☆聖書箇所 Tペテロ5:1〜5
1そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。 2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。 4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
☆説教 Tペテロの手紙(27)私たちは小牧者
聖書はいつもの通り、27回目になりますが、Tペテロのもう5章を迎えました。 (終わりまで)もうちょいですので、お付き合いいただいて、私(藤本牧師)は少し聖書のそのままの内容ではなく、少し全体から自分なりに考えたことを皆さんにお話ししているつもりです。
1節をご覧ください。長老たちに語りかける。
1そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。 2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。
こうなります。長老というのは、だれのことを指しているのか、ま、明確ではありません。 5節を見ていただきますと、「同じように、若い人たちよ」とペテロは対になるかのように語りますので、もしかしたら教会の年配者のことを指しているのかもしれません。 しかし、よく見ますと、1節でペテロは自分を「長老のひとり」と呼んでいますね。 それから2節で「神の羊の群れを、牧しなさい」とありますから、長老というのは、教会の指導者たちと考えるべきだろうと思います。
まだまだ教会は制度がきちんとしていない時代です。 ですから牧師や教師を指すということもできますし、あるいはもう少し幅を広げて教会の役員のような方々も含まれているかもしれません。 どちらにしろ、信仰年限はそれほど若くはない。また教会での働きは、それなりの責任を担っている立場の方々に、ペテロはどんな教えを伝えるのか? 先ず第一番目――
1)あなたがたはキリストの苦難の証人です――1節の真ん中
「長老というのは、何かの資格や訓練やあるいは教育が求められているのではなく、 徹頭徹尾、十字架の証し人であれ。 そして、やがて現れる栄光にあずかる者である、復活の証人であれ」という意味だろうと思います。
ペテロはずっとこのことを語ってきました。 ちょっとページをもとに戻していただいて、1章の18節をご一緒に読んでみたいと思います。私(藤本牧師)が18を読みますので、皆さんで19を読んでいただきたいと思います。
<1章18〜19節> 18ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
ここに書いてありますね。「贖い出された」という言葉がありますね――あなたがたはみな、キリストの十字架の血によって贖い出されたのだ。
2章の4節のことばを見ていただきます? 繰り返しペテロの手紙には、この十字架のテーマが出て来ますが、私(藤本牧師)が4節を読みますので、皆さんが5節を読んでみてください。
<2章4〜5節> 4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 5あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
そうやって、長老たちもまた教会に連なる者、生ける石としてキリストの身体につなぎ合わされるようになったのですね。 そしていまは長老と呼ばれている彼らに向かって――私たちは何の資格もない。私たちは何の立場もない。私たちはただキリストの苦しみを、すなわち十字架の恵みを証しするだけです。それ以上でもない。それ以下でもない。
それが教会の交わりであり、あるいは教会の中心的な方々がいつも考えていることです。
先ほど2回目に歌ってくださいました“Amazing Grace”という讃美歌はジョン・ニュートンが作りました(***1779年)。
18世紀の後半ですね。 西アフリカから狩られた奴隷船の奴隷を運ぶために船長をしていた彼は、その時代約100年間で、何と1500万人のアフリカ人が狩られ、そしてアメリカ、あるいはヨーロッパ諸国が植民地としている、時に南米それから西インド諸島に売られて行きました。 1500万人の家族がバラバラになり、船に寿司詰め状態で載せられ、航海の途中で死ねば、どんどん海に捨てるわけですね。
ジョン・ニュートンというその船長は、私利私欲のために奴隷船の船長を平気で引き受け、航海の途中で彼は恐らく何千という死体を海に捨てることを命じたと言います。 人間は皆どこかで人でなし、悪党、悲惨な罪人という暗い側面があることを、私たちは目を背けてはならないと思いますが……
しかし、ある日、ニュートンは嵐の中で大波をかぶる船の中で、おびえながら神さまに救いを求めます。 そして自分のしてきたことを深く悔い改め、彼は牧師になります。
それで書いた讃美歌が“Amazing Grace”ですね。 (先ほどシンバルの伊藤兄が)英語で歌ってくださいましたが、 ♪Amazing grace! How sweet the sound! 驚くばかりの恵み、なんと温かな、慕わしき響き。そして、驚くばかりの恵みは、 That saved a wretch like me! 私のようなwretch(悪党、悲惨な者)を救ってくださるとは――なんと驚くばかりの恵み、なんと慕わしき調べ――という意味です。
あの讃美歌をだれが見事に歌うことができるのか? それは奴隷狩りならぬ、たとえばクリスチャン狩りをしていたパウロが歌うことができる。 あるいはあの讃美歌を「イエスさまを知らない」と三度否んだペテロも歌うことができる。 驚くばかりの恵み――残忍なパウロだから、奴隷船の船長であったジョン・ニュートンだから、恵みを語ることができるのか? いやそうではない――私たちは皆、自分の中に潜む暗闇、あるいは絶望、また涙(があるのを覚えます) あの「驚くばかりの恵み」を、「涙そうそう」とくっつけて歌うと(大笑)、その味わいが何倍にもなるということがよくわかりました(大笑)。(***でも実はその二つの歌は別々のと繋がっていたのですけれども) あれは、讃美歌にもくっつけてほしいですね(***うんうんと頷く人も)。 くっつけることによって、何て言うんですかねぇ、味わいが増しますね。 それは私たちはみな涙するからですよ。悪党ばかりが歌う讃美歌じゃない(笑)。
様々な人生の体験で、私たちは多くの涙を(味わいます)――それが悔し涙か、悲しみの涙か、あるいは別れの涙か解りません。 でも、それを、神の恵みを味わった者たちが共に歌うことができる、その教会の長老としてあなたが立てられている。 そしてそこに込められたのは、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったイエス・キリストの憐れみです。 それを証ししなさい。それによって、あなたがたもまた教会の長老となっていきなさい。
2番目に、2節をちょっと見てください。 その長老たちにすべき使命として与えられた仕事は結構重たいです。 2節一緒に読んでみたいと思います。
2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
2)神の羊の群れを、牧しなさい。
しかも、強制されてするのではなく、卑しい利得を求めてするのではなく、神に従って、自ら進んで、心を込めて(牧しなさい)と何度も何度も言われます――神の羊の群れ(を牧しなさい)。 そのように勧めるペテロには、特別な意味があったことは明白です。 なぜなら、イエスさまを否んで、そしてイエスさまの復活を越えて、弟子たちに現れたイエスさまは、特別にペテロに目をかけ、ペテロを回復されます。 そのときイエスさまはペテロに三回質問しますね――「わたしを愛するか。あの人たち以上にわたしを愛するか?」(***ヨハネ21:15〜17) そしてそれを答える度に、イエスさまはペテロに言いますね――「わたしの羊を飼いなさい」 するとペテロの頭の中で、「わたしの羊を飼いなさい」ということは、自分の罪が赦されたということと、そのようにして愛してくださったイエスさまを、今度は自分が愛するということと、そしてイエスさまの羊を飼うということが全部繋がっているんです。
「牧師という仕事が名誉ある仕事だから牧師になりました」とか、あるいは「神さまの召しの声を聴いて、私のような者だけれども牧師になりました」とか(言えても)、いやいや、そんなに単純にいかない。 「どこかで自分の罪深さを感じ、そしてそんな自分を愛してくださるイエスさまの愛に応え、イエスさまを愛するがゆえにイエスさまの羊を飼う」という、そういう文脈でないと、なかなか牧師はできないですが、ま、結局のところできないです。 それは私(藤本牧師)もできないです。
なぜならね、羊の群れは教会に属する私たち一人ひとりは、神さまのもの、イエスさまのものだと、ここで言われているんです。 もう少し丁寧に言いますとね、私たち一人ひとりはイエスさまが愛している羊です。 もしその羊が失われるようなことがあるならば、失われていない大丈夫な99匹を野原に残してでも、その失われた1匹を捜して見つける(***ルカ15:4)ほど、大切にされている羊が私たち一人ひとりなんですよ。 この私たちが、弱く欠けだらけの私たちが、イエスさまによって「わたしの羊」と呼ばれているところに私たちの存在感があるんです。 沢山の奉仕をするから、沢山の献金をするから存在感があるのではない。 私たちの存在感というのはたった一つです――それは「私はイエスさまに愛されている羊」です。 その一人ひとりの羊を牧するということは、大きな責任で、それはあまりにも大きな労苦ですね。
以前牧師会をやった時に、神奈川の教会のある先生が、教会の事情を色々話されました。 教会の礼拝の中で、突然発言されたり、それから教会を混乱させておられる姉妹がおられるということを報告された後に、教会のみんなでお祈りのひとときを持った。 「牧師同志、互いの教会をお祈りしましょう」というひとときを持った時に、その先生が、 「その姉妹が、どうか教会から離れるように(大笑)してください」と祈ったときに、 私たちみんな頷いて、「もう、それ以外ないよね」。 でも私たちは、心の中で、その離れた姉妹がうちの教会に来ないように(大笑)、 「先生のような度量の大きな教会だから、きっとその姉妹は先生の教会で憩っているんですよ、先生。だから、きっと先生だから飼える羊だと思って、先生、もうあきらめた方がいいですよ」(大笑)と言ったんですよね。 そうしたら、先生がひとこと、「ほんとにホトホト疲れました」と。
どうして疲れるんだと思います? それはね、ペテロの言葉っていうのは、私(藤本牧師)ね、すごくしんどいと思う。 牧師としてこの言葉を言われたら、私(藤本牧師)はちょっと参ってしまいますね。
というのは、羊を牧するというのは、詩篇23篇を見たらよくわかりますね。 羊に乏しい思いをさせず、緑の牧場に羊を連れて行くんです。 いこいの水のほとりに伴うんです。 羊のたましいを生き返らせて、羊を義の道に導くんです。 死の陰の谷を行くときは羊と共に行くんです。 敵を前にして 羊のために食事をととのえ、羊を励ますんです。
あるいはイエスさまの教えで言いますと、ヨハネの福音書(***10章11節)で、イエスさまはご自身を「わたしはよい羊飼いです。そしてよい羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」(笑)とこう仰る。 こんな羊飼い、人間がなれるのか?
3節をちょっと見ていただきます?ペテロはもう少しハードルを上げますよ。
3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
この言葉「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」――羊飼いは羊を調教するな――これは大きいですよ。
皆さん、カルト的な教会の牧師で傷ついた、という話をよく聞きますでしょう? カルト的な教会の牧師っていうのは、どうやって羊を牧するのか? 大体想像はつきますが、羊を調教するんです。 迷った羊がいたら、がんがんに責め立てますね。 「あなたのそういう考え方が、そもそも神さまのみこころに適ってない」と、ストレートにスパッと言います。 そしてその人物が悔い改めたら、その羊を懐に抱いてよしよしします。 支配的になるというのは、必ずしもガンガンに押さえつけるだけではならない。 カルト的な手法というのは、非常にうまいです。 非常に強く攻撃し、そしてその人物がふっとこう我に返って気持ちを変えると、ものすごくよしよしし、そしてそれからその人物がしっかりしたならば、その人物をほめあげていく。
振り返って、皆さんね、自分の人生で、小学校の先生がどういう先生だったのか、中学校の先生がどういう先生だったのか。 どういう先生がクラスを一つにまとめ、どういう先生がクラスを揺らし(などと思い出してみてください)。
昔、不登校の子どもたちを集めて学校を開くという有名な先生がおられて、そしてその先生にかかれば、絶対に子どもは立ち直るという、大阪のおばちゃん先生でした。 ものすごい厳しい。 絶対に朝きちっと起きて、学校に行かせるんですが、それを見ていた教育評論家が、 「あれは教育ではない。あれは調教だ」 あ、なるほどな。羊飼いの優しさというのはそういうものではない。
「緑の牧場に導き、いこいの水のほとりに伴い、たましいを生き返らせて、義の道に共に進み、たとえ死の陰の谷があればそこに伴い、敵の前で食事をととのえてあげ、頭に油を注ぎ、よい羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。その1匹が失われたら、残りの99匹を野原に残してでも、その1匹を捜しに行く――羊を牧するっていうのはそういうことです」 って言われたら、だれが羊飼いになることができようか(笑)と、少なくとも私には無理だと思いますね。
ひとりひとりの羊をイエスさまから託された大切な羊と受け留め、正しい道へ導き、敵の手から守り、そして何よりも羊を緑の牧場に、いこいの水のほとりに導く――私(藤本牧師)には、そんなことはできない――それが二番目。
すると三番目にこの言葉がものすごく響く。4節――
4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたはしぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
ああ、ここに大牧者がおられる。(大牧者という言葉に慰めを見つけたという感じの藤本牧師)――
3)イエス・キリストという大牧者がおられる
この方がいつも変わらずに教会におられる。 ですから牧師が少々曲がっていても(笑)、羊を飼うことができない長老がおられても、イエス・キリストが大牧者であれば、この方が模範を見せてくださり、この方が模範となってくださる。 私たちが願うことは、どうしたらこの方の模範をほんの少しでも吸収できるか?ほんの少しでも吸収できるか? この方を見上げ、この方に倣う。 そういう役員、そういう牧師、そういう例会の幹事、そういう互い、そういう係り、そういう賛美、そういう祈りを捧げる祈り手となることができたならば――十字架の憐れみ、復活の希望をイエスさまからいただいて、それをほんの少しでも映し出すような人物になることができたならば――私たちは大牧者の前で頭を下げて、 「十分なことはできませんでしたけれども、ほんの少しかもしれませんが、精一杯やらせていただきました。 もっとあなたの憐れみを私に教えてください。あなたが一人ひとりの羊をどれほど愛しているかということを、もっと私に解らせてください。 そして私がそれを少しでも解るようになったら――あなたの憐れみを注いでいただいて、私があなたの憐れみがほんの少しでも解るようになったら――私もまた憐れみを与えることができるようになると思います」と(祈ることでしょう。)
カトリックの司祭ヘンリ・ナウエン(1932〜1996オランダ出身、元ハーバード大学の教授)。彼は小さいころに神さまの憐れみを学んだと本に記しています。
少年時代、13歳の時、彼はまだオランダにいました。 第二次世界大戦の最中で、彼のお父さんは13歳の息子ヘンリに、子やぎを世話するように与えますね。 少年ヘンリは子やぎにワルタという名前をつけて、可愛がります。 戦争のために、多くの人々が飢餓で死んでいく時代です。 彼は子やぎを可愛がりました。ちょっと読んでいきます。
何時間もかけてワルタのためにドングリを集めました。また、遠くまで散歩に連れて行ったり、ふざけてからかったり、出かかった二本の角を押して遊んだりしました。 私は子やぎを抱いて運びましたし、車庫の隅に囲いを作ってやったり、彼に引かせるために小さな木の荷車を与えてやりました。 毎朝、目が覚めるとすぐに彼にえさをやり、学校から帰るとすぐに囲いの中を掃除し、彼にいろいろなことを話しかけたものでした。 私とワルタは無二の親友となりました。
ところがある朝早くに、車庫に行ってみると、囲いの中は空っぽでした。 私はあとにも先にも、あれほど激しく泣いたことはありませんでした。 悲しみのあまり、私は泣きじゃくり、泣き叫びました。 父も母も、私をどう慰めたらよいかわかりませんでした。 それが、私が初めて学んだ愛と喪失の体験でした。
戦後、何年も経って、食物に不自由しなくなった頃、父はうちで働いていた庭師が、ワルタを盗んで、飢えた彼の家族に食べさせてくれたことを話してくれました。 父は、その庭師がやったことを以前から知っていました。私の深い悲しみも知っていました。でも一度も庭師を問いただすことをしませんでした。
いま、振り返って考えてみると、私はワルタもそして父も、思いやる愛(あわれみ)とは何かを私に教えてくれたのだろうと、しみじみ思うのです。
ものすごく深い意味を持った話ですね。 子どもは動物を飼う、世話をすることで憐れみを学びます。 そしてここに登場する少年ヘンリのお父さん、お父さんは動物を息子に与え、憐れみというのがどういうものなのか勉強させるんですね。 ワルタというのはやぎですが、自分が犠牲になって、庭師の家族の食事となることによって、ワルタもまた、少年ヘンリに憐れみを教えるわけですよね。
父親は息子がどんなに子やぎを可愛がっていたのかをよく知っています。 それがいなくなってしまったときに、泣き叫ぶ息子に心を痛めます。 しかもその原因を知っていて心を痛めます。 しかし、息子には何も言わない。庭師を問いただすこともしない。 飢餓の中で苦しむ庭師の家族を知っていたから。庭師の悲痛な思いも知っていたからです。 そこをぐっと自分の心の中に秘めて、ヘンリが大きくなってからその話をする、その父親から憐れみを学んだ。
教会っていうのは複雑ですよ。複雑です。いろんな方々がいらっしゃる。中には水と油のような方もいらっしゃる(笑)。 しかし私たちは皆一つの家族として、住んでいます。 そしてこの羊の群れの大牧者はイエス・キリストです。
この方は私たちに憐れみを教えてくださる。非常に時に複雑な方法で教えてくださる。 じ〜っと我慢し、深〜いところで同情を寄せることを教えてくださる。 何しろイエスさまは私たちに忍耐しておられる。私たちを許してくださる。 私たちを憐れむことによって、憐れむというのがいったいどういうことなのかを、私たちに教えてくださる。
私のような迷える羊を見つけて来ることによって、イエスさまは迷える羊をふところに抱えることの尊さというものを教えてくださる。 私たちはあくまでも、イエスさまが私に対する憐れみを示してくださるからこそ、私を養って牧していてくださるからこそ、私たちもまた誰かを牧するっていったいどういうことなのか、ということを教えてくださる。
イエスさまは私たちを調教はなさらない。同じように牧するということは調教とは違う。 いざとなったら、自分のいのちを差し出すほどに、羊のことを思うこと――それが牧するということだと考えながら、互いに牧会する教会でありますように。 そして互いに牧会するということを、イエス・キリストが私を牧していてくださることから学べる教会でありますように、祈りたいと思います。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、おおよそ自分の事を考えて生きている私たちですから、羊のためにいのちを捨てるとか、羊が死の谷の陰を行くときに自分も共に行くとか、羊が敵の前に立つときに食事をととのえるとか、一匹の羊を捜しに行くとか、私たちにはなかなか解りません。
しかし振り返って考えてみると、あなたはいつもそのように、私たちを憐れんでいてくださいました。私たちの祈りに答えてくださいました。私たちを守り導いてくださいました。ですから「今度は互いに互いを牧しなさい」と教えてくださるあなたの言葉が、少しわかるような気がいたします。「驚くばかりの恵み」は、単にあなたの憐れみの大きさを考えるだけでなく、涙の中でじっと私たちを支えてくださるあなたの温かさも、まことにもって「驚くばかりの恵み」です。
私たちが祈っても祈ってもなかなか叶えられず、あるいはあなたが願っても願ってもなかなか私たちが変わって行かない中、私たちは様々に忍耐を学びます。どうか学んだ忍耐を用いることができるように、私たちに互いを配慮する心を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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