☆聖書箇所 Tサムエル14:1〜15
1そのようなある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。 2サウルはギブアの外れで、ミグロンにある、ザクロの木の下に座っていた。彼とともにいた兵は約六百人であった。 3アヒヤは、エポデを身に着けていた。アヒヤはアヒトブの子で、アヒトブはイ・カボデの兄弟、イ・カボデはピネハスの子、ピネハスは、シロで【主】の祭司であったエリの子である。兵たちは、ヨナタンが出て行ったことを知らなかった。 4ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えて行こうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はポツェツ、もう一方の側の名はセンネといった。 5一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。 6ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、【主】がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、【主】がお救いになるのを妨げるものは何もない。」 7道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」 8ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。 9もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。 10しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。【主】が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これが、われわれへのしるしだ。」 11二人はペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「おい、へブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」 12先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは道具持ちに言った。「私について上って来なさい。【主】がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」 13ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。 14ヨナタンと道具持ちが最初に討ち取ったのは約二十人で、一ツェメドのおおよそ半分の広さの場所で行われた。 15そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。
☆説教 ヨナタンの勇気
ほとんどの小学校は、始まっているんだろうと思います。 特別に9月という気持ちで私(藤本牧師)はメッセージを備えていませんが、かなりじっくり聖書を読んでいただきたいと思いますので、どうかTサムエルの14章を開けてください。 私自身もじっくり読むことによって、ようやく解ったというようなことがありますので、今日は「ヨナタンの勇気」として、話をしたいと思います。
先週は8月の戦争と平和の課題から、ヨハネパウロ二世の、「戦争は愚かな人間の仕業だ」という話を引用しました。 でも人間の仕業でありながら、人間は責任を追及することも、責任を取ることもしない、そこから話を始めました。
アメリカの方々にとっては、「原爆は太平洋戦争を終結させるために必要な手段であった」と、ま、普通に考えますし、 「そもそも戦争は正義の戦いであった」という考え方も持ち出しますし、 戦争裁判でもない限り、どこかで私たちは責任を回避します。 それは戦争というとてつもなく大きな愚かな仕業だけでなく、日常的に私たちが為すありとあらゆることに、主体的な責任を取るということを人は避ける。
その典型として、旧約聖書のサウルという人物を取り上げました。 彼は戦いに兵を率いて出て行くべきか、出て行かぬべきか迷った時に、 すでに死んでいたイスラエルの霊的指導者サムエルを、霊媒師を使ってわざわざ呼び出し、 「どうしたらいいのでしょう?私にはさっぱりわかりません」 とサムエルにせっつきます。 それは、彼の人生そのものがそうだったということで、 戦いに行くべきかどうかということに関して、神の導きを見定めたいと、一見信仰的に見えるんですけれども、 結局、自分の人生に起こる出来事に対して、彼は責任を引き受けるだけの主体性がない。
これは私たちにも当てはまることかもしれませんね。 自分を確かに持っていない。確かに自分自身というものを掴んでいない。 ですから責任を引き受けるどころか、いつも責任は周囲に行きます。 「お母さんのせいだ」 「あの時、親がああいう風にしなかったら、押さなかったら、自分は違う人生を歩んでいた」とかですね。 どこかで、いつも誰かの責任に事を持って行ってしまうというのは、私たちの誰にでも当てはまることだろうと思います。
今日は、その真逆の人物、なんと彼の息子のヨナタンを見ていただきたいですね。 ヨナタンというのはサウルの息子、ダビデの親友でありました。 ちょっと前後を見ます。 で、いきなりピリピをやって来た私たちが、旧約聖書の歴史的なところに入りますので、かなりしんどいと思いますが、しんどいのは20分ですので(笑)、聖書をピッと見てくだされば問題ないと思いますので、見てください。
13章の2節からいきます。 サウルが王になってしたことが、先ず13章の2節に書いてあります。 ちょっと1節から私の方で読んでいきますね。
<Tサムエル13:1〜6> 1サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。 2サウルは、自分のためにイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地にいて、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの兵は、それぞれ自分の天幕に帰した。
初めて常備の軍隊の設置を提案いたします。 専門の訓練された少数の精鋭部隊であった。 ま、まだそこまでいきませんけれども、こうして13章と14章には、サウルの宿敵ペリシテ人との戦いの様子が語られています。 当時、イスラエルはペリシテ人との抗争、これが一番大きな問題でありました。
戦いにおいて、先陣を切ったのは、息子のヨナタンでありました。 ちょっと見ていただきたいんですが、そのまま、3節ですね――
3ヨナタンは、ゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。サウルのほうは、国中に角笛を吹き鳴らした。ペリシテ人たちは、だれかが「へブル人に思い知らせてやろう」と言うのを聞いた。
とあるように、息子のヨナタンが、戦いを始めて行くわけです。 勢いを感じた父サウルも全イスラエルに召集をかけますが、本当に戦力になるのは、最初に見た三千人しかいないですね。
逆にこれによって戦いに火をつけられた、所謂『戦闘民族ペリシテ』、その恐ろしさが記されています。 5節を見てください。ちょっと一緒に読んでみましょうか?
5ペリシテ人はイスラエル人と戦うために集まった。 戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように数多くの兵たちであった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。
一気にやって来ました。そうしていっぺんにイスラエル全体を恐怖が包みます。 6節――(読み続ける藤本牧師)
6イスラエルの人々は、自分たちが危険なのを見てとった。兵たちがひどく追いつめられていたからである。兵たちは洞穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水溜めの中に隠れた。
これが大体13章の状況だと思っていただければ結構です。
ところが、先ほど(司会の)Mさんに読んでいただいた14章のこの15節は形勢が逆転します。
<Tサムエル14:15> 15そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに(***というのは、これはペリシテ人の陣営です、と説明)恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。
13章の6節ではイスラエルはペリシテの勢いに圧倒され、みんな隠れるわけですよ。 ところが14章の15節では、ここはもう一節の中に「恐れ」という言葉がありますでしょう。「恐れおののき」がありますでしょう? 「震え」がありますよね?「非常な恐れ」がありますでしょう? ですから、どれほど『戦闘民族ペリシテ』がイスラエルを恐れたのか? この形勢が逆転したというところを、今日は一緒に読んでいただきたいと思います。
1)何があったのか?
何ゆえ、このように形勢が逆転したのか? 簡単に言えば、小さな出来事――それはヨナタンと道具持ちの若者、二人だけで六百人のペリシテの軍隊を震え上がらせた――という出来事が、今朝読んでいただいた所です。
(14章の)1節からもう一回(読みます)。
1そのようなある日、サウルの息子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣の方へ行こう。」しかし、ヨナタンは父にそのことを知らせなかった。
たった二人、進んで行きます、困難な道を。 そして最終的に、13節を見ていただきます?13節に――
13ヨナタンは手足を使ってよじ登り、道具持ちも後に続いた。パリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがうしろで彼らを打ち殺した。
で、この場面の戦いの始めと戦いの終わり、そして戦いの終わった頃には、ペリシテ人は恐怖で震え上がった。
さて、簡単に(ポイントの)2)、3)と見ていきます。 そんなに長い説教ではありません。二番目――
2)戦いは無謀としか言えないです。
なんでこんな無謀な戦いをするのか? 私(藤本牧師)にもよく解らなかった、聖書の謎の箇所なんですけれども――ま、こういうことなんじゃないかな?
●(Tサムエル)14章の4(〜5)節を見ていただきます?この二人が進んで行った道のりが書いてあります。
4ヨナタンがペリシテ人の先陣の側に越えていこうとしていた山峡には、手前側にも、向こう側にも、切り立った岩があって、一方の側の名はポツェツ(***というのは、滑りやすいところという意味です、と説明)、もう一方の側の名はセンネ(***というのは、とげのある場所という意味です、と説明)といった。 ――文字通りそういう場所だったと思うんですね―― 5一方の岩は北側、ミクマスの側にあり、もう一方の岩は南側、ゲバの側にそそり立っていた。 ――両サイドは、滑りやすく、そして様々なとげのある植物が群生している、そういう非常に奇妙な地形の中を、彼らは敢えて行き敵陣に近づくわけですね。
●進んで行った道も無謀ですが、戦うべきかどうか、その判断も無謀です。
皆さん、これどういう風に思います? 私(藤本牧師)、なんか解らなかったですね、これ(大笑)。 色んな注解書見ましたけど、全然、ほんとにそうかよ、というようなものばっかりでした。
14章の8節〜10節までちょっと交替に読んでみませんか。 14の8〜10まで。
8ヨナタンは言った。「さあ、あの者どものところに渡って行って、われわれの姿を現すのだ。 9もし彼らが『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、その場に立ちとどまり、彼らのところに上って行かないでいよう。 10しかし、もし彼らが『おれたちのところに上って来い』と言ったら、上って行こう。【主】が彼らを、われわれの手に渡されたのだから、これが、われわれへのしるしだ。」
一体どういうしるしだと思いますか?どういうしるしなのだろう? 9節では、向こうが攻めてきたら逃げちゃう、ということですよね。 10節では、攻めに来いと言ったら、戦いに行こう、と。
どうしてこんなことが「神さまのしるし」【10節「われわれへのしるし」】になるのか? 私も皆さんも、どのようにして「神さまのしるし」を求めるのか?ということですね。
例えば牧師の結婚式で一番招待状が来た時に、最後に結婚に当たってのみことばっていうのが書いてあるんですけれども、一番多いのは―― 「主はみこころのままに志を立てさせ、事を行う力を与えてくださるのです」というみことばが圧倒的に多いですね。ピリピの2:13。 結局このみことばっていうのは――私の解釈ですよ、ごめんなさい――私の解釈では「あ、結局、みことばは与えられなかったんだ」(大笑)というのが、私の解釈なんです(大笑)。
ま、理想的と言えば理想的なんですけれども、あ、結婚したいなぁという「志」は与えられた。そして、きっと結婚できる「力」も神さまから与えられるんでしょうけれども、 「何か特別なピッというの」がなかった(大笑)。 だから、よく使われるみことばを最後に入れといたら……みたいな(大笑)、そういう指導を私(藤本牧師)はします(大笑)。 みことばがないと、ちょっとご案内が様にならないですから。
また両者が全然違うみことばを与えられたりするんですよね。 そういう時に、文脈から考えたら全然違う。文面にも全然合わない。 そんな風に聖書のみことばを持って来ていいの?っていう位、文脈から外して持って来ますので、ま、「神さまは何とかしてくださる」って言う以外にないですよね。 それとこれと似てますよ。
言葉じゃないですけれど、ペリシテが、 「待ってろよ。こっちから行くから」と言ったら、逃げよう。 「上って来い」と言ったら、攻めに行こう。 これ、どう考えても、神さまのみ心とは、直接関係ないですよ。
恐らく、戦術的にはこうだと思うんですね。 向こうから一気に来られたら、こちら側の場所を考えたら負ける。 でもこっちから攻めに行くんなら、地形から言えば、必ず勝算が出て来る。 つまり狭い地形。向こうの方が狭いんですよね。 で、一対一の戦いになるから、数では無理でも、勝てるかもしれない、という勝算が私(藤本牧師)はヨナタンにあったんだろうと思う。 それでこういうものの言い方をしたんですけれども、でもこれをもって「神のしるし」とするには、あまりにも無謀ですね。 実際向こう側に何人いるのか把握しているわけじゃないわけですから、2、3人やっつけたとしても、もうそそくさと退散しなければいけないでしょう。
しかし、もう状況が状況ですから、戦術にはなってないように思いますけれども、 言えることはヨナタンの勇気です。 「勇気」「主体的な決定」であることには間違いない。 無謀かもしれない。しかし勇気と主体性は十分に発揮しているヨナタンで、 流れに身をゆだねているわけではない。勝てるわけでもない。 二人で攻めに行っているのですから、それは無謀でしょう。 しかし攻めると言うのには、勝算があるかないかの問題ではない。 攻める時に、勝算があるから攻めるわけでは必ずしもない。 「勝ちに行く」というその「勇気」が問題なのだなぁと。
で、私(藤本牧師)はこの(Tサムエルの)13章と14章の全体を、ようやくこう理解して捉えたと思います。 テーマは「恐れ」と「勇気」ですね。恐れと勇気。 戦いの経験でもない。戦術でもない。 13章では、サウルとイスラエルの人々は相手の「数」に圧倒されました。 そして、隠れられる場所には全部隠れた。井戸の中であろうが、ほら穴の中であろうが、隠れた。 「恐れ」に圧倒されたイスラエルが描かれていますよ。 でも14章で、無謀とも言える「勇気」のゆえに、ヨナタンと道具持ちのたった二人で、イスラエルがペリシテを震え上がらせた、という一つの区切りで話は終わっている。 そうすると、13章14章のこの主題というのは、「恐れ」と「勇気」なんだろうなぁという風に結論できると思います。 これが私たちの人生の課題にあっても、主題として挙がって来るのだろうと思います。
3)ヨナタンの信仰です。
ほとんどの聖書の解釈を見ますと、この場を決したのはヨナタンの信仰であった、と説明してくれますが、 私(藤本牧師)はちょっと納得いかないですね。
ヨナタンの信仰を(Tサムエル14章)6節、一緒に見ていただきたいと思います。一緒に6節を読みます。
6ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、【主】がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、【主 】がお救いになるのを妨げるものは何もない。」
文章として、信仰告白としては割としっかりしていますよね。 一番引っかかるのは、この「おそらく」ですよ(笑)。たぶん、っていう。
皆さんが、例えば病気をされて手術をするという時になって、私(藤本牧師)がお祈りに行きますよね。 私(藤本牧師)がこのみことばを引用して、「病院としては甚だ心もとないけれども、多分(笑)、神さまは助けてくださるだろう」ってお祈りしたら、どう思われます?(笑) 「神さまは、大きな病院と優秀なスタッフを助けるのも、インターンのお医者さんの手を助けるのも同じ。多分(笑)、手術は成功します」(大笑)と言ったらどうします? 嫌ですよねぇ。それはむしろ病院のスタッフよりも、私が使った「おそらく」というのが嫌じゃないですか? 牧師だったら、「神さまは絶対に助けてくださいます」って言ってよ、と。
ヨナタンはこの「おそらく」という言葉を使ったんですよね。 明確に神さまのみ心を判断したから戦った、というわけではないです。 ただ言えることは、サウルのように霊媒師を使ってサムエルを呼び出してまでも、「神さまの判断がなければ自分は動けない」とは、彼は言わなかった。 「さあ、戦いに行こう」と、彼は自らの行動を現すわけです。 そして、それに対して、「神さまは、おそらく、私たちに味方してくださる」という自覚が彼にあった。 ヨナタンのお祈りのすばらしいところは、 「多くの人によっても、少しの人によっても、【主】がお救いになるのを妨げるものは何もない。」(Tサムエル14:6) この部分はすごいです。
つまり13章と14章で一番問題になっていたのは、兵の「数」ですから。 で、13章では、兵の数があまりにも違うので、彼ら(イスラエル)は恐れた。 「兵の数は関係ない、神にあっては」(14:6)――ここは立派な信仰です。 ただ気になるのは、「おそらく」という部分で、「おそらく」という部分を乗り越えたのがヨナタンの「勇気」です。勇気。 「神さまが救われるのであれば、数は関係ない」――そう信じて、恐れを振り払って、主体的な行動に出た時に、神さまは、まさに彼を助けてくださった。
私(藤本牧師)は色々こう思うようになりまして、 私たちは(普通は)理想的に、 「神さまが先頭に立って、私たちに行くべき道を教え、私たちを連れて右に左に行ってくださる」――これを理想とします。 で、「右に行くのか、左に行くのか、判断材料をください」です。
ヨナタンの信仰は、どちらかと言うと逆ですね。 自分が先に行って、「神さま、どうか私の後について来てください。いえ、ついて来てくださいますよね?」 恐れて神さまの判断を待ち、結局のところ、訳も分からず、というような人生だったら、 自分の判断・自分の勇気を優先して前に出て、そしてもし間違ったら、 「イエスさま、どうかすべての尻拭いを(大笑)私のためにしてください。 私はあなたに変わらずに信頼しています。あなたにとって数は問題ではありません。 私は行きますので、よろしくお願いします」 の方が、ヨナタンとサウルを比べれば比べるほど、私(藤本牧師)はいいなぁと思うようになりました。
有名なドイツの神学者のディートリヒ・ボンフェファー(***1906〜1945)という人。 彼が非常に一つの神学的なテーマを突きつけることによって、ドイツの教会を奮い立たせようとし、それが戦後問題になった言葉があります。 それは、「この世にあって、神無くして生きる」
つまりドイツの教会の人々が、「神さま」という名前を使いながら、どんどんどんどん、ナチスドイツの味方になっていくんですね。 で、この戦争は神さまに照らして、正しい戦争だという風に考えるようになる。 私たちはこの世にあって生きる。 でもこの世のすべての事を、神さまはあれやこれやと逐一判断されるわけではない。 もし私たちが基本的に、主イエス・キリストの教えに沿って生きているのであれば、 祈って、委ねて、あたかも神がおられないかのような一歩を踏み出す、という勇気も必要なんじゃないかと。 何をするにも神さまを引き合いに持って来て、そして自分の責任を回避する、放棄する、担保するようなお方を、いつもこう自分の側に置いておくのではなくて。
私(藤本牧師)は、ボンフェファーの言ってたことが何となく解りますし、皆さんも解ると思う。なぜなら皆さんもよく知っておられる。 時にはヨナタンのような危ない道を行き、戦術とも言えないような戦術を執り、 「でも、恐らく神さまは助けてくださる。神さまが助けるとなれば、数は関係ない」 と思って、勇気を奮い立たせ、そして失敗することもある。 でもその失敗さえも益に変えてくださる神(***ローマ8:28)を信じて、そしてまた前進する。
ゴールデンウィークの始まりに、父が転んで股関節を骨折しました。 その時に、私(藤本牧師)しか行ける人間がいなくて、病院に行き、 母がまだ入院してませんでしたので、母がいて、ケアハウスの方がいて、 救急救命センターのお医者さんから、私が説明を受けました。 母親はもう待合室で待っていてもらって、私が説明を受けました。 お医者さんは20代後半か30の前半ぐらいの若〜い方で、夏ですからサンダルを履いておられて、夜中でしたから何か頭はボサボサで、大丈夫なのかな?(大笑)っていう雰囲気はあったんですが、すごく何と言うんですかね、はっきりとものを仰るお方で、私はそれに非常に好感を持ちましたね。
「栄造さんは93歳ですから、このままにしておくという方法もあります。 非常に単純で、手術も何もせず、病院で寝てていただきます。 ここの病院は急性期の病院ですから、どこか他の病院を紹介いたします。 寝付いて、その内床ずれができて、そして天井を見ながら、色々苦労されながら、段々細くなって老衰で亡くなる、というのが、ま、一般的な方法ですね。
もう一つは、思い切って手術をしてリハビリをして、リハビリをしたとしても、多分歩行は以前の70%ぐらいしか戻りませんけれども、しかし短い期間かもしれませんが、自分の自由が十分に効くことになるんじゃないですか?」と。
私はそのさっぱりした、さばさばしたお医者さんの説明を聞きながら、 もう「手術で行きますので、よろしくお願いします」と言ってしまいました。
どうせ、自分が手術を受けるわけじゃないですから(大笑)、 手術を受けるのは父ですから、「よろしくお願いします」と。 そして父のところへ行って伝えました。 「このまんま、寝たきりになるのがいい?(大笑) 床ずれができて動けないっていうのは、忍びないよね?(大笑) だって頭冴えているから。 ある程度認知が入っていると、そういうことも受け入れられるけれども、 今までも頭はす〜ごく自由で、うるさい位自由なのですから、 天井見て暮らすのも辛いんじゃない?
お医者さんには、手術する、って言っておいたから(大笑)。 でもね、手術したって寝付くこともあるんだよ。 医者さん言っていたよ。リハビリが大切なんだって。 お医者さんは、手術を成功させる自信があったみたい。 だから問題はお祖父ちゃんがどれくらいリハビリするか、それにかかる。 だから信仰で手術。勇気でリハビリ――これで行こう」(大笑)
父は「わかった」と言って、頑張りました。 金曜日(8/30)行きましたら、大体歩行器で自分の身の回りのものは――歩行器というのは、こうブレーキがついていて色々動けるんですけれども――自由に動くようになりましたし、もう顔色から筋力から、随分良くなったと思います。
よく頑張ったなぁと思います。 たぶん神さまは助けてくださるんですよね。 93歳の人物が人工股関節を入れて、ピンピンするわけがない、というのは解りますよね? でも、多分神さまは助けてくださる。 神さまは助けてくださいましたよ。 だけど助けておいて、それでゴロゴロしてても、それだったら手術しなくてもよかったんじゃない?というようになっちゃいますよね? 勇気を出して、頑張ってリハビリして、それでようやく神さまの意に沿った結果になるんじゃない?
私(藤本牧師)は、(思うに) 人生において様々な神さまの導きを求めながら生きるのも私たちですけれども、 「こうせい、ああせい」という言葉が人から来る場合もあるし、 「いや、あの時、判断を間違えたな」と考えさせられる時もあるし、 でも少なくとも言えるのは、 「神さまの具体的な判断がない限り一歩も進めないようなサウロに、だ〜れもついて行かない」ですよ。
ヨナタンは――この道具持ちの若い者、「あなたがいらっしゃるんなら、私も絶対に行きます」(***Tサムエル14:7)という――その彼の勇気、そして彼の人間性というものに、何とも惹かれて一緒に行ったんでしょうね。 彼も何が何でも戦うとは言わなかった。引き返すこともある。 でも今ここで自分にとって一番大切なのは、たぶん神さまは助けてくださる。 そしてもし助けてくださるんだったら、「数」は全然問題ではない(という信仰)。 のみならず、今ここで一番問われているのは、自分の「勇気」だな、ということをヨナタンは考えたんだろうと思いますね。 お祈りをして終わりにしましょう。
☆お祈り――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、この世界で右か左かという選択肢を突き付けられる場面が多々あり、私たちはどんな時にも、間違った選択をしたくありませんので、あなたに祈り、周囲の人に相談し、必ずしも最後まで明確な答えが出て来ない場合もあります。
でも、どうかあなたがいつでも私たちの側にいてくださるような人生を送ることができますように。そしていつでもあなたが側にいてくださるのなら、私たちの前に道を開き、新たなる可能性を作り、たとえ私たちがしくじったとしても、あなたは脱出の方法を必ず備えてくださる(***Tコリント10:13)程、あなたは私たちのことを気遣っていてくださる。
「あなたがヨナタンを成功させたように、成功させてくださる。だから恐れることはない」――どうかこの言葉をしっかり心に刻むことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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