☆聖書箇所 Uテモテ4:6〜18
6私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。 7私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 8あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。 9あなたは、何とかして早く私のところに来てください。 10デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。 11ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 12私はティキコをエペソに遣わしました。 13あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いて来た外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。 14銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。 15あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。 16私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。 17しかし、主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。こうして私は獅子の口から救い出されたのです。 18主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
☆戸塚伝道師による説教 あなたに会いたい、話したい
今朝はテモテへの手紙第二の4章の6節〜18節のみことばに、心を留めていきたいと思います。 この「テモテへの手紙」というのは、テモテという人が書いた手紙なんですけれども、 聖書から分かるテモテの情報、これを見ていきたいと思います。
テモテという人物はパウロの愛弟子です。 パウロによって救いに導かれた人。ユダヤ人のお母さんとギリシャ人のお父さんの間に生まれました(***使徒16:1)。おばあさんも敬虔な信徒です(***Uテモテ1:5)。 テモテがイエスさまを信じたきっかけは、パウロが第一回目の伝道旅行で、ルステラという町を訪れた時のことです。 ここに、このルステラという町に、テモテという人がいて、そこでパウロとテモテが出会います。 それがテモテがイエスさまを信じるきっかけです。
パウロが第二回目の伝道旅行でルステラを訪れた時に、テモテが信仰的にもすっかり成長していた、ということをパウロが感じ取りました。 そこでパウロは自分の伝道旅行に同行するようにお願いし、一緒に色んな所に伝道するわけですね。 ガラテヤ、トロアス、テサロニケ、ベレア、コリントなどにも、テモテはパウロの働きを助けていることが聖書から読み取れます。
このテモテへの手紙ですけれども、「テモテ第一の手紙」と「第二の手紙」があります。 「第一の手紙」というのは、パウロが最初の投獄から解放されて数年後、テモテがエペソ教会のリーダーとして教会を牧会していた頃に、テモテに書き送られた手紙だと言われています。 (第一の手紙は)西暦64年頃書かれた。テモテはエペソ教会の所謂牧師先生をやっておられた、ということなんでしょう。
「第二の手紙」は、これもパウロがエペソにいるテモテに宛てて書いた手紙です。 本書もパウロの手紙なんですけれども、本書のパウロの手紙においては唯一の特徴がありまして、それはパウロにとって最後の手紙です。 ローマの獄中から、殉教の死を目前にしながら書いた手紙です。 西暦67年ごろ書かれたと言われています。
この「第二の手紙」を読んでいますと、ああ、パウロが遺言のように様々な事を言い残している、ということが読み取れます。 今日はこの第二の手紙の最後の第4章から、3つの視点で恵みを分かち合いたいと思います。
1)殉教の死を覚悟したパウロの信仰
このパウロの信仰――この部分から「現在の信仰」「過去の信仰」「これからの信仰」とい続けて読むことができるような――そういう感じがいたしますので、そういう順番で見ていきたいと思いますが、
●パウロの信仰、「現在の信仰」は一体どういう信仰だったのか? 今のことが書かれている、それが(Uテモテ)4章の6節です。
6私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
「私は既に注ぎのささげ物になっている」――これは血の注ぎですね。血の注ぎ。血を注ぐということです。 そして(自分が)「世を去る時が来ました」。 この「世を去る時が来た」――これは、パウロが殉教する、それが近づいているということです。 「テモテへの手紙第二」が書かれたのが西暦67年としますと、パウロの殉教は西暦70年だと言われています。 そうしますと、その説から言うと、殉教の3年ほど前に書かれていたのではないだろうか?――そのように推察することができます。
●次に過去のことが書いてある、「過去の信仰」過去の思い巡らしと言いますか、今までのことが書かれている――それが(Uテモテ4章)7節です。
7私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
これ文語訳ですと、「われ善き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり」――われ善き戰鬪をたたかひ、走るべき道程を果し、信仰を守れり――そのように訳されています。 パウロは自分の生涯を振り返って語っている、それがこの7節です。
「勇敢に戦い抜いた」――この「勇敢に」という所に※が付いていて、下(の注)を見ますと、直訳と書いてあって「良い戦いを」が直訳だそうです。 「私は良い戦いを戦い抜き」――これが直訳ですね。 文語訳はもう直訳で訳されています――「われ善き戦いを戦い」。
高津教会の信仰の証しの文集があります――そのタイトルが「善戦」。 漢字二文字です。よい「善」という字と「戦う」というその二文字で「善き戦い」と読んで、文集のタイトルとなっていますが、 「善戦」を最近いつ発行したのだろうか? 調べてみたら、もう5年前ですね。5年前に発行されている。 1冊あれを完成させるというのは、なかなか大変で、先ず皆さんお一人お一人が原稿を書かなければいけないという、大変な課題を荷わなければならないということで、 なかなかあの一冊を出すっていうのには、大変な苦労があるのかもしれません。 でも私たちの高津教会には何冊か、その「善戦」というタイトルで証しの文集があります。 神さまと福音のために「善き戦い」をする。
そして「走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」 この「走るべき道のり」というのは、自らの人生のコースですね。自らの人生のコース。 神さまの導きのうちに、自らの人生のコースを走る。 パウロはこの「走る」という言葉を使ったというのは、恐らくレースに例えているのではないだろうか? 信仰――自分の前に置かれているレースなんだ。
「へブル人への手紙」にも同じような表現があります。 「自分の前に置かれている競走」という言葉が、へブル人への手紙12章の1節にありますけれども、 「へブル人への手紙」は、パウロが書いたというわけではないようです。これは誰が書いたのかわからない書簡でありまして。 でも同じように「走るべき道のり」を「自分の前に置かれている競走」として、この「ヘブル人への手紙」(の著者)は書いているわけですね。
その「走るべき道のりを走り終えた」ということは――生を全うした。自分の使命を全うした――そういう証しです。 そして「信仰を守り通しました」。 「走り終えました」「信仰を守り通しました」――私は自分を生き抜くことができました――そういう言葉ですね。
昨年の9月に全身癌で亡くなった女優の樹木希林(きき・きりん)さんという方がいますけれども、 樹木希林さんは「生き抜く」という言葉よりも「生き切る」という言葉を用いるのが好みだったようです。 「生き切る」――希林さんの口癖は――「自分のいのちを使い切って」死にたい。 自分のいのちを使い切って――物を使い切ることに喜びを感じておられた希林さんだそうで――同じように、いのちも使い切るんだ。 与えられたいのちを使い切って死にたい。 希林さんはまさに死の瞬間まで恐れずに自然体で丁寧に生きて、素敵な言葉を残して安らかに生を全うされたお方です。 その姿に多くの人々が感銘を受けて、今も数々の本が――本人はお亡くなりになられているのに――様々な本がベストセラーになっている。
パウロは「走るべき道のりを走り終えた」――その満足感と充実感。 希林さんは「いのちを使い切った」「自分を生き切った」――そういう視点で同じように、ひょうひょうとした感じで、この世を去って逝かれました。 希林さんは、自分は仏教だ、という風に公言されていますけれども、 でも「走り終えた」「生き切った」「自分を使い切った」――これは所謂宗教の枠組みを超えた、なんか普遍的な死の表現なのかもしれない。 神さまから与えられたいのちを使い切った。与えられた使命を果たし終えた。 パウロは自分の過去の人生を振り返りながら、このような信仰の証しを最後に書いているということがわかります。
●そしてこれからのこと、それが8節です。
8あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
「義の栄冠が私のために用意されている」――「天国での報い」「死に対する勝利」「復活の希望」――それが用意されている。 ここに、「私のために用意されている」という言葉だけでなく――「用意されているだけです」――「だけ」という言葉があります。 この「だけ」という言葉は――もうそれをいただくことが、義の栄冠をいただくことが決まっているんだ――ただそこに行けばもう与えられるんだという心からの確信ですね。 それが「だけ」というわずか二文字の中に込められているような気がします。 「天国へ行く準備は大丈夫。もう万全、私は」――このパウロの「腹の座った信仰」。
ある人物の信仰を語る時に、この「腹の座った信仰」に私たちはあやかりたいと思います。 でも気をつけないと――いつの間にか、神さまに対する信仰ではなくて、その人物の信仰が美化されて独り歩きしてしまいがちになる――これは気をつけたいなぁと私は思うんです。 それでも、そのような信仰に少しでもあやかりたいなぁと、私(戸塚伝道師)は思うんです。 「腹の座った信仰」――何があっても大丈夫です。「義の栄冠が私のために準備されている」んです。 特に死を目前にした時に、このような「腹の座った信仰」を持ちたいなぁと思います。 私にはありません。確かにパウロのように迫害にも遭っていませんし、そのようなギリギリの所で、恐らく神さまが特別に与えられるような信仰なのかもしれない。 今は私にはないです。でもあやかりたいです。
でもいま私にはないということが、別に不安がる必要はないと思います。 そのような状況に置かれていない私たちは、今から自分で一生懸命頑張って、天国行きに備える信仰を鍛える努力は必要ないのではないかと思うんです。 私たちのための十字架と復活が全てであって、それさえあれば、後は全部神さまが良きにしてくださる。 「パウロのような信仰、今ありません」「天国へ行くような自信がありません」――確かにそうでしょうね。 でもきっと一人ひとりに必要な信仰は、その時与えられるのではないだろうかと思います。
私(戸塚伝道師)は二年前、召天されたフアンさんの信仰、二年経った今でも鮮烈に覚えています。 「死の恐れはなくなりました!」――そう断言されたフアンさん。 本当にそうなんだろうか?私は今、死がすごく怖いんです。 でも「死の恐れはなくなりました!」と言わしめるような信仰を、神さまがフアンさんに与えてくださった。 掲示板を見ますと、今でもフアンさんが笑顔の写真がまだ掲示されている。しばらく外せないでしょうね。 両手を挙げて、青空に向かって「ここは天国よ〜」ってなんか言ってるような、そんな声が聞こえるような、フアンさんの写真が今も貼られています。 「死の恐れはなくなりました!」
幸子先生も「今が一番幸せ。神さま、いつでもどうぞ。いつでもどうぞ。私はいつでも天国へ行けます」 このパウロのような信仰、やがて私たちも持つことができるんでしょうか?わかりません。 でもきっと神さまはそのような恵みを、これはという大切な時に、一人ひとりにふさわしい備えを与えてくださるのではないかと信じております。 「われ善き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり。」 (***文語訳・Uテモテ4:7)
2)このパウロの「天国への希望・確信」を告白する信仰の一方で、パウロにはもう一つの顔がありました。
今日は特にここにちょっとこだわってみたいと思います。 ●パウロのもう一つの顔――それは地上での信仰者との交わりを求めていたということです。 特に愛弟子のテモテ。テモテとの交わりを求めていた。 家族がいないと思われるパウロは、テモテが側にいてほしかった。 そのことが、切々とこの後に綴られていることがわかります。 9節、ご覧いただきますと――。
9あなたは、何とかして早く私のところに来てください。
11節ご覧いただきますと――
11ルカだけが私とともにいます。マルコを伴って、一緒に来てください。……
13節には――
13あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。
「外套を持って来てください」 「羊皮紙の物」とありますけれども、当時羊皮紙に書かれているものは聖書のみことばです。 旧約聖書――新約聖書もほんの一部分は完成しているでしょうか――みことばが読みたかった。 そして次のページですけれども、21節、朗読にはありませんでしたけれども、21節――
<Uテモテ4:21> 21何とかして冬になる前に来てください。……
この「来てください」という言葉が5回も使われている。 「来てください。テモテよ、来てください。私は独りぼっちなのです。私は心細いんです。来てください。来てください」
テモテがパウロのところに来たら、パウロは何をしたかったのでしょうか? よく聖書をこの場所を読んでみますと、ああ、愚痴を聞いてほしかったんじゃないか?という風に読み取れるんですね。 パウロは愚痴が言いたかったんです、牢獄から。 もう溜まっているものを聞いてほしい――愚痴を言いたかった。 10節ご覧ください――
10デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。……
「テモテ、ちょっと聞いてくれよ〜。あのデマスという奴、私を見捨ててテサロニケに行っちゃったよ。ひどい奴だよなぁ」
テモテを相手に、愚痴りたかった。 同じ10節に――
10……また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。
恐らくクレケンスもテトスも、パウロの信仰の仲間だったのでしょう。 「でもガラテヤに行っちゃった。ダルマティアに行っちゃった。みんな私から離れて行ってしまった」
14節ご覧ください――
14銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。 15あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
「あのアレクサンドロの奴(笑)、私をひどく苦しめた。 きっと神さまが報いてくださるぞ〜(笑)。 テモテ、あいつを警戒した方がいいぞ〜。 あいつは、私たちのことばに激しく逆らった。ひどい目に遭った」
16節ご覧ください――
16私の最初の弁明の際、だれも私を指示してくれず、みな私を見捨ててしまいました。どうか、その責任を彼らが負わせられることがありませんように。
「だれも私を支持してくれない。みな私を見捨ててしまった」 愚痴りたかったんでしょう。
●もう一つ、テモテがパウロのところに来たら、パウロは何をしたかったか? それは共に歩み戦った信仰の仲間への思いを語りたかった。 この信仰の仲間、数えてみますと、13名以上の仲間についてパウロは書いていることがわかります。
【※○で囲んだ数字は名前が出て来た分だけ、こちらで付けています。合計13名Lまで】
@11節――ルカだけが私とともにいます。一緒に牢獄に入っているのでしょうか。 A(同じく11節)――マルコ――これは「マルコを伴って」ということは、マルコはテモテの所にいるんでしょうか。
このマルコなんですけれども、実はこれもパウロにとっては、色々な事があった関係の人物なんですね。 第一回目の伝道旅行のメンバーの中の一人がマルコです。 このマルコは途中で一行から離れて、エルサレムへ帰ってしまった人物(***使徒13:13)だった。 で、パウロが二回目の伝道旅行の時に、そんなマルコを連れて行くことに大反対して、バルナバと喧嘩別れしてしまった。(***使徒15:36〜40) 「マルコなんて連れて行くもんか!」 その後、パウロとマルコの関係は、恐らくひどい関係になったと思うんですけれども、 でもここ(Uテモテ4:11)では、 「マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです」 と、そういう関係に修復されている姿をここで読み取ることができます。
B12節――ティキコという人物。これを、エペソのテモテのところにこれから遣わそうとしているのでしょうか、もう出発したのでしょうか。遣わしました。
C13節――「外套を持って来てください」とテモテに頼んでいますけれども、その外套はどこにあったかと言うと、トロアスという町のカルポという人物のところに忘れ物しちゃった、パウロが。その外套。すると、ここにカルポという名前をパウロは挙げています。カルポ。
DEFそしてまた次のページですけれども、19節――「プリスカとアキラによろしく」。そしてそのあとに、「オネシポロの家族によろしく」。 よろしくということは、テモテのところにいるんでしょうね。
GH20節――「エラストはコリントにとどまり、病気のトロフィモはミレトスに残して来ました。」――このように、人の名前が続くわけです。 「病気のトロフィモはミレトスに残して来ました」――こうやってテモテに報告をしているところもありますね。
IJKL21節――「何とかして冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウディア、そしてすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。」 恐らく一人一人、私たちはこの聖書のこの部分なんか、カタカナの人の名前のところなんか、さ〜っと読み流してしまう(一同大笑)。 でも私たちが知っている人物の名前がここに書いてあったらば、「あ、この人は今、あ、そうなのか」って風に読みますよ(アーメンと頷く一同)。 パウロは一人ひとりのことを思い、そしてこの一人ひとりと語りたかった。 今どうしているだろうか? 13名以上のそういう人たちのことについて、あれやこれやとテモテと語りたかった。 だからテモテに、「どうしても私のところに来てください。何とかして私のところに来てください。私のところに来てください。あなたにどうしても会いたい。あなたとどうしても話したい。私は今一人ぼっちで今ここにいる。テモテよ。あなたに話したい」 パウロにとって、テモテは愛弟子のような人物で、息子のような存在で、腹を割って話せるのは、このテモテだけだったに違いない。 「あなたに会いたい。あなたに話したい。」
このような死を目前にしたパウロのもう一つの顔、そこから3つ目の視点に着目して、お話を終わりたいと思います。
3)私たちが死を目前にしたときのこと、それを思い巡らしてみたいと思います。
私たちも召される時、場所も原因も状況も分かりませんし、もしかしたら認知症になっているかもわからない。 もう神さまの御手の中にある領域です。 死を目前にしたパウロですけれども、目前というような状況に置かれない場合があるかもしれない。 突然死の場合は、死を目前という、そういう余裕さえない状況かもしれない。 でも私たちが召される時、天国への希望、身体の復活への希望、そしてその時与えられる確信――それだけでは、恐らく心は満たされないのではないだろうか?と私(戸塚伝道師)は思いました。
パウロには、もう一つの顔があったことを見て来ました。 「義の栄冠が私のために用意されているんだ」(Uテモテ4:8)――そのように堂々と信仰の告白をしたパウロは、もう一つの顔。 「テモテよ。あなたに会いたいんだ。あなたと話したいんだ。いま私は寂しい。私は心細い。一人で死にたくない。テモテに看取られて死にたい……」 そういう思いで一杯だったのではないだろうかと思います。 私たちもパウロも同じように――地上での交わり、地上での語り合い、励まし合い、愚痴の語り合い、そして祈ってくれる人――それが死を目前にした時、欲しいのではないかと思いますね。
それは身内の家族とは限らないでしょう。 教会家族の存在は大きいと思われます。 先程のフアンさんの天国への希望や確信、「死の恐れはなくなりました〜!」と心から証しする一方で、やはりもう一つの顔がありました。
思えば二年前(2017年)の春、彗星のように高津教会に現れ、ほぼ半年間共に礼拝し、あの辺に座られていたのを覚えていますけれども、共に礼拝し、そしてその年の暮れに召されて逝ったフアンさん。 フアンさんは中国の方で、異国の地日本にいらして、日本語をマスターされ、東大の大学院から企業に就職された。 でもなかなか居場所が見つからない。でも高津教会を探し当てた。探し当てたというよりも神さまに導かれたのでしょうね。 そしてそこで救い主イエスさまに出会い、洗礼を受けました。 そして、高津教会が自分の日本での居場所なんだ――そういう喜びに満たされ、毎週教会にいらした。
癌という病との闘いが始まっても、【神さまの(教会)家族】の一員としての実感を持っておられ、共に交わり、祈り、 私たちはフアンさんを励ますよりも、フアンさんから大きな励ましをいただいたことを覚えています。 フアンさんは、証しされていた。 「あそこへ行ったら――あそこって天国ですよ。あそこへ行ったら――どうしてもイエスさまに会います。順番待ちの長い行列ができても、ず〜っと並んで待っています。 そしてイエスさまに会ったら、高津教会のことを話します。 高津教会のすばらしさ、皆さんの温かさ、それをイエスさまにお話しします。」
やがて礼拝に来られなくなった時、フアンさんの心からの願いは――「ああ、高津教会の礼拝にまた行きたい。皆さんと再び会いたい。皆さんとお話がしたい」。 「あなたに会いたい。話したい」というものです。
普通「あなたに会いたい、話したい」という、死を目前にした方の告白というのは――イエスさまに会いたい、イエスさまに話したい、先に召された方に会いたい、お話ししたい――それが多いのではないでしょうか? でもパウロも、フアンさんも、違うんですよね。 「高津教会のあなたに会いたい。もう一度高津教会に行きたい。そしてお話がしたい」 「天国への希望」と共に、いやそれ以上に、「地上での信仰者との交わり」を、どうしても求めたくなるのではないか?と私(戸塚伝道師)は思いました。 それが誰かは分からない。 でも私たちに神さまはきっとそういう方を備えておられる。 もうすぐ自分が地上を去ろうとする時、既に死に勝利されたイエスさまが共におられて、私の手を握り、パラダイスに案内してくださるでしょう。 また地上の家族と共に、教会家族の祈りと励ましが大きな支えとなることでしょう。 そしてやがて天に移された時、地上からは去りますが、教会家族との絆は変わらないと思います。
来週は召天者記念礼拝です。 天の礼拝と地上の礼拝が一つになって、復活のイエスさまを讃える――そのことを特別に意識する日です。 先に天におられるお一人お一人も、三か月前召された大内さんも、 地上の高津教会の私たちの交わりを大切にしながら、今もその絆を実感されているかもしれません。 私たちが召される前、どのようになるかわからない。それは神さまの御手にある領域。 でも、地上にある私たちが今、この高津教会・キリストのからだに繋がっていることの幸い――それを改めて覚え感謝したいと思います。 教会家族の絆、それは永遠です。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
神さま、天国へ行く準備が万全であるかのようなパウロですが、死を目の前にしてテモテに「あなたに来てほしい、あなたに会いたい、話したい」と自分の心細さを訴えました。 地上での信仰者との交わり、教会家族と繋がっていることの幸い、どうぞ今もう一度これらを改めて気づかせてくださいますようよろしくお願いいたします。
私たちもやがてあなたに召される時、高津教会の温かい祈りの支えの内に、平安の内に移されますように。今週の歩みをも守り導いてください。イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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