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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/30 ピリピ(15)私たちの国籍は天にあります。 ピリピ3:17〜21
☆聖書箇所   ピリピ3:17〜21 

 17兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
20しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

☆説教    ピリピ(15)私たちの国籍は天にあります。

二回日曜日お休みしましたことを大変申し訳なく思います。そしてピリピの手紙の3章、この箇所に戻ってまいります。
前回、とってもすばらしいところを学んでいます。ピリピの手紙の3章の8節を見てください。

<ピリピ3:8>
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくたと考えています。それは、私がキリストを得て、

「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、」
自分の他のすべてのことは「ちりあくた」だとパウロは言っています。
あるいは12節に――

<ピリピ3:12>
  12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。……

そして13節の後半――

<ピリピ3:13後半〜14>
13……ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

というのが、前回二回の聖書の箇所でありました。
で、今日は17節から3章の終わりまでを見ていただきたいと思います。

  17兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

今ではあまり目立たなくなりましたけれども、昔の聖書訳では、いま読んだ中でひときわ目立つ表現がありました。
それが19節の二つ目の文章「彼らは欲望を神とし」――「己(おの)が腹を神とし」――そういう訳でありました。文語訳聖書では。
欲望というのは、ギリシャ語でコイリアという言葉ですが、もともとの意味は消化器です。
ですから、食事を受け止め、たとえば胃のことであり、あるいは小腸、大腸のことであり、
そういう意味で「己が腹を神とし」というものの言い方は、とても的を射ていると思います。
コイリアという言葉は単に消化器を指しているのではなく、食欲、あるいは欲望を意味するようになります。
それらを神とするということは、神は天におられる、私たちを超越した絶対者なるお方ではなく、所詮、私たちにとって神は自分の腹だと。
私たちの肉体の欲求を満たすことを目的として生きている人がいると――パウロはそういう風に言っているわけですね。
    
もちろん、聖書の教えによれば、自分の肉体の欲求に答えてあげることは悪いことではありません。
時には非常に健康的なことです。
ですから食べたいと思うこと、寝たいと思うこと、楽しみたい、ゆっくりしたい、頑張りたい、愛したい、愛されたい――聖書はこういう欲求を否定することは絶対にありません。

第一テモテの6章の17節にこうあります。

<Tテモテ6:17>
 17今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」
ま、ですから、ラーメン一杯カレー一杯、うまいなぁと思ったら、これを与えてくださったのは神さまだ!と思ったら、そのおいしさが100倍になってもいいですね(笑)。
ラーメン屋さんの主人に感謝するのもいいと思いますし(笑)、一生懸命並んだ自分に感謝するのもいいと思いますけれども、
これを与えてくださり、この味わいを楽しむことができる自分というのは、それは紛れもなく健康であるからですよ。
「そのすべてを与えてくださったのは、神だ」と思う、そのものの考え方を大切にしなさいという風に、第一テモテでは教えているわけですね。

しかし、そんな私たちの人生でありますけれども、もし自分を捨てることもなく、一度も自分を否定することもなく、欲望のままに、自分の十字架を負うこともなく、忍耐も犠牲的な愛もないなら、
それは所詮、先ほどの(ピリピ)3章18節の最後、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」という、少々強烈に私たちは反省すべきではないかと思うんです。

「十字架の敵として歩んでいる」私たちもいれば、17節に――

  17兄弟たち。私に倣う者となってください。またあなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに……

ということは、「パウロも私たちの手本として歩み、またピリピの教会もパウロに倣って、模範的な歩みをしている」ということですね。
その模範的な歩みというのが、前回二回見ました。先程も見ました。
ちょっとさっと目で追っていただきますと、(ピリピ)3章の8節に――「キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、すべてのことを損と思う」ようになれる。
あるいは9節に――「キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つ」、救いを持つということを人生の目標とする。
10節には、「キリストの苦難にあずかり」、それから「復活の力を知る」。
14節には、「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」

のがパウロであり、そのパウロに倣っているのがピリピの教会の人々であり、
その反対側にいるのが、「十字架の敵として歩む」(18節)、「己が腹を神とし」(19節)、そして「地上のことだけを考える者たち」(同)です、と言う。

申し上げました。食欲がなくなったら終わりです。
ですから、食欲がないと言う方があれば、私(藤本牧師)は先ず食べることが先だなぁと思います。
睡眠が取れなくなったら終わりです。
そういう人たちには、「薬を飲んででもいいから寝てください」と申し上げます。
愛されることも慕われることも必要ですよ。この世界で評価をされることも必要です。

でもパウロは、自分の腹を神とはしていない。
私たちもそうです。自分の欲求を神とはしていない。
あくまで総合的に言うならば、私(藤本牧師)は先週も今週も、「神が上に召してくださる」(14節)という目標に向かって走っているわけです。

メッセージを3つのポイントで、簡単に心に留めてみたいと思います。

1)パウロの訴えです。パウロは訴えている。

18節を見ていただきたいと思いますが――「私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのです」。
この訴えという、訴えているのは――「あなたは十字架を敵として歩んで」(18節)いませんか?
「自分の腹を神として」(19節)いませんか?
「地上のことだけ、考える者」(同)となっていませんか?

当然、私たちはそういう者ではないと思います。
だとしたら、この雨混じりの日に、教会の礼拝に来ることはないと思いますね。
しかし、パウロはさらに訴えるに違いないですね。
「時にそういうことに囚われていませんか?」と。
それが心配事であれ、悩み事であれ、現実のことであれ、非実際的なことであれ、実際的なことであれ、それに囚われる。

私は囚われる(ことがあります)。
気になって仕方がない。いつの間にか、キリストを知ることなど放り投げて、地上の課題だけで頭が一杯になる。
パウロは「涙ながらに」訴える。これをイエスさまで言うなら、「イエスさまは優しく見つめながら」私たちに訴える。
イエスさまが私たちに訴える時に、「イエスは弟子をじっと見つめ」――そういう表現を取られていますよね。(***マタイ19:26、マルコ10:21、ルカ22:61))
時にイエスさまは優しく微笑みながら、私たちに訴える。

一番目のポイントはパウロの訴え、イエスさまの訴えです。
こういうことなんですね。
現実は厳しいです。それをよく私たちは知っています。
別に自分の腹を神としているわけではない。別に地上のことだけを考えて生きている者ではない。
しかし現実は厳しいです。

私は元気にしていますけれども、現実の厳しさというものをちょっとだけ経験しました。妻の足首にひびが入りという所から始まったのか、
GWに父(藤本栄造牧師)が骨折し、手術をしてから、病院に1か月半入院し、横須賀に頻繁に顔を出すようになりました。姉はもっと(※高津から横須賀まで遠い道のりを何度も)通ったわけですけれども。
両親を励まし、施設の人に感謝し、病院の方々の親切さに頭が下がり――

しばらく(手術からひと月程経過)しまして、姉が母の所を訪ねた時に、床でうずくまっている母を見つけたんですね。
呼吸困難で、救急車で運ばれ、気管切開しました。
良かったなぁと思いますけれども、ある意味、母には残念だなぁと思います。
もうちょっと遅れていたら、そのまんま、天国に行けたのに(大笑)、ま、そういう気持ちを持つような母でありますが、
それでは、父にとってはあまりにも哀れで、自分が入院している間にそんな大きなことがあったら残念だと思いますが。
結果、喉に大きな腫瘍ができていて、気道を圧迫して呼吸ができない。
それが食道をも圧迫して食べ物が入らない。ですから母は10キロぐらいここの所痩せて来ました。
10キロ痩せて、ま、ちょうど90歳の年齢にふさわしい体重だったので、これでよかったなぁという、私たちの楽観的な見方もあったんですけれども。

「なんかおかしいだろう」と思って、父と相談して、「一度検査にも行くべきかなぁ」とか勧めますと、全部母は否定しますので、もういいや、もう頑固だから、本人もある程度自覚しているのだから、もう90だし、あまりシビアな検査を通すことだけでも可哀想だなぁと思っていました。

さて、気管切開をしましたので、自立生活を基本としているケアハウスには戻れない――これが大きな転換点でございまして、
父がリハビリの病棟で、私(藤本牧師)と姉でそのことを報告した時に、
「だったらぼくも戻らない」と言ったんですね。

母がいないんだったら、そこに戻る理由がない。
これから父はどんどん老いていく。そして子どもたちの世話になっていく時に、川崎と(高津と)横須賀では遠すぎる。
だから何とかして、高津のそばに移るということを考えたい。
あ、なるほどな、と私たちは初めてその時に、なるほどな、と思いました。
すぐに同意して、確かに横須賀は近くないですね。
出来たら二人が引っ越せるような、ま、片方は末期がんでありますし、片方は93にして股関節の手術をしましたし。
(※高津のそばに施設を捜してみるよ、ということになったようです。)

私(藤本牧師)はこの間、滋賀県での奉仕のために、3回集会がありました。
それから、(先週の)神戸の奉仕が4回の奉仕がありまして、その準備や移動や色々で高津の講壇を2回(連続)空けて申し訳ありませんでした。
でも、水谷先生の説教とか、戸塚先生の説教が決まっていましたので、私(藤本牧師)はそれでよかったかなぁと、ま、圭子(夫人)に負担をかけましたけれども、その分だけ皆さん頑張ってくださいましたので、よかったなぁと思いますが。

私はこういう事態を姉に任せることの申し訳なさって、もちろんあります。
でも滋賀県に行き、神戸に行き、移動は面倒臭いですけれども、現実から離れるありがたさ。
この高津と横須賀を通いながら、そして二つの病院を一度に行きながら――ま、姉はそれをしているわけですけれども――そして老いた親に話しかけ(笑)、色々説得し、説明し、どこへ行っても頭を下げ、
何かほとほと疲れてしまって、私は家内に、
「ぼくは親の介護は得意じゃないと思う」そしたら
「別に得意な人はいないでしょう」(大笑)って話になって、
ま、それでも、色々な悩みを相談できる相手がいるというだけで感謝ですね。
これ一人でやっていたら、多分その世界にのめり込んで、そして自分の仕事も全部何もできなくなってしまうんだろうなぁと思ってしまいます。

いいですか?
別に私は、「自分の腹を、欲望を神として」生きているわけじゃない。
まして私はやるべきことをやっているのであって、キリストと敵対して歩んでいるわけでもない。
地上のことだけを考えて生きているのかと、いやいや、そんなことはないですよ。
しかし、私たちは誰もが、地上の必要、現実的な問題に囚われ、縛られ、
そして気がつくとそのことだけを考えている位、のめり込んで疲れ果ててしまうのが、私たちだと。

そういう中で、パウロは涙ながらに訴えるんですよね。
確かに、そういう一面もあるのかもしれない。
でも人生は、キリストの十字架を捉え、キリストの復活の力にあずかり、
私たちはもう少し高い次元を生きている、高いお方に守られている、導かれている、ということに気がついた方がいいのではないか?

2)しかし、私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)

この言葉ですね。このみことば、この霊的な現実のすがすがしさ。

先週、娘が(アメリカから)帰って来まして、娘が帰って来たメインの理由は――ま、30を超えているんですけれども――アメリカと日本の両方の国籍を持っていまして、ま、別に今は両方の国籍を持っていていい、決して法律違反ではないですね。
で、アメリカで日本のパスポートが切れて更新しますと、やっぱ何だかんだ領事館で言われるんじゃないかと。だから日本で更新しようと思って帰って来たんですね。
私は娘に、誰かから聞いた話で、「全然大丈夫じゃない?」
だって、来年オリンピックがあって、大坂なおみさんは20歳で二重国籍だから、そのどっちか選べっていうのを大坂さんに迫ったら、大坂さんは100%アメリカ国籍を選びますよね(笑)。
そうすると日本代表じゃなくなってしまうので、それだけでも日本人全員ががっかりするから、「領事館はそんなアホなことを迫ることはないよね」と。

私たちは二重国籍なんですよ。天に国籍がある。
これ、ほとんど考えていない。ある時、考えるんでしょうけれども、天に国籍がある。
それを普通〜に生活し、しかし、もう一つ、私たちは日本に国籍があるわけですね。
「天に国籍がある」というのはすごいことで、これは私(藤本牧師)ずっと前に話したことがあるんですけれども、びっくりしたことがあります。

日本でもそうなんですが、日本で皆さん、海外から降りて来ると、「日本人用」それから「海外用」と列が分かれるじゃないですか。
で、日本は割とさっさかさっさか行くんですけれども、アメリカは、外国人の列に並びますと、下手すると一時間二時間かかるんですよ。
そして、母国の人は素通りですよね。素通りだけじゃないですね。必ず言ってくれる言葉が“Welcome home!”ですよ。
「よく帰ってらっしゃいました」と言って迎えられる。
外国人はありとあらゆる難癖つけられて(大笑)、時には別室に呼ばれ、
確か圭子(夫人)は、パスポートと本人の顔を見比べて、「別人じゃない?」とか言われて(大笑)、
「えっ、それってどういう意味なの?どっちが悪いの?」というような話ですけれども、ありとあらゆる難癖をつけられて。
でもアメリカのパスポートであれば、「お帰りなさい!」ですよね。

パウロが言う「われらの国籍は天にあり」というのは、その一番のありがたみを知る時は今ではない。それは天国に帰った時ですね。
イエス・キリストに迎えられ、そして「お帰りなさい!」って言ってもらえるんですよ。
他の人は皆なんか訳のわからない列に並ばされて、でも私たちはもう素通りであるかのように、「よく頑張って来た。お帰りなさい」って。

私たちはこの二重国籍、つまりもう一つの国籍を手に入れた、ということを喜ぶばかりでなく、パウロが言うには、
「いや、本来、天国の方があなたの国籍なんです。地上は仮住まいなんです。
私たちは地上にあって旅人で、地上にあって寄留者(***へブル11:13、Tペテロ2:11)に過ぎない」
私たちはそれを嫌うあまりに、何とかして地上で自分の城を建てようと頑張る。
でもどんなに立派な城を地上で建てたとしても、あなたはそこにあっては旅人に過ぎないということを、忘れてしまうんですね。

時に、そういう忘れてしまう私たちの前に、死を前にした人が出現するんです。
教会の中で何度も出現しました。近くはフアンさん。
フアンさんの写真はまだ(掲示板に)貼ってありますけれども、フアンさんがそうでしたね。
この霊的な現実のすがすがしさ――「われらの国籍は天にあり」という。

母が姉夫婦と妹夫婦、呼ばれてお医者さんから説明を受けて、「さあどうします」みたいな、喉頭がんの説明を受ける時に、
「手術を受けずに、そのまんま、地上生涯を閉じる」ことを、表明しました。
家族もほっとしました。医者もほっとしたと思います。
手術を受けたら大変なことになる。寝付いちゃう。年齢から考えると。
どんどん食べ物が通らない、痩せていく。その内次の癌が追いかけて来る。
だからお医者さんとしても、「このままで行くっていうことをお勧めします」
それは、40歳50歳とは違う。
40歳、50歳であればできる限りのことを尽くして、戦うということが一つの方法ですけれども、90はそれ以上に生きて来たわけですから。

母は何度も「自分は90歳ですから、90歳ですから」と言うんですけれども、
しかし医者にはあまり言わない、それ以上の現実というものがあるんです。
医者の前では「もう十分生きましたから、これ以上結構です」というのはある。
だけど、その本心はそうじゃないですね。
自分の国籍は天にあり、自分はその天国に向かって、最後の走りを走ろうとしているのに、そんな余計な手術はやめてくださいという。
残るは主イエス・キリストが栄冠を手に持って、私のために待っていてくださるだけなのに(***Uテモテ4:7〜8)、地上でこれ以上縛らないでほしい、というその本音があるわけですよね。
それが、「われらの国籍は天にあり」ですよ。

そういう人に私たちは時々触れるんです。
ですから教会の中で葬儀があるということは、すごくすばらしいことで、
葬儀がある度に、
「あ、地上生涯というのは、最後はかないんだなぁ。何一つ持って行けないんだなぁ」
最近棺の中に聖書を入れようとしますと、係りの方に「それ、出してください」と言われますよね。
「あんな分厚い書物、なかなか火が通りませんよ」と言われて、
あ、聖書も入れられないのか、何一つ入れられないんですよ。
それが私たちの人生で、そして「本が好きで、自分は蔵書5千冊溜めた」という人がこの中にいらっしゃいましたら、
「さっさと捨てましょう(大笑)。
読みもしないのに、飾っておいてどうするのですか。
それは家族の重荷になるだけですよね。
さっさとbook offを呼んで(大笑)、全部持って行ってもらいましょう」
それで、どこが悪いんだ、と私(藤本牧師)は思います。

Tさんは沢山本を読まれるんですけれども、読んだ本を全部私にくださる。
私も読んで全部捨てちゃいますけど(笑)。ほんとはTさんに戻さなきゃいけないんだけれども、きっとTさんのことだから、頭に全部入ってんだろうなぁと思いながら、全部、いい本を沢山。
兄弟の頭はしっかりと知識を蓄えるんですが、私はザルですから(大笑)、読んで後で思うのは、読んで何の意味があったんだろうと思ったりしますけれども、ま、それでも読む意欲っていうのは大切ですね。
ま、本から離れてはいけないと思うんですが。

私(藤本牧師)が勝手に決め込んでいる教会の第二墓地っていうのがあります(笑)。
ね、第二墓地。それはW家の墓なんです。
教会の墓地からしばら〜く下って行ったところにW家の墓があるんですが、
これを堂々と第二墓地と呼べる理由があります。
それはW家という文字が刻まれていないですよね。
その代わり、墓石に「われらの国籍は天にあり」と書いてあるんですよ。
もしかしたら教会の墓地よりいいかも(大笑)と言う位整っていて、そのお花の植えられ方も、実に植木も整っていて、
「われらの国籍は天にあり」――その墓石を見る度に励まされます。
なぜかと言うと、その墓石にふさわしく歩んで行った方々が、私たちの教会には沢山いるんですよ。

「われらの国籍は天にあり」――つまり大切にしなければいけないのは、
この(ピリピ)3章の20節の、「しかし、私たちの国籍は天にあります」というこのみことばだけではないです。
大切にしなければいけないのは、「パウロはそういう生き方をした」という事実と、
そして「パウロを手本として、そういう生き方をしている人たちが、沢山ピリピの教会にも高津の教会にもいる」ということです。

私たちは毎日毎日、「われらの国籍は天にあり」と考えて生きているのではないです。
毎日毎日それを考えてたら、だんだん仕事しなくなりますから。
もうちょっと真面目に仕事をするために、とにかく自分にはやるべきことがあるということをきちっと把握しなければいけないですが。

しかしこの一つみことばを開いていただきたいと思うんですけれどね、
3番目に見ていただきたいみことばなんですが――
詩篇の84篇ですね。5節、ちょっとこれは一緒に開いていただいて、もう終わりにいたしますので。
ご一緒に読んでみたいと思います。詩篇84篇の5節、いいですか。

<詩篇84:5>
5なんと幸いなことでしょう。
  その力があなたにあり 
  心の中に シオンへの大路のある人は。

地上に生きる人です。天上の人ではない。今の私たちです。
でもその力は神にある。そして心の中にシオンへの大路がある。

私たちだって、きっと自分の人生の終わりを迎えるにあたったら、同じように潔くなると思います。
でも別に人生の終わりだから潔いのではないです。
頭の中に様々な問題を抱える時も、困難や難題に阻まれている時も、心の中にはシオンへの大路がある。
大路っていうのは、英語でハイウェイです。
ハイウェイがある。下道の道路(地上の道路)はカーブが多く、信号も渋滞もいっぱいある。
でも心の中には、シオンへのハイウェイ、(真っ直ぐな)天国へのハイウェイが伸びている。
それがパウロの姿で、それが私たちの姿であるわけです。

私たちは、人生の最後を迎えようとするような先輩、あるいは大きな病気に苦しむ先輩方が、何を整えるのか?
自分の持ち物を整えている人を、私(藤本牧師)は見たことがないですね。
ま、ヒゼキヤがイザヤに言われたように、
「あなたは死ぬ。帰って家を整理せよ」(***U列王記20:1、イザヤ38:1)
死ぬ頃に整理なんかできないですから、だいぶ前に、元気な内に整理しておかないと(笑)、
でもこれは、スティーブ・ジョブズ(1955〜2011・56歳没・アップル社元会長)が言いましたよね。
「これは医者の定型文句だ」と。
スティーブ・ジョブズは、すい臓がんが見つかった時に、医者に言われました。
「帰って家を整理しなさい」と。
イザヤからヒゼキヤが言われたのと同じ言葉です。で彼は直感するわけですね。
これは末期がんで、あと6か月だなぁと。
「帰って家を整理しなさい」というのはドクターの定型文句だ。
なるほどなぁと。

そういう中で、私たちが整理するのは、多分、ま、荷物もそうなんでしょう。
そして少々の預金があれば、それをどうするかというのも考えなければいけないのでしょう。
でも、一番準備しなきゃいけないのは、自分の心の中の「シオンへの大路」をもう一回掃除する。
「シオンへの大路」があったはずなのに、至る所に累々と障害物が築かれているんですよね。
粗末にして来た「シオンへの大路」。それをもう一回真っ直ぐにきれいにする。
そしてきれいにして天国に上がって行った人たちを、私たちは自分の模範とし、
そしてそういう方こそ「われらの国籍は天にあり」という墓に入るのにふさわしい方々ですね。

3)ピリピの手紙の(3章)21節に戻ってください。

ここに興味深い言葉がありますので、みことばに目を留めて終わりにしたいと思いますが、
(ピリピの手紙)3章の21節――※読み始める藤本牧師

21キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

天国に行ったら。
3つ要素があります。
@真ん中に「私たちの卑しいからだ」――これはもうよく解っています。元気なからだも老いていく。痛む。傷つく。何かを失います。

Aそして、一番最後に出て来る「ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださる」――キリストの復活のからだと同じ姿に変えてくださるというのが、私たちの最終目標であるということは分かります。

Bさて、注目していただきたいのは、21節の一番最初です。
ここまで言うのか、という位すごい表現です。
「キリストは万物をご自分に従わせることさえできる御力によって」
凄い力ですね。万物をご自分に従わせることさえできる力で、あなたの朽ちていくからだを栄光に変えてくださる。

これは開きませんけれども、第一コリントの15章の24節〜27節の引用です。
どこかに書いておいていただければ、後で読んでいただいたらわかりますが。

※折角ですので、ここに引用を書き込んでおきます。
<Tコリント15:24〜27>
24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
25すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。……

そこで強調されているのは――Tコリントの15章の24〜27です――キリストの支配です。
つまり、それほどものすごいキリストの支配の中に生かされている(私たちです)。
ですから、どんなに私たちが苦労しても、またどんなに囚われても、「心の中にシオンへの大路がある」ということを軽んじてはいけない。疎(おろそ)かにしてはいけない。
やるべきことは沢山あるかもしれない。でも「シオンへのハイウェイを整える」というのは、一番大切なことなのだ。
(※このキリストを礼拝する尊さです。)

所詮私たちは、朝には花を咲かせているが、夕方には萎れてしまう野の草の花と同じですよ。(***Tペテロ1:24)
その私たちが、どのようにして「シオンへの大路」を整えるか、キリストの支配の中で。そういう一週間でありたいと思います。
一週間、また私たちは同じ場面に戻って行き、またこれまで以上に私たちは様々な問題課題を抱えるのかもしれません。
でも神さまは、「シオンへの大路」を私たちの心の中に造ってくださる。
それに心を向けた時に、私たちは「お疲れさま」と言ってお茶を飲むことができる。
「お疲れさま」と言って安らかな眠りに就くことができる。
そして神さまは、私たちの疲れたからだを癒してくださる。
圧倒的、「万物さえをも従わせる神の御力によって、」(ピリピ3:21)あなたを守ってくださる。
そのことを絶対に忘れないように。
そして何かあった時に、思い出しなさい。
何かあった時に、天国のパスポートを出しなさい――「我らの国籍は天にあり」
「お帰りなさい」と言って天国に迎えられる一人になりたいと思います。

☆お祈り――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、これが特定な人に与えられた特権ではなく、キリストを信じるすべての人に与えられた特権である――キリストの全力の力を用いて、キリストは、私たちの朽ちるべきからだを栄光の姿へと造り変えてくださる。

だとしたら、キリストは全力の力をもって、地上生涯に寄留して、様々に悩んで、多くの困難を越えていく私たちを、守ってくださる。

あなたの支配の中を生き、心の中にはしっかりと、しっかりと、「シオンへの大路」を整えることができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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