☆聖書箇所 ルカ24:13〜32 13ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。 14彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。 15話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。 16しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。 17イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。 18そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」 19イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 20それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。 21私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、 22仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、 23イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。 24それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」 27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 29彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。 30そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。 31すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
☆説教 イースター:エマオの途上
今朝はルカの福音書の24章から、エマオの途上のイエスさま――エマオの途上を歩いていた二人の弟子にイエスさまが現れてくださった――という記事から共に学んでいきたいと思います。 4つの福音書で復活の主の描き方というのは、それぞれ独特です。 例えばヨハネの福音書は、イエスさまは泣いているマリアに出会い、疑っているトマスに出会い、そしてイエスさまを三度否んだペテロに出会っておられる。 その一つ一つの出会いを克明に描くことによって、復活の主がいかなるお方であるかということを伝えています。 ルカの福音書は、復活の出来事を、今朝目を留めていただきました、この「エマオの途上」の出来事にすべて集約している、凝縮していると言っても過言ではありません。 ですから、私たちは何度読んでも、何度聞いても、あ、まさにこれが復活のイエスなんだという程、味わい深い要素をここから引き出すことができます。
よく言われることは――私たちの人生はいつでもエマオの途上だ――と言われます。途上という言葉が、非常に印象的でありますよね。 13節に、ちょうど彼らは「エマオという村に向かっていた」と。 どこかに向かっている。そのために歩いている、私たちの人生の旅路の中の出来事にイエスさまは現れてくださいました。 その途上で、14節を見ていただきます?私たちは色んなことを「話し合い」ます。 15節に「論じ合い」ます。 ああでもない、こうでもないと考え込んで、私たちは悩んでしまいます。
そこに15節、イエスさまは「ご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた」と。 いつの間にか歩いておられました。 これが私たちの人生そのものであり、これがよみがえりの主であり、今も生きておられるキリストの恵みだということをよく心に留めておいていただいて、 3つのポイントからお話をいたします。
1)途上の私たちというのは、どんな様子でありましょうか?
(ルカ24章)17節に、もう一度イエスさまは彼らに尋ねます。 「歩きながら二人で語り合っているその話は何ですか?」と。 すると、二人は暗い顔つきになって立ち止まるんですね。 暗い顔つきで立ち止まる彼らに、一体何があったのか?私たちはよく知っています。 イエスさまもよく知っておられます。十字架の出来事がありました。 20節に、「引き渡され、十字架につけられ」と、恐らく彼らはこの悲惨な十字架をその目で見たんでありましょう。 暗いニュースに顔を暗くする私たちでありますけれども、それだけではないですね。 ニュースだけではなく、その出来事が自分のすぐ側で起こってしまった、というショックもあります。
それによって、彼らの望みは砕けました。 21節に「望みをかけていた」その方が、神の預言者が、自分が慕い頼りにしていたお方が死んでしまった。終わったということですね。 今まで主と共に一生懸命に前向きに生きて来た。でもこの二人の生涯はここで終わったわけです。 ですから、立ち止まって暗い顔つきになって当然であります。
16節、そのことによって、「彼らの目はさえぎられて」しまいました。 もうこの悲しい出来事に完全に縛られて、他のことは見えなくなってしまったということでしょう。 それが人生の途上で立ち止まっている私たちです。
皆さん、この一週間、どういう生活をなさって来られましたでしょうか? 東京に「緊急事態宣言」が出される前は、品川の駅の様子をテレビでやってましたけれども、普通に通勤ラッシュがございました 「緊急事態宣言」後は、ヘリコプターから渋谷のスクランブル交差点や東京駅を映しますと、人はあまりいないんですが、 一歩高津の駅前に行きますと、人はごちゃごちゃいますね。 どうなっているんだろうか?と思う位、公園は人で一杯という風に聞きますし、 私(藤本牧師)はほとんど家にいます。 歩く時、ちょっと買い物以外は基本的に家にいます。 そしていつの間にか、やっぱりニュースを見てしまいます。 日本のニュースが終わりますと、今度はアメリカのニュース、イギリスのニュースにチャンネルを変えて、最も厳しいニューヨーク・ヨーロッパの様子を実際に見ていきます。
正しい意味でこのウィルスの怖さを知っておく、身構えておくということは、有意義なことでありますし、 まして(ニューヨークの)KAさんやまたKNさん、ご家族がニューヨーク、サンフランシスコのIさん、あるいはヒューストンの娘を思いますと見ざるを得ない。 いつの間にか二時間位直ぐ行ってしまうんですね。
そうして気がつきますと、ため息をつき、暗い顔つきで、ず〜っと立ち止まってしまいます。 ふとしますと、今日が何曜日だったか忘れてしまって、思わず圭子(夫人に)「今日は水曜日だったけ?」(笑)という風になってしまうわけですよね。 新型ウィルス感染、その感染力の大きさ、目に見えない死の黒雲が、いつの間にか、私たちを取り囲んでいるかのような、そういう恐怖感を感じます。
最初は《かからないためにどうしようか?》 最近少し様子が変わって来まして、《罹ったらどうしようか?》という風に。 つまり罹ってしばらく家に滞在する時には、どうしたら家族の者に感染させないように努力すべきか?ということを考えるようになりました。 「人生の途上」の大きな出来事であります。 海外にあっては人ごとでありました。でも東京で千人を超えても、まだ人ごとなのかもしれません。 《保健所の方、救急隊員の方々、病院関係者の方々のために祈らなければいけない》ということを、報道で生の現場から見せていただきますと、段々身近に迫って来ます。 最近では感染した方々の事後談と申しますか、「どういう症状であった、苦しみであった」ということを聞かせていただきますと、 《いま感染しておられる方々のためにも祈らなければいけない》と思います。
さて、こうした症状が日本でこれからが本番だとしますと、 「皆さんとお目にかかりたい。共に顔と顔を合わせて礼拝をしたい」と渇きはありますけれども、しばらくこの礼拝形態、インターネットの礼拝は続いて行きます。 【先週の「天の窓」(※教会報・4月号発行)は、大きな助けでした。 今日は、IDさんがインターネットで教会学校をしていてくださいます。 子どもたちにはイースターエッグのシールを送りました、ということでした。】 お一人で過ごしていらっしゃいますと、徐々に心細くなっていきます。
事態は、エマオの途上に象徴的に描かれている通りです。 (ルカ24章)29節ご覧ください。28節からにしましょうか(と読み進める藤本牧師)。
28彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。 29彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
2)宿に招く弟子たち――これが二番目のポイントです。
ウィルス感染の事態は、夜明けではありません。 これは夕暮れが迫っている。夕闇が迫っているというのが現実だと思います。 そんな時に、私たちは復活の主を招きます。
主はいつの間にか、共におられて、歩いておられました。(ルカ24:15) 特別に私たちを驚かすわけではなく、一緒に歩いて、詰問するわけではなく、責めるわけでもなく、「どんなことがあったのですか?」と話しておられました。 で、16節の段階では、「二人の目はさえぎられて」、まだ主であるということは分かりません。
しかし何とも言えない温かさ、力強さを感じながら、 そしてみことばを説明してくださるこのお方に魅力を感じながら、 弟子たちは「一緒にお泊りください」と招いている――それが二番目の目を留めていただきたいシーンです。
私たちの教会が大好きな讃美歌で、Abide with Meというのがあります。(※福430 夕闇の迫るとき) 昔のインマヌエルの讃美歌では「イ118 日くれてよもは暗く」ですね。 (※以下は1節と2節の歌詞) @夕闇の迫るとき 頼りゆく身を支え いつまでも離れずに 主よ、ともにいてください A地の栄え消え失せて 見えるもの朽ちるとき いつまでも変わらずに 主よ、ともにいてください
「エマオの途上」の出来事以来、キリスト者はいつもその途上の中で、様々な苦悩に出会う度に、「主よ、どうか私の家に泊まってください」とイエスさまを招いてまいりました。 何度となく夕暮れ夕闇を感じ、思わず主に「とどまってください」「離れずにいてください」と私たちは叫びます。
しかし私たちは「一緒におとどまりください」というこの叫びだけでなく、 「わたしにとどまりなさい」というイエスさまの命令を聞きます。 ヨハネの福音書の15章の4節をちょっと開いていただけますか? 前後もすばらしいみことばなんですが、4節だけをご一緒に読んでみたいと思います。
<ヨハネ15:4> 4わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
「わたしにとどまりなさい」ですね。 ●そうしますと、ルカの福音書ではエマオの途上で、弟子たちが、私たちが、イエスさまに懇願いたします。「どうかおとどまりください」ですね。 ●ヨハネの福音書のこの記事は、イエスさまが私たちに強く迫っておられます。 「わたしにとどまりなさい」
どちらの訴えの方が強いんでしょうか? エマオの途上では、ルカの(24章)29節では「強く勧めた」(新改訳2017版)「しきりに願った」という訳になっています。 (※無理に引き止めた・新共同訳、無理に願った・新改訳第3版、しいて引き止めて・口語訳) 同時に、ヨハネの福音書のイエスさまの訴えも非常に強いですね。 「わたしにとどまらなければ、あなたがたは枯れ果てていく」(***という意味のことを15:6で仰ってます。)
こんな詩があります。 「もし、神が私たちを忘れたら、どうなるのだろうか。神が世界を忘れたら、たった一日でも忘れたら。もし太陽を照らすのを忘れ、夜を昼に変えるのを忘れたら。もし神が花を咲かせるのを忘れたら、小鳥や蝶を忘れたら、木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れ、雨を降らせるのを忘れたら。 もし神が人間に友情を与えるのを忘れ、子どもたちに遊び声を与えるのを忘れたら。もし神が痛みを和らげるのを忘れたら。いったい、この世界は、私たちは、どうなるのだろうか。私たちは、なお楽しいだろうか。もし、神が、たったの一日でも忘れたら。」
という詩なんです。 神さまが、この世界のことを、私たちのことを思いやるのを、たった一日でも休めてしまったら、私たちは存続できないです。 でもその逆は、どうだろうか?と思いますね。 私たちが神さまを忘れてしまったら、たった一日でも? 私(藤本牧師)は、イエスさまはこう仰ると思います。 「あなたが神さまのことを一日、二日、一か月、一年忘れたとしても、あなたは恐らく生きていけるよ。 なぜなら、あなたが神さまのことを忘れても、神さまはあなたのことを忘れないから。 神さまはあなたの上にも雨を降らせてくださいますよ。
しかし覚えておきなさい。 あなたがわたしにとどまるのを止めたら、あなたの霊的ないのちは枯れていきます。 枝であるあなたの霊的ないのちは、わたしという幹にとどまっていない限り、所詮枯れていくものなのです。 だからわたしにとどまっていなさい」
イエスさまは、(弟子たちの)私たちの状況をよくわかっておられました。 復活のイエスさまがやがて天に昇られ、弟子たちがこの地上で生きていく時に、どんなに難しい課題に遭遇し、どんな迫害を体験し、圧迫を受け、どんな必要に迫られ、どんな労苦をし――イエスさまはすべてご存じでいらっしゃいました。 イエスさまは私たちの生活の隅から隅まで知っておられ、今週の一週間の隅から隅まで、どんな人間関係に悩んでいるのか、どんな生活の必要があるのか、どんな痛みを、どんないらだちを、どんな焦りを、怒りを持っているのか。
だからこそ、弟子たちにとって、私たちにとって、一番大切なことは、ここでイエスさまが仰っておられる。 「だからこそ、わたしにとどまりなさい。……わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:4〜5)なんですよ。 忘れてはいけません。「わたしがぶどうの木で、あなたがたはその枝です。」(同15:5) 「わたしがぶどうの木で、あなたがたはその枝です。」(※ともう一度繰り返される)
2番目のポイントは――(※と、ここでおさらいをしてくださる藤本牧師) 一方で私たちが強くイエスさまに願う――「どうかこの夕闇の迫る時に、私と一緒におとどまりください」 でもヨハネの福音書を見れば、(※イエスさまの方からの迫りです) 「あなたがたはわたしにとどまっていなさい。でなければ、霊的ないのちを汲み上げることはできないよ」と、 《イエスにとどまることの大切さ》を、私たちは二番目のポイントで学びました。
3)ですから三番目のポイントは、今日私たちは聖餐式にあずかろうとしています。
聖餐というのは、十字架の愛そのものです。私たちを愛するがあまりに、 ご自身のいのちを私たちの罪を贖うための代価として、 注ぎ出してくださった主のいのちを、この聖餐は表しています。
聖餐にあずかる時に、私たちは主の十字架の愛にとどまります。 先程のヨハネの15章の9節にこのように記されています。
<ヨハネ15:9> 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
主にとどまるというのは、主の愛にとどまること。そして主の愛に変えられ、主の愛に生きることなんですが、 その一番初めの「主の愛にとどまる」――海よりも広く、空よりも高く、主のいつくしみと愛の中にとどまる所作が聖餐です。 単純に礼拝するとか、教会に行くというだけの世界ではありません。 私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもとして、御国の相続人としてくださる主イエスを覚える。その恵みにあずかっている自分を覚える。 そしてその方を離れては自分では何もできないということを覚える。 この方を離れたら神の助けを失うということを覚える。
イエスさま、私にはどうしても必要です。あなたの愛にとどまらせてください。 主よ、共にいてください。寂しい時も、悲しみの中でも、不安の中でも、サタンの誘惑の中でも、ウィルスの猛威に揺らされる世界にあっても、私をお守りください。
☆さて、今日の聖餐式、こんなの初めてであります。
――説教の前と、これ以降は「聖日説教」でお読みいただけます。
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