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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/22(本来は来週ですが)棕櫚の聖日:イエスの涙 ルカ19:41〜44
☆聖書箇所  ルカ19:41〜44

  41エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

☆説教    イエスの涙

開いていただきました箇所は、イエスさまがエルサレムに入られる棕櫚の聖日の場面です。
十字架を前にして、イエスさまはろばに乗られて、そしてエルサレムに入って行かれます。
(ルカの福音書19章)35節、ちょっと見てください。

35そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
36イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
37イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
38こう言った。
     「祝福あれ。
     主の御名によって来られる王に。……」

と言って、日曜日にエルサレムに入られるイエスさまは、金曜日に十字架にかかります。
来週の日曜日はその棕櫚(しゅろ)の聖日です。

棕櫚というのは、あのパームヤシです。ヤシの木です。
ですから、私たちの教会ではしませんけれども、多くの教会ではヤシの葉っぱを持って来て、それを裂いて、帰り際に皆さんにお渡しする教会もあります。
ヤシの木というのは、細くてまっすぐで上品で、旧約聖書以来、恵みと喜びの象徴でありました。

人々は上着を道に敷き、棕櫚の枝を振りながら、イエスさまに向かって、「主の御名によって来られる方に祝福あれ」と大歓声を上げます。
弟子たちはイエスさまの十字架など想像もせずに、エルサレムに近づくほど興奮します――とうとう来るべき時が来た。イスラエルの再建がこれによってなされる。

ところが、今日見ていただいた41節「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、」(42節)「言われた。」
今日のメッセージのタイトルは、「イエスの涙」です。

聖書の中では、イエスさまがかつて涙を流されたという記事は、もう一回あります。
それは愛するラザロが死んだとき、その死を目の前にして、「イエスは涙された」(***ヨハネ11:35)とあります。
もう1か所がここです。「ホサナ、ホサナ」という歓喜の中で、ひとり泣いておられるイエス・キリストというのは、何とも寂しい思いがいたします。
いったい主は何に対して涙を流されたのか?――それを今朝ご一緒に考えて、この思いをもって、来週から受難週を迎えていただきたいと思います。
先ず第一番目に――

1)主が涙されたのは、エルサレムの霊的な現状をご覧になってのことでありました。

エルサレムという町は当時ローマ帝国の支配下にあって、かなり繁栄していました。
忙しく、騒がしく人が行き交う都市で、丁度祭りの時期を迎えていましたので、人々でごった返していました。
そこには神殿があり、市場があり、生活と文化がある、一見祝福と繁栄の町エルサレム、しかし霊的には死んでいたということです。

イエスさまは後に、エルサレムの城壁の外に立っているイチジクの木に注目されます(***マルコ11:12〜14)。
葉がいっぱい茂っていて、そして生き生きとしている木でありました。
何かなっていないかと近づいて見ますと、実は、実が一つもありませんでした。
神さまが摘んで喜んでいただけるような実が、一つもない。

沢山の葉を生い茂らせていながら、忙しく騒がしく幸福を追い求めて生きている私たちですが、もし神さまが私たちの傍に、ご自身の期待している実を見つけようと近寄ったならば、それが一つもない日常生活だとしたらどうでしょう?

(ルカ19章の)44節を見てください。一番最後に、「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかった」――どういうことか?
それは救い主を知らない、あるいは神さまのご計画も何も知らないで、ただ自分の満足だけを追求する、空しさを埋めるために生きている私たちの姿に、イエスは涙されたということです。

イエスさまはある時、悲しみを込めて仰いました。「あなたがたは天気を予報することができる。西から雲が起こると、今日はにわか雨が来る。南風が吹くと暑い日になると、あなたがたは地上の現象を見分けられるのに、どうしてこの時代を見分けることができないのか?天気予報には一生懸命であるのに、なぜ自ら進んで自分の人生とその結末を予想しようとはしないのか」と呆れておられます。(***マタイ16:2〜3、ルカ12:54〜56)

外から見ますと、葉を茂らせて活気に溢れ平穏無事な人生が、実は霊的に枯渇して死に絶えようとしている、いや、霊的なことにはさらさら関心がない、とすると、イエスは私たちに涙されるということです。

恐ろしいことにエルサレムの終りの時は、神の裁きは、すぐそこまで来ていました。
40年も経ちますと、エルサレムは跡形もなく滅ぼされ、そして今に至ります。
もしそれが私たちであるならば、明日のことさえ分からない私たち、そんな私たちが忙しく自分の人生を築き上げることに走り回っていながら、霊的なことに全く関心がないとしたら、イエスは涙を流されるということです。

2)イエスさまは弟子たちのために涙されました。

イエスさまをろばの子の上に載せ、救い主としてエルサレムに迎える弟子たちというのは、三年半生活を共にして来ました。
しかしその十二弟子の一人ユダが裏切って、イエスさまをユダヤ人に売り渡す姿を、イエス・キリストは既にご覧になっていました。(***マタイ26:14〜35)
最後の晩餐の席の途中で、ユダが中座してイエスさまを売りに行きます。
ユダが出て行った後で、ペテロが言いました。
「イエスさま、たとえ全部の者が躓いたとしても、私は決して躓きません」
強がっているペテロにイエスさまがたしなめます。
「あなたもまたつまずく」と。
しかし、その後すぐに、ペテロは目を吊り上げて言います。
「たとえ一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを裏切りません」と彼は誓います。
その時ペテロの後を続いて全員が、イエスさまに忠誠を誓いました。
そしてその晩、ものの見事に弟子たちは全員、蜘蛛の子を散らすように、イエスさまを捨てて逃げていきます。
主はその姿をご覧になって、涙をされました。
イエスさまがそこにご覧になったのは、弟子の現実というよりも、イエスさまがご覧になったのは、人の弱さであり、あるいは人の愚かさだろうと思います。

しばらくすると、十字架に向かうイエスさまはゲッセマネの園で祈られます。(***マタイ26:36〜46)
ご自分は十字架を前にして苦しみもだえながら、血の滴のような汗を滴らせて、ゲッセマネの園で祈られました。
ご自分の苦しみを背負ってほしい、少しでも感じてほしい、とイエスさまは弟子たちに一緒に祈るように願われます。
なのに、しばらくすると、ひざまずいていた弟子たちは、いつの間にかうつ伏せになり、手を合わせて、下を向いて完全に寝ています。
イエスさまは仰いました。「ひとときでも、わたしと一緒に目を覚ましていることはできないのですか?ひとときでも、わたしと一緒に重荷を背負うことができないのですか?」
弟子たちは、何の危機感もなく、簡単に人間的な疲れにやられてしまう。
そんな私たちに、主は涙を流されました。

それだけだったのか?いいえ、そうではない。
金曜日の夕方、ピラトの官邸で「イエスを十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ人々(***ルカ23:21)をご覧になって、涙をされました。
「主に栄光あれ」(***同19:38)と言った人々が、金曜日には「イエスを十字架につけろ」と一転してしまう人の愚かな様に、イエスさまは涙されました。
イエスさまとは何の関わりもないのに、イエスさまを殴ったり蹴ったり唾きして罵倒するローマの兵士を(***マタイ26:67、27:27〜31)ご覧になって、涙されました。
何も知らないのに、十字架の見せものに集まり、イエスさまを嘲り、バカにする人々、道行く人々(***マタイ27:39〜49)の姿を見て、涙されました。
人間というのは愚かな者です。

以前インマヌエルの責任を持っておられました朝比奈寛先生が、昔の教会学校誌に文章を書いておられました。
まだ朝比奈先生が献身者の生活をしていた頃に、英国人の女性宣教師ホーア先生のもとで奉仕をしておられました。

戦争が始まる前は子どもたちがいつもホーア先生を慕って、もう家は子どもたちでびっしりだった。
教会学校だけで20校開いて行ったホーア先生。いつでも献身的に子どもたちのために、尽くされてきた先生でした。
でも戦争が始まり日英関係が悪化しますと、ひるがえしたように、地域の態度が変わります。
ある日ご自分の家の前を学校の先生に連れられて、子どもたちの一軍が通り過ぎた時に、キリストを罵倒する言葉を小さな小さな小学生の口から聞いた。
そして教会学校であった先生の自宅に石を投げる子どもたちを、窓の内側からじっと悲しい目をしてホーア先生はご覧になっていた。

イエス・キリストは、どういう瞬間に、この世界にというよりも、私たちの姿に涙されるんだろうかと思います。
十字架を囲んだ群衆も、知らないと言えば全然知らないのです。でもその軽率さゆえに、その罪深い姿をご覧になって、主は涙されました。
私たちは霊的に軽率な者たちです。なかなか深く考えて、言葉を発することもしない。相手を配慮することもしない。
私たちはペテロのように、あるいは弟子たちのように信仰の忠誠を誓いながらも、次の瞬間、神のみこころを裏切るような愚かさを持っている者たちです。

涙というのは、不思議なものです。抑えようと思っても、抑えられない内側から込み上げて来る感情の訴えです。
その涙一粒一粒の陰に、どれほど大きな悲しみのうねりがあるのか?
イエスさまがエルサレムを見て、弟子たちを見て、これから起きる十字架の出来事を見て、何とも言えないやるせなさ、情けなさ、辛さ、それが主の涙に込められていました。
主は近づくエルサレムを見て、その週の弟子たちを見て、いや私たちの姿を見て、もう涙を抑えることができない程、その心の中は憐れみと悲しみでぐしゃぐしゃに崩れておられたのだろうと思います。

3)主が流されたのは、涙だけではありませんでした。

これが3番目で、これで終わりにいたします。
ルカの福音書の23章の33節を見てください。これをご一緒にお読みしたいと思います。

23:33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

一言で言いますと、「どくろ」と呼ばれる所というのは、エルサレムの外にどくろのような形をした丘があった、ということですね。
「そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた」――という一文、この一文なんです――非常に短く、そして十字架を表現した聖句です。

「そこで」というのは、皆の見ている前で、日常とある一日、生活の一端。
そこで「彼ら」というのは人々は皆です。その中に私たちも入っているんです。
「イエスを」というのは、愛に満ち、恵みを施すために来られた神の子、救い主イエスをです。
そして「十字架につけた」というのは、その方を拒み、さらし者にし、嘲り、苦しませ、殺し、抹殺するために十字架につけたんです。

「そこで」というのは、皆の見ている前で、私たちの日常の一場面において。
私たちは皆、愛に溢れ、私たちを救うために来られたイエス・キリストを拒み、抹殺する。
しかしイエスさまはそれをよしとされました。
救いの訪れを知らない人々のために、よしとされた。
ご自分を裏切る弟子のために、よしとされた。
十字架にかかることを祈れず、眠りこけているペテロやヨハネのために、よしとされた。
十字架にかかって血を流すことを、ローマの兵士のために、また私たちのために、よしとされた。

つまり、涙を流されたイエス・キリストは、血を流し、十字架の上でご自身のいのちを流し注ぎ出すことを、よしとされたんです。
悔い改めて十字架の恵みにすがる人たちが救われ、その罪が赦され、きよめられて神のもとに帰り、強くされ、励まされ、保たれ、救われるために、イエスは涙のみならず、血を流された――それが受難週です。

もしイエスさまが今日の私たちをご覧になったら、きっとやっぱり複雑な思いで、涙の一滴二滴を流されるんじゃないかなぁと思います。
そんなに、信じて年月が経ち、それほど真実な思いで洗礼を受けたにもかかわらず、「あなたの心のうちはこんなものなのか」と言われれば、私たちは「そんなものです」と言わなければいけないほど、弱くまた愚かです。
でも覚えておかなければいけないのは、そのようにして涙を流されたイエスさまは、私のために血をも流され、いのちをも流され、私たちを救いに導いてくださったということです。

もう一か所だけ聖書をご一緒に読んでいただいて、もうほんの少しで終わりにいたします。
へブル人への手紙というのがずっと(新約)聖書の後ろの方にあります。
へブル人への手紙の7章、私(藤本牧師)が24節を読みますので、皆さんで25節を読んでいただきたいと思います。

へブル7:24〜25
24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

十字架は今も変わらず十字架だという場面です。そういう聖句です。
(24節に)「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられる」というのは、私たちの罪のために、変わることなく、今日も神の御前にとりなしをしてくださる。
へブル人への手紙では、イエスさまはご自分が流された血をご自身で携えて、天の神のところに持ち来たり、その血の贖いをもって、今もなお変わらずにとりなしをしてくださる。

25節に「したがって、ご自分によって(ご自分を通して、イエス・キリストを通して)神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる。イエスさまはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしてくださる」
エルサレムの外で十字架にかかり、血を流されたイエス・キリストは、地上の幕屋ではなく、永遠の幕屋、天の神さまの御前に入られ、今もそこにおられ、いつも生きていて、今日もとりなしをしてくださる。(***へブル8:1〜2)

私たちはイエスさまの涙を買うような愚かな者かもしれない。
しかしイエスさまは私たちに仰る――まさにそういう弟子たちのために、そういう群衆のために、そういう私たちのために血を流し、「その血の贖いを今も携えて、今日も変わらずにあなたのためにとりなしをしている」と。
私たちは悔い改めることがあれば、悔い改めるべきです。
でも悔い改める以上に、私たちはキリストの愛に感謝しなければならない――それが受難週の意味だろうと思います。

来週(3月29日)ここ(高津教会)で礼拝がなく、次の礼拝で4月5日、私たちはイースターを迎えます。
晴れ晴れしいイースターでありますように。
その晴れ晴れしさを作るのは、イエス・キリストの涙と、共に流されたキリストのいのちであることを祝う一週間、二週間でありますように。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、十字架の出来事が2000年前の出来事ではなく、今日の出来事であることを心から感謝いたします。あなたは変わることなく、愚かな私たちを今日も憐れんでいてくださり、十字架の意味が十分に解らない私たちであったとしても、なおも私たちのために血を流し、私たちにいのちを与え、私たちの代わりに裁きを負ってくださいました。

どうかその恵みがほんの少しでも、またほんの一歩でも深く知ることができますように。自分の愚かさ、自分の罪深さ、弱さに嘆く一週間、受難週ではなく、あなたの涙とあなたの愛に深く感謝する一週間とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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