☆藤本牧師より 説教DVDについての説明
ごめんなさい。先程私、説教DVDを創れと言われたきっかけは、全国で牧師を失う教会が山のようにあるという事態の中で、割とホーリネス教団ですとか、色々な所でインマヌエル外で使っていただいています。CLCに行きますとずっと並んで置いてありますけれども、
私(藤本牧師)は、人は誰でもやがて礼拝に来れない日が来る、それは体調の故だろうと思います。そういう日が必ず来る。ですからもし今スマホを使い始めた方いらっしゃいましたならば、一度トライしておられると、その分は慣れていきますので、
今先週のニュースでインターネットの世界は今4Gという電波ですが、5G になりますとその100倍になるとなりますと、その後の10年先にはここの礼拝がそのまんまそちらで実現されているような世界になるんだろうなぁと思いますが、ぜひご利用いただければなぁという風に思います。
次に「主の祈り」が出ます。それから「信仰者アブラハムのシリーズ」が出て、その次に「ピリピの手紙」が出て来て、幾つかもう準備は始まっていますので、ご利用いただければと思います。
☆聖書箇所 ピリピ2:15〜18
12こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。 13神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 14すべての事を、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。 15それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、 16いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。 17たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
☆説教 ピリピ(10)いのちのことばをしっかり握って
さて、ピリピの手紙の2章を見ていただいて、そして少し神学的な話を前回ですね、いたしました。 それは、救いは神さまの働きなのか、人間の働きなのか、人間の責任なのか、という非常に興味深いテーマがあります。 この課題に真剣に取り組んだ神学者として有名なのが、ジョン・ウェスレーという人でありました。
彼の説教の中には、2章の12節の一番最後の行、「恐れおののいて、自分の救いを達成するように努めなさい」――この題名の説教があります。 「恐れおののいて、自分の救いを達成するように努めなさい」――一方で、私たちは自分を救ってくださるのは神の恵みであり、キリストを信じる信仰であり、信仰のみによって救われると私たちは信じています。 しかし、同時にパウロは、「自分の救いを達成しなさい。するために努力をしなさい」こういう言葉を持っています。 そもそも、今年のピリピの手紙というのは、1章の6節のこの言葉を元旦の言葉として始めました。
<ピリピ1:6> 6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。
神の働きは、神が始めてくださり、神によって完成させられると、そのことを私たちは信じています。 しかし、神さまが働いてくださり、神さまが与えてくださる救いに、私たち自身が責任もって応答していなければ、主体的に応答していなければ、これは実現しないというのがパウロのものの考え方です。
それが先週見ていただきました(ピリピ)2章の13節14節によく出てまいります。 2章の13節、私(藤本牧師)が読みますので、皆さんの方で14節を読んでください。
<ピリピ2:13〜14> 13神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 14すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
これは不思議な言葉です。 私たちは様々なことを為すにあたって、その計画において志を持ちます。 その志を神さまが立てさせてくださる、のみならず、それを実行に移す力も与えてくださる――というのが、13節です。
だとしたならば、14節に自分の人生に起こる様々な事に対して、不平を言わないように、色々疑わないように。 もし私たちが不平を言い、疑いに溢れているとしたならば、神さまが働いてくださるその働きを妨害していることになるよ――そういうパウロのものの考え方を前回学びました。
神さまの働きが圧倒的だとしても、それに応える信仰がなければ、それに応える主体性がなければ、応えて努力する気持ちがなければ、私たちはこの世の流れに流されて行く。
その続きで今朝の聖書の箇所を見ていただきたいと思います。 そうなりますと、パウロの気持ちがよく解ります。
1)一番後ろから行きたいと思うんですが、17節を見てください。
17たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、(***たとえ私が殉教したとしても、と説明)、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。
私の殉教死を喜んでください。 もし自分が殉教するとしたら、それはピリピの教会の信仰の礼拝に添えられる注ぎの供え物にしか過ぎない、と言いますか、 彼が考えていた殉教死は、これはローマの極刑、十字架につけられる、キリストと同じように十字架につけられて、血を流し、痛み、苦しみ、失血死をすることになります。 それは注ぎの供え物だと。 メインはあなたがたの信仰による礼拝であって、私の殉教死は、十字架は、そこに添えられる程度のものに過ぎないと。 あなたがたが信仰の礼拝を続けているなら、私は喜ぶ。とっても嬉しい。 もしあなたがたが、この世にあって純真であり、その信仰を守り通してくれるなら、私は嬉しい。
これはまた「逆も然り」です。 私は悲しい。あなたがたが信仰を捨てていくなら。あなたがたの信仰が歪んでいくなら、私は悲しい。 という意味が含まれています。
私の殉教死はすぐそばに来ている。 でももし、あなたがたが信仰を捨てて離れていくならば、私は十字架が悲しいだけでなく、これまでピリピの教会を建て上げて来た、この努力も空しい。 16節をちょっと見ていただきたいと思うんですが――
16いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
「無駄」ということばが二回出て来ますね。 もしあなたがたが信仰を捨ててしまうならば、私の労苦も努力も全部空しい、無駄になって行く――そうなりますと、私は悲しい。 教会に批判や争い事が絶えないのなら、私のこれまでの努力も、殉教も空しい。
20年前に、よくわからないことがありました。 まだ父も牧師で、高津教会は私の両親と私と家内の4人で牧会をしていました。 その頃、ご夫妻が教会を訪ねて来られて、しばらくして礼拝に出席され、そして水曜日の祈祷会にも出席されておられました。 割と近くに住んでおられましたので、熱心に来られて、やがて洗礼をお受けになりました。
洗礼を受けて順調な教会生活を2年3年なさって、ある日突然、お手紙をくださいました。 簡単に申し上げますと、ま、こういうことなんです。 「この度退職することになりました。 これを機会に色んなことから身を引くことを決心し、夫婦共に教会を止めることとしました(笑)。」 というお手紙だったんです。
父が悲しそうな顔で、そのお手紙を見せてくれました。 そして4人で首をかしげました。 特別に犠牲を払って、教会に来られた方ではありませんでした。 近くに住んでおられ、あまり奉仕もなく、献金もほとんどなく(大笑)――ま、こんなこと言うべきじゃないんですけれども(大笑)。 人生終盤になって信仰を持ちたいと願っておられて、ご夫妻で来られたことは確かですし、 でもどこか捉えどころがないことは事実でありました。
そして最後に、「退職することになったので、教会員としても退職したい」ということは、いったいどういうことなんだろうか(大笑)と。 普通だったら、これから先益々頑張って教会に来ます、とかですね、一生懸命聖書のみことばを読みたいと思います、とかですね。 ま、不思議な方々もいるもんだなぁと、そう言いながらも、 なんとも悲しく、なんとも空しく、それ以上このお二人に連絡することはいたしませんでした。
今考えますと、もしかしたら他の理由があったのかもしれません。 たとえば牧師のあり方に、彼らが疑問を感じたとかですね。 あるいは教会の中で、人間的な衝突があったとか。 しかし、ほとんどお二人で来て、すぐ帰って行かれたので、お交わりはあまりありませんでした。 ま、足りない4人の牧師ですから、仕方がないのかなぁと言って、私たちは忘れることにしました。
でもこの忘れてしまった出来事を、私(藤本牧師)はこの聖書の箇所を読んで、ふと思い起こしました。そしてこう考えることにしました。 きっとあの二人は、どこか他の教会に行っていらっしゃるに違いない。 きっとどこかで信仰を回復されて、改めて、ま、高津教会に来ることはできなくても、他の教会に行っていらっしゃるに違いない。
そういう趣旨のことは、手紙の文面からは当時察することはできませんでしたけれども、でも私としては、そう考えたいですよ。 でなかったら、彼らの救いのために為した私たちの努力は全く無駄で、そしてその労苦も無駄でありました。 勿論積極的に考えれば、イエスさまはどんな人でも、一度みもとに来た人をどういう形でか、捉えておられると信じています。
でも非常に微妙なこともあります。
なぜならば、2番目に15節を見てくださると解るんですが――
15それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、(その次ですね、と強調)また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2)私たちは皆、「曲がった邪悪な世代のただ中にある」(15節)(からです。)
このことは現実として理解していなければいけないですね。 私(藤本牧師)は、教会に非がないとか、牧師に足りないところがない、そんなことを申し上げているわけじゃないです。 15節の最後には、「傷のない神の子どもとなり」とありますが、これもなかなかそうはいかないですよ。 私たちの現実は傷だらけの神の子どもです。
そんな牧師であり、教会ですから、この教会に愛想を尽かされても、魅力を感じなくて離れて行ってもなんら不思議はないと思いますし、事実そういうケースも沢山あるだろうと思っています。 で、先ほど申し上げましたように、教会から離れたからキリストから離れたわけではないと思いますが、 そして神さまはどこかでしっかりと、そういう方々も握っていてくださると思いますけれども、
しかし同時に、否定できない現実もある。 それはこの世の力、というものを私たちは知らなければいけないです。 それはこの世に見え隠れするサタンの力。 サタンの力と言うと、何か非常に暴力的に感じますけれども、そういうことではなくして、 サタンの力って、そもそも創世記の初めからそうですけれども、私たちを神から引き離すために、悪魔は全力を尽くす。笑いながら全力を尽くす。
私の父(藤本栄造牧師)はイギリスの女性の宣教師ホーア先生という方に救われ、導かれ、献身いたしました。 この方は戦前から日本で、関西、京都で、また神戸で奉仕をされ、そして戦後にもう一回日本に戻って来られた時に――戦後の次の年ぐらいじゃないですかね――父はその時に導かれ献身いたしました。
このホーア先生について、こういう文章が残っています。 「ホーア先生は、実に活動的な先生で、教会学校を20校開設しました。しかし、昭和12年頃から頓に日英関係が悪化し、日本が中国に侵入していったのと歩調を合わせるかの如くに、ホーア先生の奉仕にも影が段々濃く現れるようになりました。右翼の言動に簡単に動かされる人々の多かった時代ですから、人々の英国婦人宣教師に対する態度もまた変化していったのは当然です。 それは教会学校の活動に対する冷たい反応として現れ、ホーア先生が子どもたちを訪ねていくと、子どもが逃げるようになりました。道で会っても、彼らは顔を背けるのです。 あんなに喜んで来ていたのに、あんなに親しく語り合ったのに、子どもたちは教会学校に来なくなりました。ある時のこと、小学校の教師たちが引率する百人近い生徒が、ホーア先生宅の前を通ってどこかに行ったことがありました。その中には、かつて教会学校に通っていた生徒が十数人いました。ところが、これらの生徒が口をそろえてホーア先生の悪口を叫びながら、家の前を通るのです。ホーア先生は、何も言わずに静かに彼らを窓から見送っていました。」
これは、同じようにホーア先生に導かれた朝比奈先生が――教会学校教師に宛てた、今の「つばさ」という雑誌ですね――教会学校教師に宛てて書いた文章です。
ホーア先生は悲しげだったでしょうね。悔しかったでしょうね。でもそれ以上に、やっぱり悲しかっただろうなぁと思います。 それは言うまでもなく、それを見ていた朝比奈先生も悲しかった。それを読んだ教会学校の教師も悲しかった。それを聞く皆さんも悲しい。それ以上にイエスさまも悲しいわけですね。
ですからパウロは言っているわけです。 私が十字架にかかり、血を流して死んでも、もしあなたがたが信仰を保ち、信仰の礼拝を捧げているなら、喜んでください(18節)と。 私は大喜びです。 私の死が何らかの形であなたがたを励ますことができるなら、それもまた大喜びです。
自分のこれまでの労苦も死も無駄ではなかった。 そしてどうか私の殉教の死というものを、あなたがたの信仰の礼拝に添えられる注ぎのささげ物と理解して、そしてあなたがたも、私と同じように喜んでください。 私のいのちなんかどうでもいいのです。 ただ私がキリストに仕え、一生懸命伝道して来たという、その事実があなたがたに残ればそれでいいのです、と。
3)この曲がった邪悪な時代にあって、この世にあって、信仰を失わずに、(16節)「世の光として輝く」ためには――16節の一番最初――「いのちのことばをしっかり握り」です。
これ以外ないです。これ以外にない。 パウロは、別に自分とピリピの教会の人々との情的な関係、そんなものに訴えているわけではないです。 昔あれほど親しくしていたのに、というその情でもって彼らを引き留めようとしているわけではない。 そんなことはみんな非力です。
もしあなたがたが、いのちのことばをしっかり握るならば――握るならば――これは聖書の教えという意味だけではないです。 いのちのことばの代表は、それはイエス・キリストです。 (いのちのことばを持っておられるのはイエス・キリストです。) イエス・キリストから離れないならば、……(邪悪な時代にも、世の光として輝くことができる。)
今日は聖書の箇所を一か所読んで、そして終わりにしたいと思いますが、 ヨハネの福音書というのがあります。6章の66節―― 66から68、せっかくですから69まで読みましょうか。交替に読んでいきます。
<ヨハネ6:66〜69> 66こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 67それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 68すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 69私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」
68節に「いのちのことば」っていうのが出て来ますね。 それはイエス・キリストが持っているものです。 それは単純にこうやって集まってきている聖書だけではないです。 聖霊の言葉もあるでしょうし、キリストの霊による何とも言えない励ましもあるでしょうし。
場面は66節にあるように、イエスさまの様々の教えに躓いて、多くの者が去って行った。 「多くの者が去って行った」というのは、66節の最後に、非常に象徴的に、「もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」。 退職したわけですよね(笑)。 67節で、そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れていきたいのですか」と言われた。 するとシモン・ペテロが答えるんです。 「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなた以外に永遠のいのちのことばを持っておられる方が他にいるわけないではありませんか。」
主イエス・キリストは、永遠のいのちを持っておられ、それを言葉として私たちに差し出されます。 言葉にはそういう力がある。言葉と共に聖霊もまた差し出してくださる。 そして主のみことばは、私たちを導き、私たちを救いのうちに保ち、祝福し、永遠のいのちを与えます。 みことばは純粋で(***Tペテロ2:2)、剣のように鋭く私たちのたましいを突き(***へブル4:12)、蜜のように甘く(***詩篇119:103)私たちを励まし力を与えます そのみことばを礼拝でいただかなくても、もし毎日の生活の中で聖書を読むなら、あるいは信仰の書物を読むなら、 いのちのパンの日々の糧を、私たちは毎日食することができる。 私たちの人生はどんなに複雑でも、永遠に滅びることのない神の言葉の上に建てられている。
イエスさまは仰いました。(***マタイ4:4) 「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。」 その一つ一つのことばを、イエスさまは私たちに日々くださる。 日曜ごとにくださる。祈祷会毎にくださる。 霊の力を持ち、霊の糧となって、私たちを神の国を相続する者として育ててくださる。 その永遠のいのちのことばをしっかり握っている自分というものをぜひ忘れないように。 その永遠のいのちのことばによって、守られ導かれている自分、支えられている自分というものを、忘れないようにしていただきたいと思います。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、教会は時としてあまりにも人間的なことが目立ちますが、しかし真実な所、教会はキリストのからだであり、いのちのことばによって守られ、いのちのことばが溢れているのが教会です。
その教会に繋がる私たちも「外なる人は破れても、内なる人は日々いのちの言葉によって新しくされている」(***Uコリント4:16)という、この霊的な現実を見過ごすことがありませんように。
そしていのちのことばを慕い求めるような――決して傷のない者にはなれませんけれども、傷だらけの神の子どもであったとしても――いのちのことばを慕い求めるようなキリスト者とさせてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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