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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/1献児式、聖さん式礼拝  キリストは私たちのために祈られる
7/1献児式、聖さん式礼拝  キリストは私たちのために祈られる

☆献児式  山本智花(ともか)ちゃん、山本結花(ゆいか)ちゃん

●イ讃美歌157番を賛美  マルコ10:13〜14朗読  祝福のお祈り 
●山本龍之介兄・あや姉から一言ご挨拶
今日献児式をしていただいたことを、家族一同感謝しています。智香は2006年6月6日生まれ、ちょうど6歳になり、来年から小学生になるというほど、もう大分大きくなりました。結花は昨年2011年の12月23日に生まれまして、ちょうど6カ月を超えました。6カ月を超えた2―3日位前なんですけれども、初めていきなり風邪を引きまして(笑)、でも昨日位からまたちゃんと元気になりまして、今日をちゃんとこうして迎えることができたことを本当に感謝したいと思います。まだ小さくてちょろちょろして、特に大丈夫だね?(と智香ちゃんの顔を見るお父さんに一同笑)、これから結花の方が激しくなってくると思うんですが、皆さんに温かく見守って頂ければと思います。これからもどうぞよろしくお願い致します。本日はありがとうございました。(大きな拍手)

☆お知らせ

●今年の林間聖会は7/31(火)〜8/2(木)、例年と同じ富士箱根ランドで開催。ホールの掲示板に参加される方は名前を記入のこと。(HP掲示板と聖日説教に詳細のPDFがあります。)
●上半期感謝献金にお加わりください。6/17〜7/15まで。袋は週報台や会堂後ろの献金箱の上にあります。
●お祈りいただきましてありがとうございました。直樹(***藤本家ご長男)のところに男の子(二男)が生まれました。昨日退院したようですが、なお、一日一日成長していくことができるようにお祈りください。8月には転勤になり、出産、引っ越しが一緒になってしまいましたので、お祈りに覚えてください。
●イギリスのM兄姉のところからお手紙がきました。――藤本牧師が読み上げられて、Hちゃん、Kちゃんともに元気に現地の別々の小学校に通っている。6月中旬から日本人の男の子が同じクラスに入って来て、鷺沼に住んでいたと聞いてとても驚いた。彼がクラスメートになってからはKちゃんは学校生活を楽しめるようになった。Hちゃんは、自転車で15分の小学校に通っていて、最近女子サッカー・チームに入った。英語もルールもわからなくても、日本にいる頃ばあば(Y姉)に教わったから大丈夫と自信満々。M姉は週2―3回さまざまなバイブルクラスに通っている。(***要約)
主人は、というのは割愛致します(大笑)。M兄はケンブリッジに住んでいましたから、ケンブリッジ大学の博士号を取るために7年いましたので、ご主人が一番元気だと思いますが、どうか特にお子さんたち、Hちゃんは元気ですけれども、(通学が)自転車で15分、小学校2年、今3年になったところでしょうかね、ちょっと私たち祈らなければいけないなぁということを覚えていただきたいと思います。日本人のクリスチャンとの交わりも豊かにあるようですので、とても感謝です。

●先月の婦人会にボリビア派遣宣教師の三森先生たちが来てくださいましたが、今帰国途上のアメリカにいらっしゃいます。ボリビアの福音センターが放火される事件がありました。今警察がストライキ、(ほぅと驚きの声)、警察がストライキでどうしようもない。番犬がいるんですけれども、番犬をもう1匹2匹増やすかと考えているとか。政情が不安定ですからお祈りに覚えていただきたいと思います。

☆始めのお祈り

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。
(この日の交読イザヤ書44:1〜8より3〜4節)

恵み深い天の父なる神さま、私たちは自分の人生の始めも終わりもわかりません。ましてこの世界の始めも終わりも想像することさえできません。明日のことさえわからない私たちは、ただ一心に「わたしは初めであり、終わりである」(黙示録22:13、イザヤ44:6)というこの歴史、創造、人のいのち、世界の流れ、すべてを握っておられるあなたに信頼してこの年を始め、半年間守っていただいたことを心から感謝致します。

あなたは宇宙の…でも力でもなく、私たちは父としてあなたを呼ぶことを許していただき、私たちの潤いのない日常に、かわいた心に豊かないのちの流れを注いでくださり、私たちを強め励ましてくださる恵みを感謝致します。いつも流れのほとりに自分自身を植えることができるように、「流れのほとりの柳の木のように青草の間に芽ばえる」(イザヤ44:4)とありますが、さまざまな試練の風に、柳の木のようにしなやかに、柔軟に、力強く耐える力を私たちに授けてください。

今日献児式を行われたご家族の上に豊かな恵みがありますように。また特別に、今日初めてこの教会に来られた方々に、あなたが今週豊かな恵みを注ぎ、この聖なる空間に聖なる時間を過ごすことのできた祝福を授けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所      ヨハネ17:16〜24

16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
18あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
19わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

☆説教 

ヨハネの福音書の17章を今日は見ていただきましょう。初めて聖書を開かれる方にとってはちょっと難しいと思いますが、しかし聖書に沿ってお話をしますので……。読んでいただきました聖書の個所はイエス・キリストが十字架にかかる前の晩、弟子たちと最後の晩餐をともにして、その中でイエスは弟子たちにさまざまなことを教え、最後の晩に17章で弟子のために祈られたイエスのことばが記されています。祈りのことばそのものです。

最後の晩餐というのは、イエス・キリストや弟子たちには、それはイスラエル人にとっての過ぎ越しの食事でありました。過ぎ越しの食事については、今ずっと礼拝で「神の人モーセ」のシリーズを学んでいますが、もう一度復習しますと、モーセは奴隷となってエジプトに囚われていたイスラエルの人々を解放するために、エジプトの王と何度も交渉します。奇跡、災いをもって交渉します。災いに遭っては解放すると約束し、しばらくすると心をひるがえすエジプトの王に、神さまはとうとう決定的な災いを下され、それは死でありました。

出エジプト記の12章の12節(〜13節前半)に神さまはこうおっしゃっています—―その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子(ういご)を打ち、(また、エジプトのすべての神々に)さばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。

エジプト人の家庭が裁かれるのに、イスラエルの人々の家は裁かれませんでした。どうして死の裁きが過ぎ越して行ったのか? それは一歳になる子羊の血がその門柱に塗られていたからです。その血を見た時に、裁きは過ぎ越して行きました。

この時から――今から3500年ぐらい前から――イスラエルの人々は毎年、過ぎ越しの祭りを祝って神の救いを記念して来ました。

モーセから約1500年経過した過ぎ越しの祭りの晩、イエスは弟子たちと一緒に食事を取られたというのが共観福音書(***ヨハネの前の3つの福音書)の出来事です。そしてそれがイコール最後の晩餐となったわけですが、明日十字架にかかることを意識された主は、過ぎ越しの祭りの食事に出されたぶどう酒とパンを弟子たちに渡されておっしゃいました――このぶどう酒は明日十字架で流されるわたしの血だ。このパンは明日十字架で裂かれるわたしのからだだ。わたしを信じて、この杯とパンにあずかる者の上を、罪に対する死の裁きが過ぎ越して行く。(***マタイ26:26〜28、マルコ14:22〜24、ルカ22:17〜20参照)

私たちの教会では年に4回聖餐式を行います。今日は、その聖餐式を行うという特別な礼拝でありますので、後にそれがやってまいります。
「わたしを信じて杯(さかずき)とパンにあずかる者の上を、罪に対する死の裁きが過ぎ越して行く」(と弟子たちにおっしゃって、)それから主は祈られました。それが長〜いこのヨハネの福音書17章全体に及ぶ祈りです。どんなことを祈られたのか、簡単に3つ(4つ?)お話をしたいと思います。

1)世から聖め別ってください

17章の17節をご一緒に読んでみましょう。

17真理によって彼らを聖め別って(きよめわかって)ください。あなたのみことばは真理です。

聖め別つというのは、何かから別たれるのです。イエスさまが弟子たちを指して、彼らを聖め別ってください(、と父なる神さまに祈られたのは、)どこから聖め別たれるのか? それは、世からです。6節(16節?)から始まって、世(***ギリシャ語でコスモス)ということばが8回出て来ます。別に全部読む必要はありませんが、もし時間があれば後ほど見てください。
世の中の価値観に振り回されず、世の中が下す評価に心を奪われず、世の中の声に振り回されず、世を主人とせず、世から聖め別たれ、神を主人として生きていくことができますようにというイエスの祈りです。
世という時に、あるいは自分が聖め別たれなければいけない世という時、それは一人ひとりによって違うのです。

カトリックの司祭ヘンリー・ナウエンは、信仰者が戦うべき世がある(と言ってこんなことを記しています)。その世はしつこく私の耳もとでささやく。追い払っても追い払っても、世の声が私の心の中に入ってくる。その世の声というのは、「おまえなど大したことはない。自分をあの人に比べて見ろ。おまえは本当に優秀か、本当に必要とされているのか、本当にできるのか、人気があるのか、友だちは、先生は、お父さんやお母さんはおまえを本当にどう思っているのか、お荷物か、厄介者か」という声を、世はいつも私たちの耳に届ける。

そうして私たちは、しばらくすると、この世に仕えるようになる。人の目を気にし、人の評価ばかりを考え、周囲の評判に心を奪われ、人の声を恐れ、自分を見失っていく。

そういう世から聖め、別たれますようにという祈りをイエス・キリストは捧げられました。しかも、その時に17節に、「みことばは真理です。この真理によって(彼らを)聖め別ってください」というそのみことばは、例えば
*エレミヤ書の31章の3節に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」ということばがあります。あるいは
*イザヤ書の54章の10節に「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、……」ということばがあります。
人の評価が変わり、人の声が寂しく私たちの心を刺して来る時に、たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、そしてイエスさまは
*このヨハネの福音書の15章の9節で「わたしの愛の中にとどまりなさい」とおっしゃいました。

世の声から聖め別たれ、そして神の愛の中に留まり続けることができるようにと、イエスさまは私たちのために祈られた。私たちはこうしてみことばによって力づけられ、世から聖別されていきます。世から聖別される、その世というのは、私たち一人ひとりにとって意味するところは違うでしょう。

半年を振り返って聖さんにあずかる時に、イエスさまは私たちに教えてくださると思います。それは私たちの外にあり、自分の内側にある世が何であるのか? それが欲である場合がある。それが人に対する恨みである場合もある。その世が(自分にとって)何であるか?(を知ると、聖別は自分の外で起こるものであり、イエスさまだけにしていただくことができるものと分かります)。

2)23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。……

まぁ前後は省略しましたので、全うされて一つになることができますように、というお祈りを主は聖さんの後に捧げられました。「全うされて一つになる」というのは、欄外の別訳を見ますと、「一致の中に完成される」(という意味です)。イエスさまは私たちが一つになるということに集中して祈られました。それだけ私たちには、一つになれない原因が沢山あるのです。

なぜ私たちは一つになれないのか? 例えば皆背景が違います。性格も違います。問題意識も、問題のとらえ方、物事の見方も違います。でも一つになれない根本的な問題はそういうことではありませんでした。

この過ぎ越しの食事に着こうとした時に、食卓に座る前に、誰も人の足を洗おうとはしませんでした。サンダルの泥足で貴い食卓には着かないのが過ぎ越しの食事です。でも足を洗うのは僕(しもべ)の仕事で、弟子たちは互いを意識して下の仕事は誰もやろうとしません。弟子たちは食卓を囲みながら、誰が一番偉いかという話をしていました。

ヨハネの福音書の前にルカの福音書がありますので、ちょっと見てください。ルカの福音書の22章の23節、とっても興味深い。食事の席でイエスさまが「十二弟子のひとりがわたしを裏切る」とおっしゃるのです。22章の23節、ちょっとご一緒に読んでみたいと思います。

ルカ22:23そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

食事の席でイエスが「この中の一人がわたしを裏切る」とおっしゃった時に、弟子たちは互いに「そんなことをするのは誰か?」と指を指し始めた。おまえか?おまえだろう! 

私は前に子どものメッセージで言ったことがあります。おまえか?おまえだろう!という指弾には、気を付けろと。一本の指で人を指さして責めるのですが、残りの三本は自分を向いている。私たちは平気で人を指さします。あの人がいなければ…、君がそういう考え方をするから…、君のせいで…、私たちはいつも人を指して人を責める。自分を忘れて人を責める。

教会に問題があるとすればそういうところかもしれません。そんな世界に霊的な力は全うされないのです。いつもばらばらに動き崩れていきます。彼らが一致の中で完成されるようにと、イエス・キリストが祈られているのは――人を指して人を責めてはいけない。人の弱さ、人の愚かさがあれば、むしろ自分の力をもってそれを被い(おおい)に行きなさい。それを覆ってあげなさい。まして人の弱さを暴露するような指の指し方は絶対にしてはいけない。

そして(今日のポイントの)3番目に24節、私は年間スケジュールの中で、1/1からこの17章の24節を7/1にお話したいとずーっと願って来ました。ちょっと24節を一緒に読んでみたいと思います。

24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

24節の一番初めはイエス・キリストは好きな神に祈っておられる――父よ。お願いします。祈りの3番目、それは24節の最後の文章です。――

3)わたしの栄光を彼らが見るようにさせてください。

(***ここで今日のポイントのおさらい)
キリストが聖さんの後に祈った祈り――@どうか彼らを世から聖め別ってください。Aどうか彼らを一致の中に完成させてください。B父よお願いします。わたしの栄光を彼らが見るようにさせてください。

地上にあって、様々な試練や困難にあって、キリストの栄光を見るような人になることができるように。
終わりの日には、こんな私も、キリストの栄光を着て、栄光に輝く、そんな姿を見ることができますように。

皆さんの聖書に挟んである(しおりの)今年の年頭のみことばは、元旦礼拝のときのみことばです。黙示録からみことばを引用しましたけれども、今日読んでいただいたイザヤの44章(6節)にも出て来ました。私たちが信じている神は「わたしは初めであり、終わりである」(と言われる)神です。

主イエス・キリストを信じて生きるということは、終わりに開眼しながら生きることだ、という話を元旦礼拝で致しました。
世界がどんどん難しくなっていく、そういう中で私たちはうめきます。自然界はうめき、肉体の弱さの中でうめき、仕事のむずかしさでうめき、日本は原発でうめきます。
しかし、私たちはうめきの中に埋もれず、いかなるものが提供する安全神話にもだまされず、だからと言って、世の終わりが近いに違いないという終わりの時代に翻弄されず、
ただ一心に、終わりの時を突き抜けて、キリストの栄光だけを目指して、天国の希望をもって生き抜いていくことだと。

私たちは不安の中にうめきます。思い煩ってうめきます。そして祈りがうめきになり、時に祈れば祈るほど不安になる場合もあります。自分の終わりがまだまだ先だと思いながら、いや明日かもしれないというのが人のいのちであるにもかかわらず、私たちは終わりを知らずに生きている。
逆に世の中が、世の終わりが近いと言われれば、なんとなくざわついて、毎日の仕事に手が付かない、そんなこともあるのかもしれません。
でもそうではない。事を終わらせるのはイエス・キリストで、私たちはそのお方の栄光を見ながらまっすぐ前を向いて生きている。
たとえ病に倒れ、たとえ迫害の中を進んでも、たとえ自分自身の足りなさと罪深さに打ちひしがれても、前を向いてキリストの栄光だけは見失わないようにする。


元旦礼拝の説教で、私はアメリカ文学の巨匠と称されるウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』を引用しました。もう一回引用させていただくことによって、思い出していただきたいのです。
小説が描いているのは、南部のミシシッピー州にあります、特権階級――大きなプランテーションをもっている――コンプソン家の子どもたちが破綻していく姿です。
長男は自殺します。長女は荒れ果てた生活をします。次男は金の亡者となります。

この三人の下に、知的障害を持つベンジャミンという男の子がいます。
彼がいつも言葉にならないうめき声を発しています。それが、この小説の主題となっている「響きとうめき」です。

フォークナーは、私たち人間が抱えている人生の矛盾、あるいはコンプソン家の顛末を、知的障害の末っ子ベンが、いつも発する意味のないうめき声に集約させているのです。
彼はこの世界を代表してうめいている。それは彼の人生だけではない、この世界とその中に住む者たちの「うめきと怒り」がこの中に響いている。
 
この家には、悲しみと醜さと苦悩に染まった子どもたちがいるだけではありません。
黒人奴隷の女ディルシーが、いろいろと世話をしています。
物語の最後の方で、ディルシーが世話をしているベンを、教会の礼拝に連れて行く場面が描かれています。

その日は、有名な説教者を招いての特別な礼拝でした。一見しますと、大したことのない素朴な男です。でも、だんだんと会衆の心を捕らえていきます。説教者のことばはこうです。

「私は、神の子羊、イエス・キリストを知っている。その血を信じている。私には、なにもかも一呑みにする大水が天国とこの世界の間を押し寄せてくるのが見えた。
 私には、暗闇と何代にもわたる永遠の詩が見えた。兄弟たちよ、罪人たちよ、私に何が見えると思うか。私にはイエスのよみがえりと栄光が見えた。優しいイエスが、『わたしが死んだのは、わたしが十字架にかかったのは、あなたがたが再び生きるためだ』とおっしゃるのが見える」

説教者が見ていたのは、この世の終わりだけではない。それを前にした壮絶な患難と混乱だけではない。彼には、それを超えて、イエス・キリストの栄光が見えていた。

人生の矛盾、この世界の闇、世の終わり、そんなことにうめいていたベンは、いつの間にか、うめくことをやめます。そして静か〜に礼拝の席に座っていました。
礼拝が終わります。
ディルシーは、帰り道、何度も言います。
「私は初めと、終わりを見た」

それは教会に来なければ見えないのです。
私たちには今日が見える、もしかしたら明日の一端は見えているかもしれない。でも私たちは自分の人生の終わりを見ることはできないし、この世界の終わりを見ることはない。
でも私たちが十字架を仰ぐ時に、(それを見ることができる)――私たちの罪のために十字架にお掛かりになり、死の裁きが私たちを過ぎ越して行く。そしてやがてこの方は復活の栄光をまとってこの世に再臨され、私たちも主の栄光の姿に変えられて行く――ということを見るために、私たちは礼拝に来るのです。

でも私たちにはそれがなかなか見えなくて、自分自身の問題課題に思い悩む。私たちは、キリストによって祈られている。なかなか見えないで私たちは思い悩む。

4)私たちはキリストによって祈られている

だからイエス・キリストは私たちのために祈っておられる――世から聖め別たれるように、一致の中で完成されるように、主イエス・キリストの栄光を見ることができるように。

これら3つはどのようにして私たちのものになるのか?もちろん、そういう自分をイメージして生きていくことは大切でしょう。
自分は何者であるのか少しでも明確にすることは大切ですし、私は世に仕えているのではない、私は神に仕えている。
私たちは互いに批判し合ってはならない、一つとなるために召されている。
主よ、この世界に振り回され、勝ったり負けたり、一喜一憂するのではなく、終わりを見せてください。あなたの栄光を見せてください。

そういう意識と努力を注ぎ込むことは大切です。でも鍵はそこにあるのではありません。鍵は、キリストの祈りにあります。主イエス・キリストは私たちのために祈ってくださる。
「彼らを聖め別ってください」(17節)
「彼らを全うして一つにしてください」(23節)
「父よ、お願いします。わたしの栄光を彼らが見るようにしてください。」(24節)

17章の20節を見てください。

20わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

というのは、祈りは最後の晩餐の弟子たちだけのためではなかった。祈りは今日を生きる私のためでもあった。
祈ってもらう、というのは大きな力づけです。

先日、私は久しぶりに皆さんにお話したような記憶があるし、もしかしたらそれを話したのは、他の教会だったのかもしれないという(笑)、ちょっと定かでないのですけれども……。

アメリカで論文を書いていた頃ですね、(昔ニュージャージー州に住んでおられた)山本兄姉はよく知っておられるのですが、フォートリ―という所に「ダ***」という日本人食料店があって、私はそこでミル貝を買って、一気に全部食べたのですね。子ども二人と家内は手を出しませんでしたが、私は平気平気と、ミル貝なんて珍しいと全部食べて、ものすごい食中毒になった(大笑)。これは、もう本当に死ぬんだと(思ったほどで)、救急車で大きな病院に運ばれ救急救命室に置かれ、意識も途切れ途切れになり苦しみました。

その時、若い医者が次から次へとやって来て、中川くんや黒川さんのような若い医者が(笑)やって来て、「珍しい患者がいる(大笑)。生の貝を食べて顛末はこうだみたいな(笑)。死にそうになっている日本人がいる」と、診に来るのです。
偶然にも、そこは大きな救急救命室で、友人とすれ違いました。友人が私を見つけたのです。彼は
「あれ、こんな所で何しているの?」(大笑)と、びっくりして訊きます。
私はもう全然応えられないし、声も出ない。

彼は、私がアシスタントで教えていた神学生でした。病院実習で、病院のチャプレンに今日は救急救命室に行って、そこに見舞いに来ている家族のために祈ってあげなさいと、言われて彼は来たらしい。そこで私を見つけたのです。

「どうしたんですか?」と訊く彼に、ほとんど応えることもできない私でしたが、彼は私の額に手を置いて祈ってくれました。聞き取ることもできなかったし、私は多分「アーメン」とも言わなかった。
          
いつもは、とっても優しい神学生で、私の目から見ると優しすぎるが故に、ちょっと弱気な心許ない(笑)神学生でしたが、その時は天の使いのように思えたことを、昨日のことのように思い出します。
自力で食中毒と戦えといわれても、力さえない自分に、イエスさまは、教会でもないこんな病院の一角に使いを送ってくださって、私のために祈ってくださいました。――きみは祈られている。イエス・キリストによって祈られている。(――これこそが大きな力づけでした。)

私自身も一つとなって完成されるように、私自身もこの世から聖め別たれるように、私自身もイエス・キリストの栄光を見ることができるように、毎日のように考え努力していますが、キリストの祈りがなければそれはできない。
いつの間にか、自分の抱えている問題課題に圧倒されて、終わりのことなど考えずに、今ある課題に全部を奪われて、一日が疲れ果てて終わって行く。
どうか教会に来た時に、初めであり終わりであるキリストの栄光を見ることによって、いつのまにか、自分の心の内にあったうめきが取り去られ、代わりに、私の心は平安で満ちることができたというような聖餐式でありますように(願っています)。
  
☆お祈り

父よ、お願いします。彼らを世から聖め別ってください(17節)。彼らを全うして一つにしてください(23節)。そしてわたしの願いを、わたしの栄光を彼らが見るようにしてください(24節)。

父なる神さま、御子イエス・キリストがこのように聖さんの卓において祈られた祈りは、今朝同じように聖餐式にあずかる私たちにも、同じことばをもって祈られていることを心から感謝いたします。
なかなかイエスさま、あなたの栄光を見ることができない私たちが、今日はまっすぐに十字架を見上げて、ありとあらゆる苦難や悲しみ、矛盾や挫折を通り越して見えて来る、あなたの栄光を見ることができるように、私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖餐式

(インマヌエル)讃美歌の393番(「しみもとがも」)を1節から3節まで賛美して、3節に入りましたら、配餐をしてくださる役員さんの方々は前に進み出てください。


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