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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/9アドベントU:「低く遜る者を顧みてくださる」ルカ1:46〜55
12/9アドベントU:「低く遜る者を顧みてくださる」ルカ1:46〜55

☆お知らせ

●ピリッとした冬の晴れ間、逆に言いますと、日本海側は雪なのかなぁと。光楽兄から昨日メールをもらいまして、岐阜県の揖斐郡でございます。ダムの管理でいますけれども、10センチの積雪だったと言っておりました。そろそろそういう時期だなぁと思いますけれども、雪国の教会のためにお祈りください。

●「みことばと共に行くアドベント」第2週は、WH教団の東戸塚エルシオン教会、藤冨明子先生が記してくださいました。一週間、このみことばを愛し、心に留めながら祈って行きたいと思います。

●きれいなクリスマスと年末年始の案内の葉書を渡辺兄が作ってくださいました。自分自身心に留めるだけでなく、これが私たちの教会の予定ですと、いろんな時にお誘いできるようになっています。週報台に沢山積んでありますので、どうぞご自由にお持ち帰りいただきたいと思います。

●クリスマス・年末感謝献金を行っております。この一年間、神さまから戴いた数々の恵みと喜びを感謝すると共に、是非信仰をもって主に献げることができるようご案内いたします。

●今週の土曜日(15日のこと)、座席案内のボランティアを必要としています。
昨日ここでリハーサルが行われました。私間違っていて、楽器は無かったです。70名の合唱団の方々が、大体ここ全部に収まります。全部の部屋を控室に使います。スリッパなしですので……。

指揮者は――あぁ今日浜田くんが来ていますね――今、浜田くんが務めておられる新国立劇場の常任指揮者の三澤さんで、クリスチャンでいらっしゃる。大きな公会堂でやれば1500人ぐらいのところでおやりになるのでしょうけれども、クリスチャンの方でありますから、ぜひ教会でやりたいと。それで、私たちの教会に白羽の矢が立てられた。
昨日いらっしゃったのを見て、これだけの大人数しかも、これだけのプロフェッショナルな方をお迎えするのは、これが最初で最後だなと思いました。もう2度とないなと。

ほんとに見事なまでの迫力あるハーモニーでした。曲と曲との間に三澤先生がクリスマスのナレーションを入れてくださるのです。マリヤの話や羊飼いの話を。それがとっても味わいがありました。
まぁよく、あれだけの合唱団がこんな小さな教会を選んでくださったなぁと。礼儀正しく、素早く動き、温かく、笑顔が多く、とっても温かな合唱団でいらっしゃいました。

70名の方はここから入ります。でも全部で220名がここに入ってしまうのですね。……でも公演自体は短いです。1時間ですから、出入りを早くすることによって自分はできるんじゃないかなと。少し早めに来ていただくことと……私たちとしては楽団の方で配られている150枚のチケットのお持ちの方を優先してあげたいと思いますが、三澤先生はそう思っておられなくて、ぜひ教会関係で誘った方を優先してあげてくださいとおっしゃっておられました。……

●今日から、元旦に歌う讃美歌のため、聖歌隊の練習を始めます。ホルストの「ジュピター」ですが、イギリスでは定番の讃美歌です。これを歌って元旦を始められたら、これは感謝だなぁと思います。是非聖歌隊にお加わりいただいて、重厚な讃美歌ですのでよろしくお願いいたします。

●私たちの教会は毎年元旦礼拝出席者が一番多い。クリスマス礼拝も多いですが、これから年末にかけて気温は下がる、皆さんはお忙しい、どうかお身体に気をつけていただいて、すべての行事をその恵みの中で迎えたいと思います。

☆始めのお祈り

来てください、わが救い主イエス・キリスト、私の心の扉はあなたのために開けてあります。ああ、あなたの恩寵と共に、お入りください。あなたが友であられることをお示しください。あなたの聖霊が私たちを永遠の至福への道へと導いてくださいますように。
(この日の特別賛美:横溝眞理兄による、ドイツ語原詩と教会福音讃美歌の歌詞での独唱・福60「高く戸を上げよ」より・眞理兄の原詩直訳を引用されて)

「来てください、わが救い主イエス・キリスト」――恵み深い天の父なる神さま、私たちはひたすらこの祈りをもって、アドベントを進んでいます。
倒され、年月も経った、もう岩のようになってしまったエッサイの根株から、一本の若い芽が新しい芽が生え、やがてそれが枝になり、実をつけるまで、御霊がその上にとどまるというイザヤ書のみことばを読みました。(***この日の交読イザヤ11:1〜9より1.2節を説かれて)

私たちの人生の諸問題は、ある意味すべてエッサイの根株です。少しばかりのいのちが残っているかもしれませんが、到底自分の力では何一つ実をならせることはできません。
でもあなたは、私たちの根株を用いて新芽を生え出させてくださり、のみならず、その上に聖霊を宿して、やがて実をつけるに至らせてくださる。

どうか今年、私たちが後半になって抱えている問題課題がありましたならば、それが希望の新芽となりますように。私たちは、切り株ばかりを見て呆然といたしますが、しかしあなたの恵みは、そこから新芽を生え出させ、希望の実をやがて実らせてくださることを心から信じています。
そのために、どうぞ、私の心の扉は開けてあります。礼拝の度に、心の扉をあなたに向けることができるように助けてください。

今日この場で礼拝を守ることのできない愛する兄姉の上に、今日初めて高津教会にお出でになった姉妹の上に、あなたの豊かな恵みがありますように。
土曜日に大きなコンサートを予定しておりますが、当日の公演を祝福してください。またどうか、あまりにも大人数でありますけれども、整然と、そして清々しく、恵み豊かに過ごすことができるように、私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆再度座席案内奉仕者について
ごめんなさい(***昨日のリハーサルをご覧になった感動のあまり、先程その感想だけで終わられたので)、コンサートの時に、最低でも、スリッパを並べる人、一階の席に案内する2人、それから2階の席に2人と、それが2回あります。全部やらなくてもいいのですが、可能である方は伊藤兄へお申し出ください。

☆聖書個所         ルカ1:46〜55

46 マリヤは言った。
  「わがたましいは主をあがめ、
47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために
   目を留めてくださったからです。
   ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、
   私をしあわせ者と思うでしょう。
49 力ある方が、
   私に大きなことをしてくださいました。
   その御名は聖く、
50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、
   代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、
   心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。 
   低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
   富む者を何も持たせないで追い返されました。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、
   そのしもべイスラエルをお助けになりました。
55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に
   語られたとおりです。」

☆説教     低く遜る者を顧みてくださる

今日は、「マリヤの賛歌」の中でこのみことばに目を留めて頂きたいと思います。ルカの福音書1章の53節に目を留めて、先ずご一緒に読みたいと思います。

53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
  富む者を何も持たせないで追い返されました。

先週は46節を一緒に見ていただきました。「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、」の「主をあがめ」とはどういうことかを。
今日は53節の「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(を見てまいります。)

クリスマスの時期には、文字通り多くの人たちが、キリストの前に集まります。クリスマス・ツリーの点火式があれば、知らない人もみんなその周りに集まるでしょうし、意識はしていないかもしれませんけれども、賛美歌を口ずさむ人もいれば、カンタータを聞いてみる人もいるでしょう。
私は――何らかの形で、キリストに触れ、キリストを耳にする――それがクリスマスであろうと思います。

そう考えますと、クリスマスというのは、イエスさまが生きて地上におられた頃と同じではないかと思います。その頃でも、何らかの形でキリストを見、キリストに触れた。
でも同じように皆が、イエスさまを見たから神さまの祝福にあずかったわけではありません。
イエスさまの話を聞いた者全員が幸せになれたか、というとそうでもありません。
イエスさまと話をした。だから全員祝福にあずかったとは、聖書には書いてありません。
今であっても、昔であっても、多くの人がキリストに触れます。しかし、その救いを手にするのはわずかな人々です。    

では、いったい、誰が神さまの祝福にあずかり、誰が天の御国の幸せをつかむのでしょうか。その回答が、53節にあります。

53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、
      富む者を何も持たせないで追い返されました。

この母マリヤの賛歌は、遜った姿勢にあふれています。ですから、今年アドベントを進めるにあたって、マリヤの賛歌を学ぶようになって2回目なのですけれども、マリヤの賛歌のもう一つの特色はこの「遜る」ということですね。

48節「主はこの卑しいはしために」――「はしため」というのは、女性のしもべです。それにわざわざ「卑しい」ということばをつけて、自分がどれほど卑しい人間かということを表現しています。
52節「低い者を高く引き上げ」53節「飢えた者を良いもので満ち足らせ」――ここに「低い者」、「飢えた者」という表現があります。
          
逆に、51節後半に「心の思いの高ぶっている者を追い散らし」52節は「権力ある者を王位から引き降ろされます。」
遜っている者を高く上げ、高ぶっている者を神さまは引き降ろす――それがマリヤの賛歌のテーマでありました。

先週のアドベント第一週では、あの『マグニフィカート』と呼ばれる(マリヤの賛歌の冒頭ルカ1章)46節の「わがたましいは主をあがめ」から学びました。
主をあがめるとは、神を神として、自分の小さな神観念ではなく、聖書が語る、イエスさまが語る大きな神として信頼すること。自分の小さな神イメージに、キリストを閉じ込めてしまっている――それが私たちが祝福を得られない最大の原因だといたしました。

今朝は、クリスマスを迎えるにあたって、遜った姿勢はどういう姿勢かを学びたいと思います。

1)富む者が何も持たされずに追い返らされている場面を見てみましょう。

同じルカの福音書の23章8節を私が読みますから、皆さんは9節を読んでください。

8ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
9それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。

場面は、イエスさまが十字架を前にした、最後の金曜日でありました。
すでにユダヤ人による全議会での裁判は終わりました。そこで石打の刑は確定できますけれども、しかしその刑は彼らに執行する力はない。

次にローマの総督ピラトの前にイエスさまが立たされています。
ピラトはイエスが無罪であることを確認いたしました。そして、イエスさまの公の活動がガリラヤ地方を中心としていましたので、ガリラヤ地方の別の支配者ヘロデのところへ、イエスさまを送還しました。

その時のことが、8〜9節です。
ヘロデという王さまはイエスさまを大歓迎しました。噂に聞きしイエス、前々から会いたいと思っていたイエスを、王の官邸に迎えて、自分から出向いて歓迎しました。
美味しいお茶でも用意させたのか、雰囲気をほぐすために冗談の一つでも言ったのか、
ともかく、愛想を振りまくなどとという雰囲気が出て来ます。

大歓迎でヘロデは話しかけ質問もしますけれども、しかし主イエスは、一言も答えない。ヘロデ王の前にじっと静かにたたずむだけで、何もお答えになりませんでした。
主はヘロデを何も持たせないで追い返されたのです。

なぜでしょうか――ヘロデは、「富める者」のムードを持っていたからです。
富んでいて当然です。彼は王さまです。しかし、イエスさまが感じられたのは、財産の問題でなく、心の問題です。
心の問題としての、「富める者」のムードに、主は口を閉ざして、何も持たせないで、追い返されたのです。

2)では、「富める者」のムードとは、何でしょうか。
 
ある意味、神さまの救いなんか、あってもなくても、どっちでもいい。クリスマスは時のイベント。それが過ぎればお正月(そのような感じ方をいうのです)。

ヘロデがイエスさまに抱いていた関心は、時のムードに乗せられただけのものでした。所詮自分と関係なく、ショーウィンドウからイエス・キリストを眺めるように、一度でもいいから見てみたい、聞いてみたい。何か奇蹟のひとつでもするのだろうか。
でも、それに本気になるつもりは最初からないのです。
イエスさまという方は、本気になるつもりは最初からない人に対して口を閉ざされます。

私は牧師として伝道してきてほんとにそうだなと思います。私は人間ですから、この人の信仰が本気なのかそうでないのか、見分けることはできません。でもイエスさまは見分けておられるのだなぁ、ということを時々感じることがあります。
一生懸命語っても、一生懸命お尋ねしても、関心は表面的にはものすごく見せるのですけれども、心の中ではイエスさまには絶対に心を開かないということが、最初から明らかな方がいますね。イエスさまに無関心です。複雑じゃない。

例えば、「富める者」のムードと言うのはこういう所に表れるかもしれませんね。
クリスマスは贈り物のシーズンですが、人に物を贈ることの難しさを覚える時代です。それは物があふれて、豊かで、必要な物は大体満たされていると大体の人は思っているでしょう。

クリスマス物語で、ジムとデラという夫婦の物語があります。貧しい貧しい夫婦で、クリスマスは近づくが、二人ともプレゼントを買うお金がありません。夫のジムは、自分の自慢の金時計を売って、妻の美しい髪のために髪飾りを買います。知らない所で妻は、自分の自慢の髪を切って売って、夫の時計のために鎖を買います。
当日、互いのプレゼントは、意味のないものとなってしまいます。でも、その代わり、互いに心からの愛を受け取り合うのです。

皆さんの思い出の中で、恐らく、自分の人生の絶頂のクリスマスよりも、――本当に寒い夜にクリスマス・キャロルを歌った、初めて教会のクリスマスを味わった緊張の日ですとか、あるいは残念ながら教会の礼拝でクリスマスを祝うことができず、病院のベッドの上でクリスマスを覚える――そういう日の方がはるかに主が傍にいてくださるということが分かってくるのです。

でも私たちは元気であればあるほど、この師走飛び回り、いろんなことを考え、いろんなことを処理し、いろんな人と会いながら過ごしている内に、クリスマスの本当の意味が分からなくなり、イエスさまは私たちに対して口を閉ざされる。

神さまなんかに頼らなくても、大体のことは間に合っている。一応満足しているから、あってもなくても別に困らない――(私たちは)本当に何でも持っているのか、と言われれば、イエスさまはおっしゃいました。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示録3:17)
自分ではとっても順調だと思いながら、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

これはねぇ、身体の問題でさえそうですよ。殆どの方は、レントゲンを撮ってもらって初めて「影がありますね」(と知らされる)。それまで何にも気が付かない。出血があって初めて、「検査しましょうね」(ということになる)。別に(病魔に冒されているという)意識はない。

だとしたら心の問題というのは、本当にこういう時期にしっかりと聖書に照らして、自分はいったいどこが傲慢で、どこが頑固で、イエスさまが一番お嫌いになる心の姿勢をどこに蓄えているのかということを考えない限り、あなたは実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを(これからの人生もずっと)知ることはない。
でも神さまは不思議に私たちの家庭に、私たちに、試練を送ってくださる。風邪一つで突然、本当は自分が貧しかったことに気がつくのが人間です。

あるいは、富める者の姿というのは、こういう風に出て来ます。
太宰治(1909〜1948)の一番有名な小説に『人間失格』があります。彼は何度も心中未遂を繰り返して、最後この小説を書いて、この世を去りますね。
遺言的な小説、自伝的な小説なのですがこの主人公の葉蔵という人物は、割とお金持ちの家に育ちます。その葉蔵に太宰治は自分自身を重ねるのですが、彼はこんなことを記しています。

「自分は、空腹と言うことを知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんなばかな意味ではなく、自分には『空腹』という感覚がどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。」
                  
ものすごく深い意味がありますね。
貪欲な渇望がない。飢え渇きがない。でも同時に貧しさもわからない。
真剣に求めない。なぜ真剣に求めないのか?――どこかで、ものすごく霊的に死んでいて、貧しい思いをする、悲しい思いをする、苦脳を味わうということがわからなくなって行くのです。
空腹感がわからない人には、(満ち足りることの)感謝が解らない。
涙がわからない人には、慰められるという体験は解らない。
苦悩を味わったことのない人には、慰められるということは解らない。

太宰治はやがて自分の人生を終わりにいたしますけれども、自分には空腹ということがわからなかった。それは、衣食住に困った、困らない家に育ったという、そんなバカな意味ではなく、 自分の人生の中で、自分が本当に 飢えて何かを求め、何かに必死に手を伸ばしたという経験がなかった。考えさせられますね。

あるいは、「富める者」のムードとは、こういうことかもしれません。――神さまのくださる幸せをもらうももらわないも、自分の自由だ、自分が決めることだ、と思うことではないでしょうか。
ヘロデと同じような立場にいたピラトもこんなことを言います。
ヨハネの福音書19章の10節と11節を、私と皆さんで交替に読みましょう。
  
10そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
11イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」

イエスを前にしたピラトの「富める者」のムードとはどうだったのでしょうか。
ピラトは言いました。
「イエスよ、おまえを釈放するのも、十字架につけるのも、俺が鍵を握っているんだぞ」
総督の権威です。王の権威に等しいものです。自分をイエス・キリストよりも上に置きます。
キリストを信じるも信じないも、信頼するも信頼しないも、みんな私が自分で決める。私の判断だ。

ふっと考えてみます。
●神さまがマリヤをお選びになった時に、マリヤには選択の余地があったのか?少なくともマリヤは、自分の判断で、それを受けるか受けないか決めますとは言っていないですよ。(→ルカ1:38)
●一番最初の礼拝は、野原にいる羊飼いたちでありました。その知らせが羊飼いに届いた時には、みんなで相談して、「どうする?行くも行かないも、俺達次第だ。行くの止めようか?(笑)」という会話はないのです。(→ルカ2:15)

みんなどこかで神さまに選ばれ、そしてその神さまの選びに一歩踏み出すように素直に進んで行くのです。
ところが、ピラトもヘロデも、いつも神よりも自分を上に置いて、何でも自分で決め、自分の判断です。

イエスさまは、ピラトに何とおっしゃったでしょうか。
「あなたは、神さまからその権威をいただいたに過ぎない。権威を握ったつもりでいるな。神さまはいつでもあなたの手から、それを取り上げることができる」(→ヨハネ19:11)

あなたの健康も財産も、自分の自由になる、自分が握っている、自分のものだ、と思うな。それは、神さまから与えられたものだ。いつでもそれを神さまは取り上げなさる。

ピラトは自分をイエスさまよりも上に置きました。あんたの言い分を聞いてやろう、そういうムードにあふれていました。イエスさまは彼に何も持たせないで、追い返されました。

さて、この「心の貧しさ」をもう一つ掘り下げてみたいと思います。

トマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis、ドイツ・ケンペン生まれ・1380年 〜1471年・中世の神秘思想家)の(著書とされる)「キリストに倣いて」(De Imitatione Christi)という本がありますが、中世の本で彼はこういうことを言っています。
「たとえどんなに美しくすばらしい知恵にとんでいても、どんなにすばらしい知識の宝庫を持っていても、あるいは敬虔で信仰深くて大きなキリスト教の働きに関わっていても、それゆえにうぬぼれるならば、そんなものは思っていない方がよろしい。」

どんなに敬虔で、どんなに信仰のことがわかっていても、それをもって誇るようになるなら、それをもって人を蹴散らすようなら、それを持っていない方がよろしい。

(その逆もしかり、です。)
たとえ、どんなに失敗しても、もう本当にこの人の前で顔も上げられないような恥ずかしい失敗をしても、それを思うたびに胸がうずくような失敗をしても、そのために心砕かれて、遜ることができるなら、そして謙虚に生涯生きていくのなら、その方がよいのです。
悲しみも試練も、苦悩も涙も、それをもって心砕かれるなら、それをもって遜るなら、それは幸いです。
        
私、いつも似合わないなぁと思うのですが、クリスマスのカラーは、カトリックもプロテスタントも、同じ色です。世界中の教会がいま紫です。これは言うまでもなく、悔い改めの色です。
アドベントは、親しく希望にあふれて、旅をしながら待ち焦がれるという意味と、キリストを心に迎えるために(心砕かれて遜るという意味があります。)

私たちは「富める者のムード」には浸らない。
自分がどれほど貧しい者であるのか、心砕かれて主を待ち望む。私たちは、ヘロデやピラトのようではなく、あるいは敬虔でありながらパリサイ人や道徳家のようではなく、盲人のバルテマイのように、「主よ、私を哀れんでください。私の祈りを聞いてください」(***マルコ10:46〜48)
マリヤのように、「主はこの卑しい私に目を留めてくださった。私こそは、幸せ者です」(***ルカ1:48)と祈ります。

☆お祈り

恵み深い主イエスさま、私のたましいに飢え渇きを与えてください。エッサイの切り株のように、根株のように、そこから何にも出て来ないだろうと思うような人生だとしたら、主よ、どうかその切り株が心砕かれ、あなたの御前に座ります。
自分の力でどうしても動かないような切り株でしたならば、同じく涙を流して、「憐れんで下さい」とあなたの御前に遜ります。

主よ、私たちは皆弱い者です。自分の知恵を駆使しても明日のことを知ることはできず、自分の限界を嫌というほど見せつけられ、時に自棄になるほどこの人生が思うように動いてくれません。
主よ、私を憐れんで下さい。この弱い私に目を留め、私の祈りに答えてください。そして決してあなたのもとに来た私たちを、何も持たせないで返さないでください。

時に私のたましいを鋭く突き刺し、時に私たちの心の傷に手を触れてください。
そしてどうか、悲しめる者に喜びを、苦悩する者に慰めを与えてください。
たましいが生き生きとした信仰者と私をしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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