☆聖書箇所 ヨナ1:7〜16 7人々は互いに言った。「さあ、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、くじによって知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。 8そこで彼らはヨナに言った。「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」 9ヨナは彼らに言った。「私はへブル人です。私は海と陸を造られた天の神、【主】を恐れる者です。」 10人々は非常に恐れて、彼に「何ということをしたのか」と言った。人々は、ヨナが彼らに告げたことによって、彼が【主】の御顔を避けて逃れようとしていることを知ったからである。 11彼らはヨナに言った。「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」海がますます荒れてきたからである。 12ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」 13それでも人々は船を陸に戻そうと漕いだが、そうすることはできなかった。海がますます彼らに向かって荒れてきたからである。 14そこで彼らは【主】に向かって叫んだ。「ああ、【主】よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。咎なき者の血の報いを、私たちの上に下さないでください。【主】よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」 15こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。 16人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえを献げて誓願を立てた。
☆戸塚伝道師の説教 『ヨナ書』に自分を問うB 大いなる不思議を行われる方
「『ヨナ書』に自分を問う」シリーズの第3回目です。 来週も藤本満先生はお出かけで、私(戸塚伝道師)が説教をさせていただくことになっているんですけれども、来週はヨナ書ではありません。 ヨナ書は月に一回したいと思いますので、来週は違いますけれども、ヨナ書の続きは11月の17日(※第三聖日)の予定になります、次は。
でも今日はその3回目になりますが、「大いなる不思議を行われる方」と題して、3つの視点で恵みを分かち合いたいと思います。 先ず一つ目は――
1)ヨナは嵐の船の上で、自分のことを語っています。
ヨナ書1章の4節をご覧いただきたいと思います。
4ところが、【主】が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
というこの状況から始まって、そしてヨナの様子がず〜っと書かれているわけですが、 今日はくじがヨナに当たったという所から、前回の続きを見ていきたいと思います。
くじ――何かの事柄を決める時に、ユダヤ人を始め古代の人の間に神さまの御心を知るために用いられた方法であります。 くじを引いて決める。 この船の乗組員たちは、「くじを引く」という、それを選択した。そしてその結果、ヨナに当たった。 ヨナに当たった時に、その船の上の乗組員たちがどういう反応をしたかが、8節に書いてあります。
8そこで彼らはヨナに言った。「話してくれ。だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか。あなたの仕事は何か。どこから来たのか。国はどこか。どの民の者か。」
「だれのせいで」――だれのせいで、こんなひどい暴風が吹き荒れたのか? この船の乗組員たちは、このくじの妥当性を少しも疑うことなくヨナに迫っていますね。 このくじが神さまの息のかかった権威と説得力を持っていたということが伺えます。 「ヨナ、おまえのせいなんだな?」 この時、船の上の人々は、ヨナの素性を知ろうと4つの質問をしました。 それが、8節に4つの質問が書かれています。 1つ目が、あなたの仕事は何か?2つ目が、どこから来たのか?3つ目は、国はどこか?4つ目は、どの民の者か?
ヨナはこの質問にすべて答えていません。でもこの4つ目、「どの民の者か?」に答える中で、自分のことを証ししています。 難破しそうな船の上で、自分のことを証ししています。それが9節――
9ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、【主】を恐れる者です。」
この「【主】を恐れる」の“おそれる”というのは、恐い(こわい)という漢字が使われていますけれども、この“恐れる”ではなくて、畏怖(いふ)の“畏れる”(おそれる)ですね。 【主】を畏れる者――【主】を崇め、【主】を礼拝し、【主】を信じる者なのです。 つまり、激しい暴風で荒れ狂うこの海を造られた神を崇め、礼拝する者なのです――そういう告白をしています。
私たちは何か自己紹介の時に、訊かれてもいないのに、自分がキリスト者であるということをやたらに吹聴するということをあまりしません。 必要ないんだろうと思います。特に日本の社会において。 でもここぞという時に、イエスさまを証しすることができるだろうか?ヨナのように、 「私は日本人です。私はイエス・キリストを救い主として信じる者です」 「日本人です。イエスさまを救い主として信じる者です」――なかなか言えません。
でもこのことを堂々と言った人がいます。それが内村鑑三(***1861〜1930日本のキリスト教指導者・無教会主義)。 「私は二つのJ を大切にしている。二つのJ ――JAPANとJESUS」 でもなかなか、そんな、ま、内村鑑三ぐらいの人だったらば、胸を張って堂々と言えるのかも知れません。なかなか言えません。 「宗教? あ、もう結構です」――そこでさぁ〜っと壁ができてしまう。
でも私(戸塚伝道師)、退職してから――一つだけ証しする機会――この言葉で証しすることができるようになりました。 「戸塚さん、何してるの、退職後?」 「うん、牧師してる」 「あ、牧師〜。あ、そう言えば、何かそんな雰囲気を持っていたねぇ」なんて。 そんな牧師臭いでしょうか、私は?(笑) 「そんな雰囲気持っている。いい仕事じゃない。びったりよ〜」とかね。 ま、そういう意味では自然にすんなりいくのかなぁ。 ま、どのような機会が与えられるかわかりませんけれども――
ヨナは堂々とこの場で証しをしています。 ヨナは「【主】を畏れる者」として証しをしたわけですね。 しかしヨナは、今までの記事をず〜っと読んで来ますと、【主】を畏れる者であっても、嵐を恐れる者ではなかった。 天の神さまを、愛と信頼に基づく大人の関係として、まるで親しい親子のような関係を持っていたので、 「神さまは私がニネベに行きたくないと言ったから、神さまはこの嵐を起こしているんでしょう。分かっていますよ、神さま」 全然嵐を恐れていないような、そんなヨナの姿を読み取ることができるような感じがいたします。
二つ目の視点―― 2)このヨナの証しを聞いた船上の乗組員、船員たちの反応です。
10節――
10人々は非常に恐れて、彼に「何ということをしたのか」と言った。人々は、ヨナが彼らに告げたことによって、彼が【主】の御顔を避けて逃れようとしていることを知ったからである。
船の乗組員たちは、ヨナがへブル人であることを知って、非常に恐れました。 へブル人――へブル人とは、イスラエルの民が他の異教の民との区別を意識した呼び名。 人々がへブル人と聞いて恐れたのは、イスラエルの神が自分たちの神々と比較にならないほど恐ろしい方だということを、この船員たち、乗組員たちは認識していたんですね。 だからヘブル人と聞いて恐れた。この「恐れた」というのは、“恐がった”という方の恐れでしょうね。 自分たちの神さまを信じているのに、それよりも他の神さまの方が恐い。他の神さまの方が恐いと思っている――そういうことなんでしょうか?そういう風に認識していた。 そしてヨナに向かって言うわけですね。 「何ということをしたのか」 ――海と陸を造られた神さまを信じているあなたが、何ということをしたのか! ――神さまの御顔を避けて逃れようとしているなんて。神さまに従わず逆らうなんて。 ――へブル人の信じている神さまに逆らうとは、なんと恐ろしいことか! ――ヨナの罪のせいで、海を造られたあなたの神は怒っておられる。 そう感じたんでしょう。
そしてこの乗組員たちは、 「何とかしてヨナの信じている神の怒りを静めなければならない。海はますます荒れて来た。ああ、これからどうなるんだろうか?」 って、恐らく乗組員たちは、「ヨナの信じている神はまさしく海と陸を造られた天の神だ」ということを認めている。 何となく、そういうことがわかったのではないだろうか? だから、「その神の怒りを静めなければならないのだ」という思いに駆られたのではないだろうかと想像いたします。
切羽詰まった人々はヨナに圧力をかけるような質問をしました。それが11節です。
11彼らはヨナに言った。「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」……
これすごいプレッシャーをかけている質問ですよね? 「私たちのために海が静まるようにするには、あなたをどうすればよいのか。」 裏を返せば、「創造主の神の怒りをなだめるために、ヨナよ。あなたに責任取ってもらおうか」 ヨナを、生きた人間を、神に差し出すと、神の怒りが収まる、そして神の怒りが静まる、というその発想――これは異教の神々を信仰している人たちの習慣だと思われます。 ま、人身御供(ひとみごくう)というのでしょうか。 生きた人間を差し上げると海が静まる。
逃げられない質問を受けたヨナはついに決断します。12節――
12ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」
ヨナの命がけの全面降伏ですね。 船員たちに対する全面降伏と共に、恐らく神さまに対して、「分かりましたよ、神さま」って感じでしょうね。 「私一人が何とか犠牲になればいいんですよ」という開き直りでしょうか? 「分かりましたよ、神さま」――でも腹の底から悔い改めたのではないのかもしれない。 でも何とかしなくちゃいけない。責任取らなくちゃいけない。他の人たちのいのちを奪うようなこと、私のためにそんなことがあってはならない。
ところが、ヨナのその開き直った言葉を聞いて、船員たちはビビってしまったらしい。 「いや、それは私たちにはできない」――なんか急にビビってしまったらしい。 なんか人々はヨナのその開き直りの状況に、逆にこう気圧されてしまったようで、 「あ、そこまでは、そんなに急に決断するとは思わなかったんですけれど」って感じだったんでしょうか? ヨナに同情するような思いで、そして、もしかしたらヨナが海の波に飲み込まれたらば、 いのちが危うくなるかもしれないし、私たちがヨナのいのちを奪ったことになりかねない ――こりゃ、ちょっと、そんなんじゃちょっとやばいなぁと思って、13節――
13それでも人々は船を陸に戻そうと漕いだが、……
と書いてありますね。 船員たちは最後の努力をしてみたんです。 「ヨナよ。ちょっと待ってください。何とかしますから」でも――
13……、そうすることはできなかった。海がますます彼らに向かって荒れてきたからである。
船の上の人たちは、ついにヨナの言い分を受け入れざるを得なくなりました。 嵐の真只中で、14節――
14そこで彼らは【主】に向かって叫んだ。「ああ、【主】よ。どうか、この男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください。咎なき者の血の報いを、私たちの上に下さないでください。【主】よ。あなたは、望まれたとおりになさったのですから。」
と叫んでいる。 この14節読んで、私(戸塚伝道師)はハッとしました。 「彼ら」というのは、船員たちですよね?「異教の神」を信じていた。 ところが、彼らは【主】に向かって叫んだ。 この【主】というのは、太文字で書いてありますけれども、 これは新改訳聖書では、神さまの御名を表す場所を太文字で書いてある。 ヤハウェという神さまの御名を表す場所。 つまり「異教の神」ではなく「海と陸を造られた天の神」に、怒っておられる神をなだめるような思いで、 しかも、ヨナが信じている神を自分の神として、この神に祈り叫んでいるんですよ。 パニック状態の中で、ひたすら【主】に、ヨナの信じている神に、ヨナの信じている、怒り狂っている神に向かって、【主】に向かって、ヤハウェに向かって、この船員たちは叫んでいるんです。祈っているんです。 「ああ、【主】よ。どうかこの男のいのちのことで、私たちが滅びることのないようにしてください」(14節)。 「たとえ、私たちが彼を海に投げ込んだとしても、私たちがその報いとして滅びるようなことがないようにしてください」という祈りですね。
しかも最後に、「【主】よ。あなたは望まれたとおりになさったのですから」(14節最後)。 「望まれたとおり」とは一体何か? それは、大風を海に吹きつけられ、くじがヨナに当たるように導かれて、ヨナが神に完全降伏するように働きかけた、 そして「私を抱え上げて、海に投げ込んでください」(12節)と(ヨナに)言わしめた、そういう神さま(に向かっての祈り・叫びですが)、 「あなたは望まれたとおり、なさいましたよね? 私たちでは、ヨナのいのちに対して責任を負いかねます、神さま。 神さまがこれらのことを望んで行われたのですから、どうかあなたが責任を持ってください。 あなたの怒りが私たちに及びませんように、これからヨナを海に投げ込みます」 そういう祈りを捧げているわけですよ。
そして15節、実行します。15節(〜16節)――
15こうして、彼らはヨナを抱え上げ、海に投げ込んだ。すると激しい怒りがやんで、海は凪になった。 16人々は非常に【主】を恐れ、【主】にいけにえを献げて誓願を立てた。
ヨナを海に投げ込んだ結果、海は凪になった。 それを見た船員たちは非常に【主】を畏れ――このおそれは恐がる(怖がる)“恐れ”じゃないでしょうね。畏怖の念の“畏れ”です。 船員たちの視点に立つと、ヨナとは違う神さまに対する関係が見えて来ます。 「ああ、神さま。海と陸を造られた神さま。ヨナの信じる創造主よ。あなたはすごいお方。畏れ多いお方」
神さまと愛と信頼に基づく大人の関係を持っていたヨナですけれども、 船員たちの創造主に対する畏れは、次元が違っていました。 初めて、神さまのみわざを見た衝撃。そこで何をしたか?船員たちは。 「【主】にいけにえを献げて誓願を立てた」(16節)と書いてあります。 「【主】にいけにえを献げる」――船には牛や羊はいなかったと思われますが、どうやっていけにえを献げたんでしょうか?わかりません。書いてない。 でも、いけにえを献げた――おそらく、これは礼拝の行為を象徴しているんだと思います。 ヨナの信じている神さまを礼拝した。創造主を礼拝した。そして誓願を立てた――誓願、これは誓いですね。 「へブル人ヨナの信じている、海と陸を造られた、天の神を、私たちも信じます」 「私たちも信じます」という誓願です。
ここで船員たちは回心してしまったのです。嵐の船の上での集団回心。 ま、この時はもう凪になっていた。集団回心ですよ。ま、リバイバルでしょう。 【主】を礼拝し、信じる誓いを立てた。 ヨナにしてみれば、異教の民の回心は見たくなかったでしょう。 ニネベに行きたくなかった理由と全く同じ。 あんな異教の民は滅びてしまえばいいんだ、というその思いは変わらなかったと思う。 ヨナは見なくてよかった、このシーンを。
3つ目の視点―― 3)信じた、いや信じさせられた船員たちが、心の底から実感したことは一体何か?
心の底から実感したこと――噂や、説明の理解や、学びでもない。心の底から、腹の底から、船員たちが実感したこと。 それは、何か?――それが今日の説教題――「大いなる不思議を行われる方」なんです。これは詩篇の136篇の4節に書かれている言葉です。
<詩篇136:4> 4ただひとり 大いなる不思議を行われる方に。主の恵みはとこしえまで。
「ただひとり 大いなる不思議を行われる方に」――この後、「感謝せよ」という言葉が省略されていますが、この行は、「ただひとり 大いなる不思議を行われる方に。」 「大いなる不思議」――船員たちにとっての「大いなる不思議」とは何だったんでしょうか? 昨日の台風(19号)は自然災害です。神さまは関わっていない、自然災害。 しかしこの大風は、ヨナ一人のために、ヨナの罪のために、神さまが起こした大風。 そして、そのヨナ一人のいのちと引き換えに、海は大凪になった。 これが、船員たちにとっての「大いなる不思議」。 ただ一人のための創造主。ヨナただ一人のための、天地万物を造られた、全知全能なる創造主。 それに圧倒されて、「大いなる不思議を行われる方だ!」と実感したのではないでしょうか?
私たちの、私たちキリスト者である人生の歩みにおける「大いなる不思議」の体験、あるでしょうか? 神さまはたま〜に、このようなみわざを私たちにも見せてくださることがあります。 それは信仰の励みになったり、悔い改めに導かれたり、新しい気づきが与えられたり、恵みに深められる機会です。 「ああ、これは神さまだ〜。神さまのみわざだ〜。神さまの行われた『大いなる不思議』だ〜。ああ、神さま〜。あなたを礼拝します!」
*週報に書かれているFTさん、横に傾いていた身体が奇跡的に元に戻った後、その姿勢がずっと保たれています。 この奇跡的という「奇跡」という言葉は、私(戸塚伝道師)が考えて書いたんじゃなくて、WMさんが、『朝の祈り会』の時に証しをされた第一声が、 「奇跡が起こりました」という第一声でした。 「奇跡が起こりました。傾いていた姉の身体が奇跡的に元に戻った。奇跡が起こりました」 周りの人たちは、もうびっくりされたそうです。 でも私たちは「ああ、神さまだ〜。神さま感謝します!」
*すぐに答えられない祈りもあるかもしれません。 先月のフェローシップで、IM君が証しされていました。 「なんでぼくを希望の中学校に、神さまは合格させなかったんだ?」 でも一年後、神さまが開いてくださった不思議な導き。 アメリカ研修旅行という道を神さまがM君に開いてくださった時、 「ああ、神さまだ〜、神さまの最善だったんだ!」
*私(戸塚伝道師)の初めての経験、1980年のビリー・グラハムの国際大会。 東京ドームがない。後楽園球場でなされた時の第一夜。 その日の天候は「夜は雨」という予報でしたけれども、雨は降らなかった。 雨が降らないだけじゃ、あまり感動はない。 ビリー・グラハム国際大会が終了する時刻が9時でした。 9時、カウンセリングも終わって、そして三々五々帰りかけた時刻が9時。 その9時ちょうどに、ポツッ、ポツッと雨が降って来て、その後ザ〜ッと降り始めた。 「ああ、神さまだ〜。9時まで守ってくださったんだ」 こんなタイミングの良さ――「運がよかった」なんて言ったら、神さまに怒られちゃうかもしれない。 「ああ、神さまだ〜!」
*5年前の妻の癒しもそうです。 私(戸塚伝道師)、一生妻の車いすを押しながら過ごすのかなぁと覚悟していた。 不思議に癒された。皆さんの背後にあるお祈りのおかげです。ありがとうございます。 「ああ、神さまだ〜!」 でもおまけが付いていた。私が献身に導かれてしまった(大笑)。 導かれたしまったと言ったら、それは失礼ですけれどもね、神さま、失礼しました(大笑)。 でも神さまに呼ばれました。 別にそれと連動していたわけじゃない。 でも、「神さま〜!」という思いだったんでしょうね。
*静岡教会の二年間にも、沢山大いなる不思議を感じ、「天の窓」にも証しさせていただきました。 「静岡派遣の七不思議」(※2019年6月2日号巻頭)。 「ああ、神さま〜!」
やたら奇蹟ばかりを求めて、期待するというわけではない。 そっちに行っちゃうと、また違って来てしまうでしょう。 でも、「ああ、これは神さまだ〜! 神さまの『大いなる不思議』だ〜!」――そういう神さまのみわざを心から実感して、そして悔い改めに導かれたり、信仰の励みが与えられたり、新しい気づきが備えられたり、恵みに深められるような機会になったり。 そんな神さまのすばらしさを味わい知りながら歩む恵みを、神さまが備えていてくださいます。
この「大いなる不思議」は、とてつもなくすごいみわざが現れないと、実感できないか? いや、そうじゃないのかも知れない。 もしかしたら、先週私たちが歩んできた日々の生活の中で、この神さまの「大いなる不思議」は何度も何度もあったのかもしれない。 私たちがそれに気づかずに、「ああ、今日も一日終わった。疲れた」で終わっちゃっていたのかもしれない。 でも神さまは、私たちに何とかしてその「大いなる不思議」の恵みを味わってほしいと、願っておられるお方です。 神さまは、今もただ一人、「大いなる不思議」を行われるお方です。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
ヨナが告白し、船員たちが礼拝した創造主なる神さま、ヨナはあなたの御顔を避け続け、ついに降参しました。そんなヨナの行動とは裏腹に、嵐の中の船員たちは、あなたの行われる「大いなる不思議」を目のあたりにして圧倒され、その場であなたを【主】と崇める者たちと変えられました。
私たちの歩みにおいても、時として、あなたは「大いなる不思議」を行われる方です。どうぞ鈍い私の心を開き、目を開いてください。そしてあなたの恵みの深さを味わい知る私たちとさせてください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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