☆聖書箇所 箴言20:15〜21:4
<箴言20章15〜30> 15金があり、多くの真珠があっても、 知識の唇こそ宝の器。 16他人の保証人となるときは、その人の上着を取れ。 見知らぬ女のためにも、上着を抵当に取れ。 17だまし取ったパンはうまい。 しかし、後でその口は砂利でいっぱいになる。 18協議によって計画は確かなものとなる。 すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。 19人を中傷して回る者は秘密を漏らす。 唇を開く者とは交わるな。 20自分の父や母をののしる者、 そのともしびは、闇が近づくと消える。 21初めに急に得た相続財産は、 終わりには祝福されない。 22「悪に報いてやろう」と言ってはならない。 【主】を待ち望め。主があなたを救われる。 23異なる二種類の重りは【主】に忌み嫌われる。 欺きの秤は良くない。 24人の歩みは【主】によって定められる。 人はどうして自分の道を悟ることができるだろう。 25軽々しく「これは聖なるもの」と言い、 誓願を立てた後で吟味する者は、 罠にかかっている。 26知恵のある王は悪しき者をふるいにかけ、 彼らの上で車輪を引き回す。 27人間の息は【主】のともしび。 腹の底まで探り出す。 28恵みとまことは王を保つ。 恵みによってその王位は支えられる。 29若い男の栄誉は彼らの力。 老人の輝きはその白髪。 30傷つくまで打てば、悪は取り除かれる。 腹の底まで打ちたたけば。 <箴言21:1〜4> 1王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。 主はみこころのままに、その向きを変えられる。 2人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。 しかし、【主】は人の心を評価される。 3義と公正を行うことは、 【主】の前で、いけにえより望ましい。 4高ぶる目とおごる心。 悪しき者のともしびは罪。
☆説教 神に従順な心――水の流れのように
箴言から礼拝のメッセージをさせていただくことは、私としてはほとんどないです。 でも箴言を愛して、読み続けておられる方は多いと思います。 所謂ポケットに入る聖書で、皮表紙の聖書で、新約聖書詩篇付きというのはず〜っと日本は一貫して出して来ました。 これは様々な国々でも出していると思いますが、しかし新約聖書、詩篇・箴言付き」というのは、これは日本だけだろうと思います それ程日本人は箴言を愛しました。
インマヌエルの創設の先生方の中で、静岡にあるインマヌエルの教会全部を開拓された、松村道男先生がいらっしゃいます。 この先生は、戦争中、満州で兵役に就き、そして飢えと疲労とで困憊していく中、リュックからあらゆる荷物を捨てた。 やがて聖書も捨てた。でも最後まで聖書を破いて、箴言の数十ページを残したと仰っておられました。 それ程この先生は箴言を愛しました。
箴言は聖書の中では、律法の書ではないです。旧約聖書の中では。 【※律法の書――モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)】 これは歴史の書でもなく、預言の書でもなく、知恵の書です。 【※歴史書――ヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記第一第二・列王記第一第二・歴代誌第一第二・エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記】 【※預言の書――5の大預言書(イザヤ書・エレミヤ書・哀歌・エゼキエル書・ダニエル書) 12の小預言書(ホセア書・ヨエル書・アモス書・オバデヤ書・ヨナ書・ミカ書・ナホム書・ハバクク書・ゼパニヤ書・ハガイ書・ゼカリヤ書・マラキ書)】
知恵の書というのは、詩篇も伝道者の書もヨブ記も含まれます。 【※もう一つ、雅歌は恋愛の歌で、箴言・伝道者の書と共にソロモンの著】 しかしその中でも知恵の中の知恵が箴言でありましょう。
古代の昔から、歴史の文学・知恵の文学・詩歌の文学と、 恐らくどの世界・どの文化にも存在して来たと思いますけれども、 この箴言の言葉というのは、中近東、またエジプト、中国にも同じような文章はあります。 箴言の中にはそっくりエジプトの文章を持って来た箇所もあります。 人生のことがよくわかり、また私たちの生き方の指針もありますが、 一番一般的なところを、20章の15節から引用しておきました。 ちょっと見てください。(※読みながら説明していく藤本牧師)
15金があり、多くの真珠があっても、知識の唇こそ宝の器。
――沢山の金・真珠があっても、それを入れている器は一体何かと言えば、それは知恵の唇だ。
16他人の保証人となるときは、その人の上着を取れ。見知らぬ女のためにも、上着を抵当に取れ。
――それは戻って来ないことが十分にある(笑)、ということですよね。抵当に取ることの大切さ。 ――17節なんか、なんとなく私にはよくわかりますね(笑)。
17だまし取ったパンはうまい。しかし、後でその口は砂利でいっぱいになる。
――こういう経験(笑)、いたずら好きの人にはあるのかもしれませんね。
18協議によって計画は確かなものとなる。すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。
――みんなで協議する。指揮系統は一本です。でも戦いを交える前に、様々な意見を集約して協議することの重要性。
19人を中傷して回る者は秘密を漏らす。唇を開く者とは交わるな。
――口の軽い者――簡単に<真実にその人だけに明かしたこと>を周りで言いふらすような人と交わるな。
20自分の父や母をののしる者、そのともしびは、闇が近づくと消える。 21初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。
――相続財産っていうのは、終わりに得るもので(笑)、初めに得てしまったものはもうなくなってしまうぞ。
というような、どんな文化でも、どんな人々にも、ぐっと貫き通すような箴言、知恵の言葉がここに詰まっています。
では、ここの聖書の箴言が、ほかの文化の知恵文学とどこが違うのか? それはもう明確です。それは、神さまの存在ですね。
22「悪に報いてやろう」と言ってはならない。【主】を待ち望め。主があなたを救われる。
――つまり自分で復讐してはならない。
23異なる二種類の重りは【主】に忌み嫌われる。欺きの秤は良くない。 24人の歩みは【主】によって定められる。人はどうして自分の道を悟ることができるだろう。
この人、この社会全般に当てはめられる知恵の中で、信仰の原則がそこかしこに散らばっていて、 私たちは社会的にも知恵のある者でなければいけない。 しかし知恵の中の知恵というのは、神とどのように関わるのかということが記されています。
この21章、戻って来ますので、1回何かで挟んでいただいて、16章を見てください。 16章の1節から3節、交替に読んでいきたいと思います。
<箴言16:1〜3> 1人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは【主】から来る。 2人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、【主】は人の霊の値打ちを量られる。 3あなたのわざを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。
2節に「人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、【主】は人の霊の値打ちを量られる。」 最終的に知恵の中の知恵と言われるのが、知恵そのもの、あるいは知恵の源である神。 その神と私たちがどう関わるかということによって決まる。 この神さまは、(16章の)2節「私たちのたましいの値打ちを量られる」 先程の21章の2節にはこうありますね。非常によく似ています。
<箴言21:2> 2人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、【主】は人の心を評価される。
――これ、16章の2節と全く同じです。16章の2節では――
<箴言16:2> 2人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、【主】は人の霊の値打ちを量られる。
今日は短く3つのポイントでお話ししたいと思います。
1)霊の値打ち、というのはまさに神の御前を生きる私たちの値打ちということでありましょう。
箴言を記したのは、ソロモンです。 イスラエルの3代目の王、ダビデの息子でありました。 彼は王座に着く時に、神さまが彼に尋ねる声を聞きます。 「あなたに何を与えようか。願え」 とても大切な質問でありました――「あなたに何を与えようか。願え」。
ちょっとこの個所は見ていただきたいと思いますが、第一列王記の3章なんです。 ごめんなさい。聖書が新しくなりましたので、割と真っ白なんですよね、私も(大笑)。 それで、なるべく聖書を開いて線を引っ張って、以前線を引っ張っていた所が今回も引っ張られるように、努力していきたいと思いますが―― 第一列王記の3章の11節からちょっと読んでまいります。ちょっと前から読んでいきましょうか?3章の5節に――(※読んでいく藤本牧師)
<T列王記3:5〜13> 5ギブオンで【主】は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」 6ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。父があなたに対し真実と正義と真心をもって、あなたの御前に歩んだからです。あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました。 7わが神、【主】よ。今あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。 8そのうえ、しもべは、あなたが選んだあなたの民の中にいます。あまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど大勢の民です。 9善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。……」
――これが彼の願いだったわけです。聞き分ける心をしもべに与えてください、(と繰り返す藤本牧師)。で、10節に――
10これは主のみこころにかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。 11神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、 12見よ、わたしはあなたが言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。 13そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。
何度読んでも、恵みを受けますね。 私たちは何でも願っていい。何でも祈ってもいい。 しかし、その願いによって、神さまは私たちのたましいの値打ちを量られる、ということも事実です。 非常に良い願いを神さまの御前に差し出したソロモンに対して、 「その願い事はわたしのみこころにかなった。それがゆえに、あなたが願わなかったことも、わたしはあなたに与える。富も誉れも与える」 という程の祝福を受ける。 何を願うかによって、これほどの人生の差が出る、ということは考えさせられます。
神さまがこの私たちについて最も関心を寄せておられるのは、たましいの値打ちです。 人間同士がどんなに地位や財産や力量で評価しようとしても、 神さまが私たちを評価するのは、その心において。 その心は、人間の外に品性となり、言葉となり、行動となって出て来ます。 しかし、それでも、人に人の心は分からないです。 そのたましいの値打ちというのを真に量ることができるのは、神さまだけなのです。
2)では、神さまはどのような心を高く値積もり、どのような心を低く値積もられるのか?
箴言に戻っていただいて、21章の4節。 ちょっと箴言はせっかくですから多めに開きますが、21章の4節に――。
<箴言21章4節> 4高ぶる目とおごる心。悪しき者のともしびは罪。
旧約聖書で神さまが最も嫌われる心は、一貫してこれですね。 「高ぶる目とおごる心」 これは神に対してだけでもないです。人に対して高ぶる目とおごる心もそうです。 もっと具体的に言えば、(箴言21章)4節の前の2節に――「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える」とありますよね。 16章の2節では――「人には自分の行いがみな純粋に見える」とありますね。 自分が正しい。自分の歩みは間違っていない。自分は正しいとする心、自分は正しい思う思い。あるいは自分の道を誇る思い――これは一言で傲慢ですね。
「自分の行いがみな純粋に見える」(箴言16:2)――そんな人はいないだろうと思いますけれども(笑)、もしもいたとしたら、間違いなく性格異常です。 「自分の行い程、悔しくて、惨めで、情けないものはない」と考えるのが普通だろうと思います。 「自分の行いがみな純粋に見える」――そんな人いるのかなぁと思いますけど、たまにそういう人に出会いますと、ほんとにびっくりしますね。
聖書の中に神さまに心を量られた人物がいます。 しかも心を量られて、「あなたはとっても軽い」と言われた人物がいます。 それはダニエル書(***5章)に出て来る、ベルシャツァルというバビロンの王さまです。 彼は王座に着いた時に、千人の貴族を呼び寄せて、大宴会を催します。 酔った勢いで、エルサレムの神殿から奪ってきた神殿の金の器に酒を注いで、飲みながら、金・銀・青銅・鉄・木・石の神々を賛美します(***ダニエル5:4)。 「おれに敵う者はいない」と言わんばかりに。
大宴会の最中に、いきなり神さまの手が壁に現れて文字を書くんですね。 その文字はヘブル文字ですから、ベルシャツァルは読めませんでした。 ダニエルが呼ばれて、そしてダニエルは解説します。その言葉は―― 「わたしはあなたを量った。あなたは軽い。実に軽い」 「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」という言葉が壁に現れるわけです(***同5:25)。 神さまという方は、私たちのたましいの値打ちを量られるお方なのだ。 私たちの心の内側に傲慢な思いが頂点に達した時に、神さまはスパッとこのベルシャツァルという王さまを退けられます。
何も私たちは神殿祭儀に、酒をもって宴会を催すような傲慢な気持ちでないかもしれない。 でも神さまは、心の中で傲慢な思いが私たちの中で生ずる時に、それが頂点に達した時に、私たちを退けられるお方なんだということは、忘れてはいけないですね。 箴言の言葉は、十分に神さまの御思いを伝えています。 「人は自分の道はみな正しいと思う。自分の罪深さに目を向けようとしない心は、そのたましいは誠に軽い」ということなのでございましょう。 (16:2の神を抜きにした生き方)
では、逆に主が量ってくださり、決して軽くない心。 ちょっと16章を見ていただけます?こちらも分かり易いかなぁと思いますね。 16章3節〜6節を交替に読んでいきましょう。
<箴言16:3〜6> 3あなたのわざを【主】にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。 4すべてのものを、【主】はご自分の目的のために造り、悪しき者さえ、わざわいの日のために造られた。 5心の高ぶりはすべて【主】に忌み嫌われる。断じて罰を免れない。 6恵みとまことによって、咎は赦され、【主】を恐れることによって、人は悪を離れる。
私たちは自分の愚かさ、自分の罪深さ、足りなさ、弱さを知って、主にすがり、主に信頼し、その道を主に委ねるなら、あなたの計画は堅く立つ。 主に信頼して、主にゆだねるならば、あなたの計画は、あなたの道はまっすぐになる、というのは、これ3章にも出て来ます。 箴言の3章を見ていただきますと、ここにも皆さんが以前線を引っ張っていた聖書の箇所が沢山ありますので、5節〜7節までを交替に読んでみたいと思います。
<箴言3:5〜7> 5心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。 6あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。 7自分を知恵のある者と考えるな。【主】を恐れ、悪から遠ざかれ。
よく私たちは家族に、青年に、この言葉を贈りますね。 新しい道へと出て行く人に、「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる」と。 自分自身が何か全く新しいものに取り組もうとする時、「行く道すべてにおいて、主を知るような」主の御前に謙虚な者でありたいなぁと思います。 すると、神さまが私たちの進む道をまっすぐにされる。
三番目に――いま見ましたのは、神に量っていただき非常に軽い心と、神に量っていただき非常に重い心ですね。
3)たましいの値打ちは、どのようにして高められていくんだろうか?
それは一言で言うと、「神さまのみこころに従順であれば、《たましいの値打ち》は高められていく」ということだろうと思います。 (箴言)21章の1節――今朝の説教題はここから取りました。
1王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。
「みこころのままに、その向きを変えられる」ということは、みこころに沿って動くような従順さが必要だということですね。 王の心――ソロモンの心かも知れない、自分たちの心ですね。 それは主の手の中にある水の流れのようだ。用水路の流れのようだ。 水は四角い入れ物に入れば、四角い形になります。 丸い入れ物に入れば、丸い形状になります。 水は器に従って、その形を自由に変える――その不思議さ、その魅力。 いとも簡単にその形を変えていく。
それと同じような意味で、水は用水路の流れに従って、その通りに流れていく。 という所が見ていて気持ちがいいんですよね?
その用水路の流れが、1節の後半にありますように、これは「神のみこころの向き」ですよね。 神のみこころのままへというのは、神のみ心が向いている方向へと、私たちの心はさっと流れを変えていくということは、 私たちの心は、神のみこころに沿って動いていく、従順さを持ち合わせている。
ソロモンはこう言っているわけですね。 私たちの心は、主の御手の中にある水のように、従順であれ。 主のみこころの流れに従って、その向きを変えてもらいなさい。 主よ、私は自分の道を自分の思いでは歩みません。 私は、愛するイエスさま、あなたの御手の中を、あなたのみこころに沿って動いていきます。 ですから、あなたのみ心を探し、その方向に従って、自分の考えや自分の生き方に執着せず、あなたのみこころを生きることにします。
実際、自分の心が主のみこころに対して、いつも素直であれたら、どんなに幸いかと思いますね。 実際は、主のみ心と自分の願いがぶつかって格闘するばかりで、私たちは苦労します。 屁理屈で自分の道を正当化しますし、 主のみこころよりも、自分の願いや自分の欲を優先しますし、それが幸せであると私たちは錯覚しています。 でもそれはあくまで、「人の目にはまっすぐに見えても、死に至る道である」(と、箴言14:12でも、ソロモンは言う)。
聖書は私たちに訴えます。 「主のみ心を知ることは、それほど難しいことではない。ものすごく簡単なことだ」と。 ただ、それが解っていても、素直にその流れに身を任せることができるか、できないか、それがあなたの問題なんだよ。それが問題なんだ。
素直になれない。素直になれない。愚かなままでいる、イコール―― 主はあなたのたましいの値打ちを量り、あなたにはまっすぐで純粋に見える(箴言16:2、21:2)かもしれないが、あなたの心は実に軽い。実に軽い。 逆に私たちが、自分の弱さを愚かさを悟って、主に信頼し、どこにあっても主を認めようとするならば、 「わたしはあなたのたましいの値打ちを重く受け止め、あなたを大切にする」 (と主は言われる。)
主の御手の中の水路は、割と頻繁に変わるのかもしれません。 試練の方向に道が転ずる場合もあれば、坂を上がるように、あるいは坂を下りるように自由自在に神さまは、私たちの人生の行く道を変えていかれるんだろうと思うんです。 で、私たちは必死に抵抗しますね。必死に。 慣れた道であればあるほど。慣れた自分であればあるほど、それが変えられていくということを拒みますよね? そして今ある自分の道っていうのが、まっすぐで純粋だと自分に言い聞かせるんですけれども、 ある日壁に神の手が現れて、「メネ、メネ、テケル、ウ、パルシン」 ――「あなたのたましいは神によって量られ、とても軽いということがわかった」 という時点で、私たちは自分の信仰に大変な失望を感じるに違いない。 ですから、その頂点に行く前に、主よ、どうか私たちに従順な心を与え、あなたがどの方向に水路を変えても、流れを変えても、あなたのみこころに沿うように、私に素直な心を与えてください。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、まっすぐでない道がまっすぐである、と自分に言い聞かせます。それは「頑固な自分が頑固ではない。正義のためにそれをしているのだ」と言い聞かせてるのと同じです。「自分はこのようにやって来た。高津教会はずっとこうだった。これが正しいと思う」――それを一旦、あなたの前に問い直すような素直さ(を求めなければと思います)。
そしてあなたはいとも簡単に水の流れを変えられるわけですから、その変えられた流れに自分の人生、自分の思いを沿わせるような信仰。単に沿わせるだけじゃなく、あなたによる変化がベストであるという信頼をもって、どの道であれ、どの流れであれ、あなたを認め、あなたに信頼して、私たちの人生を進めていくことができるように憐れんでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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