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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/22  神の人モーセ(23) 十戒(3)
7/22 神の人モーセ(23) 十戒(3)

☆始めのお祈り

知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
(この日の交読詩篇100篇3〜4節前半)

恵み深い天の父なる神さま、涼しい日曜日を与えてくださり、また本格的な夏の前に、一息つくことができた恵みを心から感謝いたします。夏の間、小さな子どもたちからご高齢の方々に至りますまで、私たちをあらゆる事故・病から守ってください。ことに外でお仕事をしておられる方々、またさまざまな抑圧や、あるいはストレスの中で仕事をしておられる方々の上に、あなたの恵みが行き届きますように。私たちもぼーっと冷房の中におりますと、体調をくずしてしまいますけれども、きちんと生活をしていく強さを備えてください。

一週間振り返ってみますと、自分自身が羊飼いであり、自分が自分の計画でこの人生を切り盛りしてきたように思いますが、今十字架の前に立ちますと、まことにあなたこそ神であり、私たちはあなたのもの、その牧場の羊である(詩篇100:3)ことを実感しています。愚かな羊かもしれません。しかしあなたは私たちを「緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます」(詩篇23:2)。しかし時に「死の陰の谷を行く」(同23:4)ときもあれば、あなたは伴ってくださり、私たちの敵の前では、あなたは宴を張ってくださり(同23:5)、羊飼いの責任を命を掛けて全うしてくださる方が、私のすぐそばにおられた。そういう1週間であったことを痛感致します。

新しい1週間もそうでありますように。私たちが何よりも求めることは、羊飼いであるあなたを実感して、さまざまな時にあなたの真実さを心いっぱい信じることによって、平安をいただきながら、自分の力ではどうしようもない人生を乗り越えていくことができるように、その信仰姿勢が何とかして自分自身にも身につかないものかと、考えさせられます。

今日はF姉がともに礼拝に与ることができたことを感謝致します。T姉の上に等しい恵みで届いてください。病と戦っておられますので、その病が、痛みが少しでも軽くなりますように。抗ガン剤の3クール目を迎えております、帝京病院に入院しておられる石井寛兄の上にも届いてください。どうか抗ガン剤に勝つ力を与え、ガンをますます小さくしてくださらんことをよろしくお願いします。

私たちの教会は防災のために日頃から備えをしておりますが、教会のできる備えは不十分であり、わずか1週間の中に沢山の集会があります。自分自身危機感を持って、出来ることを自分の家に備えることができるように、家族の中に少しでも備える心をあなたが与えてください。

しばらく聖書のみことばに耳を傾けます。どうか導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所       出エジプト20:1〜7

1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
7あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

☆説教       神の人モーセ(23)十戒(3)

出エジプト記の20章の7節をご覧ください。今日は十戒の第3番目、第三戒目になりますが、ちょっとこの20章の7節をご一緒に読んでみたいと思います。

7あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

第三戒と申しましたけれども、第一戒はどこにあるのか、といえば、20章の2節(~3節)です。

2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

第二戒は、4節に「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」。5節に「拝んではならない。それらに仕えてはならない」です。

ずっとこの十戒の論脈は話してまいりました。
イスラエルの人々が、奴隷の世界から救い出されて、荒野をさ迷い、やがて神と契約を結ぶ、その場面を連続して学んで来ました。神と契約を結ぶ――それが「旧約聖書」の旧約(旧い契約)です。

私たちは、イエス・キリストによって罪と死の奴隷から同じように救い出されて、キリストの十字架と復活を信じて、神と契約を結ぶ、それが「新約聖書」の新約(新しい契約)です。聖書というのは言うまでもなく、契約の書物です。

聖書の世界で、契約を結ぶということは、対等の立場にある二者が、道義事項を定めて契約を取り交わすのではない、と学びました。
古代オリエントの契約ではいつも上の立場にある者が下を守るという意味で、契約の手(憐れみの手)を差し伸ばすという意味で、神は、イスラエルの民の苦しみの叫びに応えて、彼らをご自身の翼に乗せて、救い出されました。

彼らも私たちも、後にイザヤ書にあるように、生まれる前から、母の胎の中にいるときから、神に担われてきた――それが人間です。

荒野にあっては、天からのパンであるマナで養われ、オアシスに導かれ、オアシスがないところでは、岩から水を吹き出させて、神はイスラエルの民を、私たちを養ってくださいました。
その人生の(旅路の)頂点として、契約がありました。

それが出エジプト記の20章で神さまはおっしゃいました――さあ、契約を結ぼう。わたしはここまであなたを救い出している。守り導いていた。さあ、契約を結ぼう。あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたはわたしの宝だ。わたしはあなたがたを守り、導き、祝福する。

という一方的な恵みを差し出した後で神さまはおっしゃいました――そして、あなたがたはわたしの民として生きる。
そのようにして与えられた、神の民としてのふさわしい生き方が、ここに記されている十戒なのです。

十戒ってなんだ?それは神さまが「わたしはあなたを宝のようにする、あなたを救い出したばかりではなく、あなたをわたしの民として、宝のように大切にする。それがゆえに宝としての生き方を分かってほしい」とおっしゃって、神さまはまず第一番目に「わたしを神としてほしい」、第二番目に「ほかの神々を刻んでほしくはない」、第三番目に「わたしの名前をみだりに唱えてほしくはない」(と戒められた)。

ではこの三番目はどういう意味があるのだろうかということを一緒に考えてみたいと思います。

1)旧約聖書の人々は、主の御名をみだりに唱えてはならないという、この第三の戒めに徹底的にこだわりました。

写字生と言って、写本を書くプロがたくさんいますけれども、彼らが神さまの名前を書くときには、特別な注意を払わなければならなかった。彼らは沐浴をして、ユダヤ教の装束に身を固めてから取りかかります。その神さまの名前を書いているそのわずか一分いや三〇秒、その途中にたとえ王からお呼びがかかろうとも、それを無視するように教えられていました。

神さまの御名は、ヤハウェです。モーセが神さまに「あなたの名前は何でしょうか?」と尋ねたときに、神さまが「わたしは有りて有るものだ」とおっしゃいました。それが、へブル語ではヤハウェです。
イスラエルの人々は、その名前を発音することを恐れました。聖書の中にその名前は沢山出て来ます。だから、聖書を読むと、そうせざるを得ない。でもそうこうしている内に、みだりに唱えてしまったらどうするのだろうかと悩んだ彼らは、ヤハウェという言葉が出て来る度に彼らはそれを「アドナイ」と言い換えて読んだのです。アドナイとは、奴隷・主人の主、主人という意味です。
 
それが新改訳聖書では、太字で「主」ということばで、いたるところに残っています。2節の「あなたの神、主」、5節の「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」、この主もアドナイ、言い変えますとヤハウェ。つまりそこらじゅうにヤハウェが出て来ますけれども、彼らはことごとくヤハウェとは読まなかった。

主、主と言いますと、何のことだろうか、よくわからない。私は昔の先生から聞きました。その先生は東北時代に牧師の先生の部屋を朝通ると、何か機関車が通っているのではないだろうかと思うぐらい、主、主と、しゅしゅぽっぽ(笑)じゃないけれども、何か音を出している。最初は何の音なのだろう?時には「あぁ、主よ〜」と長いですね。

一般の人から見れば、私たちが信じているのは、神であり、キリストであり、聖霊であり、どこからこの主という言葉が出て来るのだろうと、それは当然疑問に思います。それは旧約聖書のこの戒め――あなたがたは主の御名をみだりに唱えてはいけない(――に由来するものです)。
その割に、私たちはイエス・キリストという名もみだりに唱えているのかもしれません。なかなか難しいことです。

どうしてそこまで?神さまは名前をみだりに唱えるなとおっしゃったのかと思います。
でも、それは神さまを恐れかしこむという姿勢の表れだったのです。
 神を神としようとするなら、神を畏れかしこむ、という姿勢を抜きにしては考えられません。これは難しい。恐らく適用はいかようにも考えられる。

以前、何かの機会にお話したことがあったでしょうか。ハワイのクリスチャンがこんなことを記しています。

「ハワイにキリスト教の宣教師が来る前、ハワイの人々は、神殿に礼拝するとき、まずその前に座り、静かに黙想し、心を整え、そして入ったものだ。這うようにして祭壇に近づき、祈りが終わると、今度は自分の祈りに息を吹き込むように、神殿の外でまたしばらく座ったものだ。

しかし、クリスチャンがやってきた。彼らは無造作に入って、わずかな祈りを唱え、『アーメン』といって、さっさと帰って行く。それで終わりだ。
だから、当時のハワイ人はクリスチャンをハオレス、すなわち、息のない人、その祈りにいのちを吹き込むことをしない人と、呼んだ。」

私たちは礼拝の前に奏楽が始まりましたら、静かに祈りましょう。礼拝の後に、奏楽が2回ありますけれども、少なくとも最初の奏楽は祈りながら、神さまから戴いた恵みを魂の隅々に届けることをしましょう、ということを何度言ってもしないとすれば、それはあなたの心の中に、神を恐れ神をかしこむ心がないということです。全くない。
      
教会堂に座るとき、私たちは十字架の前に座っているのです。罪深い私たちが、神の御前に座ることができるように、私たちの罪をその身に背負い、私たちの罪の罰を私た      ちに代わってお受けになった、キリストを見上げて座っているのです。

十字架のイエスが私たちに優しいまなざしでおっしゃいました――人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません(ヨハネ15:13)。わたしはあなたの友です(同15:15)。だから、わたしはあなたがたのためにいのちを捨てます(同10:11〜18参照)――とおっしゃったイエス・キリストの温かな声がこの十字架から響いて来るのです。

私たちが神さまの愛を感じられない、自分は孤独だと思いながらもこの十字架の前に座ればわかるだろう。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていない。わたしはあなたの友だ。わたしはあなたのためにいのちを捨てた。

私たちは教会の聖会でいろいろ話をします。一番最初に教会に来られた時、献金箱に――最近財布が膨らんで膨らんで仕方がない。消費税の関係で一円玉がどっさり増えた(笑)。だから一円玉をみ〜な集めて献金箱に入れる――そういうことだけはしないでほしい。それはあなたのためだと(言われる)。神はご自身を軽んじるものを軽んじ、ご自身を尊ぶものを神はまた尊んでくださると聖書に書いてある(Tサムエル2:30)。

私たちはもう少し神の愛を受けて十分な恵みを受けるだけでなく、「神の御名をみだりに唱えてはいけない」ということばに含まれているすべてのこと、それは神を軽んじないということを真剣に考えなければいけない。

2)(主の御名を)みだりに唱えないというのは、御名を汚さない生き方をすること

今出エジプト記を見ていますが、ちょっとレビ記の19章を見てみましょう。レビ記の19章の12節をご一緒に読んでいただきたいと思います。この文章では言い方を少し変えて表現していますね。

レビ記19:12あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

誓うということは神の御名を汚すことになる。どういうことか?これを文字通りに捉えて、裁判で誓わない人がいる。特にアメリカのクウェーカーというキリスト教の一派で、絶対に、何が何でも、どんなことがあっても、誓わない。……クエーカーの人たちが誓わないという行為は、それはそれなりに受け入れられています。クエーカーの人たちは誓わなくてもいい。なぜか?

私たちはどうして神にかけて誓うのか?神を信じていない人でも、神にかけて誓う、と言いますね。それは、その人物が神と親しく交わっているから、神にかけて誓っているのか?

おそらくその逆でしょう。誓うときに神さまの名前を持ち出さなければいけないのは、基本的に自分の誓いに信用がないからです。信じてもらえない、だから神を持ち出してくるのです。

イエスさまはおっしゃいました。
「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。……あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。」(マタイ5:34〜37 )

どういうことでしょうか?
あの人が「はい」と言うなら、それは「はい」だ、あの人が「いいえ」と言うなら、それは間違いなく「いいえ」 だ、と思ってもらえるような、誠実な人になりなさい、ということです。

だから、アメリカ合衆国の政府が、これらの人々に、誓ってはならない、というこの戒めを、宣誓を強要しないのは、彼らはそれは間違いなく『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』で生きている人たちだということを、政府の人たちも十分別っているから、敢えて誓いを強要しないのです。

レビ記で、神さまはイスラエルの人たちに、「あなたがたは誓ってはいけない。わたしの御名をあなたがたの都合のために持ち出すな。ましてや、あなたがたの偽りのために、わたしの御名を持ち出してはいけない」とおっしゃった。
                
御名を汚すというのは、生き方の問題で、自分の都合で神の御名を使うということは、御名をみだりに使うことに等しい。

3)イエスさまは第三の戒めを取り上げて、はるかに高い次元に引き上げられました。

旧約聖書では、御名を汚してはならない、と消極的な次元に留まっていました。
しかしイエスさまが教えてくださった祈り、「主の祈り」はそこにとどまっていないです。みなさん、週報の裏の「主の祈り」をちょっと見てください。
  
「天にまします我らの父よ。願わくは、御名を崇めさせたまえ。……」

これはマタイの福音書にもルカの福音書にも出てくる。
御名が汚されるのを避けるだけではない。キリストの御名にふさわしく生きることができるように。キリストの御名にふさわしく生きると、キリストの御名のブランドは上がる。キリストの御名にふさわしく生きていないと、なんだ、あれでクリスチャンかと、クリスチャンのブランドは下がります。考えさせられます。

英語でChristopher(クリストファー)という名前があります。男の子でも女の子でも、Chris(クリス)という愛称がありますけれども、それは紀元前一世紀から、クリストフォロス(キリストを運ぶ者)という意味の、とっても素晴らしい名前です。

私たちは皆、キリストを運ぶ者で、私たちの生き方によって、キリストの御名が崇められるか、逆にキリストの御名が汚されるかが決まってしまうのです。
だから私たちは祈りの中で、「願わくは、御名を崇めさせたまえ」というのは、キリストの御名にふさわしく生きることができますようにという祈りなのです。

そして、ある意味でそれは、ヤハウェと出て来たらアドナイと言い替えるような、機械的なことではない。それははるかに高度で、私たちにしてみれば恐れ深いことなのです。思わず怯んでしまうほど、御名を崇めて生きるというのは、おおよそ、私たちでは無理です。

だれもが無理な中、イエス・キリストは「祈りなさい、願わくは、御名を崇めさせたまえと。神の助けをもって初めて、御名の栄光にふさわしい生き方ができるようになるんだ」と言うのですが、しかし、多くの場合、御名にふさわしく生きるということは、第一戒、第二戒、第三戒の第三戒目に、初めて出て来るということがとてもよくわかります。つまり、私たちは神を神として生きる時、ほかの偶像を造らずに、神のみに信頼して生きる時に、自然に私たちは御名を崇めて生きることになるはずです。

私は前回偶像を刻んではいけないという話をしました。帰りにある姉妹が、また来週、と挨拶をしましたら、「先生聞いてください。私は偶像を造って生きて来ました」と(言われました)。

数年前に乳がんになられて、乳がんというものをず〜っと頭に意識して、自分はこれと闘うのだ、どうしたらこれに気をつけるかということに人生のエネルギーを注いでしまい、いつしか乳がんが自分にとっての偶像に変わっていた。
自分は神に本当の意味での平安を求める以上に、この乳がんをどうケアするかに、エネルギーが行ってしまい、それは紛れもなく私にとっての偶像でした――と悔い改めて帰られました。

神を神として生きる、自分の人生に存在する偶像を取り払って生きていれば、私は何かにをすることなく、自然、キリストの御名にふさわしく生きる者になると思います。あるクリスチャンがこんな証しを記していますので、それを引用して終わりにしたいと思います。

「私はクリスチャンの家庭、しかもかなりしっかりしたクリスチャン・ホームで生まれ育ちました。小さな頃から教会学校に行き、七歳の時、母が一緒に祈ってくれて、私はキリストを心にお迎えし、洗礼を受けました。

しかし思春期という、劣等感が渦巻く大きな裂け目の時期に差しかかりました。そうこうしているうちに、私はキリストに代えて自分を人生の中心に置くようになり、神さまを人生の余白部分に位置づけるようになってしまいました。大学に入学した頃には、キリスト教も世界に数多くある宗教の一つにしか過ぎないと確信するようになり、もっと大きな大学に進学した時には、密かに自分が無神論者である事実を誇りとしていたものです。

やがて医学部を卒業し、研修医としての生活が始まりました。(その時、仮眠なしでも、人は三六時間ぶっ通しで働けるものだということを発見しました。)神さまを人生の余白部分に追いやると、心に大きな空白状態が残ります。しかし、その空白状態を感じたのもほんの束の間で、食欲を始め様々の欲求がすぐにキリストに取って代わります。徐々にそれらの欲求をコントロールできなくなり、ついには逆に欲望に振り回されるようになってしまいました。

研修医として勤務していたとき、同僚の一人が手術中に手を滑らせ、一緒にいた私の手術用手袋を切り裂いてしまいました。そのために、私は残りの研修期間を棒に振りました。重度の肝炎を患って床に就くことになったからです。

その時でした。私は、聖書を読み、祈るようになったのです。大きな痛みと不安と失望を味わう期間でした。ところが不思議なことに、振り返ってみると、ほとんど何も覚えていないのです。思い起こすことといえば、その期間に、主イエス・キリストが私の生涯の中心に、生けるお方として再び帰って来てくださったという実感だけです。

主イエスは私に奇跡的な形で触れてくださり、劇症肝炎から病を癒してくださいました。元気になった時、私は考えました。きっと、主は病の再発の可能性も取り除いてくださるに違いない……。しかし、意外なことに、主はその保証を与えてくださいませんでした。困惑しました。でもイエスさまは、こう語ってくださいました。『私は弟子たちにもパウロにも、病気にならないなどという保証は与えなかった。なのにあなたにそれを与えるべきだろうか。』

神は将来に関する特定な保証を約束なさらないとわかって、私の生き方が変わりました。何事に関しても、あって当然と思うことを止めたのです。妻がいるのが当然、子供たちがいるのが当然、仕事があるのが当然、新しい日を迎えるのが当然、ではないのです。すべてを当たり前と考えることを止めました。

よく私は、早朝の仕事に向かう途中、地平線から顔を出し始めたばかりの太陽に向かって立ち止まります。すると、新しい一日を与えてくださった神に対する感謝の涙があふれてきます。今日という一日は、私がそれを楽しみ喜び、主の栄光のために用いるように与えられた、愛の神の特別な賜物だと思うようになりました。」

一旦神の存在を、自分の心の余白の部分に神を取り出し、もしかしたら自分はもう無宗教の世界だろう、と誇っていた彼の一つの出来事を通して、その神をもう一度心の中心にお迎えする。すると、ものの考え方が変わって行くのです。当然と思っていたことが最早当然ではなく、それらはすべて、私の健康も、私の仕事も、私の家族も神さまが与えてくださった贈り物であると大切に思えて来る。すると神を神とする人生が具体的に始まって行く。そういう人生こそが神さまの御名を崇める人生となる。

神さまを崇める人生と考えますと、例えばすぐにマザー・テレサを思い出します。皆さん、マザー・テレサのいろんなことを知っておられる。あれほどカルカッタのスラム街の人々に愛を注いだマザー・テレサ。そのマザー・テレサの講演を聞いて、あるメディアの方が 質問をするのです。
「マザー、これから私たちはどのようにして生きていったらよいでしょう」
「そんなに難しいことではない。お家に帰って家族を全員愛しなさい」

神の御名を崇めるとは、何か特別なことをすることではない。神さまを神さまとして人生の中心に迎え、そして自分の周りにいる者たちを愛し、励まし、自分に与えられた人生に感謝をし、さまざまな試練に負けないのです。忍耐強く、誠実に生きている毎日に、主が崇められるような世界が出来上がって行くというのが、私たちのような小さな小さなキリスト者の一番根本にある問題だということを心に留めたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今朝もあなたを崇めるためにやってまいりました。ことばでは御名を汚すことはありませんでした。しかし時に私たちの祈りや行動があまりにも軽率で軽薄であるがために、あなたの御名を汚すことがないだろうかと反省いたします。

でも第一戒で学びましたように、あなたを私の神とする時に、あなたは私たちを宝物のように扱ってくださる。どうか、あなたを第一とすることができますように。そしてそんな私たちの人生をいろいろな細かい所に至るまで整えてくださる、周囲の人から比べられる、少し違う神の栄光を内に宿す生き方を歩むことができるように、私たちを強めてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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DATE: 2012.07.25 - 00:25

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