7/29 神の人モーセ(24)十戒(4)安息日を守りなさい
☆お知らせ
●「祈りのネットワーク」を100円で販売致しております。インマヌエル教団のすべての教会、すべての働きが一冊の本の中に記されています。教報を購読しておられる方には、無料で配布しておりますが、そうでない方々は後ろに積んでありますので、その横に100円を置いて行って下されば、定価は200円となっておりますが、100円で結構ですのでよろしくお願いいたします。
●礼拝後の教会学校の夏祭りは、あまりに外が暑いので危ないなと思われますので会堂の中で行われます。会場作りにお手伝いをしてくださる方、伊藤兄がいろいろ指揮をしてくださいますので申し出てください。
●中村洋美姉のお母様、塩口昭子さんは3月に肝臓がんを患っていることが判明し、鷺沼の有馬病院で治療をしておられましたが、今週に入りまして少し容態が悪化し、ご家族(ご夫妻・お孫さん)ともにおばあさまに信仰のお勧めをし、若いころ熱心に教会に行っておられた姉妹でありますけれども、洗礼を受けたいということで、私が水曜日に洗礼を授けました。 その時の写真がロビーに飾ってあるので、ぜひご覧いただきたいのですが、水曜日に洗礼を受けられて金曜日に天に召されました。明日(7/30月曜日)、家族だけで葬儀を行います。3月からお母さんの介護をして来られた中村姉にあるいは中村兄に、主の慰めが豊かにありますように。 今日は中村姉がここに来ておられます(拍手)。中村兄も来ておられますが、暑さの中、ほんとにお義母さんを信仰に導き、最後は神を慕い、一人娘ということでありましたけれども、お母さんはどれほどお幸せであったかなと思います。
●教会では礼拝の説教をCDで録音しております。その貸し出しができるのですが、それからテープの方も貸し出しができるのですが、ちょっとその管理が難しくなってきておりますので、ノートを用意しました。それで借りて行く場合、ノートに借りて行った日付と戻す日付を書いていただいて、ご自由に借りて行ってください。 殆どのCDは、私のパソコンの中に取り込んであります。ですから、さかのぼってこの日の説教が欲しいとか、シリーズで全部欲しいとかいうリクエストがありましたら、まあ正直USBメモリーを持って来ていただくと一番楽なのですが、全部お渡しできますので、おっしゃっていただければ対応できます。
●初めての方をご紹介したいと思いますが、ロサンゼルスのホーリネスの日本人教会で牧会をしておられます、昨年は被災地のボランティアでいらっしゃいました、今年は奥さまを連れていらっしゃいました、中尾先生ご夫妻(拍手で歓迎)。ロサンゼルスの東、ウェストコビナという町にありますね。インターネットで検索されれば、直ぐ出てきて先生方のお顔を拝見することもできます。お子さん3人もご一緒に帰国されたのですね。ほんとによく来てくださいました。
☆始めのお祈り
あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。(この日の交読詩篇32篇より7節)
恵み深い天の父なる神さま、隠れ場として、私たちのたましいを守ってください。深く傷つき、行く場のない私たちのたましいを守ってください。その時に救いの歓声をもって、私を取り囲み、「しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」(***同32:10、同23:6も)とありますように、恵みと愛をもって取り囲んでください。
あなたは先週中村兄姉のお母様、塩口姉を天に召されました。しかし、肝臓がんと戦うその最後、永遠のいのちを授けて下さり、苦しみの病床の中で、ご家族の介護を受けながら、しかし救いの歓声で姉妹を取り囲んでくださり、喜びと平安のうちに天国に迎えられ、その歓声の大きさを天国で改めて知ったに違いありません。今朝は久しぶりの礼拝を天の御国に於いて守っておられますが、どうかご家族の上に慰めが豊かにありますように。
私たちはこのようにして、多くの教会家族を天国に送りました。日曜日礼拝を捧げる時にはいつも、私たちは地上の礼拝と天国の礼拝は一つであると、私たちは天国の喜びの礼拝を目標にして、この地上の礼拝を守っているという意識でこの場に座っています。どうか天国から慰めの息吹を私たちの中に吹き込んでくださり、地上のさまざまな戦いを乗り越えて行くことができるように助けてください。
暑い夏でありますが、海外に行かれました横溝兄姉、イギリスに滞在中のM兄姉、お一人お一人の上にあなたの豊かなみ守りを与えてください。私たちもさまざまに移動し、子どもたちを海の事故や、また私たちを交通事故や、暑さのゆえでありますので、小さい子どもたちからお年寄りに至りますまで熱中症から守ってくださり、自分を大切にすることができますように、あなたから戴いている健康の賜物を、しっかりと自分自身を責任をもって守って行くことができるように知恵を授けてください。
今日は初めての方々を紹介することができました。アメリカのウェスト・コビナの教会をお留守にして来られました、中尾先生もお迎えすることができました。どうか留守の教会もお守り下さい。世界にあります日本人の教会の一つ一つを、祝福で満たしてください。
しばらくみことばに耳を傾けます。どうか私たちの心をみことばに向けて開くことができるよう、しばらくあなたの御声を聞く集中力をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖書個所 出エジプト20:1〜8
1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。 2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。 3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。 5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、 6わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 7あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 8安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
☆説教 安息日を守りなさい
「神の人モーセ」と題してシリーズの24回目になりました。出エジプト記の20章で十戒に入りまして、今日は十戒としてはその第4戒目です。それが、8節の「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」です。
十戒というのは、その第一戒というのが、3節の「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」 第二戒は、(4節の)「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」 第三戒は前回学びました7節の前半、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」 そして、第四戒が、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
夏休みに入りますこの時期には、皆さんはお出かけになり、仕事をお休みになる場合もありますでしょうし、これはとっても良いタイミングでこの聖句が回って来たなと思います。
オリンピックが始まりました。まぁ皆さんもご覧になっていると思いますので、今日はイギリスに関係する、二人の人物を取り上げてお話をしたいと思います。礼拝でも紹介しました、一昨年、大ヒットとなりました「アメイジング・グレイス」という、イギリスの政治家、ウィリアム・ウィルバーフォースの映画があります。
ウィリアム・ウィルバーフォースという人物は、私たちが歌う讃美歌「アメイジング・グレイス」の作詞(をした)ジョン・ニュートンとも親交があり、それから、ジョン・ウェスレー、チャールス・ウェスレー(兄弟)とも親しい仲にありました。
そして、ジョン・ニュートンやウェスレーのメソジストが強力に押し出していたのが、当時の奴隷売買を禁止するということ。アメリカはなかなか禁止まで至りませんでした。ですから今のアフリカ系アメリカ人があれほどアメリカにいるわけですけれども、この一番最初の奴隷を“出荷”していた、商品を出荷するように“出荷”していたのは、なんと言ってもイギリスです。
これを当時、イギリス政府は伏せていた。国会でこの悪事を暴き、25年かかってイギリスの国会で奴隷売買禁止法という法律を通した人物がウィルバーフォースです。彼をフィーチャーした映画が「アメージング・グレイス」です。
彼は奴隷売買禁止法でも有名ですけれども、もう一つ有名なことがあります。これは、政治家でありながら、徹底して神を礼拝するための聖日を守ったクリスチャンとして有名なのです。安息日を聖なる日とした人物として有名なのです。
彼はある時、首相のポストのすぐそこまで来ます。その選挙の前後に、彼の生活は、もうめまぐるしく展開していく中、心を滅ぼすほど忙しくなるという自覚に立つ。
彼は日記を記していて、その週の日記に、こんな風に書かれています。 「安息日の主をほめたたえよ。聖日に主を礼拝する時、この世の事柄はこの世の事柄として留まり、私の魂を食い尽くすことはない。」
これはとっても大切ですね。私も人のことを言えませんけれども、説教を聴きながら、明日どういう展開に自分の仕事がなって行くかを考えてしまう。つまり礼拝に足を運ぶのですけれども、この世の事柄がこの世の事柄として留まったままで、礼拝の席に座るということはよくあることです。でもウィルバーフォースは明確に「この世の事柄は、この世の事柄として留まり、私の魂を食い尽くすことはない」(と書いています)。
ある時、彼の同僚のウィリアム・ピットが失脚する。そのとき彼は、次のように記しています。 「かわいそうな友よ。君は仕事の手を休めることをしなかった。政治の仕事が、その責任と人間関係で、私たちの身も心も縛ってくることを君は悟ることもなかった。」 ウィリアム・ピットのことをそういう風に、悲しみながら批判しています。
同じ様な状況で、彼は書いています。 「平安な日曜日を守っていれば、ストレス過剰で糸が切れることもなかったのに。」
1)神によって奴隷状態から解放された人間には、神の創造の原則(活動と休息のリズム)がある。
エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、休むということを知りませんでした。ですから、一週間同じペースで働き続ける、ということにあまりにも慣れていた彼らに、休むことを教えられたのは神さまです。 ですから十戒(の第4戒)が何のためにあるのかといえば、言うまでもなく、奴隷のように働いていたイスラエルの人々に休むことを教えるためにあったのです。 それは10節を見ていただくと、9節から見ていただくとよくわかります。ちょっと(出エジプト記20章の)9〜10節を交替で11節をご一緒に読みたいと思います。
9六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 10しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も―― 11それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
ここに初めて、安息日を守るようにの、理由づけが書いてあります。 どういうことかと言いますと、奴隷として生活をしていたイスラエルの人々は、いきなり七日の区切りで一週間、そしてそのうちの一日を休めと言われても、どうして休んだらいいのですか、休む理由が分からない。 神さまはそもそも、七日の内一日を休むように、この世界を造り、あなたを造り、わたしもそうしたと(おっしゃる)。つまりご自身の創造の働きをパターンにして、あなたがたも休みなさいとおっしゃるのですね。
木は、じっとしているべき寒い冬の時期には、葉や実をつけることはありませんね。木には、選択と行動の自由がないのです。 しかし私たち人間には自由がありますので、時にそれが問題となって、私たちは働きたいだけ働く。限界を越えてつぶれるまで働きます。そのようにして、心身を酷使する傾向があるのです。 それゆえ、神は憐れみをもって、安息日という賜物を、私たち人間に与えてくださいました。主の日は休息となり、礼拝の日であり、それはリフレッシュと喜びの日となります――これは、考えておく必要があります。
スイスのハグラーという医者は、酸素と人体に関する実験を繰り返している内に、あることに気が付くのです。 それは――日中の労働によって人間は、酸素を消費します。そして夜休むことによって、消費した分の酸素を回復するのですけれども、現代人というのは、このバランスがうまくいかないのです――つまり、日中に消費した酸素量を回復できない。いつまでたっても回復できない。 ですから最低でも六日間働いた時には、七日目の休みによって、酸素のマイナス量を取り戻していくのです。
現代人は、さらに私たち皆さん残業がありますでしょう。電気が発明されてから、私たちは日中の労働量が増えてしまった。それに合わせて、この世界は週休二日になる必要を感じていくのでしょうけれども、しかし、週休二日にしても取り戻せない。 ですから、非常に効率を大事にするドイツでは、年間2カ月の休暇を取ることが一つの規則になってますね。法律になっています。これはとっても理にかなっていることだということを、私たちは本当に考えなければいけないほど、活動過多です。 皆さんも月曜日から金曜日まで働いて、土曜日は家族サービス、そして日曜日教会と言ったら、じゃどこで休んでるの?というぐらい、休めないじゃないですか。 私は、自分がさぼりがちだから言い訳で(笑)言っているのではないのですが、活動過多の教会ってよくないと思います。
以前、どちらかと言うと、私が牧師として赴任した(***1986年)頃には、溝の口で路傍伝道がありましたね。そうすると、12時過ぎまで礼拝をして、午後いろんな会があり、少し仮眠をとって、5時には集まり、そして当時の祈祷会をして、路傍伝道に出て、チラシを溝の口で撒いて、帰って来て9時から伝道会でしょう。 私は当時を振り返ってみて、月曜日に血圧が下がるという現象になってしまって、何回もめまいをして医者に行ったのですけれども……。
それはもちろん緊張して過ごしていたということもありますけれども、それは無謀ですよね。そんなことをしてはいけないです、人間は。 それって、月曜日というのは牧師にとって休みの日だと言いながら、教団の委員会や、あるいはキリスト教の活動の会議は全部月曜日に入りますでしょう。そしたらいったいいつ休むんだというぐらい、休みはないんですね。それは大きな教会の先生でも、小さな教会の先生でもそうです。
例えば、私は神学生に言います。「説教の準備のためには、なるべく一日ぐらいにしなさい」と。でも神学校卒業したてのまじめな人は、3日も4日も準備するのです。すると信徒の方から見れば、「先生の仕事はいいですね。水曜日の夜と、日曜日だけですね」というものの言い方で(笑)、あとは何か暇してごろごろしているんじゃないかって(大笑)、そういう風に、まあ普通は思いますよね。私も思います。
そう言いながらね、その先生は3日も4日も掛けて準備をしていたら、気持ちが休まる時がない。3日も4日も準備をした説教であればある程、信徒さんから批判の打矢が来るわけで(大笑)、熱心に語れば語るほど、皆さんお休みになるわけですよ(大笑)。それがまた失望に変わって、牧師は疲れて行くのです。
人間の疲労ってどういう風にしてやって来るのか分かりませんが、私は安息日が、健全な安息日になるように願います。日曜日、なにか牧師が楽したいから、教会が楽をしているのかなと、そう思われたくはない。 私たちはどこまでも伝道に熱心な教会でありたいし、交わりの豊かな教会でありたいと思いますが、でも覚えていただきたいことは、信仰の営みは日曜日だけではない。 週日わずかな時間でも、いや、人生全体が礼拝になるようにいけばいいんですけれども、しかし、日曜日にすべてを集中させる必要はない。
神さまであれ人間であれ、人格というものの基本原則の一つは、活動と休息のリズムがある(ことです)。 この戒めだけは、十戒の石の板に刻まれたのではない。これは私たちの心とたましいに刻まれている。だから私たちの身体が、私たちの心が、安息日を聖なる日として守って一日休んでくれ、と叫びを上げている。
このことを藤本からだけは聞きたくない(笑)という風に思われているくらい、私は活動過多です。それは私の成り立ちのどこかで、いつも前へ前へ、先へ先へという気持ちがありますから、どちらかというと休むのがものすごく下手です。 休んでいると休めない(?大笑)。仕事なくしてどこかへ行ってしまいますと、何したらいいかわからないのですね。じっと何やら見てたら、イライラ、イライラしてくるのです(大笑)。 だからどこへ行くにも、休みのときであればある程、仕事の本を持って行く。 せっかく芥川賞が出たんだから、休みの日に文学作品の一遍でも持って行ったらいいじゃない? いやいや、落ち着かないんですね。そういう時は、仕事の合間に読めばいい。でも休みに行くのだったら、半分ぐらい仕事を持って行かないと、私は落ち着かないのね。 ですからこういう人間になってしまうという、悪い見本で見てくださればいいのです。
聖書の原則はとっても明確で、彼らは奴隷だから休むことを知らないのです。だから神さまは奴隷状態から解放した時に、そもそも人間はどういう風にできているかという原則をもって、休むことを教えるのですね。
すると、伝道の働きであれ、宣教であれ、どんな働きでも、休むことを知らずに私たちがやっていたら、それは奴隷です。よく伝道者は、「いや、私たちは主の奴隷だから」(笑)と言って、物事をごまかしてしまいますけれども、それはそもそもの神さまの創造の原則というものを理解していないのです。人間はそういう風に造られていないということを、私たちは心に留めなければいけないのです。
2)身体と心とたましいが神の恵みを覚える安息日、しかし、主の日を覚え守るためには戦いも多い
申命記の5章の15節に、安息日の原則が違った形で提示されています。 そこを読みますと、もう一つの原則があります。 申命記の5章の15節を読みます前に、12.13.14節をちょっと目で見てください。先ほどの出エジプト記(20章)と全く同じ原則が記されておりますでしょう?ところが15節だけは申命記が付け加えているのです。ちょっと15節をご一緒に読みましょう。
申命記5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。
そうしますとね、「それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」というこの第四の戒めに至るまでに、二つのことが記されているのです 。 一つのことは先ほど申し上げたことと同じ、これは創造の原則に当てはまっているのだということ。だから奴隷のような生き方をしてはいけない、ということ。
でも15節にはもう一つの原則がありまして、「覚えなさい」。あなたは主によって救い出されたその恵みを覚えなさい。つまり、日曜日は、身体と精神に休息を得る日ばかりか、たましいが神の恵みを覚える日だ。たましいが神の恵みを覚える日としなさい。この「覚える」ということばはカギとなります。
「あなたは、かつて奴隷であり、それが神の恵みによって解放されたのです。ですから、この日を聖なる日として守りなさい。覚えておきなさい」ということです。神さまの救い、自分自身の神となったということを覚えておきなさい。
申命記には、覚えておきなさい、覚えなさい、ということばが何度も何度も出て来ます。やがてモーセは神の民を約束の地に送り出す時に、モーセは遺言のようにこの「覚えておきなさい」ということを人々に命令します。その理由は単純で、皆すぐに忘れてしまうからです。
聖日というのは、週日の疲れをいやすばかりか、たましいを刷新する。私たちが忘れていた価値観を思い出し、愛を取り戻し、そして神さまの恵みを覚える日となります。こうして私たちは、再び神さまを第一とします。
この日をいい加減に扱っている人は、神さまを忘れる人だというのです。モーセは申命記で言っている――この日を覚える人は、神さまが私たちを罪の奴隷から解放してくださったことを覚えている人です。
この日を覚える人は、自分が神の民であることを覚える人です――主の恵みによって生かされ、愛する兄弟姉妹と一つ家族にされ、共に主を賛美し、共に祈り、共にみことばに耳を傾け、自分がクリスチャンであることを覚える人です。
覚えることは、戦いです。この日本という土壌にあって、日曜日に教会に行くということが珍しい日本にあって、主の日を覚えることは一つの戦いです。 私たちは安息日を絶対化する必要はない。絶対化するってどういうことか?
私はある時、相談を受けました。よその教団のクリスチャンでありましたけれども。小学生の子どもがいて、運動会に家族で出たいという時に、牧師先生に相談をした。すると牧師が、「子どもの運動会を第一にするか、礼拝を第一にするかよく考えてみなさい」と言った。
これは一種の脅しですよね(笑)。少なくともこれは、世を大事にするか、神を大事にするか、よく考えてみよと言われているのと等しいでしょう。そういうことを牧師から言われたら、信徒の方は運動会を諦めざるを得ないじゃないですか。私はそういう教会というのは、正直言って、あやしいと思います。
安息日を絶対化するという律法は、少なくとも新約聖書にはない。だから私たちの教会は元旦礼拝と日曜日が並んだ場合、元旦礼拝を優先するじゃないですか。日曜日を休むのです、うちの教会は。 そんな話をすると、「えっ、休むんですか?」って周りの先生から言われるのですね。ええ、休みます。週の最初の日を聖別するよりは、うちは年の始めの日を聖別します。そうして二回連続やってしまったら、皆さんお正月のさまざまな営みが全部縛られてしまうのでは……。 それで高津教会では一日、元旦礼拝を守る土曜日で、二日が日曜日だったら、礼拝に行きたい人はぜひ近所の教会へ(大笑)、まことに寛容な気持ちで皆さんを送り出す。
安息日に縛りをかける――これはイギリスから新大陸アメリカに移って行ったピューリタンたちの律法主義の伝統です。これは悪い伝統ではないと思いますが、そのピューリタンの愚かしさを批判したアメリカの文学がいっぱいありますよ。The Scarlet Letter (Nathaniel Hawthorne緋文字ひもんじ・1850年)もその一つですけれども。当時長〜い旅路から家族が帰って来て、ボストンの港に着いた。礼拝を休んで奥さんが迎えに行った、それだけで教会から破門にされるような歴史的な記録も残っているのです。
それほど日曜日を守るということについて、もう律法として、破ってはいけない、これを破ったらもうあなたは地獄だというような、そういう文章も中間部のアメリカにはあったのです。私はそこまで行ったら、安息日が何のためにあるのかというイエスさまの教え(マルコ2:27)に抵触すると思います。
でも私たちは聖日を覚える。なぜなら聖日を覚えない人は神の恵みを忘れるのです。必ず忘れて行きます。でも同時に私たちは知っているのです。
夜勤明けで礼拝に来る人がいる。 礼拝に来られないと、祈祷会に来る人がいる。 あるいは、インターネットで礼拝を守る人がいる。 日曜日に沢山仕事が入り、教会を懐かしく思う人がいる。 遅れてでも来る人がいる。 病室で礼拝を覚える人がいる。 ご高齢で、礼拝に来ることができない人がいる。
そんなクリスチャンは沢山いるのです。だから私たちは礼拝の度に、今日礼拝に来られなかった方々のためにも同じ恵みが届きますように、と祈るのは、礼拝を覚えるということがどれほど大変なのかを私たちが知っているからです。
健康が与えられ、時間的な余裕が授けられ、礼拝を守ることができることは、神さまの特別な賜物ですよ。贈り物ですよ。ですから限りなく、そのように礼拝を守ることができない人のためにも祈るのです。 3)安息日を守ることは神さまの祝福が約束されること――神はご自身を尊ぶ者を尊ばれる
さて、この安息日を守るということをもう一回考えていただきたいのですが、十戒とは連続していますね。 第一戒は、神を神とする 第二戒は、偶像を作らない、拝まない、仕えない。 第三戒は、神の御名を尊ぶ(神を尊ぶ) 第四戒は、その具体的な表れとして、神を礼拝する。 そして、第四の戒めまでが、一つの区切りにあるように思います。
私たちは日曜日を聖日とします。それはこの日を聖別された日とすること。聖日を覚えて、これを聖なる日とする人は、神を神とし、神を尊んでいる人です。
覚えておくべきは、私たちは普通に日曜日礼拝を守っていますが、これは何と言っても、さまざまな困難や迫害の中でも、礼拝を守り続けた、何百年にも及ぶ歴史が、やがて日曜日を休日とするのです。 日曜日を休日とする習慣というのは、クリスチャンが礼拝を守るために勝ち取って来た。そんなことは何も知らずに私たちは皆、日曜日は休みだと思っていますけれども、いやいや、日曜日が休日になったのは、その日に礼拝を捧げたいというクリスチャンがいのちを掛けて勝ち取って来たから、私たちはこの日を(聖日として)守れているのです。
ロンドン・オリンピックの開会式を、皆さんご覧になりました?私は実は観なかったのですね。教会のある姉妹がとっても印象深かったシーンがあった、ということでメールをいただいて、私はYou Tubeでそのシーンだけを見ました。それは、開会式でオーケストラが映画「炎のランナー」のテーマ曲を演奏し、ミスタービーンが登場し、ちょっとコミカルな演技をしていましたね。
1981年にアカデミー賞作品賞を受賞したイギリス映画で、この話は私は何度もしていますが、1924年のパリ・オリンピックを目ざして、百メートル競技を争う二人のスプリンターを描いている映画です。一人はハロルド・エブラハムというケンブリッジ大の学生です。
もう一人が主人公のエリック・リデルで、彼はスコットランドの宣教師の息子で敬虔なクリスチャンでした。彼はオリンピックが終わると、ハドソン・テイラーの中国奥地伝道に加わり、最後は悲しいかな、43歳の若さで日本軍の収容所で亡くなります。
イギリスの誇るスプリンター、そして宣教師。その映画がロンドン・オリンピックの開会式に出てくるというのは、やっぱりとっても印象的だろうと思います。
エリックは、全部準備を整えてパリに乗り込んだ時に、百メートル競技の予選が日曜日にある(ことがわかった)。悩んだ末、コーチと相談し、イギリスのオリンピック競技委員会と相談して、最終的に出した結論は、自分は予選を(ということは百メートル競技出場を)断念して、礼拝に出席というすることでした。
彼が日曜日の礼拝のために百メートル競技を断念したのは、別に自分の信仰の満足のためではなかった。 フランスという国は、フランス革命以来、キリスト教排除の風潮がありまして、なるべくイベントは日曜日に持って来るようになった。ダンスのイベント、お祭り、特にスポーツの競技をわざわざ日曜日に持って来たのです。それは、フランスの市民社会を育てるために、なるべくキリスト教の伝統的な縛りを排除するために、敢えてそうするのですね。
そのために、フランスのクリスチャン・アスリートがどれほど苦しんだかということを、エリック・リデルは知っていた。 今オリンピックに行きますと、もうカトリックからプロテスタントから、イスラム教徒からもういろんな礼拝が選手村にありますので、礼拝ができますけれども、エリック・リデルは(当時の)そういうフランスの姿勢に対抗して、苦しんでいるフランス人アスリートと共に立つために、自分があれほど打ち込んできた、百メートルを断念します。
競技に出ていたら、金メダルは間違いないと言われていた彼ですが、彼は代わりに四百メートルリレーに出て、アンカーを務めてイギリスに金メダルをもたらすのです。
(開会式の)映画のシーンにはないですが、リレーのスタートラインに並ぶ前、ジャクソン・シュルツというアメリカの代表(彼も伝説的な人ですが)が、エリックのところにやって来て、一枚の紙切れを渡します。 その紙きれ(のメモ書き)に、聖書の言葉が書いてありました。 「主の御告げ。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」(Tサムエル2:30) 彼は、その紙を手に握りしめて走ります。
主の御告げ。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ――これはねぇ、祝福の約束です。
そうなりますと、安息日を守れという戒めの中には、一つには、自分の心と身体のために、あなたは神によって創造された人間としての自覚をもって、きちんと休みなさいという原則が入ってますでしょう?
二番目は、この日私たちはイエス・キリストの復活を覚え、自分自身が神の民であることを覚えて礼拝に出席する、という原則が入りますよね。
三番目に、祝福の原則が入る。それが神を尊ぶものを神は尊ぶ。後半もあるんですよね。 神を蔑む者を神は軽んじる。
エリックは、百メートルを諦めてでも、神を礼拝することを優先し、そして彼は金メダルを取り、やがてその金メダルを神に捧げ、中国の奥地に宣教のために入って行く、彼の人生を神さまは尊ばれる。それを尊く用いられるからです。
ジャクソン・シュルツは、エリック・リデルに、祝福のことばを与えた。 日曜日を守るということがどんなに大変なことなのか――それはそういうお仕事に就いておられる方、あるいは遠くから通って来られる方であればある程、知っておられる。
それは私たちが知っているのではない。神さまが知っておられる。その神さまは(神さまを尊ぶ)私たちを限りなく尊んでくださるという、祝福(の約束)をいつまでも大切にしたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、私たちはあなたを尊び、またあなたからいただいた恵みを忘れぬために、そして自分自身、ウィルバーフォースが言いましたように、この世の事柄はこの世の事柄として留まらせるために、それが魂を食い尽くすことのないために、今朝礼拝にやってまいりました。
どうか私たちの心に安息を与えてくださり、また私たちのたましいを豊かに守ってくださり、このようにしてあなたを尊ぶことのできた私たちを、尊んでくださり、祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
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