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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/24 神の人モーセ(21)十戒(1) 
6/24 神の人モーセ(21)十戒(1) 

☆始めのお祈り

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
(この日の交読詩篇116篇より2節)

恵み深い天の父なる神さま、一週間の歩みをあなたが守ってくださり、今日このようにして愛する兄弟姉妹と、また今日初めてこの教会にいらっしゃった方々と、ともに礼拝を捧げる恵みを心から感謝致します。

あなたの完全な平安は真昼にきらめく川のように、深さ広さを増してゆく、私の心を満たしてゆくと、(***秋田より上京された横溝眞理兄の独唱、イ讃美歌490番「神のまたき安けさは」の1節を引用)賛美を聴きました。

あなたの平安が深さ広さを増していただかなければ、私の心はこの隅から隅まで満たされることはないでしょう。それほど私たちが抱えている問題は、たとえ小さな事であっても深刻であり、私たちは簡単に、心配や思い煩いや苦悩や悲しみに閉じ込められていくのです。
どうかそれらの力を圧倒するほどの真昼に輝く川のように、深さ広さを増しながら、あなたの平安が私の心に、私の人生に、私の仕事に、私の家族に、私の一生に満ち溢れていくことができるように、主よ、この礼拝を祝福してください。

この世界に生きておりますと、沢山の嫌なことを目にし、耳にし、私たちの人生がいかに小さな土台の上に載っているかを考えさせられますが、礼拝に来ますと、私たちは全能者である神をわが住まいとし、天国を目指して生きている、あなたに愛された尊い一人の人間であるということを自覚します。
どうか自分の小ささに絶望することがありませんように。どうか自分の罪深さに打ちひしがれることがありませんように。それらをすべて包み込んで私たちを生かしてくださっている、主の恵みに感謝することができますように助けてください。

新しい週に、より大きな課題を背負っておられる方々もおられるでしょう。どうか、その方の健康を祝福してくださり、その気持ちを強くしてください。
祈られてましたように、さまざまな用件で、特に私たちは、ご高齢であるがゆえに礼拝にいらっしゃることのできない愛する方々を覚えますが、同じ恵みをもって届いてください。

しばらく聖書のみことばに耳を傾けますが、私たちの心の目を開いてあなたの真理を見ることができますように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所       出エジプト20:1〜6

1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
 2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

☆説教      十戒(1)

「神の人モーセ」というシリーズで学んでおりまして、今日は21回目。
前回は19章を見ていただきました。19章で特にクライマックスに入ったところ、ちょっと4節から見ていただきたいと思います。

4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

イスラエルの民は神さまの背に載せられて、そして神さまのもとに連れて来られました。
私たちもそうです。

5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

神さまは私たちをご自身の宝とするために、私たちに契約を結ぼうと手を差し伸べておられました。イスラエルの人々はその契約に答えました。

まだまだ映画の世界でコンピュータ・グラフィックスもなかった時代、「十戒」という映画がありました。チャールトン・ヘストンがモーセを演じ、ユル・ブリンナーがエジプトのパロ王を演じました。
昔観た方も、今もTSUTAYAでDVDを借りてきて観ることができますが、やっぱり一番の見所は、モーセが紅海を前に、神の杖を右手に差し伸ばしたところ、海の水が二つに割れて、立ち上がり、そそり立つところではないかと思います。
皆さんが今、その昔の映画を借りてきたDVDで観ますと、海が二つに割れている場面、その真ん中にモーセが手を挙げている場面がケースのジャケットになっています。

だったら、この映画のタイトルは「出エジプト」にすればよいのに、と思います。
神の人モーセの数奇な生い立ちから、やがて遊牧民となり、八十才にして神に召されて、イスラエルの民を代表して、心かたくななエジプトの王と何度も交渉し、やがて彼らを率いて、エジプトを脱出する、まさにその出エジプトだけで、映画は立派に成り立ちます。
しかし、映画のタイトルは「十戒」です。そこにとても意味があると思いますし、そのことを前回学びました。

出エジプト記というのは40章ありますが、この20章でクライマックスに入ります。つまり奴隷とされていたエジプトから解放され、荒野をさ迷い、とうとうこのシナイという山で神の民となる、つまり神と契約を結ぶ、そのことを出エジプト記は記そうとしています。
          
神さまはご自身の翼に載せて、イスラエルの民をエジプトから脱出させました。海を前にそれを二つに分けて渡らせ、荒野にあっては岩から水を湧き出させ、天からマナを降らせて彼らを養いました。

しかし、そのクライマックスというのは単にエジプトからの救いではありませんでした。救い出したイスラエルを、救い出した私たちをご自身の宝とするために、神さまはおっしゃいました。わたしのものになりなさい、わたしの民になりなさい、と招いてくださいました。
つまり、救い出したイスラエルと、また私たちと契約を結んで――ですから旧約聖書・新約聖書と“契約”ということばが入るわけですけれども――私たちをご自身の宝とする、それこそが聖書のクライマックスです。
わたしの宝物となりなさい、あなたを大切にする、わたしの愛に応えて生きるものとなりなさい――その招きに対して、イスラエルの民は実に素直に応答しました。

そうして、この20章の十戒が始まっていきます。
ここに神の民となったイスラエルに、そして私たちにふさわしい生き方が教えられています。

「十戒」とは10項目に及ぶ「〜すべからず」で、あなたがたはこうしてはいけない、ああしてはいけない(という規定)、でもそれは単純に善悪を教える神の戒めではありませんでした。
これこそが、神の救いにあずかり、神の民として生きる基準で、ここに救いの恵みがぎゅっと凝縮されていると言っても過言ではありません。

今日は、その第一戒目で、3節「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」です。これが十戒の第一番目です。これを3つのポイントで簡単に学んでいきたいと思います。

1)他の神々があってはならない

『鰯の頭も信心から』というほど、日本人は信心深いと言われています。もちろん、特定の宗教に属していないという人は圧倒的に多いと思います。すっかり自分は無宗教的に生きているという人も圧倒的に多いと思います。
それでも初詣には行きますし、それでも結婚式はキリスト教で致しますし、それでも死んだらお坊さんにお経を上げてもらいますし、何とも奇妙な生き方をしているのが日本人なのかもしれません。

でも言えることは、人はいやしがたいほど宗教的だと言うこと。それは、聖書が繰り返し繰り返し教えていることです。自分には宗教はないと言うかもしれません。いやいや、人は癒し難いほど宗教的だ、と。

ロマ書(***1章後半)を見ますと、天地万物を創造された神から目を背けた人々は、今度は神を人の形に変え、動物の形に変えて、偶像を刻んでそれを拝むようになったと記されています。天地万物の創造主なる神、目に見えない神から目を背けると、人は今度は目に見える対象を拝むようになります。

別に古代の話だけではありません。たとえばヨーロッパの至る所で、キリスト教会とその弊害が及んでいた頃、1789年にフランス革命が始まります。フランス革命はキリスト教に対する反発でもありました。そこでキリスト教会の礼拝を撤廃します。
でも皆さんも知っておられるように、ノートルダムの寺院はまだそこにあります。
彼らはそこに、自由と理性と合理主義の女神を作って、そこで毎週礼拝を捧げることをフランス革命派の人々は強要致します。

不思議なものです。キリスト教を止めるなら、そこに女神を置いて礼拝すればいいじゃないかと(いう論理ですから)。つまり、無神論か有神論かではなく、天地万物の創造主である神を拝むか、それとも自分の都合を叶えてくれそうな、人間が作り上げた神々を拝むか、あるいは自分の掲げている理想や理念を拝むか、人は何かを拝まずにはいられない、それほど弱い存在だというのです。

マルチン・ルターの有名な言葉で、「ですから、心がしがみつくものは何であったとしても、あなたの心が依り頼むものが何であったとしても、それがまさにあなたの神です」と言われれば、時に人は自分自身を神とします。
心がしがみつくもの、依り頼むもの、この「もの」は、人生のさまざまな選択の助けとなり、また人生の動力となる価値観を与えてくれる。それは、私たちの人生の決定要因となり、私たちは、徐々に、無意識のうちに自分が崇拝する神のように変えられていきます。

私たちはいったい何を信じているのか?人によってはそれが自分の業績であり、自分の教育であり、あるいは財産であり、自分の築き上げて来たものである。時によってはそれが権力であり、あるいは性的なものである。聖書には無神論というものはない。人は必ず、何かを神として生きると教えています。

南ドイツやオーストリアでは、キリストの最後の一週間――つまり棕櫚の聖日から始まってイースターに至るまで――舞台で演じる受難劇というものがあります。日本ではない、アメリカでもないのですが、ドイツ(やオーストリア)特有です。
中でも有名なのがミュンヘンの近く、人口五千人のオーバーアマガウという村の受難劇です。10年に一度、村を挙げて受難劇に取り組みます。2年ぐらい前がその年だったと思います。その年になると、日本の旅行社も企画して受難劇を見に行きます。

アメリカのクリスチャン・ドラマの分野で開拓者的存在であったハロルド・エーレンスペーガーという人物がいます。
彼は、宗教ドラマの実感を体験したいとオーバーアマガウを訪ねます。彼は、劇がどういう風に創られているのか、自分の目で見ながら、敬虔なルター派の家庭に滞在しました。そこに青年がいます。

受難劇の俳優たちは、村人から選ばれます。ドラマの監督は人々をよく観察して、その人の人柄と最も類似していると思われる新約聖書のキャラクターを選びます。ユダに選ばれる人は(笑)どういう……。

エーレンスペーガーが滞在した家に、ヨハンという名の十代の青年がいました。ある日、この敬虔な少年は、先生に話をしたそうです。
「大きくなったら受難物語でヨハネの役をもらいたいな。なぜなら自分は(ヨハネと同じ)ヨハンという名前だから」――彼が言いました――「ぼくは、イエス・キリストの役を演じるような、そういう立派な人間にはなれないよ。でも、一生懸命がんばって、ヨハネが愛したようにイエスさまを愛するようになれれば、もしかしたら弟子ヨハネに選ばれるかもしれない」

エーレンスペーガーとヨハンは友だちになりました。彼がアメリカに帰ってからも、数年間文通が続いたそうです。
それから大きな変化がドイツに起こります。ヒットラーが権力を握り、国の若者は、この「新しいメシア」に従い始めました。
ヨハンの手紙もまばらになり、とうとう途絶えてしまいます。

ある日、一通の手紙が届きました。それは1933年10月、ポーランドの消印でした。
彼は喜んで封筒を開けるものの、中に手紙はありません。代わりに、ドイツの新聞の切り抜きが入っていました。大きな写真が載せられています。写真の中央で、笑顔で勝利に酔っているのは、手を高く挙げ、側近に囲まれたヒットラーです。
     
エーレンスペーガーは、写真をじっと見つめました。
「あり得ない……。でも、確かにそうだ」
疑いはありませんでした。ヒットラーの隣りに立っていたのはあのヨハンでした。背の高く成長したハンサムな青年でした。そして親衛隊の制服を着ていました。

エーレンスペーガーは、その写真をじっと見て、それからペンを取り、写真のヒットラーに矢印を付けて、英語で「イエス・キリスト」と書きました。
そしてもう一つの矢印をヨハンに付け、同じく英語で「彼の愛する弟子ヨハネ」と書きました。
            
どんな神々を信じるかで、人生が変わって来ます。そして、私たちは何かを必ず拝んでいます。何かに必ず頼っています。でも何に頼るかによって、私たちの人生は、生と死ほどの違いを生み出しています。ですから、十戒の第一は明快で、神さまはイスラエルの民におっしゃった。「わたしは、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:2〜3)ですから、私たちはとても気をつけなければいけない。

すると、自動的に2番目の課題が私たちに上がって来ます。それは――神を、生けるまことの神を、本当に神としているのだろうか。

2)本当に神を神としているのだろうか

キリスト教のさまざまな宗派(教派?)には、いろいろなフレーズ、代表するフレーズがありますが、ルター派を代表するようなフレーズがあるとすると、「神の前に」ラテン語で、……と言いますが、それが一つだと思いますが、もう一つは「神を神とする」というのが、ルター派の代表的なフレーズだと僕は思います。

「神を神とする」というのは、どういうことですか?ルターによれば自分の力で自分を義としようとしないこと。
私たちはいろんな意味で、「自分を正しくしよう、自分が神の前に立つことができるように、自分の努力で自分を義としよう」と思い、そしてできないと悩みます。

教会に来て、「自分で自分を義とすることはできない。ただ十字架のみによって、あなたは義とされる」ということを教わりますけれども、しかしどこかでまぁ「自己義」と言いますが、自分の義をもって胸を張り、自分の義をもって下を向くという、出来ない自分に嘆き、出来た自分に誇りというのが、人生に付きまとって行く。

ですから、ルターがどこまでもキリスト者は神を「神」としなければいけないと言うのは、あなたは自分を救うという仕事は神にしかできないということです。ですから、自分の情けなさに嘆くな、自分が立派になったから(と言って)自分を誇るな(と言っているのです)。
私は私の救い主イエス・キリストを、そして父なる神を、聖霊を、本当の意味で私の人生の「神」、私の「神」としているだろうか。何かあった時に真っ先に神に祈っているだろうか。

私たちは、しばしばまことの神さまと出会ったにもかかわらず、神を神として王座に迎えず、心においても生活においても神を端っこの方に留めて生きている、というのは誠にあり得ることです。
              
イエスさまはおっしゃいました。
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」(マタイ6:24、ルカ16:13)
そのとき、イエスさまが考えておられたのは、神と富です。人は神という主人と富という主人の両方に仕えることはできない。

しかしながら、私たちは何度も試みるのです。きっと二人に仕えることができるに違いないと。ですから仕事に仕え、神に仕える、人に仕え、神に仕える。理念に仕え、神に仕える。きっとできるに違いない(と思うものですが)、でもイエスさまは明確におっしゃった。――人はだれでも、ふたりの主人に仕えることはできない。主人は一人であるべきだ。

音楽を神とする人もいます。自分の仕事に仕える人もいます。天地の創造主である神を引き出しの中にしまって、必要な時だけ神の力を借りようとして、まるで、アラジンの魔法のランプのように、必要な時だけ神さまを取り出している。

前にお話したことがあります。スコットランドの新聞でキリスト教会が広告を出した。ページをめくって行きますとね、最初のページには「次のページを見てください」と大きな字で書いてある。めくってみると、次のページには何にもない。真っ白なのです。よ〜く見ると、一番下の端に一文書いてある。「あなたはまさか神をこのようなところに置いてはいないでしょうね」(笑)という一文がある。

キリスト者であれば、だれでもドキッとするでしょうね。「次のページを見てください」と、自分の心の中を見ますよね、神さま、神さまって言いながら、本当にページの端っこの方に神さまを置いて生きているのが、往々にして私たちなのです。そう思いますと、3節を見ていただきますと――あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

恐らく多くのクリスチャンにとって、神と呼べるのは、父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神だけだと言うでしょう。しかし本当に私たちは、この三位一体なる神を自分の「神」としているのかと問われたら、これはまた別の次元の問題である。
神さまはご自身の宝とされたイスラエルの民に、また私たちの民におっしゃいます――わたしを神とするというのは、あなたの一生の課題であり、またあなたの毎日の課題であると。

私たちの人生には沢山の課題があって、そして神さまのもとに祈りにいきます。でも祈りに来た時に、神さまは私たちの祈りに耳を傾けながら、小声で私たちの耳にささやいてくださる――わたしを本当にあなたの「神」としているのかと。

3)神を神とする時に、神さまは私たちを祝福してくださる

ちょっと6節を見てください。(出エジプト20章の)5節6節を交互に読みましょう。

5それら(偶像ですね)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

5節6節は対称になっていますね。
5節は偶像を拝むような者であるならば、わたしはその罪を子に報いるよ。それが三代、四代、災いが及ぶだろうと。
でも6節を見てください。わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すと。

ねぇ皆さん、千代って、考えます? 私は考えないですね。千代経ったら、地球は無くなっているだろう(笑)というのが、普通の発想でしょうし、クリスチャンであれば、千代経ったら、キリストの再臨に会うだろうと思いますでしょうが、千代先のことまで考えないですよ。せめて二代、健康で頑張れば三代先まで見れるかもしれない。三代先まで会えたら、私たちは幸福ですよ。明日の自分でさえ解らない私たちが(笑)、どうして見るかなぁと(思いますね)。

明らかに誇張表現だろうと思いますけれども、なぜそれほどまでに神さまは誇張するのか、祝福をそこまで大きく約束されるのか、どうしてそれほどまで私たちの信仰を整えてくださるのか? それは神さまは私たちを宝としているからです。そこまで私たちのことを大切にしておられるから、私たちが神さまに忠実である時に、神さまは喜んでくださる。

私たちはキリストの十字架にあって罪と死の奴隷から買い取られ、永遠の契約で結ばれ、神さまの宝となった。その宝となった私たちが神を神とする時に、本当の神とする時に、あまりにも喜んで、わたしの祝福はあなただけではない、千代にまで至るほどあなたを祝福すると、もう神さまの内側から喜びが溢れんばかりに私たちを祝福してくださる。

ある日ある所で、少年が小さなおもちゃのヨットを一生懸命に作りました。毎日夕方になると、公園に持って行って、池に浮かばせて遊んでいました。風が吹くと、水の上をさっそうとヨットが進んでいくのを自慢げに見ていました。彼はヨットに糸を結んでおいて、上手に誘導していました。

ところがある日、ヨットが池の向こうの方に行ってしまったところで、糸が外れてしまいました。ヨットは戻って来ませんでした。彼は急いで池に入ってズボンまでぬらして探しましたがそれ以上は無理でした。がっくり肩を落として家に帰って来ました。
「二度と、あのヨットはもう僕のところには帰って来ない」
悲しくて 顔は曇っていました。

ところが2週間後に、彼が町を歩いていると、中古ショップの店先にそのヨットが売られているのです(笑)。彼は店の中に入って、おじさんに言いました。
「これは、ぼくのヨットだよ。ぼくが作ったんだ」
おじさんは、眉をひそめて言いました。
「そうかい。以前はそうだったかも知れない。でも今は、そうじゃないんだよ(笑)。2千円で買うかい?」

「2千円!」
少年には大金でした。少年は店を出て、うろうろしながら、じーっとそのヨットを見ています。おじさんが出て来て言いました。
「少し店の手伝いをしないか? 毎週土曜日に店にやって来て、店の床を拭くだけでいいよ。1カ月したら、4回土曜日が過ぎたら、ヨットは君のものだよ」

少年は、毎週土曜日になりますと、腕まくりをして店の床をモップがけしました。一ヶ月後、とうとうヨットを自分のものに戻しました。
少年は、嬉しそうにヨットに言いました。
「もう、絶対に放さないからな。おまえは、僕のものだ。
これで二回目だよ。最初はおまえを作り、今はおまえを買い戻した。僕のものだよ」

ヨットは、絶対的に少年のものでした。少年は嬉しくて嬉しくて仕方がないのです。

神さまは嬉しく嬉しくて仕方がないのです。私たちをお造りになり、やがて私たちは風に吹かれてどこか遠いところに行き、神さまは御子イエス・キリストを十字架に掛け、私たちを買い戻してくださった。嬉しくて嬉しくてしようがない。
「わたしはあなたを罪と死の奴隷から救い出しただけではない。あなたはそもそもわたしのもので、わたしはあなたを買い戻した。わたしは2度とあなたを離さない」(と言われる神さまは)、その嬉しさのあまりにおっしゃる――あなたはわたしの宝だ。わたしだけを神としなさい。その時わたしは、千代に至るまであなたを祝福する。

神さまはどれほど喜んで私たちを祝福してくださることか。これから先あと9回、「〜してはならない」がありますが、私たちは前回学びました。
契約の論理を頭から取っ払ってしまいますと、どこかで自分中心の心がいっぱい入って来ます。
神さまは私たちをご自身の背に載せて運んでくださった。神さまは私たちを救い出すだけではなくして、契約を結んで宝とされた。
でもそれは単純に私たち自身を祝福するためだけではなく、私たちを祭司の王国として、私たちの周囲に恵みが及ぶことができるように、私たちに祝福を与えてくださった。

という論理が解らなくなってしまったら、教会は成り立たないし、クリスチャンは訳の分からない世界に迷い込んで行く。私たちはこの契約の論理をもって、十戒を学んで行きたい。

神さまはどうしてそんなに私たちにこだわるのか。それは神さまが私たちをお造りになり、私たちのためにいのちを掛けてお救いになった。私たちはその論理が解らないから、いつまでたっても神さまをいい加減に扱うのです。

十戒を学んで行くうちに、どこか私たちの心に響いてくる神さまの声がある。それが、「わたしを尊ぶものをわたしは尊ぶ。わたしをさげすむ者をわたしは軽んじる」というあのTサムエル記(2:30)の神さまのことば(であり、それ)をどこかで心に受けとめたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今日の恵みを心から感謝致します。

自分では解っていなかったかもしれません。でもあなたは私を翼に載せて運んで来てくださいました。自分ではわかっていなかったかもしれません。でもあなたは私を創造してくださった方です。自分ではよくわからないかもしれません。でもあなたは私の罪を赦し、天国の国民とするために、神の国を相続する神の子どもとするために、あなたは十字架にかかり、私を贖ってくださいました。

主よ、どうか私にそのことを悟らせてください。心の底から、神の子どもとされたこの特権を味わうことができますように。そして一歩でも二歩でも信仰に前進して、神の子どもらしく生きることを私たちに許してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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DATE: 2012.06.26 - 20:59
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