☆聖書箇所 マタイ22:1〜14
1イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。 2「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。 3王は披露宴に招待した曲を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。 4それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』 5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、 6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。 7王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。 8それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。 9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』 10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。 11王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。 12王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。 13そこで、王は召使たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
☆説教 神の招きに答える
宮崎教会、岐阜教会の方々のみならず、ほかの教会の方々も聞いておられると思います。 別に高津だけではないと思いますが、本当にようこそ来ていただきました。いつの日かこういう教会にお招きいただきたいなぁという風にも思っておりますけれども、どこへでも手弁当で出かけていきますので、お声かけてくだされば感謝であります。
今日からキリスト教会は受難週に入ります。 ですから、今日は「棕櫚の聖日」と呼ばれています。英語ではパームサンデー(Palm Sunday)ですね。
ガリラヤを中心に伝道してきたイエスさま、弟子たちが、とうとうエルサレムに入られました。 主イエスはゼカリヤ書に書いてある通りに、メシアとしてエルサレムに入京されます。 その時群衆は、今日読みました詩篇の118篇を引用して「ホサナ、ホサナ。主よ、救ってください、主よ、救ってください」と叫びながら、棕櫚の枝を振りながら迎えました。 ですから「棕櫚の聖日」と呼ばれるようになります。 しかしイエスさまは、エルサレムをローマの支配から解放する、そういう救い主ではなく ――私たちを罪と死の奴隷から解放する救い主として、ご自身のいのちを贖いの代価として差し出すために――つまり十字架にかかることを意識して入って来られました。
この週の木曜日には、最後の晩餐を弟子たちと共に持ち、金曜日には十字架にかかります。
で、今朝読んでいただきました聖書の箇所は、主イエスさまによるたとえ話ですね。 十字架を前にして、イエスさまはとても興味深いたとえ話をなさいました。 そこから今日はご一緒に学んでいきたいと思います。 (マタイ)22章の2節から読んでいきます。
<マタイ22:2〜4> 2「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。 3王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。 4それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴にお出でください」と。』
「最後の晩餐」も、主イエスが弟子たちのために整えられた食卓でありました。
このたとえを見ますと、そもそも主イエスがこの世に来られ、これから十字架にかかるということは、すべて私たちを「結婚の披露宴」に招くためだったということが分かります。 「結婚の披露宴」というのは、この世において、また永遠の世界における「神の祝福」のことを指します。 この祝福は神さまが備えてくださるものであって、私たちが備えるものではありません。 2節にありますように、披露宴を催してくださるのは王なんですね。 私たちは、そこに招かれている3節の「招待した客」だということが分かります。
披露宴を催すために、どれほどの準備が必要なのでしょうか? この時期は大変ですね。 三週間ぐらい前に、「世の中一般で、いま結婚式はどうしているの?」と私(藤本牧師)はSさんに尋ねました。 その当時は結婚式はそのまんま行われているようだ、という話を聞きました。 理由は単純です。それは結婚式をするために、ものすごい準備を重ねてきているんですね。 ですからコロナウィルスの感染が始まったとは言え、色んな方策を取りながら、今まで重ねて来た準備を全部ほかして(捨てての意味?)しまうっていうことができない程、淡々と喜びをもって、その準備を重ねてきているんですね。
Sさんのケースは、そもそも教会で結婚式を挙げ、披露宴はせずにという計画で来ましたので、ダメージはまだ少ないんです。 でも教会での披露宴でさえ、誰を招くのか、プログラムは妹さんが作ってくださいましたけれども、非常に凝ったプログラムで、これまでの二人の写真を全部入れ込んだ数ページにも亘るものでしたけれども、今回それを使うことはありません。 100名を超える方々が集まるはずでありました。 でも結果的に、今それが許されるような状況ではないわけですね。 Sさん、Yさんおめでとう!おめでとうですね。 そして名古屋に行ってらっしゃい。 式の後に直ぐに名古屋にいらっしゃると聞きましたけれども、改めて二人を喜びの祝福をもって送り出したいと思います。
結婚式の話を、あるいは披露宴の話を今しているわけですけれども、 天国の祝宴に招かれている私たちのために、父なる神が何をどういう風に用意されたのか? それがイエス・キリストの受肉であり、この世に来られたキリストであり、その教えであり、働きであり、最終的にはキリストの十字架でありました。 ですからイエス・キリストは一番最後十字架の上で仰ったことば、「完了した」と仰いますね――「その準備が完了した」と。 神さまに背を向けて、各々好き勝手な道へと迷い出てしまった私たちを再び神のもとに連れ戻すために、その道を用意するため、整えるために ――つまり私たちの罪、それに対する裁きを代わりに担ってくださるために―― (イエスは)十字架に向かって行かれました。 あのイザヤ書53章の有名なみことば――(※説明を加えながら読む藤本牧師)
<イザヤ53:4〜6> 4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 (※イエスさまは神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと、と説明) 5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが(※キリストへの懲らしめが、と説明)私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に(※イエス・キリストに、と説明)負わせた。
そしてイエスさまは十字架の上で、「完了した」と仰いました。 この「代わりに担う」という「贖いのわざ」が完了したということですね。 それがマタイの福音書の22章の4節です。一番最後にこうありますよね。 「私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください。」 「何もかも整いました」というのは、イエス・キリストが地上に来られ、最後十字架にかかるまでの過程で、何もかもが整いました。 私たちは招かれるのみです。
では、簡単に3つのポイントで、今日の説教をお話しいたします。
1)神は招かれる
神は招かれる神です。 神はアダムとエバを招いて、召して、二人を結び合わせられました。 神は動物たちを招いて、ノアの箱舟の中に入れられました。 神はダビデを招いて王とされ、神は漁師であったペテロに「わたしについて来なさい」と招かれました。 聖書の中で、この《神さまの招き》を最も象徴する言葉は、「来なさい」です。 英語ではComeです。
<イザヤ書55:1> 1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。……
<マタイ11:28> 28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
「来なさい」と。 イエスさまは十字架にかかる前の週、ご自身の働きを総括するように、このたとえを話された。(マタイ22章)4節に―― 「食事の用意はすべて整った。雄牛も太った家畜も屠って、何もかも整いました」 それから《招きの声》が発せられる――「どうか宴会にお出かけください」です。
受難週というのは、こういう週だということを心に留めていただきたいと思うんですね。 私たちのためにいのちを投げ打たれた、主イエス・キリストのみ苦しみを覚える週です。 そうすることによって、主がなぜ十字架にかかられたのか?――ああ、それは私の罪のゆえであったと深くうなだれる週でもあります。
しかし、同時に覚えておくべきは、受難週というのは恵みに招かれる週です。 特別に私たちは耳を傾けていなければなりません。 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」 イザヤ書の55章の(1節の)次がこうですね。 「さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。」(※手に入れなさいと、と説明) 「贖いの代価はすべてわたしが支払った」とイエスさまは仰る――「何もかも整いました。」(マタイ22:4) 《来たれ、来なさい。そして恵みにあずかりなさい。》――それが受難週です。
2)気にもかけない人、(その1)
3番目(のポイント)は気にもかけない人(その2)ですけれども、 まず最初に出て来る「気にもかけない人」というのを見ていただきたいと思います。 これがたとえ話の一番の中心になるわけですね。(マタイ22章)5節をご覧ください。
5ところが彼らは気にもかけず、ある物は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
ちょっと聖書を開いていただきたいと思うんですが、ルカの福音書の14章18節を見ていただきたいと思うんです。 同じたとえなんですけれども、もう少し断る理由が克明に記されています。 17節から読んでいきますね。
<ルカ14:17〜20> 17宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。 18ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』 19別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』 20また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
気にもとめずに。 ルカの福音書の様々な理由を取りますと、どれを取りましても、純粋に日常的な理由です。そうですよね? 私たちが教会に行こうとすると、生じて来る答えですし、あるいは特別な集会にお誘いすると、よく聞く答えです。 つまり、神さまの招きは私たちの普段の生活で、日常の真ん中にやって来る。
その時、その招きを聞いた私たちは、その手にあることを何か掴んでいる。 自分の仕事の約束があるから。自分の仕事があるからやめておきます、と神さまの招きを断るんです。 あるいは「いずれまた」っていうのがありますよね。 「いずれまた」――そう言って永遠に繋がる約束を前にして、様々な日常の必要を並べ始めるんです。 これは私たちクリスチャンも心得ていなければいけないですね。
多くの人が天の御国に入れないのは、彼らが極悪人だからではないです。 人々が犯罪人だからではありません。 全く害のない、日常の問題が、いつの間にか天への道を塞いでいるんですね。 招待状は日常のど真ん中に入ります。 ある人にとって人生の真っ盛り、仕事の真っ最中、 最も忙しい時に、子どもの教育のことも、家族の将来のことも、悩みも頭の中にびっしりと詰まっている時に、いきなりやって来ます。 あるいは普通に道を歩いていて、やって来ます。 そして口から出てしまいます――「今この時に、神さまが私をどう思っているかなど考える余裕もない。」 招きは日常のただ中にやって来ます。
以前、圭子(夫人)と一緒に、インドの神学校の卒業式にお招きいただいたことがありました。 夜の聖会が終わりまして、そしてホテルに帰る途中、ものすごくきらびやかに電飾が付いている場所がありまして、「ちょっと覗いてみよう」と思って覗いてみて、何の集まりかさっぱり分かりませんでした。 中から皆さんこうやって手で招いておられるので、「え?」何やっているんだろう?と思ったら、食事していらっしゃるんですね。で、一番外にいた人が 「いま結婚式の宴会やっているから、あんたがたも加わったら?」と。 「あんたがたも加わったら?」って、 「見たら分かるように、私たちインド人じゃありませんし、私たち近隣の人じゃありませんし」 「そんなの構わないよ」と。 で、私たちは中に入ってみますと、「どうぞ、どうぞ」と席を空けてくださって、そして何が良い、これが良いと、わんさか食事を用意してくださり、 「これって食べて大丈夫なんだろうか?」だとか、「帰りにお金払うんだろうか?」とか、「花嫁花婿に何にも持って来なかった」し、「通りがかり」ですよ。
でも「すべて整ったんです」ね。 それが余ってしまうってことが大変残念なんですよ。ですから道行く人でもいい、このお祝に参加してほしい、というその「王の願い」「神の招き」は私たちの日常の真っただ中にやって来る。 でも私たちは「帰る途中です」と言って、急ぎ足に帰って来る。 (日常の)真っ只中にやって来る。「今、仕事の最中です」と言って振り向きもしない。 私たちは婚礼の宴の食事を、そういう形で断っていくわけです。
これってなかなか難しいんだということを覚えておいてほしいんですけれども、 以前壮年会のTHさんから――まだ当時はカレブ会でしたね――こんなメールをいただいたことがあります。 その頃からカレブ会のメーリングリストというのがありまして、そして配信されました。 随分昔ですから、ここで読んでもお許しいただけるだろうと思います。 そのまま読んでいきますね。(彼が)九州に出張した時です。
今朝ホテルの窓を開けたら、目の前に大きなカトリック教会がありました。いつも泊まっているのに今日まで気がつかなかったなんて、自分は何を見ていたんでしょう。 その教会は現代風の建物で、壁面にパウロの壁画がなければ気がつかなかったと思います。
十字架はどこかと探したら、ホテルの窓よりもはるか上の高いところにありました。しかもホテルの窓からでは、真横から見るので、避雷針のようにしか見えませんでした。 これじゃ気がつくわけないと納得しながら、新しい発見に気分を良くしていました。
教会の十字架がはるかに高いところにあり、また、見る角度によっては避雷針のように見え、十字架であることにも気づかないように、人間の目線で物事を見ていたら、神さまの働きに全く気がつくことができないのでしょうね。 今日の仕事のことで色々考えさせられましたが、うつむいてばかりでなく「上を向いて歩こう」と思った次第です。(※ここまでで読み終わり)
というメールを皆さんに配信されたんですね。 非常に象徴的です。このTHさんの日常に起こった出来事というのは、今日の聖書の箇所で言えば、神さまの招きです。 それは日常のただ中にやって来て、それが神の招きだという重要性がよく解っていない。 見る角度によっては、それは単なる一つの出来事にしか見えない。 でもよく見てみると、「わたしの所に来なさい」という、Come来なさいという声が聞こえてくる。 その声に対して、もし気にも留めない程、私たちが日常生活に埋もれていたら、私たちは恵みにあずかることはできないです。
毎日、新しく感染者の数が増大して行くのを聞きます。 私(藤本牧師)は日本の場合はこれからだろうと思っていますが、 マスクばかりではなく、様々な制限が日常生活にかかって来ますでしょう。 もうすでにこの形態の礼拝は7回目です。もしかしたら20回行くかもしれません。 大きな大きな制限です。
しかし新型ウィルスのニュースにばかり埋もれてはいけない。 今週は受難週です。私たちは勿論万全に身を守ります。 しかし同時に、どうなるんだろうか?何をするんだろうか?という漠然とした不安の中で、何もせずに不安の中に埋もれているようなことはしない。 私たちは神さまの祝宴にいつも招かれているんだと。そしてその招きは突然日常の中にやってくる。 「わたしのところに来なさい。あなたの不安を話しなさい。世界は混沌としています。 あなたの不安を世界に話しても意味がないでしょう。あなたの不安をわたしに預けなさい。 わたしが代わりにあなたのために心配してあげます」とイエスさまは仰いますね。
三番目、最後ですね。 3)もう一人の「気にもかけない人」(その2)
二番目にもう一人気にもかけない人が出て来ます。これも興味深いですね。 マタイの福音書22章に戻っていただいて、そして大通りから色んな人を集めて来た。 ところが10節――
10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。 11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
興味深いです。10節、いいですか、「良い人も悪い人も」、貧しい人も、これはありとあらゆる人っていう意味ですから、心が不自由な人も、身体が不自由な人も、みんな集まって来て、宴会場は一杯になったと。宴会場は物凄く一杯になった。 当然、当然ですよ、着ている服は様々なはずですよ。道端から直接来たんですから、みんなが礼服を着ているわけじゃない。みんなバラバラですよね。
でも特別神さまの目から見て、「この人は礼服を着ていない」と思った人がいた。 その礼服っていうのは、どういう服なんだ? これは教会の歴史の中で、特にプロテスタントの歴史の中でいろいろ論議されて来たことです。 改革派、(カルヴァン派)の人々は、これは「キリストの義」であって、キリストの義をまとって来なかった、という風に理解します。 それに対してウェスレーは、それはキリストの恵みによって、私たち自身が変えられて行くこと。 つまり「婚礼の礼服」っていうのは、「恵みにふさわしく生活していくこと」だと。 《単純に外からいただいたキリストの義だけではない。その義を着て、恵みにふさわしく生活して行くうちに、私たちに身について来るキリストらしさ》 というのが、「婚礼の礼服」なんだと言います。
私(藤本牧師)は、こういう議論は無意味だと言っているのではない。 でも恐らくポイントを外しているだろうと思いますね。 話のポイントはそういうことではないです。 恐らくこの二番目めの「気にもかけなかった人」というのは、どういう人か? 来るには来たんだけれども、彼は招待を当然であるかのように軽々しくやって来た。 感謝もせずに、恐れもおののきもなくやって来た。
王の婚礼の席で、彼は町の運動会にでも行くように出て来たということだろうと思います。 それは彼が来ていた服を言っているのではないです。 先に招待を受けていた人々が、その招待を軽々しく考えて断ったように、 この男は招待には答えた。しかし、天の御国に入ることを軽々しく考えていました。 つまり感謝もなく、驚きもなく、当然の顔をして出かけて行きました。
来週のイースターに聖餐式をいたします。 と申しましても、ここ(礼拝堂)で聖餐にあずかる方々は10名ぐらいでしょう。 皆さんはどうぞご自宅で整えてください。私が式文を読んでお祈りをいたします。 どうかそれが空しい儀式とは思わないでください。 それをいい加減に取り扱わないでください。 パンはコンビニのパンだろうと思います。教会で使うのもコンビニのパンですからそれでいいです。どんなパンでも結構です。 ウェルチのぶどうジュースはなかなか見つかりません。ワインはどこにでもあります。 ワインでいいです。イエスさまはワインでしたから。 ぶどうジュースというものができたのは19世紀ですから。 ただ水で割ってください。 十字架のイエスの死を確定させる時に、ローマの兵士たちはイエスさまの脇腹を槍で突きました。その時に「水と血が噴き出して来た」とヨハネの福音書には記されています(***ヨハネ19:34)。 ですから、ワインは水で割るというのは教会の聖餐式では一般的です。
それを祈りきよめるのは、聖霊の働きです。聖霊は礼拝堂だけにおられるのではない。聖霊は私たちのすぐそばに、求める時におられる。 なおかつ、私たちが信仰をもってあずかるならば、それが会堂である必要はない。 どこであっても、信仰によってあずかるなら、神は私たちの罪を真実に赦してくださり、永遠のいのちに繋ぎ止め、場所は違っても私たちを一つにしてくださる。
さあ、来なさい。準備はすべて整いました。なぜならわたしが十字架の上であなたの救いのために代価を支払ったのです。あなたは再び、神のもとへと買い取られ、無代価でその祝福にあずかった。 だから「気にも留めない」というような姿勢ではなく、感謝して恐れおののいて、聖餐にあずかりなさい。 感謝して恐れおののいて、今週を過ごしなさい。
私たちが神のみもとに帰るためにすべてを整えようと、イエス・キリストはこの受難週を過ごされた。 新年度であり、コロナウィルスで世界が震えている時期でありながらも、「なお十字架は輝けり」と、あの讃美歌(***福436 遠き国や)の通り、なお十字架は輝いていることに気を留めなさい。 私たちにとって最も大切なことは、神の民として、救いにあずかった神の民として、静かな平安に包まれて生きていくことです。 全てを整えてくださっている主に感謝して歩むことです。 お祈りをして終わりにいたします。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたが招く神であることを学びました。しかもその招きは日常の中にやって来るということも学びました。
そんなものはほしくないと言って、自分の世界のことに埋もれて生きている私たち。あるいは時にせっかく教会に行き、みことばを読んでいながら、感謝もせずに、恐れおののく思いもなく、いつものことであるかのように恵みにあずかっているとしたならば、それはまことに受難週とあなたのみことばに、あなたの犠牲に、あなたの愛にふさわしくない生き方であるということを痛感いたします。
この一週間ニュースを見ては心が揺れるでしょう。しかし私たちは神の民です。あなたが守ってくださることを私たちは信じています。この世界はあなたが創られた世界です。あなたはこの世界をもとに戻してくださることを私たちは信じています、神の民です。どうかアメリカにいる片岡ご夫妻のお嬢さん家族の上に、小さなお子さんのために、また小笹文音さんのために、また愛香さんのために、あなたがいつもバリアを張り巡らしてくださり、その健康をお守りくださるようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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