――私たちはそのことを信じて、ペンテコステの聖日を迎えています。私のようなしもべやはしためにも聖霊は注がれます。

簡単に3つのポイントからお話をします。神の霊が注がれるとどういうことになるのか?

1)私たちの人生の狂いに気がつくようになる

モーセはヨシュアに言いました。「あぁ神の霊が私だけでなく、イスラエルの長老七十人だけでなく、すべての神の民に注がれたらいいのに」(民数11:29)と。それは、神の民はあの出エジプトの奇跡を目の当たりにし、紅海が二つに割れたことを目の当たりにし、天からのマナを食し、神さまの恵みを直に体験しながら荒野を旅しているのですけれども、荒野が荒野であるがゆえに、不平不満が絶えないのです。

私たちはこれまでの人生で数多くの奇跡を体験しているのに、人生が荒野であるがゆえに不平不満が絶えない。あぁ、彼らにも聖霊が注がれたらいいのに。問題は荒野にあらず、モーセにあらず、問題は民自身なのです。問題は私たち自身。もし私たちに聖霊が注がれたら、神の世界が見えなくなってしまい、この荒野だけに目を注いでいる自分が解るようになるのだと。聖霊は私たちがこの世界にあって、霊的なことが見えなくなっている自分、私のことを悟らせてくださる。

霊的なことが見えなくなってしまっている自分ってどういうことなのか、昨日よく考えてみましたが、こういうふうに話したらよくわかってくださるかと思って……。
15年ぐらい前に、13年ぐらい前でしょうか、クリスマスが終わった夕方、加藤兄のところの○くんと光楽さんのところの△くんと○ちゃんと私の4人で、ディズニーランドに行きました。夕方着いて、クリスマス・イルミネーションがことさらきれいで、沢山の乗り物には乗れないけれども、もうクリスマスをディズニーランドで過ごしたというだけでいいよね、って4人で楽しく行ったのです。

でも途中で、ひとりで行った時に、今日○ちゃん来ているんですけど、ごめんなさい(笑)、当時小学校2年生ぐらいだったと思うんですよ、○ちゃんが迷子になったのです。
それは3人は男便(男子トイレ?)に行って(笑)、○ちゃんは女便(女子トイレ?)に行く訳ですけれども、僕と○くんと△くんが、いくら待っても○ちゃんが現われないんですね。

それで、私は○くんに「女子便に見に行って」と言ったんです(笑)。すると、○くんが「先生、そ〜んなところには入れないよ」と言いました。私は照れ臭いので、「そうだろう?入れないだろう?○くんが入れないなら、僕はどうしたらいいんだろう」「先生、僕そんなところに入ったら、変態になっちゃう」(大笑)「○くんが入ったら変態だろうけど、僕が入ったら警察に捕まるよ」(大笑)そうして、○くんを説得して行かせたのですね。しばらく経って、女便で次から次からドアを叩いて捜すんですけれども、帰って来なかった。それから3人で手分けして捜すのですけれども、全然見つからないのです。

25分ぐらいかかったと思います。わんわん泣いている○ちゃんが見つかりました。抱っこしても全然泣きやまない。ひっくひっく何か言おうとするのですけれども、ことばにならない。それからやっとですね。手をつないでず〜っと回るんですけれども、あの20分前の笑顔はもう戻って来ない。襲った恐怖が心の中を包んでしまって、ミッキーに会おうがミニ―に会おうが、もう笑顔にならないです。そういうものなのです。

つまりね、楽しいクリスマス、きれいなディズニーランド、近所の3人がやって来た。わくわくしてやって来た。期待通りの華やかさ。でも一旦迷子になると、その恐怖を味わった子どもは、もうもはや元に戻れない。どこのアトラクションに行っても、自分がはぐれないことばかりを頭に考えるのです。そりゃもちろん、アトラクションは楽しいです。でもはぐれてはいけないということを、しっかり頭の中に叩き込んであるのです。

ところが、私たちの対応は、神のもとからはぐれてはいけないということが分かっているのに、そのうちそれがわからなくなる。イザヤ書の53章に私たち罪人の姿がこういう風に記されていますが、

イザヤ53:6私たちはみな、羊のようにさまよい、
      おのおの、自分かってな道に向かって行った。     
      しかし、主は、私たちのすべての咎を
      彼に負わせた。

かつては神さまのもとに、羊飼いのもとに飼われていた私たちがみ〜な、「おのおの、自分かってな道に行く」のです。私たちは皆、自分から神さまのもとを離れ、自分から迷子になり、それでも幸せなのです。それでも平気なのです。自分が自分を守ってくれる親とはぐれたという意識がない。

私たちの周りには、病の深刻さもあり、人生の不条理さもあり、自分の罪深さもあり、死の恐怖もあります。挫折も悪もこの人生に溢れています。それでも、自分は神さまのもとを離れているという危機感がない。

小さな子どもが親とはぐれてごらんなさい。どんな場所に遊びに行ったとしても、二度とはぐれまいということにどこか心に引っかかっているじゃないですか。聖霊が私たちの心に与えられると、そういう引っかかりの思いを与えてくださる。

聖霊が私たちの心に与えられると、聖霊は私たちに語りかける。
君は神さまのもとを離れて、何とも思わずにいろいろ人生の苦労を楽しんでいるようだけれども、本当にそれでいいのか?と。
神さまは、別に君の人生から楽しみを奪おうとしている訳ではない。でも、やがて挫折が来、自分の罪深さを体験し、さまざまな困難に打ち当たったときに、最終的に自分の人生を面倒を看てくださるというのは神さまなのだよと。
そして、その神さまから離れているということは実はとっても罪深いことなのだよ、君の心に危機感はないのか?と、聖霊はその危機感を与えてくださる。

ヨハネの福音書16章8節に、「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」というのは、そういうことです。私たちは、自分勝手な道をそれぞれ行き、神のもとからさまよい出ながらも、さまよい出たという自覚もなければ、さまよい出ているということが、もしかしたらとんでもないことになるという自覚(危機感?)がない。

聖霊が私たちの心に戻って来ると、もしかしたら、自分が生まれたことに何らかの意義があるんじゃないかと考え、自分が死んだらどうなるのだろうという疑問に、心がくっついて来る。聖霊が自分の心に戻ってくると、自分がもしかしたら道から外れて生きているのではないか、という不安を自分の心に戻してくださる。そして、何とかして父なる神のもとへ戻って行く方法はないのだろうか、と考えさせてくれるのも聖霊です。

2)神だけが救いであることを、悟らせる

聖霊は神だけが救いであることを、モーセに、民にも、私たちにも悟らせます。
民数記の11章に戻っていただいて、民数記の11:23をご一緒に読んでみたいと思います。

民数記11:23主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

これは、21節にこんな事態が書いてあるのです。

同21しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。そのためには、どれだけの肉が必要でしょうか。

この荒野の民は、肉が食べたいと言います――不可能ですね。
私たち夫婦がケンタッキーに住んでいた頃に、年に数回刺身が食べたくなる(笑)。不可能です。しようがないから、近くのスーパーに行って、冷凍イカと冷凍エビを買って来て、ご飯を買ってすし飯を作って、冷凍イカと冷凍エビを乗せて、わさびをくっつけただけで、十分寿司なのです(笑)。

ある時、ケンタッキーの魚屋に行ったら、いろんなものが並んでいて、「新鮮で生で食えるのか?」「生で食えるわけないだろう。これはメキシコのガルフ湾から来ているんだ。車で三日」「車で三日かぁ」(というようなやりとりがあって、)彼らに言ったのですね。
「着いたその日だったら何とかいける?」
「注文を出してくれたら、メキシコ湾から持って来たその日に電話するよ」
「じゃあ、鯛持って来てくれない?」
ということで、こんなでかい鯛を私たち二千円で買ったのです。それでも心配だから酢で〆ましたけれどもね。

あんな大陸のど真ん中に魚なんかいるわけがないです。いるとしたらナマズですよね。このシナイ半島の荒野で肉があるわけがない。モーセが言います。しかも人数は六十万人、男だけで。百万人越えてますよ、神さま。それを一カ月食べさせる。どうすればいいのですか?と言ったときに、神さまは「わたしの手は短くはない。わたしにできないことはない」(23節)とモーセにおっしゃっるのです。

神の霊に満たされたモーセはその約束を信じることができました。でも民には信じられない。モーセが願っていることは、私が信じることができたように、主の民もみな信じることができたらいいのに。ということは、みな聖霊に満たされたらいいのに(ということ)。

聖霊はキリストこそ私たちの救い主で、キリストこそがすべての問題の解決を握っておられることを悟らせる。イエスさまはおっしゃった。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)。イエス・キリストだけがすべての問題の解決を握っておられることを、人は悟らないです。聖霊を受けた者だけが悟ることができるのです。

皆さんが家族で自分だけがクリスチャンで、他の者はクリスチャンじゃない。「神さまだけが解決してくださる」と、周りの者は聞いていて嫌になるじゃないですか。「おまえ神さま神さまって言うけど、実際金を払っているのはお父さんだぞ」(大笑)(と言われることもあるでしょう)。

私の娘が留学して、留学の費用をどうしようか(って時に)、「神さまはきっと備えてくださる」――(そういうことを聞くと)思わずここまで出ますね――「それを神さまはきっと備えてくださる。神さまは、父さんにそれを言って、おまえを……と言うから、おまえに備えるのは父さんなのだよ」(大笑)と言いながら讃美したのです。

聖霊を与えてくださると、聖霊は私たちの心に悟らせ、言えるのです――「すべての問題の解決は神にあり」と。だれが払ってくれるかというのも大切ですが、「すべての問題の解決は神にあり」という信仰を与えてくださるのは聖霊以外の何者でもない。聖霊を持っていない人は絶対にそういうことは言わない。

3)私たちの心に神の愛を注ぎます

この新約聖書の個所だけは、ペンテコステの聖日でありますので、見てまいりましょう。
ローマ人への手紙の5章の5節です。ご一緒に読みましょう。

ローマ5:5この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

モーセは思った。あぁ聖霊が神の民みなに注がれ、神の愛がわかったらいいのになぁと。神さまは荒野に導いて、彼らを殺そうとは思っていない。荒野を通過させて、約束の地に導こうとされている。しかし彼らには、神の愛がわかっていない。それは私たちにもわからない。

皆さん、考えてみなさい。この世界におよそ四億の人間がいます。日本でおよそ一億二千万人いて、そして私がいる。神さまはマザーテレサを愛しておられるのはわかる。神さまはなぜ私を愛するのかというのは、その間の理由は大切です。神さまはあなたを愛しておられるというのは、聖霊があなたにそういうときを与えてくださる。これは不思議なことです。私がどんなに話をして説得をしても無理です。今日は聖霊が皆さんのところに与えられるように最後にお祈りしますけれども、その聖霊は私たちに神の愛をわからせてくださる。

「A Beautiful Mind」という最近の映画を皆さんご覧になったと思います。主人公はアメリカの数学者で、1995年にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュの人生を描いたもの。確か日本語でも(タイトルは)「ビューティフル・マインド」でしたね。

数学者です。彼が行った大学は、お父さんが確か電気技術師だったので、工学系のカーネギー工科大に、名門ですが行きます。大学院の修士にカーネギー工科大学の教授の推薦状が一行だったというのが有名で、「この人物は天才です」という文で、プリンストン大学を卒業。やがてマサチューセッツ工科大学の終身教授になる。生涯あなたは教授ですという資格を持つのですけれども、29歳です。

彼は数学の世界で、数々の数学理論を打ちだした経済理論で、ノーベル賞を取るのですけれども、途中で統合失調症になるのですね。それが「ビューティフル・マインド」っていうその映画なのですけれども、彼の想像っていうのは、多くの敵によって常に攻撃を仕掛けられているという幻覚を見るのですね。

人生そのものがどんどん分裂していき、彼は精神病院の入退院を繰り返します。純粋になるのです。純粋過ぎたかもしれない。とってももろい部分を持っていて、美しい理論的な頭脳が苦しみ始める。愛する妻アリシアは別れを捧げ、彼が精神科に入院している間も、頭の中で彼を苦しめる人たちが次から次に出てくる苦悩の数学者に、愛する妻は限りなく寄り添うのですね。

入退院を繰り返しますが、大学職は失うことなく、やがて94年にノーベル経済学賞を受賞するのですが、最後まで統合失調症はジョン・ナッシュに付きまといました。しかし彼は離れないのですけれども、それと付き合う方法を学ぶのです。これが、今日の話に限るのです。

離れないのです。付きまとうのだけれども、付き合う方法を学ぶのです。それは意識して、統合失調症の妄想に出て来る人物を相手にして生きるのではなく、主が愛することに、愛し合うことにエネルギーを注いで生きる。妄想に振り回されない自分っていうものをなんとか確立するようになる。それには、妄想の中で自分を攻撃してくる相手と、一生懸命会話し何とかしようと思わずに、方向を変えて、自分に愛を傾けてくれる妻に気持ちを向けるようになる。

ノーベル賞の受賞スピーチはこういうものです。
「理性と論理の追求に私は生涯を費やした。それは理論と形而上学と時に瞑想的な世界での追求だ。しかし私が本当の理性と論理を発見したのは、愛という不思議な世界の中であった。」

彼が言いたいのは、彼の仕事上、数学ですが、理性と論理を追求するのです。それを研究室で瞑想的な世界で、形而上学と向き合いながら追及しても自分には無理だった。最終的には、愛という不思議な世界で、妻との会話の中で、自分は理性と論理の追求を果たしていく。これはとても現代の私たちを象徴している事柄ですし、モーセの生涯を見るとよくわかる。

彼は八十歳にして神に召され、人々をエジプトから連れ出した英雄である。でも人々は彼を英雄と思っていない。彼を待ち受けていたのは、人々の不平不満、人々の問題、それが妄想のように朝から晩まで彼の心に付きまとう、人々の声。モーセを襲ったのは単なる肉体的な疲労だけではない。それは精神的な疲労でありました。
いったい何がモーセを、そして私たちを支えているのか。この分裂的な生涯にあって、何が私たちを支えているのかというのは、それは「私の心に注がれた神の愛」それ以外にない。

いろんなことがあるでしょう。いきなり辞令がおりて、会社で厳しい。いきなり病院から検査の結果が来たら、自分の計画が全部崩れていく。それぐらいだったら単純です。あなたはいろんなことを言われる。自分の職場にはこの問題がある。自分の家族はこういう状況で、実際これは夢ではなく現実なのですけれども、そこにばっかり気持ちを集中して私たちは生きています。そうすると、人生の生きる意味も幸いも失っていくのです。

私たちを愛してくださる神に、そして私たちを愛してくださる家族に集中して、この荒野の人生を歩んで行ったら、私たちはこの荒野と付き合う方法を見い出す。荒野は私たちから取り去られない。でもそれとなんとか付き合う方法を私たちは学んで行く訳です。

ナッシュが理性を愛の不思議な世界で見出したように、私たちも生きる意味も生きる幸いも神の愛の中に見出します。たとえ私たちの人生が精神病棟のように苦悩に満ちたものであっても、神の愛は私から離れることはない。

モーセは祈りました。聖霊は皆に注がれる。私だけでなく、長老七十人だけでなく、皆に注がれたらいいのに――それがペンテコステ(の祈りです)。皆でなく、先ず私に注いでください。そしてぐるぐる回りの分裂した人生の中心はあなた(神さま)であり、なるべくあなたの愛に目を注ぎながら、さまざまな人生の問題課題と格闘することができるように、私を導いてください。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、耳を傾け出したら、本当に私たちの人生をかきむしり、私たちの幸せ感を一挙に消し去るような問題課題ばかりであります。いったい荒野にあって、どこに目を向けて歩んでいるのだろうかと考えさせられます。

主よ、どうかあなたに目を向けることができますように。あなたに目を向ける時、あなたを離れて平気で生きて来た自分の愚かさが分かりますし、すべての解決はあなたにだけあることが分かりますし、またあなたはどんな時でも私を愛してくださり、天国の子どもとしてくださることを私たちは確信できます。ですからもっともっと、あなたに集中するときを私たちにお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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