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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/8 神の人モーセ(22)十戒(2)
7/8 神の人モーセ(22)十戒(2)

☆お知らせ
●昨日7/7に山本兄姉のところのEくんの結婚式がありました。その関係で今日は山本姉のお姉さまのT姉が九州から出席されています。(歓迎の拍手)
先日古い写真を見せていただいて(***アメリカで小学生のEくん、その頃圭子先生が教会学校のクラスの先生で一緒に写っておられる写真)、……洗礼から出発しましたので、それから30年経過したわけですけれども、私たちの人生にもまた山本さんの人生にも、神さまはそれぞれにしるしを与えてくださり、それぞれの中を通してくださり今があるということを本当に尊く感じました。

今度の土曜日7/14は田中兄姉のところの美穂さんの結婚式なのです。これはバリ島のお姉さんのところで行われます。私もぜひ司式にお呼びいただいたのですが、バリ島では国外から牧師を連れて来て結婚することはできないということですので、現地の先生が司式をしてくださいます。美穂さんは随分遠くに住んでいらっしゃいますので、なかなかいらっしゃることができませんが、田中さんおめでとうございます。(拍手。ありがとうございます)。ぜひ気をつけて行ってらっしゃってください。

●7/21(土)〜22(日)、また山本(真)姉のデイサービス・はなまると共同で、高津教会はいわきの内郷キリスト教会を通して、被災地を励ましたいと願っております。皆さんの中で、21日の夜、22日の日曜日といわきを訪問してもよい、ぜひ行ってみたいという方がいらっしゃいましたならば、ぜひコンタクト(***窪倉兄姉担当)を取っていただきたいと思います。

私たちの方針はいつも同じです。それは、内郷福音キリスト教会を通して支援をしたいけれども、内郷キリスト福音教会の方々にはなるべく迷惑をかけない。これをやってますと、支援しているのか、苦しめているのだか分からなくなってしまいます。できるだけチラシ配布にしろ、物資の運搬にしろ、炊き出しの時には炊き出しの人員にしろ、私たちの方で提供したい。そうでなければ、私たちは教会を通して支援することを止めなければいけないほど、教会の先生方の負担になってしまいます。

そんなことを覚えて協力してくださる方、なにかれができるわけでなく、しかし奉仕にかけては長けているという方、ぜひ現地を訪問していただきたいと思います。
また整体の方も来てくださるという風に聞いておりますから、よりこちらも盛況ではないかと思います。

●今日は青山学院から何人か初めての学生さんが見えています。(ご紹介と拍手)。わりと青学のシュウ先生という宣教師の先生が、積極的に私たちの教会に送り込んでくださいますので、今度シュウ先生を講壇にお招きしようと思って、お招きしたんですけれども、8月から宣教師報告でアメリカに帰らなければいけないということで、じゃあそれを明けて、来年よろしくお願いしますとお伝え致しました。

●石井兄は明日から抗がん剤の第3クールで帝京大学病院に入院されます。兄弟のためにはすべての集会でお祈りをしておりますけれども、暑さを乗り越えて体力をつけることができるようにいつもお祈りをしております。

●来週(15日)は私(藤本牧師)は七尾聖書教会へ出かけます。インマヌエル七尾教会は七尾聖書教会と合流致しました。そのご挨拶と共に、インマヌエルの方々を励ましてまいりたいと思っております。
講壇は6月に続いて黒川牧師が「内村鑑三と再臨」と題してしてくださり、加えて午後のフェローシップで講演を短くしてくださいます。前回はとても評判が高かったのですが、前回の続きでありますので、なおのこと皆さん楽しみにしておられると思います。

●現在上半期感謝献金を実施しております。教会では6月と12月に上半期、下半期の特別献金を募っております。ぜひ半年間の主の恵みを感謝してお加わりいただきたいと思います。

●今日は礼拝後に役員会がありますので、7月の予定で22日の役員会はなくなるということでご理解いただきたいと思います。

●先週教師会がありまして、7/29日(日・礼拝後)に「夏休み・子ども祭り」を致します。バーべキューをしたり、綿あめをしたりいろいろありますので、お子さんたちを連れて来られたり、お友だちを連れて来られたりぜひご協力ください。
また子どもたちに限っておりませんので、ちょっとお昼だけ参加してみようとか、そんなに時間はかかりませんので、ぜひお加わりいただきたいと思います。

☆洗礼式           前田信子姉

●賛美歌450番(「とうときわが主よ罪の身は」)

●洗礼式前の説明など

……そのキリスト教生涯、キリスト者の生涯の始まりである洗礼式には2つ意味がある。それは洗礼式で前田姉がなさることは、私が名前を読んだら「はい」と答えること、それと私がお祈りをしたら「アーメン」ということです。

イエスさまは私たちを十把一絡げに扱うことはありません。いつでも私たちの名前を呼んで私たちを導いてくださる。その時、たとえ試練の中であろうとも、あるいは苦しみの中であろうとも、私たちは「はい」とお返事をさせていただくことで、とても大切な素直な信仰を表わしてください。

もう一つは、「アーメン」というのは「その通り」という意味です。私たちは自分の気に入らないことに関しては「アーメン」と言いません。自分の願いどおりのことのみ「アーメン」という現実(がある)。しかし神さまが願っておられることは、たとえ試練の中であったとしても、たとえ苦しみの中であったとしても、わたしの恵みはその中にもあるんだよ(と言っておられます)。ですから、「アーメン」と言って進んでください。

そして洗礼式は古き自分に死に、新しく神に(よって)生まれ変わり、神に対して生きるという意味を持っています。私たちは一生涯、古い自分に死に、新しい自分に生きるというその姿勢を全うしていただきたいと思います。

●授洗と祝福のお祈り

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)

前田信子姉、私は、父と、子と、聖霊の名において、あなたにバプテスマを授けます。アーメン。

恵み深い天の父なる神さま、あなたは昨年の7月7日、前田姉が生涯をともにし、本当に愛して来られたご主人の(起成・たつなり)兄を天に召されました。長い間の介護の末のことであり、どれほど(前田姉は)悲しみに包まれ動揺されたことでございましょう。

しかしあなたは不思議にも、その葬儀を通して天国への目を開いてくださり、起成兄のご親族の方々が沢山クリスチャンだったがゆえに、(姉妹は)キリスト教に目覚め、それ以来一年かけて礼拝に出席され、朝の祈祷会に婦人会に、そしてさまざまな奉仕に当たって来られました。

私たちはすでに高津教会の教会家族として、姉妹を受け入れておりますけれども、今正式に(前田姉が)神の子どもとされ、罪を洗いきよめられ、この洗礼をもって天国に国籍を置くその市民となり、世界にあって愛する兄弟姉妹の交わりの中に加えられるということを心より感謝いたします。

今日のこの日、地上にあっては高津教会全員が喜び、天上にあっては天の御使いを含めてみな喜んでおりますけれども、一番喜んでおられるのは、父なる神のためにいのちをお捨てになった主イエス・キリストと、やがての再会の時を待ち望みながら、今日のこの日までずっと祈って来られたご主人でございましょう。

どうかこの喜びの日を、この喜びを忘れずに、これから先さまざまなことがあるに違いありません。しかしどこまでもどこまでも、イエスさま、あなたにつき従って行くことができるように教えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りを致します。アーメン。

●前田姉のご挨拶(大きな拍手)――感激で一言ひとことを噛み締めるように――

主人を天国に送って一年が経ちました。皆さま、高津の教会の家族に守られて、今日という日を迎えることができました。本当に感謝でございます。
人生の始まりというこの大切な日を迎えることができて、本当に嬉しく思います。これから先も、今日の喜び感動を胸に忘れずに、神さまのみこころを信じて日々お応えできますように、私が天に召されるまで心を込めて感謝をし、心を込めてお祈りを続けてまいりたいと思います。
どうぞ、皆さまと共に(主イエスさまと共に)、歩む者の一人としてご一緒させていただきますことをよろしくお願いいたします。(真実な信仰に一同感動、大きな拍手)

☆始めのお祈り

4死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
5よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
6私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。
7すると、地はゆるぎ、動いた。
(この日の交読詩篇18篇より4〜7節1行目)

恵み深い天の父なる神さま、私たちは自分の力の小ささを覚えますが、しかしどんなに自分の力が大きかったとしても、滅びの川を這い上がることはできません。私たちは助けを求めてあなたに叫び求める(詩篇18:6)のみです。そんな小さな声が、神の神殿で耳を傾けておられるあなたの耳に届き、そしてあなたは「天を押し曲げて降りて来られる」(同18:9)。

ダビデは人生のさまざまな危機の中で、何度も何度も死の危機を感じながらもあなたによって生かされ、自分はもう駄目だと思いながらも再び恵みを注がれ、自分には誰ひとり味方はいないと思うような状況にあっても、あなたは慰め手を備えてくださる。

その彼は「主はわが羊飼い」と、自分の人生でこの羊飼いがすべてを導いてくださったと納得して感謝にあふれていることでございます。どうか私たちも素直に単純な一匹の羊のように、ただひたすらあなたを見上げ、あなたに従うことができるように私たちを導いてください。

今日初めて来られたお一人お一人の上に、主の豊かな恵みがありますように。
昨日結婚式を終えられた山本Eくんと奥さまの上に、豊かな癒しの恵みが、さぞお疲れだったと思いますけれども、幸せをもって包んでください。

今週バリ島に向けて旅立ちます田中兄姉、そして高橋家ご両親の上にあなたが届いてくださり、高橋くん(***新郎)は何度も教会に足を運ばれました。善き結婚式であり、善き神の御前の誓いでありますように。そして改めて、家族が一つであることを実感することができるように、導いてください。

石井兄は明日から入院されます。力を与えてください。内側によみがえりのいのちを注いでください。そして今回も、抗がん剤に負けることなく、がん細胞をどんどん小さくしてくださり、夏の暑い期間でありますけれども、一切の消耗からお守りください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

☆聖書個所     出エジプト20:1〜6
1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
 2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5それを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

☆説教      神の人モーセ(22)十戒(2)

聖書の二番目、出エジプト記をお開きください。先ほど読んでいただきました20章の1節〜6節までのところですが、前々回は神の人モーセの21回目として、2節から見ていただきました。

2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

十戒というのは10の「〜してはならない」で構成されていますが、その第1戒は――わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
そういう風に考えますと、第2戒目の今日、それは4節――

4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない

というのはとてもよく似ています。

十戒という10ある戒めの中で、最初の4つは、神さまは特に「わたしのみを神とし、ほかの神々を作ってはいけない」というこのことに集中されました。

イスラエルの民は、そして私たちは、神さまの翼に乗せられて、奴隷の地より救い出され、神さまの宝とされ、祭司の王国となりました。
それが契約でありました――わたしがあなたの神となって、あなたを守る。あなたを祝福する。あなたは、わたしの民としてふさわしく生きる。祭司の王国となって、神の子どもとして生きていきなさい。
そうして、神さまは私たちにこの十戒を与えてくださいました。

前回、人間というのは、たとえ神に背を向けたとしても、癒しがたいほど宗教的であるという話をしました。新約聖書のロマ書(***1章)を開きますと、天地万物を創造された神に背を向けた人びとは、神を人の形に変え、動物の形に変えて、偶像を拝むようになったと記されています。
今日は、それを第一番目のポイントとしたいと思います。

1)人は神に背を向けて、神を造る

日本ではごくごく当然で「鰯の頭も信心から」と言います。私たちはそのことばに何の疑いも感じません。でも「鰯の頭も信心から」とよく考えてみてください。イワシの頭を残すと、イワシは頭に栄養があるから(笑)頭から食べなさいと、片方でそう言っておきながら、「鰯の頭も信心から」というのは、いくらなんでもイワシは持ち出してくるなというくらいに、これほど弱い魚はないです。

人はなぜ偶像を刻むのか、像を造るのかというのは、とても不思議です。聖書によりますと、人は自分の上にある絶対者なる神を嫌います。そして、自分の下にある蛇であったり、キツネであったり、タヌキであったり、鳥や動物や他の生き物を像にして、むしろそれを拝む方を好みます。

なぜ、そんなことをするのか。それは、私たちと全くかけ離れている神さまを考えることは、何か恐ろしくとてつもないことです。そんな神さまにどのように通じたらよいのか、自分では見当もつかない。
しかし、もし神さまが、私たちに理解できる、見に見える形を持っていたとしたならば、もっと近付き易く、ある意味で、自分の自由に神さまを動かすことができる。
              
聖書は、これが偶像崇拝の元にある病気だと教えます――人は、神の力を自分の都合のよいように動かそうとする。
そのもっとも端的な現れが、自分で動かせる神さま、自分のような神さまを造ることです。自分で動かせる神さま、自分のような神さまってどういう神さまかと言ったら――神さまもまた失敗をし、神さまもまた生まれ、神さまもまた恋をし、神さまもまた結婚し、神さまもまた死ぬ。

「あなたを創造したのはわたしだ。あなたはわたしの栄光のために存在するのだ。あなたは、わたしのみ心を求めて生きることを学ばねばならない。あなたは、パンだけで生きているのではない。わたしの口から出ることばに従って生きるのだ。いのちを与えるのは、わたしだ。あなたからいのちの息を取ってしまうのもわたしだ」――そんなことを仰る、自分の思い通りに動かない神さまに、私たちはむしろ背を向ける。

そして自分の言うことを聞いてくれる神を自分で造り、偶像を刻むのです。
人はそのようにして、偶像に守られた砂のお城を建てます。

夏の浜辺で遊んでいるうちに、子どもたちがお城を造り始めました。濠をめぐらし、波が上がって来ないように、立派な砂のお城を造ります。
濠をめぐらし、城壁を作り、見張りの塔を立て、なかなか立派なお城です。
歩いていた人が感心して(言います)。
「すごいねぇ!立派なお城だね。これなら相当な波が来ても大丈夫だよ」
ふと見てみますと、お城の前に、何か小さな像が立っています。
「なにこれ、カニ? それとも海ガメ?」
子どもが言います。「違うよ。このお城の守り神だよ」(笑)

私たちはお城を作ったとしても、やっぱり守り神を造りたいと思います。そしてそのお城も守り神も波一つで全部持って行かれてしまうのです。なるほど私たちの人生は、砂のお城としたのは、それでもそこに守り神を置いておきたい。ありとあらゆる災難から守ってもらいたい。それが人間の不思議な真理だ。

聖書の教える神は、いえいえ、私たちが神を動かすのではない。神が私たちを動かす。この世界を動かす。たとえ、それが試練の中を通るような動かし方かもしれない。しかし、あなたが神を動かすのではない。

2番目にそうしますと、クリスチャンと偶像礼拝というのは、関係のないことのようにも思えますが、必ずしもそうではないです。

2)クリスチャンの偶像

十戒の第一と第二が連続しているのは申しました。
第一が、わたしを神とせよ、他の神があってはならない。
第二は、ある意味同じことで、さらに進んで、偶像を造ってはならない、と命じます。
しかし、この第二の方がはるかに詳細で具体的なのです。

4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
          
という長〜い文章で表現しています。徹底して警戒しているということでありましょう。ということは、それだけ問題が身近だということです。

新約聖書で最後の方にヨハネの手紙第一というのがあります。ちょっと見てほしいですね。一番後ろに黙示録がありますが、それよりちょっと前にヨハネの手紙第一があります。その一番最後5章の21節は、ご一緒に読んでみたいと思います。

Tヨハネ5:21子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

何か唐突な終わり方のようにも思えます。でも実は聖書にさまざまな戒めがある中で、他のいかなる戒めよりも繰り返されているのが「偶像を拝んではならない」という戒めなのです。
もちろん聖書の中には、人を殺してはならないとか、うそをついてはならないとか、神の名を敬えとかいくらでも他の戒めは沢山あります。でも断トツで多いのは、他のいかなる戒めよりも繰り返されているのは、「偶像を拝んではいけない」。なぜでしょうか。
            
それは、神さまは人の心をよく知っておられるからです。
神は人が偶像に不思議と引きつけられる傾向があることを知っておられます。

私も一時、ひとつ誘惑にかられたことがありますね。それは、教会堂の外にお賽銭箱を置こうか(え〜っと笑)。道行く人の50人に一人はそこにお賽銭を入れて、手を合わせます。じゃ、ある時教会のベルが鳴って出ますと、「私は信心深いので、お宅様の御本尊様を礼拝させていただきたい。ご本尊様がどこにあるか見渡したけれども、見当たらないので」と、そういう方でした。なるほど信心深い方だなぁと思いました。

こういう言い方、こういう区別って不適切だと思いますけれども、クリスチャンは偶像を拝まない。しかし世の人は、特に日本人は、「イワシの頭も信心から」というので、たとえそれがキリスト教のご本尊様でも、あるいは仏教の、あるいは神社、何でも拝みたいと思うのかもしれない。
でも聖書はそうは教えていない。偶像崇拝という傾向はクリスチャンの中にもある。人間が人間であるかぎり、この性格からは私たちは抜け出ていない。

その典型的な例が(旧約聖書の)モーセの時代に出てまいります。もう一回出エジプト記に戻っていただききますが、民数記の21章の4節〜9節までを交替で読んでいきたいと思います。ここに、青銅の蛇が出て来ます。

4彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
5民は神とモーセに逆らって言った。「なぜあなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。
6そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
7民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
9モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

いいですか、民数記の21章というのは、ある意味で出エジプト記の並行記事です。同じ出エジプトの出来事を記しています。
(イスラエルの)民が荒野を旅していました。あまり不平を言うもので、神さまは罰を与えられ、彼らは蛇にかまれていのちを落としたというできごとでありました。民がモーセのところへ来て、何とかしてください、と言った時に、神さまはモーセに、青銅の蛇を作ることを命じました。青銅の蛇を作れ。それを旗ざおの上につけて、もし(人々が)それを仰ぎ見るなら、蛇にかまれた人は生きると(約束されました)。

まぁこういう手段でない方法でもよかったのだろうと思いますが、モーセはこういう手段で人々に教えました。
青銅でできた蛇というのは、神を見上げるための手段でありました。別に彼らは青銅の蛇を拝んだわけではない。蛇が私たちの神で、この蛇を拝むと蛇の機嫌が直り、私たちはいやされる――そんなことを教えたわけではない。
しかし、それは時がたつと、いつしかその蛇が拝む対象に変わっていくのです。

彼らは蛇を拝んでいたのではない。その蛇の機嫌を損ねたら、自分たちはまた危なくなる。だから蛇に何かを捧げることによって蛇の機嫌を取って、そして私たちはいやされて生きよう――そんなことを考えていたわけではない。
でもなにかそこに物がありますと、思わずその物を拝んでしまい、そしてその物が自分たちにご利益をもたらす、という発想にいつしか変わっていくのです。

時が経って、やがてこの蛇が偶像(崇拝の)対象となり、モーセから七百年後に、ヒゼキヤという人物が王座につくと、彼は宗教改革を行います。これは(聖書は)開きませんが、第二列王記の18章の4節を見ますと、

U列王18:4……そのころまでイスラエル人は、この蛇に香をたいていた。

香をたいていたというのは、この蛇を拝んでいたという意味です。そして、ヒゼキヤは宗教改革を行ったときに、(モーセが作った)この青銅の蛇を粉々に砕きます。
私たちは放っておくといくらでも自分なりに偶像を作り出すのです。

教会の牧師が偶像になることもあります。どういう場合なのか?私は行ったことはないですが、カルトの教会はその典型です。
この前、私はある教会に行ったら、「先生、うちの教会では牧師は牧師さまって呼ばれるんですよ」と(聞いて)、私は思わず思いましたね、一度そう呼ばれてみたい(大笑)。
牧師の言うことがすべてになってしまう、そして牧師の聖書解釈こそが絶対的になる。明らかにその聖書の解釈の仕方は文脈から違うだろうと思いながら、一旦牧師が講壇に立って説教しますと、それがすべてであるかのように、私たちの人生を動かしてしまう。

時に、特定の礼拝の音楽が偶像となります。あまりそうは考えたくないですけれども、たとえば、カルヴァン派にとって「選びの教理」というのは、ある意味絶対的ですし、同じように、きよめ派にとっては「きよめの教理」がある意味絶対的でしょう。そしてその絶対的というのは、言い方を変えれば、その教え自体が偶像化している(ということです)。だからその教えが歪んだ時に、その歪んだ偶像に手をつけることができない。

私は日本のキリスト教会だけではない、世界のキリスト教会がなぜこんなに分かれて、そしてなぜこんなに問題を起こすのか?(と考えます。)
それはいつも、ある種の讃美歌が、ある種の礼拝形態が、ある種の教えが、ある種の実践が、ある種の倫理規定が偶像化していくのです。
「離婚してはならない」という倫理規定を作りますと、それが絶対化する。すると、たとえ夫が家庭内暴力をふるったとしても、奥さんは別れることができない――そんなことをイエスさまは望んでおられると思います?私は思わないです。
でも人間というのは、規則を偶像化し、人を偶像化し、時には賜物さえも偶像化する。異言の賜物であったり、預言をする人がいたら、もうその人は神のごとくに扱われてしまう。
        
(恵みの)手段として意図されていたものを崇拝すると、私たちはそれを「刻まれた像」に変えてしまっているのです。
聖書は手段です。神のみことばを聴き、神のみことばに答えることができるように、各みことばを私たちに知らせてくださる手段であって、これは神ではない。私たちは聖書を学ばなければいけない。学ぶために何をするか?いっぱい線を引くことです。いっぱい書き込みをすることです。でなかったら、いつまでたっても真っ白ですよ。
これは聖なる書物だから、そう簡単に線を引くことはできない、となったらもうすでにその段階で、聖書を偶像化していることになります。
「聖書を通して、わたしを見なさい」と神さまはおっしゃる。「青銅の蛇を通して、わたしを思いなさい」と神さまはおっしゃる。

3)これに関する神さまのこだわりは情熱的です。

このことに関する神さまのこだわりは尋常ではないですね。5節6節と声を合わせて一緒に読んでみたいと思います。20章の5節と6節です。

5それらを拝んではならない。それらに仕えてならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

2行目に「わたしはねたむ神(5節)」として表現されています。これは今流の表現で言えば、世の中にはいろんな神がある。私たちが他の神へ行くと、真の神がねたみを起こす、だから私たちに天罰を下す――そういう意味のねたみではない。

英語でもそうですけれども、旧約聖書の「ねたみ」(jealous)の語源は、jをzに変えますと「熱心」「情熱」(zealous)と同じです。へブル語では同じ語源なのです。
神のねたみって、何か?それは、神の心からわき出た、その子どもたちに向けられた「熱情」を指します。それをちょっとものの言い方を変えますと「こだわり」(と言ってもよいでしょう)。

神さまはおっしゃる――世の人々が偶像崇拝に走るのはわたしは悲しい。だけれども、わたしがあなたがたを贖い、わたしがあなたがたの神となり、そしてあなたはわたしにとって宝であると契約でおっしゃった、その私たちが他の偶像を作った場合、神さまの心の中は「熱情」で沸き立つ――あなたはわたしの宝ではなかったのか?わたしの子どもではなかったのか?

神さまは、十戒を与えることによって、私たちを縛ろうとしておられるのではないです。しかし、愛ゆえに契約を結んだ私たちにはこだわっておられる。
特に、何に一番こだわるかといえば――他の神々を刻むな。あなたがたはただわたしだけに心を向けよ。牧師が間違っていたら、その間違いを指摘せよ。あなたはわたしだけに心を向けよ。他の神々が、あなたがたの心に居座ってはならない。わたしだけがあなたがたの心に住む。人の声に脅されるな。わたしだけがあなたがたの心に住む(――そのことに神さまはこだわっておられます)。

信仰者はキリストの十字架によって、罪と死の世界からいのちの世界へと移されました。その心に他の神々を入れてはいけないという、神さまのこだわり(があります)。
私たちはすべてのことを追い出す訳ではない。私たちはすべてのことを神の支配のもとに置くのです。それがあなたの時間であり、財であり、賜物であり、愛情であり、子どもであり、問題課題であり、すべてのことを神の支配に置く。
なぜなら、神として私たちの心を支配しておられるのは真の神のみです。その上でみこころに適わないことを追い出す――それが十戒の第二戒――偶像を拝んではならない。偶像に気をつけなさい。

神は私たちを見てこうおっしゃいます――あそこにもここにもわたしの子どもたちが行く。彼らはすべてわたしのものだ。彼らはわたしに全的に属し、その人格のすべての部分、人間関係、人生の目標すべてがわたしに属する。

1946年、イギリスがインド領をインドとパキスタンに分割したとき、一夜にして、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が激化して、今に至っています。
いきなり二つの国に分けたということで、インドは血の海と化したと言われています。北のパキスタン地方に住むヒンズー教徒はみな、南に逃げようと必死です。
南のインドに住むイスラム教徒は、パキスタンの故郷に帰ろうと必死です。国境では二つの流れがぶつかり合い、何十万、おそらく百万の命が奪われたと言われています。
              
このインドとパキスタンの問題は、今でも尾を引いていますので何となく感覚が解るのですが……。

当時、クエーカーの宣教師であったクリフ・ロビンソンは、このカルカッタで働いていました。カルカッタの治安が完全に乱れていたある日のことです。
クリフが住んでいた地域では、若いイスラム教徒の過激派が軍を組織し、かつてはヒンズー教徒が支配していた町を制圧しました。
クリフと妻のベッティーは、アパートの三階から暴徒が町を荒らしているそのさまを見ていました。

暴徒は、ひと固まりのクリスチャンが住んでいる道路にやって来ました。住んでいるのは、クリフの友人です。クリスチャンの四家族が、隣り合わせのアパートに住んでいました。
当時クリスチャンは、戦いに巻き込まれたくないので、家や車やドアに赤い十字架を描いて、自分たちがヒンズー教徒でもイスラム教とでもないことを表明していたそうです。

この中立の立場の故に、クリスチャンは、医療などの社会活動を全インドに展開することができたのです。クリフが3階から見下ろしていたクリスチャンの四家族も、この十字架を家の扉の上に描いていました。

イスラム教徒の暴徒が下って来たときに、赤い十字架のついた最初の扉の前で立ち止まり、何やら口論をしていました。クリフは、通りの騒音のために口論の内容まで聞き    取ることができません。

暴徒は二つ目のアパートに向かい、赤い十字架のあるドアの前を通り過ぎ、四番目の扉の前も同様にして通り過ぎました。

しかし、三番目のドアに戻ってきて、暴徒の一人が激しい訴えをしていました。そのあと突然、リーダーの一人が赤い十字架の扉をぶち破って、部屋の中に乱入しました。女性や子どもに至るまで、泣き叫ぶ住民を引き出して、剣によって道路の真ん中で彼らを殺害してしまいます。

あっという間の出来事で、クリフにはどうすることもできなかった。十字架がついた最初の扉は助かった。第二の扉も、第四の扉も助かった。第三の扉だけがなぜ。そこには、同じ十字架が描いてあったのに。

町に治安が戻ったとき、クリフは調査を始めました。彼は、三番目のアパートに住んでいた人々が木工職人であることを突き止めました。
彼らはクリスチャンであったのですが、パートの稼ぎのためにヒンズー教の偶像を彫っていた。それを市場で売っていたというのです。

イスラム教は、偶像を見れば唾をかけるような激しい一神教です。猛り狂ったイスラム教徒は、この家族が扉のところには十字架をつけているけれども、(いわゆるクリスチャンとは言われていても、)家の中ではヒンズー教の偶像を彫っていると聞いたとき、思ったのです。
「彼らはクリスチャンではない。クリスチャンが偶像を彫るはずがない。彼らは、死刑に値する」
ということで、家族全員を殺害したということでした。

残虐な、恐ろしい話ですね。しかし、考えさせられる話です。
なぜなら、私たちも人生のドアに十字架を描いて、生ける(真の)神が心を支配しておられるかのように振る舞いますけれども、実際家の扉を開けてみますと、偶像が優先権を握っているということは多々ある。

だから神さまは第二戒に関してはより詳しく記されています。――これを拝んでもならないし、仕えてもならない。鳥であろうが、地の獣であろうが、海の魚であろうが、どんなものであっても――というのは、私たちにしてみれば――自分の賜物であろうが、財であろうが、仕事であろうが、どんなものでも自分の人生のTOP PRIORITY(最優先事項)に置くなと。いつでも神さまだけをTOP PRIORITY にして、大切なものは全部神さまの下に置きなさい。そして神さまに支配してもらいなさい。

偶像崇拝というのは、使うべきものを崇拝してしまうことです。わたしはあくまでもあなたがわたしの栄光を現わすために、使うべき道具として、あなたに仕事を与え、あなたに才能を与えた。与えたのはわたしであるということを絶対に忘れてはいけない。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、あなたがそれほどまでに私たちにこだわっていてくださることを感謝致します。

こんな厳しい命令は、信仰を持っていない人々には与えられませんでした。むしろ信仰を持ち、神さまと契約を結んだ民に、より厳しいことばをあなたは掛けられました。
ということは、あなたはそれだけ私たちを愛しておられるから、私たちの人生のさまざまな出来事にこだわっておられるということがわかりました。

どうか、あなただけをこの小さな小さな生涯の支配者とすることができるよう、あなたの愛を受け入れた私たちを励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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DATE: 2012.07.09 - 15:47

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