☆聖書箇所 Tコリント2:6〜9
6しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありません。 7私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。 8この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 9しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。
☆戸塚伝道師の説教 天国からの呼び声
きょう、私(戸塚伝道師)突然ここに立ちましたけれども、月一回この場で説教させていただくという、私自覚があまりなくて、週報にも書かないでいたんですけれども、この間の祈祷会の時に藤本満先生に、「次、説教してくださいますか?」と言われて、「先生、お出かけですか?」と言ったら「違います」と(大笑)。
先生がいらっしゃる。でも私が説教をさせていただく。考えてみれば、静岡から帰って来て、月に一回説教をさせていただくということになったんだ、ということを改めて認識いたしまして(大笑)、今日この場に急遽立たせていただくことになりました。
折りしも大内さんの召天を偲ぶその聖日の説教をさせていただくことになりました。 「天国からの呼び声」と題して、恵みを分かち合いたいと思いますが、今日お読みくださいましたみことばの中から、 コリント人への手紙第一の、2章の9節のみことばに目を留めたいと思います。
9しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心の思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。
こう書いてあります。 このカギカッコの中のみことば、このみことばはこの朝心に留めたいと思うんですけれども、 コリント人への手紙第一の中で、この短いみことばがどのように位置づけられているか、ということを最初に確認しておきたいと思うんですね。
コリント人への手紙第一というのは、ある一つの目的でパウロが書きました。 その目的というのが、コリント教会に起きた様々な問題、それを解決するために書かれたものです。 様々な問題、もうあり得ない問題、イエスさまに救われて神さまの子どもとさせていただいている教会の民が、やはり人間的な弱さのゆえに様々な問題を抱えている、っていう現状が読み取れるんです。
特に、一番最初に書かれているのが、「教会員同志の争い」です。 「それに対処するために、どうしたらいいか」ということが書かれているのが、1章の10節から4章の21節最後まで、ず〜っと書かれています。
その文脈の中で、1章の18節から2章全体には、「人の知恵の空しさ」というものが書かれています。 さらに2章の1節から5節までには、パウロは、「コリントでの自分の宣教は、この世の知恵には依らなかった」という、そのことを述べていて、 そして本日お読みいただいた所(2章の6〜9節)――それは、「この世の知恵は、隠された神の知恵を理解することができないんだ」という、そういうことを結論づけています。
「隠された神の知恵」とは一体何か?――それは「十字架を中心とする神の救いの計画」です。 十字架を中心とする神の救いの計画が、「神を愛する者たちに、神が備えてくださったもの」(9節)ですね。 それを、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」(同)――こういう風に表現されています。
この朝、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」(9節)っていう、このみことばにこだわってみたいと思います。 神を愛する者たちのために、神が備えてくださったものだ。 それなのに、「目も見たことがない、耳が聞いたことがない、人の心に思い浮かんだことがないもの」
日常の生活の中で、イエスさまの十字架の救いというのは、私たちは意識して――そんなにしょっちゅう意識していないかもしれませんけれども――感謝して受け止めておりますけれども、 でも、日々の生活の只中で、あるいは忙しい毎日の状況の中で、 あまりにも無頓着で、しかも私たちにとって無経験で、まさに私たちにとってあんまり意識していないものがある――それは一体何だろうか? それを思い巡らしてみました。 3つあるんですね。3つお話を考えていたんですけれども、一つ目――それは死を乗り越えることです。
1)死を乗り越えること
確かに、死――目が見たことのない、耳が聞いたことのない、人の心に思い浮かんだことがない、いや思い浮かんだかもしれない。 でも死を越えるということはわからない。 私たちはこの世に誕生した瞬間から、一秒一秒死に向かう歩みが始まっているわけです。
ポスターですかね。駅のポスターだったと思うんですけれども、こんな広告を見ました。 「万が一、癌になるのではない。二人に一人は、癌になるんです。」 万が一、一万分の一じゃない。癌になるのは二分の一だと。50%の確率で癌になる。 そうすると、今ここにいらっしゃる方々の半分は癌になるという(笑)、そういう確率ですよ。 私(戸塚伝道師)かも知れない。私の可能性は大きい。癌の家系だから。
しかし私たちは、死亡率100%です。 死亡率100%。100%確実なことなのに、そんなに確実なことなのに、誰にも分からないことです。 しかも、ほんとに残念なんですけれども、体験談が聞けないんです(大笑)。 臨死体験をなさった方は、よく本かなんかであるいは色んな所でお話しされていますけれども、臨死体験は死ではない。
死を越える――大内さんは先週体験された。 どうでしたか?って聞けない。 私たちもいつ、どこで、何が原因で召されるかわからない。 その時、どんな気持ちなんだろうか?痛いんだろうか?苦しいんだろうか?それとも一瞬なんだろうか? 遺された家族は一体どうなるんだ? 色々なことを考えさせられます。 そろそろ身辺整理も始めなくちゃいけないのか?(笑)まだ早いのか、それとも早すぎることはないのか?
今から20年前、1999年の10月12日に、三浦綾子さん、クリスチャンの小説家の三浦綾子さんが、77歳で天に召されました。 多臓器不全――そういう病気が原因で――でもそれ以前に様々な病気を三浦さんは抱えておられた。 結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸がん、パーキンソン病、まるで一人のおからだの中に、様々な病気を抱えておられる。 よくぞ77歳まで、生かされて来た。
この三浦綾子さんの言葉、忘れられない。私にとって忘れられない言葉があるんですね。 何と仰ったか?その病気の只中で―― 「私には、『死ぬ』という大きな仕事が残っています。」 「死ぬ」という大きな仕事が残っています――あ、「死ぬ」って、三浦さんにとっては大きな仕事だったんだ。 「死ぬ」という大きな仕事――そういう思いで「死」というものを捕らえていた。
でも大きな仕事とは思っていない方々もいますね。 もうあっけらかんと割り切って、腹の座っている方々。 例えば藤本幸子先生(※藤本満牧師の母、また戸塚師夫人の母)がそうです。 藤本幸子先生がお元気な時に 「お二人で聖地旅行に行かれたらどうですか?」 って教会の方々が勧めた時に、幸子先生は 「聖地旅行に行く位だったら、早く天国へ行きたい」(大笑) って幸子先生は仰ったそうです。
早く天国へ行きたい――今も同じ思いです。 ホワイトボードに筆談で、気管切開でカニューレという器具を付けていますので、声が出ませんので、ホワイトボードに筆談するんですけれども、 「神さま、いつでも結構です。私はもう90歳ですから、いつでも結構です。死は怖くはありません。もう十分感謝です。」
「何時でも結構です」と。 大きな仕事どころか、もういつでも結構。 ひょいと天国へ、なんか隣のドアを開けるような(笑い)そんなイメージで、あ、天国。 腹の座っている、ご本人は腹の座っているとも思っていないんでしょうね、無意識の内に、もう天国です、と。 死を超越し、ある意味では、死に打ち勝っている幸子先生の信仰を目の当たりにさせていただきました。 凄いですねぇ。そんな境地に私(戸塚伝道師)は立てない。
死を越える――どういうことなのか、私にはわからない。 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」の二つ目――
2)それは天国です
天国――私たちがこれから行く所です。 これから行く所なのに、これも現実味がない。 今、私(戸塚伝道師)は天国への憧れがものすごくあるか?って言うと、 そりゃ、すばらしい所だなとは思うんですけれども、なんか憧れはいま一つのような気がする。 でもこれから行く所なのに、こんなに現実味がなくていいんでしょうか?
IM君が、今週の土曜日アメリカに行く。 恐らくアメリカについて調べたでしょうね。もう色々調べたと思うんですね。 どんな場所なんだろうか?どういう所に泊まるんだろうか?どういう人たちに出会えるんだろうか?そして誰と過ごすんだろうか? 色々調べ、そして色々聞き、情報収集して準備されている。
私も静岡に行く時、調べましたよ、ネットで。静岡ってどういう所か?と。 そしたらば、徳川家康の御膝下って書いてあって、駿府(すんぷ)城がある。江戸城よりも大きい天守閣だと。 全然知らなかった。ああ、そういう所なのか、そんなすごい町なのか。
それなのに、これから私たちが行く天国って、一体どんな所なのか? どんな所なのか調べようと思っても、調べようがないというのが現実なのかもしれない。 それでも何となく、垣間見ることができるようなみことばがあります。 このコリント人への手紙の第一の2章を、ちょっと何かで挟んでおいていただいて、 ヨハネの黙示録21章をお開きいただきたいと思います。1節からちょっとお読みします。 天国ってどんな所か、ほんのわずかにわかる聖書の箇所――
<ヨハネの黙示録21章1節〜5節> 1また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。 3私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 4 神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」 5すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
天国って、こういう所なんです。 死はなく、悲しみ、叫び声、苦しみもない。 涙はことごとく拭い去ってくださる。以前のものは過ぎ去った。新しい天と新しい地。
もう一か所、ページを一枚左側を捲っていただいて、黙示録第22章、聖書の一番最後の章。 22章の1節、お読みいたします。
<黙示録22:1〜5> 1御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 2都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 3もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、 4御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。 5もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
こう書かれています。これが天国。 こんなすばらしい天国に行きたいがために、命がけで信仰を貫き通した、数えきれない人たちがいます。 殺された人もいます。殉教者は天国へ行けることが喜びでした。 イエスさまを愛し抜いた命がけの信仰。 それは、神さまから特別に与えられた信仰かも知れませんけれども、 でもその信仰を貫き通して、いのちをかけて、 「この天国に行きたいんだ。この天国に行きたい」 そんなに強い天国への憧れを、地上生涯の中に持っておられた方々が沢山おられた。
そう考えますと、私(戸塚伝道師)はそんな強い天国への憧れを持たずに、毎日恵みに慣れてしまって生活しているんじゃないかなぁ?――なんか問われたことでございます。 天国への憧れ、もっと強くもっと強く味わいたい――そう思うんですね。 なぜか?そこに私は行くからです。
3つ目―― 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」の、3つ目――
3)先に天国へ行っている人たちとの再会
愛する者が亡くなった悲しさ、いなくなった寂しさ、会えない辛さ。 私たちは、大なり小なり体験していると思います。 しかし、一人一人その辛さや寂しさは違うと思うんですね。 当事者になってみなければ分からない辛さ、喪失感、会えない―そういう思いがある。 しかし心の奥底に、クリスチャンであるか、ノンクリスチャンであるかを問わず、 死んでも、どこかで生きているんじゃないか、天国で生きているんじゃないか――そう思いたい。 何か神さまに造られた人間の本能的な考え、信仰、思いというものがあるのではないかと思うんです。
有名人が亡くなった時に、残された人たちが「天国で待っててよ〜」とか、「天国で安らかに過ごせますように」――天国という言葉を頻発していますね(笑)。 天国――それは私たちの専売特許なんですけれども(大笑)、天国という言葉を皆さん、平気でというか、有り難く使っておられるんです。 やはり――「亡くなった方は、それで御終いじゃないんだ。どこかで生きている。天国で生きている。あの人は天国に行ったんだ」――そういう思いでいるのではないかと思います。
3年前のNHKスペシャル、2016年3月10日木曜日、NHKスペシャル――いまだに忘れません。 そのNHKスペシャルのタイトルは「風の電話」というタイトルでした。 「風の電話――残された人々の声」 津波で大きな被害を受けた岩手県大槌町。 海を見下ろす高台の公園に、そこに不思議な佇まいの電話ボックスがあるんです。 白い色をした電話ボックス。その中に線の繋がっていない黒電話と一冊のノート。 亡くなったり、行方不明になったりした家族や友人と「もう一度言葉を交わしたい」と願う人々がここで受話器を取って、そして呼びかけるわけです。
震災直後、ある地元の人が設置したのが始まりで、残された家族と亡くなった方が心を通わせる場が必要だと思って、個人の庭の片隅にその電話ボックスを設置して開放したわけです。 「風の電話」――この名前の由来は、「震災で死別した家族や友人への思いを、風に乗せて伝えられるように」という、そういう願いが込められているそうです。 「風の電話」――今はもう会えない誰かと会話するために、多くの方々が今も訪れるそうです。 ノートには、すでに訪れた無数の人々の思いが綴られています。 伝えられなかった気持ちや、口に出すことのできない思いを抱える人たちにとって、この「風の電話」は大切な心の支えになっている。
そのNHKスペシャルの番組の中で、ある15歳の少年が一人でここを訪れました。 「風の電話」の電話ボックスの中に入って、受話器を取って、津波で亡くなった今は亡き父親にこう呼び掛けていました。 「お父さん、いま四人で、家族みんなで頑張っているから心配しなくていいよ。 お父さん元気?お父さんに聞きたいことがあるんだ。 何で死んだんだよ〜。な〜んで父さんなんだよ〜。 なんで俺だけなんだよ〜。俺はず〜っとそう思っていた。」 切々と、受話器を取って、天のお父さんに呼びかけるわけですよ。 (※聞いている会衆も、亡くなった自分の家族・親族を思って涙)
この少年は、こぼれる涙を拭いて、家に帰って、そしてお母さんにこの電話のことを伝えました。 そして、少年は二度目にまたここを訪れるわけですけれども、この時はお母さんと妹と弟皆連れて来て、 「父さん、皆連れて来たから」と言って、今度は一人一人に「風の電話」をかけさせるわけですね。 心が折れそうで、家族四人とも父親について語ることができなかった家族、 でもこの「風の電話」をきっかけに、妹はわんわん泣きながら父に夢中で電話をしました。夢中で語りかけました。 弟の目からも、堪えていた、今までじっと我慢していた涙がばぁっと溢れ、 四人の家族の心がそこで癒されて、残された四人がこう一つになった――そんな感じがする場面でした。
亡くなった方と話す「風の電話」、心を癒やして8年、いま「風の電話 NHK」でオンデマンドで観らるかもしれません
「風の電話」――本にもなりました。 その自宅を開放した方が本を書きました。 なんと来年早々、映画化されて全国公開されるという。 やはり8年経っても、この「風の電話」のインパクト、そして「風の電話」が人の心を癒やす効果、それは絶大なものであると思うんです。
私たちも家族や友人に先立たれ、寂しさと喪失感の只中で、今はもう会えない誰かと話したくなるこの気持ち、解るような気がいたします。 しかし、私たちにはイエスさまの恵みがある。 (※声を上げて)さらに確かな驚くべき希望がある。 あの人に今は会えない。しかし、やがてあの人に会える。 「やがてあの人に会える」という希望がある。 「風の電話」をかけている多くの方々は、もう一度その人に会えるとは思ってないかもしれない。 (※声を大にして力説する戸塚伝道師)でも私たちは――「やがて、もう一度その方々と会える」――そういう確かな希望があるんです。
これから最後に歌う讃美歌「神ともにいまして」(***福446)は、「♪また会う日まで、また会う日まで」(***繰り返し)と賛美します。 私たちの信仰ですよ――「また会う日まで。また会う日まで、神の恵み、あなたの身を離れませんように、また会う日まで」
しかも天国に行って、なんか霊の状態でもやもやもやもやしながら会うんじゃなくて、 死に打ち勝った「復活のからだ」、新しいからだを神さまからいただいて会うんです。 凄いことですよ、「復活のからだ」。 病気もない。死もない。涙もない。嬉し涙はあるかもしれないけど。 罪もない姿で、イエスさまがすぐ側にいて見ることができて、夜もない場所で。 いのちの水の川が流れる所でしょうか、それとも今と同じような、もっとすばらしい新しい天と新しい地に、しっかりと生活する日、永遠に生活する日。 「復活のからだ」をいただいて、「あの方と再会」して――なんとすばらしい希望でしょうか!
特に幼い子どもや赤ちゃんが亡くなったという経験。 もう一生続くような大きな、大きな悲しみ。 クリスチャンといえども、その喪失感は、ご本人以外にはわからないでしょう。 でも再会への熱い思い、期待、もしこの希望が、本当に心の中にあるとするなら、 再会、「もう一度会える」というその熱い熱い思いは、人一倍だろうと思う。 私たちは、何歳の姿で復活するんでしょうかねぇ? 赤ちゃんで召された方は、何歳の姿になっているんでしょうか? それはもう神さまにお任せですが、きっと立派な成人になって、一番ぴちぴちとした姿でしょうねぇ。 みんなそうでしょうねぇ。すべての方が、「復活のからだ」ってそうでしょう。 そんな「復活のからだ」で「再会の望み」――それを持っている私たち。
前回、思い巡らしましたけれども、「信じないまま亡くなった方々、でも私たちのとりなしの祈りのゆえに、その方々も共に十字架の恵みにあずかる」――そのことを確信しています。 そんな驚くべき希望が、私たちの前に置かれている。 神を愛する者のために、神が備えてくださったもの。 確かに「目が見たことがない。耳が聞いたことがない。人の心に思い浮かんだことがない」(Tコリント2:9)かもしれない。 でも私が死を越え天国に行く。そしてすでに召されたあの方に再び会える――そういうことを年に一度でも真剣に思い巡らす時、それが召天者記念礼拝です。
今年の召天者記念礼拝は10月27日です。 でも大内さんは、その三か月前に、もう一度今ここで、私たちに自らが死を越え、天国に行き、召されたあの方に再び会えるという希望を、大内さんを通して、神さまはこの朝私たちに与えてくださったような気がします。 私の拙い説教よりも、耳を傾けていただきたいもの――それは大内さんの「天国からの呼び声」 まるで大内さんが私たち一人一人にこの朝、何かを語りかけておられるような気がします。 別れは辛い。ご家族にとってそれはもう本当に辛いことだと思います。 でも「死」を越える。 大内さん、今頃、「大丈夫ですよ〜。その瞬間、とても安らかな経験だったんですよ〜」と仰ってるかもしれない。 今おられる天国、「こっちは良いですよ〜。言葉にできない位すばらしい所ですよ〜」そうでしょうねぇ。 「再会、その日まで、私は神さまと共にあなたを見守っていますよ」 「あなたがたのために祈っていますよ。急がなくて大丈夫ですよ」(笑)
二年前(2017年12月)、フアンさんを天に送りました。 フアンさんも同じ気持ちでしょうね。 天国の新人、大内さんの呼び声も同じだと思うんですね。 そしてこの朝、そしてこの一週間、(※声を上げて)何百億人にも上る数え切れない人たちの「天国からの呼び声」、そしてその背後にある神さまからの恵みのお約束、この朝皆さんと共に聞きたいと思います。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった。」(Tコリント2:9)
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
神さま、私たちが死を越えること、天国に行くこと、既に召された方々と再会すること、日々の忙しい生活の中で、こんな驚くべき希望にあまりにも無頓着な私でございました。しかしこの朝あなたは、大内さんを通して、これらのことを思い巡らすひと時を与えてくださいましたことを心から感謝いたします。
「天国からの呼び声」を耳にしながら、人の知恵では理解できない、天国と復活と再会への希望を、どうぞ私たちにも与えてください。そしてこの希望の源であるイエスさまと共に、今週も、そして召される日まで、いや天国においても、あなたと共に歩ませてくださいますように。この時もどうぞ、大内さんのご家族の上に届いてくださいますように。愛するイエスさまのお名前によって、父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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