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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/26 Tペテロの手紙(26)神の御霊はあなたの上にとどまる Tペテロ4:12〜19
☆聖書箇所    Tペテロ4:12〜19

  12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
15あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
18義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
19ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

☆説教   Tペテロの手紙(26)神の御霊はあなたの上にとどまる

Tペテロの手紙の4章の12節と13節を見てください。

  12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。……

ここに燃えさかる火の試練という言葉が出てきます。
ずっと二年間かけて学んでまいりましたペテロの手紙というのは、新約聖書の中でも最も多く、最も深く試練のことについて語っています。
既に試練だけをテーマにして、1章の6節7節を学びました。ちょっとTペテロの手紙の1章の6節7節を見ていただきましょうか。
私(藤本牧師)が6節を読みますので、皆さんで7節を読んでみてください。

Tペテロ1章6〜7節
6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、様々な試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

7節に、「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」――ちょうどこの箇所から説教させていただいた時は、冬のオリンピックの時期でありました。2年前?1年前でしたかね?
浅田真央さんのフィギュア(スケート)の演技で、金メダル確実と言われていた真央さんが、ショート・プログラムで、メダルさえも絶望的な程失敗され、でも次のフリーで最高の演技をなさったあの真央さんの様子っていうのは、皆さんの記億にもあると思います。
そして、一生につけて私たちの人生には、なるほど金メダルよりも尊い失敗があるんだと。
失敗は失敗です。
でもそれは、火で精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊い失敗があるんだ、という話をしました。

そして今朝、もう一度、試練のことについて語るペテロに耳を傾けてみたいと思いますが、今日は試練に遭って悩んでいる私たちの心、あるいは私たちの気持ちを支え、励まし、慰めてくれるペテロの言葉に注目してみたいと思います。

簡単に3つのポイントでお話をいたしますが、先ず1番目は12節の「燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」この部分です。

1)「思いがけなく起こったかのように驚き怪しむ」(12節)って、どういうことでしょうか?

試練は当然思いがけなくやってきます。ですから余計に私たちはそれに打たれてしまいます。でも、それを思いがけないと驚き怪しむことがないようにと。

皆さん海に行かれて、膝位の深さで立ち止まって、そして濡れないためにもこの辺で留まっておこうと思いますよね。
でも10回に1回ぐらいは大きな波がやって来て、そして濡れてしまいます。
しかもその大きな波がやって来た時に、波が引いて行くときに、身体をぐ〜っと奥に持っていかれ、時には倒れてしまう時もありますよね。
ペテロはこの世界はそういうものだ、ということを言っているんじゃないでしょうか?
そもそも試練の世界の波打ち際で、私たちはいつも生きています。

詩篇90篇(***10節)のモーセの祈りで、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです」というあの有名なことばがあります。
私たちの人生は七十年、健やかであっても八十年、今はもう十年ぐらい上かもしれませんけれども。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
私たちの人生そのものが、かなりの波打ち際にいつも立っていて、時にびっしょり濡れてしまいます。
いや、時に波に身体ごと持っていかれてしまいます。
その度ごとに、私たちには思いがけないこと、10回に1回の思いがけないことと驚き怪しみますが、しかし、そもそも私たちは波打ち際に立っている、ということを忘れてはいけない。

普段の海でもそうですが、時には大潮の海もあれば、時には台風の海もある。
そのときに私たちが持っていかれる確率というのは、はるかに高い。
ですから、思いがけないことが起こった、驚き、怪しむ、ということをいい加減にやめておきなさい。
一つ覚悟をしておきなさい。
「あなたがたは、世にあっては患難があります」(***ヨハネ16:33)というイエス・キリストの言葉もしっかりと心に刻んでおきなさい。

2番目に、14節に――ちょっと読んでいきたいと思います――14節、ご一緒に読んでみたいと思います。

2)もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。――14節

この最後のことばは、やっぱりとっても励まされますね――試練の中にあっても、栄光の御霊、すなわち神の御霊があなたがたの上にとどまっている。
試練の中にあっても、神の御霊は私たちの上にとどまっている。

試練の中にいる人っていうのは孤独です。
勿論同じような試練であれば、「同病相哀れむ」じゃないですけれども、その人の気持ちがわかるでしょう。
でも試練の中にいるというのは、とっても孤独です。
特に信仰者にとっては孤独です。それは神さまから見放されたという思いにもなりかねない。
試練の中にいる人にとって、サタンが一番ささやく声があるとすれば、詩篇の中にも何度も出てきますけれども、「おまえは神さまから見放されたんだ」――神さまが背を向ける。

詩篇の作者が一番辛い思いをしているというのは――その試練の中で神さまの御顔を仰ぐことができない。神さまがあたかも私に対して背を向けておられるかのようだ――言うなれば、「あなたは罪深く、そのようになって当然だ」。
そして周囲の者たちも、試練に遭っている私たちに対して、「おまえは神さまから見放されて当然だ」。

私(藤本牧師)は日頃から申し上げていますが、私はもし癌になったら、同情してもらえる牧師になりたい(笑)。
私がもし癌になったら、ま、「藤本は日頃から無茶ばかりしていたから、癌になって当然だね」(笑)とこう、皆さんから言われるだろうなという意識が私にあるわけですよね。
せめて健康管理もきちっとして、せめて自分の人生もある程度無茶をせずに、あぁ、あんなに頑張っていながら、それでもそうなっちゃった、可哀想だなぁと同情されるような牧師になりたいと思いますよね。

でも逆にですよ。私たちはだれでもがそうだと思いますけれども、たとえば家族の中でトラブルがある。すると、「日頃からああいう教育をしているとああなるね」とか、
私たちの中で、日頃からちょっと暴飲暴食が進んでしまうと、病気になってしまいますと、「あ、それは当然だね」というそういう論理が全部働きますでしょう?

そうなりますと、私たちの人生に降りかかるありとあらゆる試練の中で、それは当然だねと言われた途端、私たちはポツンと孤独の世界に捨て置かれるような気分になってしまいます。
神さまはなぜ私を憐れんでくださらなかったんだ?
神さまはなぜ私の人生にこのようなことが起こることをよしとされたのだろうか?

それに対して、ペテロが言うことは、「試練の中で、神の御霊は、栄光の御霊はなおもあなたの上に留まっている」という時に、その神の御霊は私たちにどのような確信を与えてくださるのだろうか?
その声は、神の声はどのように私たちに届くんだろうか?
これは言うまでもなく、「あなたはわたしの子どもだ」という声が、試練の中で私たちの心に届くんですね。

ちょっとローマ人への手紙の8章の14節15節を見ていただきたいと思います。私が(藤本牧師)が14を読みますので、皆さんで15を読んでいただけませんでしょうか?

ローマ8:14〜15
14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

アバというのは、アラム語でお父さん。
14節に「神の御霊に導かれる人は」というのは、神の御霊がその人の上に留まっているという意味ですね。その人は神の子どもです。

イエスさまは、いつ、「アバ、父」という表現を使われたのでしょうか?
マルコの福音書では、イエスさまが「アバ」とアラム語で神に祈っておられる箇所が一か所だけ残っています。
それはイエスさまがゲッセマネの園で、苦悩の祈りをされた時です。(***マルコ14:36)
やがて迎える十字架の苦悩の中で、イエスさまは何と仰います?
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(***マルコ15:34)というアラム語がそのまんま残っていますよね、福音書で。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」――やっぱり神に見捨てられるような苦悩です。
しかし、その苦悩に直面する前に、ゲッセマネの園で、イエスさまは神さまのことを、「アバ、父」と呼んでおられます。

神さまをアバと呼ぶことは、すなわち、神さまが私たちを「わが子よ」と呼んでくださることです。
私たちが「天のお父さま、天のお父さま」と祈っていながら、神が私たちに「わが子よ」って仰ってくださらなかったら、私たちが「天のお父さま」って祈っている意味がないです。
私たちの方で、神さまのことを「父よ」と呼ぶのであれば、当然神さまは「わが子よ」と私たちのことを呼んでくださらなければ全く意味がないです。

このローマ人への手紙でパウロが教えていることは、神は私たちを奴隷とはみなしておられないです。
神は私たちを子どもとして見なしておられるから、私たちは神を「父」と呼ぶことができる。
それは逆に言えば、私たちが神を「父」と呼ぶときに、神さまは私たちを「わが子よ」と呼んでくださる。
「わが子よ」と呼んでくださるから、「父よ」と呼ぶことができ、「父よ」と呼ぶことができるから、「わが子よ」と呼んでくださる。
試練の中で、孤独に神に見放されたと思うような私たちでありますけれども、神さまは「わが子よ」と私たちに語ってくださるのですね。

Mary Ann Birdという女性の書いた”The Whisper Test”という小さな本があります。
彼女は普通の子どもとは違いました。口蓋裂という、生まれながらに唇が避けて生まれる状況で、まだ時代は上手に手術ができない時代です。今は上手に手術ができますけれども。
彼女は学校に行き始めますと、この避けた唇、食い込んだ、変形した歯、上手に話もできない。
そして友だちが彼女に尋ねるんですよね。「君はどうしたの?」
すると彼女は、「思わず転んだ時に下にガラスがあって、唇を切ってしまった」――それが彼女の答えでありました。
そうやって生まれついたというよりも、事故でそうなってしまったと言った方が良かった。言い易かった。
家族以外から愛情を感じたことは一度もなかった。

その子が小学校2年生の時に、レオナルドという女性の先生が担任になるのです。
その先生は背が低くて陽気でとっても明るい先生だった。
先生はクラスの子どもたちに、「聞き取りテスト」というのを課したというのですね。
児童が一人ずつ教室のドアのところに行って、耳で片方を塞ぎます。
そして先生が耳でささやいた言葉を聞いて、どんな言葉を先生がささやいたのかというのを当てる、テストのような、ゲームのような、ですからWhisper Test。Whisperというのは「ささやく」ですね。

彼女の番がやってきた。聞き耳を立てて聞いていた。で、小学校2年生の時、この先生がささやいた言葉が彼女の人生を変えるんです。
先生はこの女の子にささやいた。英語では“I wish you were my little girl”――あなたが先生の娘だったらよかったのに。
という言葉をささやいて、彼女はそれを聞くんです。
それは小学校2年生の時だった。でもそれは彼女の人生にとって、忘れられない言葉となって、彼女はそのことばを振り返ってこう言うんですね。
「それは、神さまがこの先生を通して私に仰ったことばだ」と。
神さまがこの先生を通して私に仰ったことばが、「あなたはわたしの愛する子だ」。

イエス・キリストは、実は二回「わが子よ」という言葉を天の父から聞いている、という記録が福音書にあります。
もっともそのような声を聞いたということは沢山あるんでしょうけれども、キリストと弟子たちも一緒にその声を聞いたというのがありますね。
一回目は、洗礼をお受けになった後に、荒野に導かれて40日40夜、サタンの試練に遭われるんですけれども、洗礼の時に「わが子よ」という声が聞かれますね。(***マタイ3:17)
もう一回は変貌山の上で聞くんですけれども、これから十字架の道をまっすぐ進んで行かれる前に、イエスさまは父なる神から「わが子よ」というささやく声を聞かれますよね。(***マタイ17:5)

試練の中で、聖霊が私たちの上にとどまる、とペテロはこう書くわけですけれども、「聖霊がとどまる」ということはいったいどういうことか?
それは、私たちは試練の中で、見放されたような孤独な思いをするわけですけれども、神さまはいつも「わが子よ」とささやいてくださっているのですね。

三番目、これで最後になりますが、ペテロに戻っていただいて、先ほどのTペテロの手紙4章の16節だけ、ちょっと読んでおきましょう。ご一緒に。

3)しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。――16節

恥じる――パウロは何回もこの言葉を使いますね。特に牢獄に入れられた時。
テモテへの第二の手紙(***1:8)で、テモテへ「私のことを恥じないでくれ」――キリストのために牢獄に閉じ込められているという事実のために、そのことを恥じないでほしいと。

私たちはキリスト教が少数派であるこの日本社会にあって、自分がキリスト教徒であるということのゆえに恥ずかしさを感じることはままあります。
で、それを私たちは、自分の信仰者としての未熟さのゆえか、その恥ずかしさを乗り越えて自分自身の信仰を証しするということを体験し、強くなってきたという気持ちはあると思います。

「キリスト者として苦しみを受けるなら、恥じることはありません」とありますが、これは別に迫害だけではないと思います。
例えばこういう見方ができます。
神を信じていながら――全能にして愛なる神を信じていながら――様々に苦しめられ、時に非難される私たちです。
全能なる、すべてを相働かせて益としてくださる神さまを信じていながら、それでも様々に苦しめられ、時に非難される私たち。

詩篇の作者も言いますよね――神を信じていない人たちの方が余程成功しているこの世の中にあって、神を全く崇めもしない、自分のエゴイズムのままに生きている人たちの方がよっぽど成功していると思われるこの世界で、そういう人たちが勝ち誇っているのを見て、「神さまを信じているのに、どうしてこんな試練に遭うんだろう」と笑われるような私たちにペテロは言いますね、「恥じることはない」と。
なぜ恥じることはないのか?それはあなたには、栄光が約束されているからだ。
17節をちょっと見てください。

17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

ちょっと難しい聖句ですからあまり説明はしませんが、最後の部分だけ見てください。
「神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう」――終わりの話です。
神の福音を信じない人たちの終わりは、いったいどうでしょうかということは、逆に言えば、福音を信じている人たちの終わりはどうなるのでしょうか?
福音を信じている人たちの終わりはすばらしい栄光に包まれるものだ。
だから恥じることはない。私たちはどんな試練に遭っても。

ちょっと2章の24節を見ていただきたいと思いますが、以前学んだことがありますが、2章の24節、これもご一緒に読んでみようではありませんか。

2:24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

有名な「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」ということは、どんな病気であっても、どんなハンディがあろうとも、恥じることはない。
その恥はキリストの打ち傷によっていやされている。
キリストの打ち傷によって、私たちはいやされる――十字架というのは恥です。責めです。苦しみです。その根本的な恥も責めも、キリストの打ち傷によっていやされている。
だから恥じることはない。

私(藤本牧師)は4年前にこの話をしていますので、皆さん覚えておられると思いますが、この話ほどぴったりはまるものはないと思いますので、すいません、もう一回引用させてください。

フィリップ・ヤンシー(1949〜)という人が、「見えない神(を捜し求めて)」――これは翻訳されていると思います。
“Reaching for the Invisible God”(2000)という本を書いているんですが、その中の話で、フィリップ・ヤンシーというのはクリスチャン・ジャーナリストですが、奥さんのジャネットが毎週、近くの老人ホームでボランティアの仕事をしているんですね。

教会の友人たちと一緒に、近くの老人ホームでボランティアをしながら、讃美歌と聖書の学びを開いている。
そこへベッツィという名前のアルツハイマーの女性が、介護の方に付き添われて毎回やってくる。
毎週ジャネットは自己紹介するんですけれども、毎回初対面の対応で、そして聖書を一緒に読むんですが、ベッツィは読むことはできるんですけれども、壊れたレコードのように同じ行を何回も何回も読んで、一向に先に文章が進まないんです。

ある時、皆が子どもの頃から歌い慣れている讃美歌の歌詞を、声に出して読んでみようということになった。
ジャネットがそのアルツハイマーのベッツィのために選んだのは、昔で言うと(***インマヌエル讃美歌597 おかのうえに)(福118 丘に立てる荒削りの)という讃美歌です。
「丘の上に立てる十字架、苦しみのしるしよ そこに君は人に代わり血を流したまいぬ」(イ・1節)

ベッツィは読めるんです。
ところがしばらくして、「恥とそしり受くるもよし 責めも死も厭わじ」という行になりますと、いきなり彼女は奇声を上げて、そして取り乱してしまう。
周囲のご老人たちは仰天して口をぽか〜んと開けて、何があったんだろう?
でも明らかにベッツィは読んだ讃美歌の意味が解っている。だから叫び声を上げて唸るんです。
フィリップ・ヤンシーの奥様、ジャネットは優しく言いました。
「嫌なら、そこは読まなくてもいいのよ」
ベッツィは気を落ちつけて、もう一度その節を読み始めると、またその「恥とそしり受くるもよし 責めも死も厭わじ」という行になりますと、声を詰まらせて、大粒の涙を流して泣いて、それ以上無理でした。

その作業が終わって、ヤンシーの奥様ジャネットはこのベッツィを部屋に連れて行こうと、車いすに載せてエレベーターに乗った時に、そのベッツィが静かに歌を歌うんです。
それは紛れもなく、先ほどの「丘の上に立てる十字架」。
讃美歌の歌詞はきちっと彼女の記憶の中に残っている。
そして歌いながらほっぺたに涙を促す讃美歌を歌う――「恥とそしり受くるもよし 責めも死も厭わじ」

奥さんのジャネットとフィリップ・ヤンシーは一緒にその日の出来事を話しながら、こういう風に理解するんですね――どこかで、アルツハイマーに冒されたベッツィの頭の中で讃美歌の意味が繋がっていた。
ベッツィにとって、アルツハイマーに冒されていた部分が、どれほどの恥であり、そしりであり、不本意であったか?
かつては元気で生き生きしていた女性が、今では記憶もなく、家族も解らず、聖書を読んでも同じ行を何度も何度も繰り返した、壊れたレコードのように読んでしまう自分という、その肉体の弱さ、複雑な弱さを自分で意識している。
そのような「恥もそしりも受けるのもよし」――なぜなら、それらを主イエスが一番よく知っておられる。
だからベッツィは涙を流したんだという風に、フィリップ・ヤンシーと奥さまのジャネットは理解したという話が載っています。

私たちが引きずるような傷、その傷をイエスさまは癒してくださる。――その打ち傷によってあなたがたはいやされたのです。(***Tペテロ2:24)
その十字架の恥によって、あなたの恥はぬぐい去られる。
だから「恥もそしりも受くるもよし」なんですね。

Tペテロの4章に戻っていただきまして、4章の一番最後です。
19節をご一緒に読んで終わりにしたいと思います。19節――

19ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

ま、節を解説するといろいろあると思うんですが、私(藤本牧師)は最後だけで十分だろうと思います。
試練の中にあって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

ペテロの手紙は試練について沢山のことを記しています。
でも一番考えなきゃいけないのは、もしかしたら<試練に遭う人の心>なのかもしれない。

1)思いがけないことが起こる。でも思いがけないことが起こったと思うな。
私たちの人生は常に波打ち際に膝まで浸かっているような人生で、時には大潮や台風で身体ごと持っていかれることもある。

2)でもたとえ持っていかれたとしても、神に見放されたと思わないでほしい。
神の御霊はなおもあなたがたの上にとどまっているからだ。

3)そして最後に、試練や自分のハンディを恥ずかしいと思うな。
あなたの罪も、あなたの傷も、あなたの恥も、主はすべて十字架の上で背負ってくださった。
だから自分のたましいを、自分の人生を、自分の課題を、真実であられる創造者にお任せしなさい。

とペテロは言っているんだと思います(と、最後に今日のポイントでした)。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、波打ち際に立つ私たちの人生です。いつ何時、自分が想定していた以上の波が来て、一緒に濡れてしまい、また倒れるかわかりません。時にどんどんどんどん、沖へと引きずられていくようなこともあるかもしれません。

それでも神の御霊が私たちの上にとどまり、私たちを守っていてくださることを知ることができますように。「わが子よ」――私たちが「父よ」「天の父なる神さま」と呼ぶ時に、「わが子よ」と私たちに語りかけてください。

そして、「恥じることはない」というこのみことば、キリストの十字架が私たちの恥を荷ってくださり、なおかつ私たちには義の栄冠が待っているのであるから、「創造者に自分のたましいをお任せしなさい」というこのお勧めを心から受け取ることができるように、私たちに信仰をお与えください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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