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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/7 聖餐式:喜びの食卓に招かれる ピリピ4:4〜7 
☆聖書箇所    ピリピ4:4〜7

 4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

☆説教    聖餐式: 喜びの食卓に招かれる

ずっと教会では、私(藤本牧師)の場合はピリピの手紙を読んでまいりました。
今日は聖餐の聖日ですけれども、(連続講解のピリピのシリーズを)一回飛ばします。
「一回飛ばします」と言うのは、順番でいきますと、ピリピの4章の1節〜3節が先なんですけれども――それは来週やるといたしまして――今日は4節から7節まで。
有名な言葉で始まります。

1)喜びなさい。
(※「喜ぶこと)の難しさと質をピリピ書のこれまで学んだ箇所から見る)

  4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

多くの学者がピリピの手紙の注解書を書くとして、講解書を書くとして、副題があるとしたら、大体が「喜びの手紙」となっています。
それ程「喜び」という言葉が沢山出て来るのがこの書物で、4節に――

  4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

これは言うまでもなく、命令ですね。
でも私たち人間というのは、命じられて喜べる者ではない――そんなことは分かっています。
でも逆に言いますと、命じていただかなければ、引きとどめていただかなければ、あっという間に喜びを失う弱き者である、ということも心に留めて、
重ねて「喜びなさい」と、イエスさまは仰っておられることを思わなければいけないと思います。

海外のハローワークの話を聞いたことがあるんですけれども、
ハローワークですから、仕事を探しに、皆さんやって来られるんですけれど、
そのフロアに、全身鏡が入り口のところに置いてあって、その上に書いてあるんですよね。
「あなたはこの人を雇いますか?」っていう。
そして自分の姿が映っているわけですけれども、自分の姿が映っているのを見て、
「あなたはこの人雇いますか?」って、(他者の目を意識させられる)。
皆さんはそこで笑顔をもう一回作り直して、それでハローワークの担当者に向かって行くんですよね。
鏡に映った自分を少しは考えた方がいい。
「ぼくなら、果たしてこいつを雇うんだろうか?」

「そんなに喜びのない顔をしている牧師を、教会は雇ってくれるんだろうか?」
と牧師も少しは自分の表情をそれなりに考えてみた方がいいと思います。
もちろんですが、喜びの表情というのは、文化によって、人によって様々です。
ですから妙に喜んでいる人を見ると、「この人おかしいんじゃないだろうか?」って思いますよね。

圭子(夫人)とMさんと一緒に、ある介護施設を訪ねた時に、
「うちは元気がモットーで」という所がありまして、そして出て来た係員の方が、ものすごく笑顔と元気でいっぱいでありました。
私(藤本牧師)は「良い所だなぁ」と思いましたけれども、圭子(夫人)は「胡散臭いと思った」(大笑)と言うんですね。なるほどなぁと。
人によって表現の仕方も、また受け取り方も違いますし、
アメリカの教会に行けば、喜びはダンスで表現しますし、じゃダンスをしない日本の教会の讃美歌は喜びがないのかと言えば、必ずしもそういうことではないですね。
嬉々とした笑顔で振る舞うっていうのは、それはすばらしいことだと思いますが、

ここでパウロが言っている「喜び」というのは、ちょっと普通の喜びとは違うということを、今までせっかくピリピの手紙を見て来ましたので、ちょっとピリピの手紙を見てみたいと思います。
1章の3節〜6節までを交替に読んでみません?これは(2019年)元旦礼拝の時に、1月1日に開いた聖書の箇所ですね。
1章の3〜6節を交替に読んでいきます。

<ピリピ1:3〜6>
 3私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。
4あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、
5あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。
6あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

今年の聖句として6節を選んだわけですけれども、「あなたがたの間で良い働きを始められた方は」――それは私たちが救われ、罪赦され、神の子どもとされたというこの霊的な現実、これは始められたものであって――神さまが「必ず完成させてくださる」という中に、感謝という言葉が3節(と5節にも)に出て来ますね。

そして4節に、「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、」と。
「いつも喜びをもって祈り、」というのは、ピリピの教会には、教会なりの問題がありますから、その問題に向けてパウロは手紙を書いているわけですけれども、しかしピリピの教会の人々のことを考えると、パウロの心の中から喜びがこう湧き上がってくる。

今度は1章の17節から20節までを交替に読んでいきたいと思います。
で、場面は、パウロが投獄されている間に、パウロに党派心を持っている人が却って伝道する。
自分は牢獄なのに、ほかの人が伝道しているという場面ですけれども、
1章の17節から20節までを交替に読んでいきます。

<ピリピ1:17〜20>
17ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。
18しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。
 そうです。これからも喜ぶでしょう。
19というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。
20私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。

ここに、18節、一マス置いて、「そうです。これからも喜ぶでしょう」とありますよね。
喜びが二種類書いてあります。
前半の喜びは、私は牢獄に閉じ込められている。で、他の人は党派心を燃やして、却って伝道する。それを見てピリピの人たちが、
「先生、先生は何もできずに牢獄にいるのに、ほかの人たちは活躍して大いに用いられる。先生、悔しくないですか?」みたいな、
そういうことに対して、パウロは18節で、
「しかし、それが何だというのですか?そんなことはどうでもいい。誰が伝道しようが、どういう動機であろうが、福音が前進するのであれば、私はそんなことに頓着する者ではない。私は大いに喜ぶ」
そして(18節)後半部分は「そうです。これからも喜ぶでしょう」というのは――自分がたとえ投獄され、そしてやがて殉教を辿ったとしても、
私の願いというのは(20節)――「どんな場合にも、恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられる」というこの目標が叶えられるなら、私はこれからもいくらでも喜びます。

これは、いわゆる空(から)元気、あるいは喜び躍るような表現とはちょっと違いますよね。
私たちの人生で、辛い、苦しい、疲れた――もうこんなものは常識です。
その途端に、私たちの顔から喜びの笑顔というのは失せるんだろうと思います。
そして鏡を見ながら、パンパンと頬っぺたを叩いて、「こんな顔じゃ人に喜ばれない」と思って、接客の顔を戻すわけですよね(笑)。
だけど、自分の心の中は、「こんなんでやってられるか!」っていう思いが充満しているわけです。
そんなレベルの話を、パウロはしているわけではない。

私たち皆キリストの救いにあずかり、神が始めてくださり、神が完成してくださり、そして神さまは、私たちをご自身の目的のために必ず用いてくださる。
もし私たちに究極の目標があるとしたなら、私たち誰もそうですけれども、
「生きるにしても死ぬにしても、キリストの栄光が私を通して現されることだ」と言う。それが永遠に至る喜びだということなんですね。

2章の1節を見てください。

<ピリピ2:1>
1ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

というのは、あるわけです(笑)。あるわけです。
高津教会にも、そのような慰めと励ましがあるんですね。だから喜ぶ。

2章の16節から18節、ちょっと交替に読んでいきたいと思います。
16〜18、18は一緒に読みましょう。

<ピリピ2:16〜18>
16いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
17たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
18同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

「喜ぶ」という言葉がこ〜んなに沢山出て来ることはないですよ。
でもそれは、例えば教会が大きくなった。新しい教会堂を建てた。多くの方々が豊かになった――そんなことを喜んでいるんじゃないんです。
私たちが真実に主を愛し、互いに愛の慰めの中を生きることを喜びとしていて、そしてどんなに苦労して――ま、彼は牢獄に入って殉教するわけですけれども――しかし、それさえも喜ぶ。「注ぎのささげ物となっても、私は喜びます」(17節)と。
それが「キリストに用いられる」なら、そして「最後に神が報いてくださる」という信仰のゆえに、喜ぶ。
それは希望から来る喜びですね。

希望から来る喜び――3章の8節を見てください。割と最近見ました。
3章の8節を読みますので、皆さんで9節を読んでくださいます?

<ピリピ3:8〜9>
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

この望みのゆえに喜ぶわけですね。
この望み、先週申し上げましたけれども、こう言う望みっていうのは日常的に私たちがそんなに実感するものではないです。
でも極端に自分が弱くなり、自分が頼りなく思え、そして家族に様々な危険が及ぶ時に、私たちはこの望みによって生かされるしかない。
そしてやがて、私たちもこの望みによって生かされる。

私(藤本牧師)はこれまでも親の介護をされる皆さんの姿を見て、色んなことを勉強して来ましたけれども、ま、基本的に他人事感と言うんですかね。
でも自分がそれをやってみて――あ、本当に、何て言うんですか、私の両親も長くはないなぁ、長いと困るわけですけれども(笑)、長くはないならそれはそれでいいんです。
だけど彼らが喜びの中を過ごしていることに、私(藤本牧師)も励まされますし、
やがて私自身も年老いた時に、あるいは病気になった時に、同じような喜びをもって生かされるんだろうかというチャレンジ(も感じます)。
きっと皆さんは祈ってくださり、自分の信仰は大したものではないかもしれないけれども、
何か手紙一本でももらいながら、きっとその喜びを取り戻し、
自分の内側にある希望を、信仰を燃え立たせて、そちらの方向に向かって行くんだろうなぁと思います。

アメリカのクリスチャン・ジャーナリストで、フィリップ・ヤンシー(***1949〜)という人がいますが、奥さんが大都会シカゴの貧しい地域で、住宅を供給するというプロジェクトに携わっていました。

その時、奥さまはこう思ったそうです。
このプロジェクトに助けを求めて来る人の大半が、お年寄り、80代。
半数が白人、残りの半数が黒人。
殆んどが、当時(世界)戦争を体験し、また(アメリカの大恐慌という)貧困を体験した人々で、労苦を重ねて来た人ばかりであった。
年齢は死というものを意識せざるを得ないんですが、

ボランティアの人たちの話によりますと、白人と黒人とでは、(死に)向き合う姿勢が全然違うと言います。
もちろん個人差はあるわけですけれども、(傾向から言いますと)

白人の多くは年齢とともに、死に対して段々強い恐れを抱いて、不安に悩まされるようになる。
そして昔を振り返っては、人生や家族について、自分の健康の衰えについて、愚痴をこぼす人が多い。

対照的に黒人は、恨みやつらみや絶望に捕われていてもおかしくない状況に生きて来た人がほとんどです。
つまり、この世代の黒人はみな、人種差別の厳しい世界を生き抜いて、
経済的にも社会的にも苦労をし、ようやく公民権を勝ち取ったとしても、
自分はもう退職している。
しかし、彼らは見事なユーモアと大らかさがある。

傍から見ていて、この違いは一体どこから来るんだろうか?
その答えは、希望から来る。希望から来る。
黒人の骨の髄まで染みついた、天国への希望。

ゴスペルという黒人霊歌のほとんどに、この希望が込められているわけですけれども、
どんなに努力しても、のし上がることができない世界、
どんなにまじめに生きても、報われることのない差別、
奴隷制を引きずって生きてきた中で、黒人霊歌は生まれるわけですよね。

この世間の大概の苦労はみんななめて来た、強く雑草のように強い。
でもそれだけでなく、基本的に希望というものが、特に「天国への希望」というものが、人生に染みついている人たちは、後ろを振り返らない。
後ろを振り返らない。やがて死に向かって自分が歩を進める時に、後ろを見ない。前を見る。
イエス・キリストが栄冠を持って、私たちがゴールするのを待っていてくださる、前を見る。
上に召してくださる主の希望が、力強く私たちの信仰を前へと引っ張り出してくださる。

さて二番目です。
一番目は「喜ぶ」ということの難しさと「喜ぶ」ということの質を、ピリピの手紙からもう一回見ていただきました。
二番目はですね――

2)主は近いのです。(ピリピ4:5後半)

口語訳聖書では、「主は近い」
新共同訳聖書は「主はすぐ近くにおられる」

つまり、「近い」というのは、「もうすぐ来る、お出でが近い」という意味ではなく、
「すぐあなたの側におられる」
今日の礼拝の中で「みことばを通して、聖霊によって臨在しておられる」ということです。

パリサイ人たちは尋ねました。「神の国はいつ来るのですか?」
イエスさまの答えは、「いつ?という問題ではなく、あなたがたのただ中にある」
(***ルカ17:20〜21)
それは必ずしも「神の国は、あなたの心の中にある」という意味ではなく、
「神の国は、わたしそのものだ。わたしがあなたの側にいる」
ということは、「神の国はあなたの側にある。ただ中にある」
【※「わたしを通して、あなたと共に既に来ている、あなたと共にいるではないか」という意味になります。例、エマオの途上の弟子たちに現れたイエスさま(ルカ24: 15)】

「だから思い煩わないで、主に打ち明けなさい」という風に(ピリピ4章)6節から展開していきます。

6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

主は近いからです。
主はあなたのすぐ側におられるからですね。
「打ち明けなさい」というのは、私たちは遠い遠い誰かに打ち明けないですよ。
自分のすぐ側におられる方に打ち明けます。
「一人で抱えてないで、孤独に苦労しないで、誰にでも打ち明けられない、孤独に一人苦しんでいる問題を、わたしに打ち明けなさい」と(主は)仰る。

3)私たちは今朝、喜びの食卓(聖餐)に招かれています。

インターネットで礼拝を守っている方、冷蔵庫(の中)を探して、カビてないパンの端切れを見つけて――カビているのは良くない(笑)――そしてトマトジュースでいいです(笑)。トマトジュースがなければ、赤かブルーか、なければお水でもいいです。
ま、ぶどうジュースよりトマトジュースの方が、キリストの血を象徴している(笑)とも言えないなくはないですけれども。
これから共に聖餐にあずかりますので、
「Iさん、頑張ってね。ご自分がコンビニに行くか、奥さまがコンビニに行くか、用意してください」
(※とお休みの連絡を受けたのか、手を振ってカメラに語りかける藤本牧師)

聖餐式には式文があります。必ず式文があります。
プロテスタント教会の式文は割と長い一つの聖句で始まります。
それが、コリント第一の手紙なんですが、あの開かなくて結構です。11章の27節で――

<Tコリント11:27>
  27したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

これで聖餐式の式文が始まるんですよね。
ふさわしくないままで食べるととんでもないことになりますよ、というこの言葉。
これは聖餐の尊さを強調する意味では、中世カトリックの教会から引用されていました。
そして中世カトリック教会では、これを強調するあまりに、信徒にはパンのみ、ぶどう酒は司祭だけ。
で、宗教改革の時に、パンだけというのは一種陪餐と言います。
パンとぶどう液というのは二種陪餐と言いますけれども、カトリックでは今でも一種陪餐です。
平らなウェハースを、(司祭の)前に行きますと、手の上に載せてもらうか、口の舌の上に載せてもらうか、一種陪餐は概ねそういう風になっています。
「ぶどう酒はキリストの血、パンはキリストのからだそのもの」というリアリティーを考えれば、
ま、「昨日、とんこつラーメンを食べた君は、キリストの血は止めておいた方がいいね」みたいな(笑)――私(藤本牧師は)簡単に言えば、そういう発想だと思いますね。

プロテスタント教会は16世紀の宗教改革から、パンだけではなくぶどう酒もという二種陪餐をず〜っと実行してきました。
しかし、この「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、罪を犯すことになる」というこの流れは、そのまんま用いてきました。
これが色々こう、歪曲して解釈されますね。

18世紀のジョン・ウェスレーは、「常に聖餐にあずかることの義務」という非常に堅苦しい説教を書いていますが、それはこういうことです。
聖餐の機会があれば、常にそれにあずかりなさい。
それは、皆さん、聖餐があるのに、自分をふさわしくないと思って、聖餐を控える。
それに対してウェスレーは、
「ふさわしくないと思うなら、ますます(聖餐の)恵みにあずかりなさい。
そこで悔い改めて、十字架の恵みにあずかることができるのが、聖餐なんだから、
ふさわしくないのであれば、ますます聖餐にあずかりなさい。」

そして、
「悔い改めることから逃げてはいけない。
まして主の招きを断ってはいけない。」

20世紀になりまして、コリントの手紙のこの「ふさわしくないままで」というのは、
そういう個人的な「ふさわしい・ふさわしくない」という問題ではなく、
コリントの教会における聖餐の混乱――つまりただの食事のように、持ち寄った食事のように聖餐式をしているという、その無秩序なさま――に対するパウロの警告であったということが明らかになります。
そこで式文を、「ふさわしくないままで食するなら罪を犯すことになる」という、初めのこのトーンを取り除きました。
そこで改めて20世紀の教会は、「聖餐は喜びの食卓である」ということを回復しました。
最後の晩餐の席上で、招いた弟子たちを前にして、一日の疲れを癒やすように、主はパンを裂き、「取って食べなさい」と仰いました。
「取って食べなさい」――そこには、神さまの温かな思いが込められています。
神さまは私たちを教えたい。導きたい。霊的な力を与えたい。私たちと心を通じ合わせたい。私たちと共にいたい。
ですから、「さあ、神の国にお出で」と言わんばかりに、神さまはこの聖餐の食卓に招いてくださいます。
最後の晩餐と同じように、親しみある眼差しで、主は今朝も私たちを招いてくださる。

「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだ」
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」
全部、あなたがたのために、ですよ。

イエスさまは、ご自身の十字架をもって新しい契約を結ぶ事へと、喜んで招いていてくださる、今朝も。
そういう方向に、聖餐式の式文のトーンは変わりました。

喜んで招かれるというのはどういうことか?
前にも言ったことがありますが、私(藤本牧師)は小学生の頃、友だちのお母さんにほめられました。
当時まだ珍しかったんですけれども、友だちの誕生日に行きましたら、イチゴをミキサーで攪拌してミルクと砂糖を入れてという、何とも味わったこともない美味しいドリンクっていうのでしょうかねぇ。
今はどこにでもあるんでしょうけれども、大体家にミキサーなんていうもの、ないですもの。
私(藤本牧師)はそれを食べて、本当においしかったんですね。
そしたらおばさんが、
「あと一杯分残っている。藤本君はあまりにもおいしそうに飲んでくれたから、最後の一杯をもう一回藤本君に上げるよ」って言われたんですね。
私は単にがっついていた(大笑)んだろうと思いますけれども、私は割と
「おばさん、これはおいしいです」って平気で言えるような人間ですね。
美味しいものであれば――「おばさん、これはまずいです」とはなかなか言えませんけれども――「これはおいしいです」と(言う)。
そうすると、友だちの誕生日にいっぱい出してもらえるんですよね。
これは良いことなんだ――幼いながらに、そういう卑しさを身に着けてしまいました。

思うんですけれどもね、どんな食卓に招かれている時も、大切なことは素直に感謝して食べることです。
それは招いた側にとってみれば、そのように食べてくださることが一番嬉しい。

イエスさまは喜びの食卓に招いてくださるわけです。
そしてこの喜びの食卓で、今朝、何が起こるか?
それがいま見ていただきました(ピリピ4章)6節と7節。
この喜びの食卓で、わたしはあなたのすぐ側にいる。だから――

6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、(※すべての理解を超えた神の平安が、をあえて第3版で、人のすべての考えにまさる神の平安が、と変更して)あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

イエスさまは喜んで、私たちを食卓に招いてくださった。
「願い事を話しなさい。わたしは聞いています。聞かれていることを感謝して、わたしに話してご覧」と招いてくださる。
そしてこの聖餐において、「人のすべての考えにまさる神の平安」(第3版・7節)というのは――それはちょっと私たちには分からない――だけど不思議に分かると思うんですね。
神さまはその平安をもって、私たちを包んでくださる。
私たちには到底理解できないから、「人のすべての考えにまさる神の平安」です。

☆お祈りをいたしましょう。

 4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は(※近いのです、をあえて変更して)すぐ側におられます。
6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:4〜7)

恵み深い天の父なる神さま、小さな子どもが食卓で、自分の悩みや思い煩いを母親に話すように、きょう私たちは、すぐ近くにおられるあなたが、食卓に招いてくださるこの瞬間、思い煩わないで、疲れているなら疲れている、大きな障害に当たっているなら当たっている、悩んでいるなら悩んでいる、解決がほしいなら解決がほしい、力づけてほしいなら力づけてほしいと、全能なるあなたの御前に頭(こうべ)を垂れて、あなたの憐れみを恋い慕うことができますように。

そして、今朝この場から去る時に、人のすべての考えにまさるところの神の平安が、私たちの心を包むことができますように、どうかそのお約束を私たちに実現してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖餐式         ※ 以降は「聖日説教」で読むことができます。

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DATE: 2019.07.08 - 19:54

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