☆聖書箇所 Tペテロ4:7〜11
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 9つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。 10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 11語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。
☆説教 Tペテロの手紙(25)それぞれが賜物を
今日はペテロの手紙の4章です。 先週4章の7(〜8)節)を見ていただきました。
7万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。 8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
今日は10節を見ていただきたいと思うのです。10節に――
10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
この10節の賜物の管理というこの話は、やはり7節の「万物の終わりが近づきました」という、こういう危機意識から導き出されている教えなんだろうなぁと思います。 万物の終わりと言わなくても、自分の人生の終わりが近づいているから、心を整理して、整えて、身を慎んで祈りに励みなさい――これは先週お話しました。 終わりを考えながら、互いに熱心に愛し合いなさい。
そして今日は、万物の終わり、人生の終わりを考えながら、賜物のよき管理者として、互いに仕え合いなさい――こう繋がるんだろうと思います。 それは10節のペテロの言葉、「賜物」とかあるいは「よい管理者」という表現が出てきますが、これはいずれもイエスさまが十字架を前にして、弟子たちに教えられたことでありました。
「わたしは、あなたがたにタラントを与える――タラントというのは賜物ですね。それぞれの力に応じて――あなたがたにある人には5タラント、ある人には2タラント、1タラントと。それをどう用いるか、それがこれから問われている」とイエスさまは最後にお話になりました。(***マタイ25:14〜15) 「神の国の主人はそれぞれに賜物を残して旅に出る。終わりが来る時に主人がもう一度戻って来て、賜物を与えた管理者である私たちは、その賜物をどういう風に利用したのか、主人の前で問われる時が必ずやって来る」とイエスさまはそのことを話されました。(***同16〜30)
ペテロはそれを直に聞いていました。ですからおそらく、ここでペテロは改めてイエスさまの話を思い出して、この話をしているんだと思われます。 (ポイントは)3つ、簡単にお話をします。
1)それぞれが賜物を受けているのですから(――10節の最初に)
私たちは自分には何の才能もないと思うことは多々あります。 ところが神さまは、どんな人にも賜物を与えていると仰います――「それぞれに賜物を与えている」と。 確かにイエスさまの話でも、与えられたタラントは5の人も、2の人も、1の人もいますけれども、0という人はいませんでした。 私たちはよくわかっています。この世界は平等にできていません。 この世界は全然平等にできていないです。 何が平等でないのか?――それは、そもそも私たちの生まれも、特性も、身体の成り立ちも、つまり才能とかそういう問題以前に、私たちの人生のスタートラインから私たちはみんな違います。性格が違います。能力も違います。
教育についてこんな話があります。 昔ある時、森の動物たちが集まって、動物社会向上のために学校を設立しました。 学科の科目は、走り方、登り方、泳ぎ方、飛び方の4科目です。 そして学科運営を単純にするために、動物たち全員が4科目必須になります。 私たちの小学校もそうですが、全部必須です。
アヒルは泳ぐことは極めて達者でした。ですからあまりにも達者なので、泳ぎのクラスは免除されます。そして放課後も含めて、専ら走る練習をしなさい、と言われます。 そしてひれ足は傷だらけとなり、泳ぎ方教室に戻ってみますと、平均点にも達しなかった――アヒルは。 走り方教室でトップであったのはうさぎです。でも泳ぎ方教室では一向に成績が伸びずに、本人はノイローゼになってしまいます(笑)。 登ることにかけて、リスの腕前はなかなかのものでした。でもどんなに素早く登っても飛ぶことができません。 木の上から下の枝にというのは何とかなるんですけれども、先生は「飛ぶというのは基本、地面から空に飛ぶんだ」と徹底的に指導しますので、やっぱりリスも疲れてしまいます。 問題児はハゲタカでした。ハゲタカにはそもそも協調精神がない(笑)。しょっちゅう学校をさぼり、最後まで一人でいじけてしまった(笑)。
皆さん振り返って、小学校一年生上がった時に、いったいどんなクラスが得意だったんでしょうか? O兄にけさ聞きましたら、Kくんはひたすら給食が楽しみで(大笑)学校に行っていると、そして前の日に献立を見ながら、明日のメニューは何なんだろうかと……。 私たち夫婦(藤本牧師夫妻)はそれを聞きながら、えっ、Kくんって献立読めるんだ、それだけでもすごいじゃない(笑)っていう話をしましたけれども。 私たちは小学校の自分の頃を振り返ってみますと、私(藤本牧師)はどちらかというとハゲタカで、いつも頭の中に、なんで学校に行くんだろうと(笑)、その問題ばかり抱えていました。
話の趣旨は単純だと思います――だれでもそれぞれ優れた賜物を与えられていたとしても、みんな同じ枠にはまるということは絶対にないです。 それをはめようとするのが、日本の教育であるということは、それは私たちはよく知っていることです。 日本の教育というのは、平均点を上げる。みんな特別に優れた、特別に劣った人を出さない。いかにして平均点を上げるかということは、日本ではやっぱり求められているんだろうと思います。
ハゲタカは大空高く翼を広げて登って行きますが、皆で一緒に教室に入るタイプではありませんでした。 神さまは私たち一人ひとりを同じようには創造されませんでした。一人ひとりを個性を持った存在として創造し、一人ひとりに全く別の人生を与えてくださいます。 ですから人と比べて自分を見ることは見当違いですし、自分はあの人のように元気ではない、優秀ではない、あの人のようなことはできないと嘆くことは見当違いです。
2番目に、こちらが大切です。
2)どんなに小さな賜物、どんなに大きな賜物を持っていても、それをもって互いに仕え合いなさいと書いてありますが、これは難しいです。
「賜物をもって互いに仕え合う」というのは、そんなに簡単なことではないです。 賜物の善き管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合うためには、思いやりがなければならない。 自分のちっぽけな賜物を(用いて)仕えるようになるためには、相手の人を思いやる思いがなければ、非常に難しいです。
先日、圭子とテレビの特集番組を観ていました。 そこに出て来た若い女性、ま、結婚式のコーディネーターの話だったんですけれども、結婚式場を申し込まれて、キャンセルすることなく、7年後に改めて式を執り成して、結婚されるんですね。 いろんな話を詰めては集め、ファイルが残っているんですけれども、そのファイルは7年間棚に入ったままで、で、7年後に結婚されるんですが――
恋人がプロポーズされたばかりのある日、その若い女性は突然意識を、記憶を失う。 しばらくすると、全身が痙攣する、そして昏睡状態に陥る、という病気になります。 それを必死でお母さんと婚約者が看病して、7年間かけて治って、最後には結婚するという、そういう感動の物語でありました。
私たちはそれを観ていて、SM姉を思い出しました。 M姉は元気でアメリカ生活を送り、アメリカで結婚され、そしてKくんが誕生して、しばらくして、全く同じような病気にかかってしまいました。 最初の脳神経科の病院、次の国立の脳神経科の病院、何度もお見舞いしましたけれども、何度もお見舞いしてもいつも絶望的な思いで、私たちは帰ってきました。
始めの病院では、3分に一度くらい15秒、20秒ぐらいで全身が痙攣するんですね。 痙攣した時に口を噛むことがないように、さるぐつわをされていますし、瞬きができませんから、目が乾かないようにゴーグルをはめられていますし、そして 「こんなに全身が痙攣するんだったら、お医者さんにぜひ全身麻酔をかけてもらったらどうでしょうか」とお尋ねしましたら、 「いや、全身麻酔はすでにかけられています」と。 全身麻酔がかかっているのに、15分ごとにこれほどの痙攣をする。 やがて姉妹は、脳に不可逆的なダメージが加わったと、脳が疲れ切ってしまって、もう15年、20年位前の話だと思います。 今、姉妹は結婚しています。完全に身体が機能回復したわけではありませんけれども、姉妹は結婚しています。
私たちはよくお祈りしました。お祈りに行くと、お母さんがそこにおられて、そしてそのお母さんの気持ちというのは、私たちに解っていたのかなぁとこう改めて思います。 可哀想だなぁとは思います。 でもそんな程度ではなく、たとえば毎日看病する苦労とか、もう孫がいるのに、孫の面倒を看ながら自分の娘の面倒を看るというその疲れだとか、その将来が全く見えない不透明の辛さだとか、そういうものを私たちは解るかなぁと。 いや、なかなか解らないと思いますね。 それはハゲタカにはアヒルの気持ちが解らないと思いますし、ウサギにはリスの気持ちが解らないと言っているのと同じです。
例えばですよ、「主に愛された弟子」とヨハネのことが聖書に出てきますね(***ヨハネ13:23、19:26、20:2、21:7、20)。「主に愛された弟子」と。 で、ヨハネは十字架の上でイエスさまの最後を見届けた唯一の弟子です。 十二弟子の中で、イエスさまの十字架に立ち会うことができたのは、ヨハネだけです。 でもヨハネと同じように、主の弟子の筆頭として立っていたペテロは、イエスさまが十字架にかかる前に、大祭司の庭で「イエスさまを知らない」と三度否みますね。 すると、ヨハネはペテロの挫折感を解っていたのかと思いますね。いややっぱり解らなかったんじゃないかと。
つまり、私たち誰もが自分の賜物をもって互いに仕えようと思うんですけれども、もし本当にそれをしようとするなら、ものすごい量の思いやりがなければできない。 ちょっとした配慮はできるに違いない。ちょっとした助けはできるに違いない。 でも所詮私たちは互いの事情をよく知りません。あ、アヒルってあんなに走れないんだとは、ハゲタカには解らないです。リスには解らないでしょう。 病気と闘っている人たちの気持ちは、健康な人にはやっぱり解らないと思います。 愛する者を失った人の悲しみは、そういう経験がなければ解らない。 ですから少しでも思いやることができるように、理解することができるように、「神さま、私たちを憐れんでください」です。
仮に思いやる思いが欠けていたら、どんなに大きな賜物があったとしても――それを自分のために使うことができるかもしれない。それを見知らぬ人のために使うことができるかもしれない――でもここに記されている愛する兄弟のために使うということはできないです。もしかしたら家族のために使うということもできない。 それほど私たちは思いやりに欠けているのかもしれないですね。 主よ、どうか、自分の小さな賜物を粗末にすることがありませんように。 人はだれもが全く違う成り立ちを持っていて、全く違う経験を通らされ、その人生に与えられたその価値ある経験、体験というのはみんな違う。 それは時に病であったり、非常な悲しみであったり、でもそれが賜物であるとしたならば、神さま、どうかそれを用いることができるように、互いを思いやる気持ちを与えてください。
3)そうなりますと、私たちは神さまに願っているのですね――神さま、どうか、あなたが私に与えてくださった賜物を、あなたにお捧げしますので、どうかあなたの手でそれを用いてください。
賜物って、使うものなのか、使っていただくものなのか、こう考えてしまいますね。 たとえば賛美の賜物、音楽の賜物っていうのは、自分が神さまのために使うものなのか、それとも神さまに使っていただくものなのか? 賜物って、不思議なものの言い方です。英語ではGift(ギフト)ですね。贈り物です。 神さまからの贈り物で、すべての人には神さまからの贈り物がある。 それを自覚して、そのよい賜物の管理者として存分に用いて、互いに仕え合いましょうと。 10節はそういうメッセージだろうと思います。
でも私(藤本牧師)は、それは表のメッセージであって、裏にもメッセージがあることをペテロは解っているんじゃないかと思います。 それは神さまは私たちそれぞれに賜物をくださいます。だれ一人として同じ賜物をもらっている者はいません。 でも賜物は、私たちには使い切れてない。使い切れてない。 何の役にも立たないちっぽけな賜物――ま、神さまから戴いてそんな言い方は申し訳ないですね――それを神さまに使ってくださいともう一度お捧げしない限り、その賜物は使えない。 神さま、どうかあなたが与えてくださった賜物を、私の人生ごと用いてください。
ペテロという人物が戴いた最大の賜物は何だったのだろうか?と考えます。 皆さん、何だったと考えます? ペンテコステの後で、彼は雄弁な説教をします。 初代教会では最も信頼された人物になりました。 やっぱり、イエスさまの一番近くにいた彼は、一番多くのことを聞き、また見て来たんだろうと思います。 でも彼に与えられた最大の賜物は何かと言われれば、やっぱり私たちは納得するんですね――それはイエスさまに従いながら、イエスさまを3度否み、その挫折と罪深い体験をしながらイエスさまに赦していただき、イエスさまに自分の罪深さとともに、自分の人生をイエスさまに捧げたこと。 すると、彼の失敗が賜物になって用いられた。
私たちは思います――自分の病気や、自分の悲しみや、自分のこの過酷な体験なんていうのはギフトとは呼べない。ギフトではない。ギフトっていうのは、もっと人がうらやむようなすばらしいものなのだと。 でもその辛〜い体験でさえ、神さまに捧げると、それがギフトとして輝き、神さまは用いてくださる。
私(藤本牧師)は以前こんな話をしたことがありますが―― ローマカトリック教会の一番大きなあの聖ペテロ大聖堂、サン・ピエトロ寺院と日本では言ったりしますけれども、ローマの中心のバチカンにあります。 ローマ法王が出るために、サン・ピエトロ寺院のその大広間にものすごい群衆が集まって、そして法皇が手を振るのをみんなが歓声をもって迎えるのを見たことがあると思いますが、あそこの回廊の脇にペテロの像があるんです。
ペテロが椅子に座っているというのは――イエスさまはペテロに仰いました。 「わたしはあなたに鍵を渡す。地上で解くものは、天上に解かれ、地上でつなぐものは天上においてもつながれる」(***マタイ16:19、18:18) それは、「あなたが地上で罪を許すなら、その人の罪は天上で許される。あなたが地上で人を裁くなら、その人は天上においても裁かれる」という、その権威、神の権威を、ペテロにイエスさまは渡すんですね。 ですからペテロは権威の座に着いています。
で、そのペテロの像の前にずら〜っと列ができています。 他の聖徒たちの像の前には、列は特別にない。正面の十字架の祭壇というのがあるんですが、そこにも列はない。でもペテロの(像の)前には列がある。 そして皆さん、そこで跪(ひざまず)いて、ペテロの足を撫でて、そしてちょっとお祈りをして次に進んで行くんですね。 それは、プロテスト教会である私たちはしない。私たちは、イエス・キリストの前でしか跪かない。 でもペテロの像の前で、跪いている人たちの気持ちはよ〜くわかります。 何百年もの間、何億人という人によって撫でられたペテロの足は指がないんです。 まっ平です。足の形はしているのですけれども、まっ平ですね。 そしてバチカンは、その足だけは絶対に修復しないです。
なぜイエスさまの前で跪かずに、ペテロの前で跪くのか? それは人の弱さを知りながら、罪を犯すことなく生き抜かれたイエス・キリストよりも、三度否み、取り返しのつかない挫折をしたペテロの方が――人間的に言えば、憐れみ深い――自分の気持ちをわかってくれるんじゃないだろうかと思って、人々はペテロの前で足を撫でるんですよ。 その気持ちは正直よくわかります。神学的には理解できなくても、その気持ちはよ〜くわかる。
そして私たちがイエス・キリストの前に跪く時に、イエス・キリストは、「この方は悲しみの人で病を知っていた」(***イザヤ53:3)という、そのことばに私たちはすがるんですね。 イエス・キリストの逞しさではない。 この方は悲しみの人で病を知っておられる。だから、私たちの気持ちを理解してくださると。
私たちがどんなに力強い賜物、優秀な賜物を持っていたとしても、私たちが人を思いやる気持ちがなければ、私たちはその賜物を神の栄光のためには使えない。 同時に、私たちは、そうなりますと、神さまからいただいたものを全部神さまに返して、捧げて、使っていただこう、という思いを持たなければいけない。 それは良いものであったとしても、自分としては悪いものであったとしても、その体験を、その自分の持てるものを一旦神さまにお捧げして、「神さま、こういう私でも、あなたに用いられるならば、兄弟姉妹を励ますことができます」と信じなければ、自分の持てるすべての善きものは、溝(どぶ)に流されていくだけなのだろうなぁと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、どうか私たちを憐れんでください。そしてあなたから戴く救いの杯も、賜物がいっぱい溢れた杯も、悲しみの杯もみんな受け取りますが、もしそれらが尊い賜物として互いのために役立つようになるとしたならば、あなたに一旦お返しします。 私の人生に起こる出来事は、すべてあなたから来たものです。本当に辛い出来事もありますが、それをあなたにお返ししますので、私たちに人を思いやる思いを与えてくださり、どうかあなたのように優しい者とならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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