☆聖書箇所 マルコ10:13〜16
13さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。 14イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。 15まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
☆戸塚伝道師の説教 子どものような心で
皆さん、おはようございます。「おはようございます」と言って、ここに「おはようございます」と言ってくださる方がほとんどいないという状況です。でもカメラの向こうには200名ぐらいの方々がおられるということで、むしろカメラに向かってお話しした方がいいのかなぁ――そんな感じがいたしました(※ここより始終右側前方のカメラに向かう姿勢で話す戸塚伝道師)。え〜、カメラ目線に慣れておりませんので、うまく話せないかもしれませんけれども、今日はちょっと挑戦してみたいと思います。このカメラに向かって話をするということに。
200名ぐらいの方々に向かうだけで、何かこう緊張します。でもテレビのアナウンサーは200名どころか200万人の方々を前に、テレビカメラの前に座っておられるということを思うと、わあ、すごいお仕事をしておられるんだなぁということを改めて思うことでございますが、今日も皆さんと共に礼拝を持つことができることを心から感謝しております。
高津教会も教会学校がなくなって、もう3か月近くなりますかねぇ? もう教会に子どもたちの声が聞こえない。本当に寂しい教会になっております。 「ああ、子どもたちに会いたいなぁ」と。 今この話を聞いている教会学校の子どもたちの皆さん、あなたに会いたいです。 いつになるかわかりませんけれども、その日が早く来ることを願っています。 そんな思いから、この朝、この聖書の箇所が心に通って来たので、今日このみことばを共に見ていきたいと思います。
「子どものような心で」と題して、今日この聖書の箇所から3つの視点でみことばの恵みを分かち合いたいと思います。
1)子どもたちを叱る弟子たちの姿
マルコの福音書の10章の13節をご覧いただきますと、こう書いてあります。
13さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
「弟子たちは彼らを叱った」――彼らというのは子どもたちですね。子どもたちを叱った。 さらにはイエスさまのところへ、その子どもたちを連れて来た人たち、大人の人たち、親御さん、すべて含めて、そのような人たちをも含めて、弟子たちは叱ったと書いてあります。
なぜ子どもたちを弟子たちは叱ったのでしょうか?色々な理由が考えられると思いますね。
●もしかしたらうるさかったのかもしれません。 「人々」ってありますけれども、沢山の子どもたちがいたに違いない。 子どもって確かにうるさいですよね。うるさいです。
私も小学校に務めていました時に、子どもたちを電車に乗せて色々な所に見学に連れて行くという場面があったんですけれども、本当に気を遣います。 子どもたちに静かにさせておくように、事前指導をしているんですけれども、 でもなかなか電車が揺れたりなんかすると、「キャー」と言ったりなんかして(大笑)、 しかも混んでる車内の中で、じっと黙って立っているということの辛さの中で、 ま、色々なうめき声だとかそういう声が上がる中で、 どうしてもうるさくなってしまう時、乗客の目線はきついです。 ほんとに嫌な顔をされる。あからさまに嫌な顔をされます。 「担任はどこにいるんだ」という目で、私(戸塚伝道師)のことを刺すような視線で、そういう目で私のことを見ている、ということがよくありました。
ああ、弟子たちは、そのうるさい子どもたちを静かにさせよう、と思って叱ったのかもしれない。
●あるいは、子どもたちを弟子たちは軽く見ていたのかもしれない。 未熟で何も分かっていない子どもたちです。 そしてその子どもたちを連れて来た人々もいました。 そういう子どもたち、そして連れて来た人々――そういう人たちを軽く見ていた。 そう考えられる。 特に連れて来た人々の中には母親も多くいたと思われるんですけれども、 当時女性に対しても、社会的な地位が十分なかったような時代で、 弟子たちはあそういうような目でこの連れて来た人たちを見て、叱らざるを得なかったような思いに駆られたのかもしれません。
●三つ目に弟子たちの特権意識がものすごく強かったのかもしれません。 イエスさまはおれたちの先生なんだぞ。なんでここに来るんだ。予約は取っているのか? 手土産はちゃんとあるのか?(笑) 色んな特権意識をもって、そしてこの人たちを迎えたのかもしれない。 でも突然どどどっと押し寄せて来て、そういう思いでその子どもたちを見た時に、何かすごくイライラしたものを感じて、弟子たちが子どもたちを叱ったのかもしれない。
●さらには、イエスさまがゆっくりと休まれていた時間だった。 そういうような時間で、もしかしたらイエスさまはぐっすりと寝ておられた。 そういう時間に子どもたちがやって来て、そしてイエスさまがせっかく休まれているところを起こしてしまったような状況で、 それで弟子たちは、「なんで先生を起こしてしまうのか」という思いで叱ったのかもしれない。 ま、色々な原因が考えられると思うんですね。 でも、弟子たちは子どもたちを叱った。連れて来た人たちを叱りました。 「ともかく、おまえたちには来てほしくない」という思いなんでしょうか? 恐らく、百歩譲って「イエスさまに迷惑かけないでほしい」という思いから叱ったとしても、色々な叱る原因というものを弟子たちは持っていたのかもしれないと思うんですね。
2)それを見て憤るイエスさまのお姿
@(マルコ10章)14節ご覧いただきますと――
14イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
ここに「イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた」と書いてあります。 「憤って」。そしてその憤りの内容が書いてありますね。 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません」と。 恐らく弟子たちが色々な叱り方で、子どもたちをストップさせた――その弟子たちの行為に対してイエスさまは憤ったのかもしれない。 所謂行為(doing)と言いますけれども、行為。
でももう一つ、イエスさまが憤った原因はbeing 弟子たちの(being)心のありよう、それに対して憤っていたのかもしれない。 そのことが15節に書かれていますね。
15まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」――これ、裏を返せば―― 弟子たちは子どものような心を持っていない、ということをイエスさまは指摘されたかったのではないだろうか? そのように思い巡らすのです。 「あなたたちは、子どものように神の国を受け入れる者ではないよね」。
ここで「神の国」とあります。「神の国」 恐らく私(戸塚伝道師)のイメージでは、天国とは違うような感じがするんですね。 ここで言う「神の国」というのは――神さまが責任をもって、すべてを備え、管理し、守り、導かれるような状態、あるいはそのような場所―― そういうようなものを、「神の国」とイエスさまはここで言われているのかなぁと思うんですが。
「あなたたちは子どものように神の国を受け入れていない」 そのように弟子たちに向かって、弟子たちの心のありよう(being)に対して憤っておられるイエスさまを想像いたします。 「あなたたちはそのままでは神の国へ入れないよ。 自分を誇っていませんか? 頑張ったことや、功績を基準にして、人生の価値を決めていませんか? 誰が一番偉いか?と争いの心を持っていませんか?」と。
現にこのマルコの福音書のこの後の記事を見ますと、そのように弟子たちの間で、色々な誰が一番偉いかとか、自分だけ特別扱いしてほしい、というような記事が登場いたします。 「親に信頼するように、父なる神さまとの関係を持っているか? 神さまの祝福を、自分の頑張りの結果ではなくて、素のままで受けたいと願っているか?」 しかし、弟子たちの実態は恐らくそうではなかったのでしょう。 「あなたたちはそのままでは神の国には入れない。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と、イエスさまは弟子たちのbeing(心のありよう)にも憤りを感じておられた。 そのように読み取れることでございます。
Aこの後イエスさまは憤りが静まったのでしょう。 (マルコ10章)16節をご覧いただきますと――
16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
来た子どもたち一人ひとりを抱いて、手を彼らの上に置いて祝福されるイエスさまの姿。 本当は弟子たちこそ、この祝福にあずかれるはずだった。 でも弟子たちは子どもたちを叱った。 子どもたちに「来るな」と言った。そういう心の姿勢だったわけですね。
三つ目の視点、今日こだわりたいところなんですけれども―― 3)「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。」(14節)
@(マルコ10章)14節のみことばの中にこういう言葉がありますね――
14……「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
とありますが、ここに「邪魔してはいけません」という言葉が書かれている。 「邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです」と。 「このような者たちのもの」とありますけれども、これは子どもたちですね。 神の国は子どもたちのものなのです。
でもさらに深く読んでみますと、「このような者たち」とあります。 「このような」というのは「子どものような心を持った者たち」のものなのですと。 それは子どもたちだけではなく、子どもたちをイエスさまのところに純粋な思いで連れて来た人々も含まれるのではないだろうか? イエスさまに触れていただこうと思って、子どもたちを連れて来た人たち、 そういう人たちも全部含めて、イエスさまは「神の国はこのような者たちのものなのです。でも、邪魔してはいけません」と仰ったんですね。
Aイエスさまは魅力ある方です。 (マルコ)10章の1節の後半を見ますと――
1……群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。
群衆が集まる度に、いつものように、イエスさまはこの群衆に色々なみことばを語っておられる、そういう様子が目に浮かびます。 イエスさまって魅力ある方。そしてその周りに沢山の群衆。 なんでこんなに集まったのか? その魅力の中には、病気を癒やしてくださる癒やし主だという、そういう思いがあるのでしょう。 現に多くの方々が病を癒やしていただいた。 あるいは神の国の福音を教えてくださる。様々な福音の教えを、みことばを語ってくださる。 人々はその話が聞きたくて、イエスさまの前に集った。 そこでイエスさまはいつものように彼らを教えられ始めた。 そのイエスさまが語られる良い知らせ(福音)、その福音に人々は心を惹かれ信じて行ったわけですね。
イエスさまのメッセージ、神の国の福音。 福音というのは漢字で書くと福(ふく)と音(おと)ですね。福と音。福音。 福のおとずれですね。私たちを幸せにしてくれる、本当に幸せにしてくれるおとずれ、それが福音です。 それに触れた人々は何かを感じるんですね。ここに何かある。ああ、いいなぁ。イエスさまのところに何かすばらしいものがある。 恐らく子どもたちをイエスさまのところに連れて来た、ま、親たちは純粋に思ったでしょうね。 「わが子にもその何かに触れさせたい」「わが子にもその福のおとずれに聞いてほしい」 そういう思いでイエスさまのところに、親たちは連れて行ったんだと思うんですね、こどもたちを。
2000年経った今でも、親の思いは同じだなぁと思います。 かつての教会学校、なんであの教会学校にあんなに地域の子どもたちが“うじゃうじゃうじゃうじゃ”(大笑)集まったのか? ほんとに“うじゃうじゃ”という、そういう表現がふさわしいくらいに子どもたちが集まった。 玄関は子どもたちの脱いだ靴でいっぱいになった。そういう時代があった。 恐らくノンクリスチャンの地域の親の思い、こういう思いだったのかもしれません。 「頭の学校は塾がある。身体の学校はスポーツ教室がある。では心の学校は?心の学校は、う〜ん、やっぱり教会でしょう!」(大笑) そういう思いだったに違いないと思うんですね(笑)。 「教会ではいいこと話してくれる。大切なことを教えてくれる。わが子は真っ直ぐな人間に育ってほしい。真っ当な人になってほしい。人さまに迷惑をかけないような、そんな大人になってほしい」という、 そんな願いで、地域のノンクリスチャンの親御さんたちは、教会学校に子どもさんたちを送ってくださったんだと思うんです。 ゲームもスマホもない時代。教会できれいなカードをもらえる、ただで(笑)。 ある時にはお菓子までもらえる(大笑)――そういうおまけも歓迎されたのかもしれません。
かつて相馬憙好(そうま・きぬ)さん(※2017年12月に94歳で召天)が伝道会の救いの証しの時に―― 「もう人生に絶望して、多摩川に身を投げようと思うその足を、多摩川に向かうその一歩手前で、教会のことを思い出した、すぐ近くの。 ああ、教会にはあんなに沢山の子どもたちが来ている。あんな沢山の子どもたちが集まっている。 あんな沢山の純粋な可愛い子どもたちを、ダメにするようなことは教会では教えているはずはない。 きっと何かがあるから、あんなに沢山子どもたちが集まっているんだ。 そうだ、最後の頼みの綱として、教会に行ってみよう。それがだめなら、このまま多摩川に行こう」 そういう思いで、教会に来たと仰っていました。 そして教会に来て、イエスさまに出会い、救いの恵みにあずかった。 教会って、そういう所なんだ。相馬憙好さんはそのように証しをされていました。
日本のミッションスクール、玉川聖学院(やその他のミッションスクール)の皆さんで、今この礼拝に共に参加してくださっている方、歓迎いたします。 共に礼拝することができる恵みを感謝したいと思います。 (高津教会と近しい)玉川聖学院はミッションスクールで今年創立70周年。 10年前の60周年の時に、創立60周年の記念シンポジウムが開かれた。 そしてそのテーマが「今日のキリスト教教育の可能性」と題してのシンポジウムでした。 そのパネラーが四人いまして、そのうちの一人が藤本満先生でした。
藤本満先生は、「教会とミッションスクール」というテーマで、提言をされていたのを覚えておりますが。 日本には2000を超えるミッションスクールがある、幼稚園を含めて。 2000を超えるミッションスクールで生徒は70万人程。 もしかしたら現在はもうちょっと増えているか減っているかわかりませんが、変化があると思うんですけれども、2000で70万人程。 教会の数は大体5000教会。そして信徒の数は80万人程。 5000も教会があるのに、信徒の数は80万人。でもミッションスクールは、2000あるのに、生徒の数は70万人。 ミッションスクールの果たす役割の大きさというものを、教会と比べて提言されていました。
ミッションスクール、社会的に高い評価を得ている。その理由はいったい何なのか? それが13節のみことばですね。
13さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。……
「人々が子どもたちを連れて来た。イエスに触れていただこうと」 こういう思いの家庭で、自分たちの子どもを――キリスト教主義の教育、キリスト教精神に則った教育――強い信頼をもってわが子をそこに預けようという思いで、 「何かある、ここに何かある」という思いで、ミッションスクールに子どもたちを送ってくださる、ということなんでしょう。 教会学校も、ミッションスクールも、ここに何かある。 子どもたちの成長にとって、大きなプラスになるものがある――そういうようなものを肌で感じている。 だからこそ、教会学校に人は集まり、そしてミッションスクールは社会的に高い評価を受けている。
それだけではありません。 結婚式も教会式でやりたい、という人たちが増えている。 やはりもちろんイメージ先行ということもあるんでしょうけれども、 やはり神聖な神さまの前で誓っていく、あの特別な儀式の中で、 なにかこう感じるものがあるんでしょうね。 ここに何かある。これから踏み出そうとする私たちの家庭に、何か大きなプラスとなるようなものが与えられるのではないだろうか?
多くの人々が、大切な人を失った時に「天国に今行っている」――そういう言葉を使うことがあります。 「天国」――これは私たちがよく使う、当たり前のように使う言葉なんですけれども、でも教会に行ってない方も、「天国」という言葉の中から受ける印象というのは、やはり―― 「死は終わりではない。死んだ先には、そこにはまた違う世界が待っている。天国が待っている」 という何かこう「たましいの飢え渇き」みたいなもの、それをキリスト教のイメージと併せて、「天国」という言葉を使われているのではないかと、私(戸塚伝道師)は思うんですね。
「ああ、いいなぁ、ここに何かあるなぁ」 でも、私(戸塚伝道師)はここで大きな疑問にぶち当たるんです。 「ああ、いいなぁ、イエスさまのところに何かあるなぁ」 そのように感じていただいている。そのように求めておられる方がいる。
Bそういう方々は、なぜ教会に来てくださらないんだろうか? なぜ福音に、福のおとずれに、良い知らせに心を開いてくださらないんだろうか? なぜ、救いの恵みに導かれる方々が少ないんだろうか? 日本のクリスチャン人口は、全体の0.1%。ほとんど変わらない。 世界一の宣教困難国(大笑)、日本。迫害もないのに、なぜ? なぜ人々は福音に対してなかなか心を開いてくださらないんだろうか? こんなにすばらしいものがあるのに。 それは頑なさでしょうか?罪深さなんでしょうか? 物欲に縛られているからなんでしょうか? 忙しい。あまりにも忙しくて、それどころではないんでしょうか? 色々な思いがある。 でもそれだけではないような気がする。
その理由のヒントが「邪魔してはいけません」と仰ったイエスさまの言葉にあるのではないかと思うのです。 イエスさまのところへ行くのを邪魔している何かがある。 この「邪魔してはいけません」とイエスさまが語られたのは、群衆に向かってではなかった。弟子たちに向かって「邪魔してはいけません」と仰った。 弟子たちに向かって、「邪魔してはいけない」と、延いては今、私たちにも――イエスさまの恵みにあずかっている私たちにも――何か大きなことを問われているのではないか、そう感じるのです。
●何が邪魔しているのでしょうか?イエスさまのところに多くの人が行くのを。 ある場合は、宗教という枠組み、これが邪魔をしているのかもしれない。 福音は良い。福音はすばらしい。でもキリスト教という言葉が付くと、ああ宗教。 私たちは一般の人からは、キリスト教を信じている人。 キリスト教という宗教も、多くの方々がイエスさまの教えを整理されて、キリスト教というそういう宗教を体系づけられた。 だからこそ、人に伝えることができるような形態になっている――それは分かり易いと思うんですね。 でも、それが宗教という枠組みになってしまって、キリスト教という一つの宗教という、特定の価値観になってしまって、そしてそれが分断を生み、争いを生んで来たというのは、キリスト教の歴史を見ると明らかなんです、残念なことに。 宗教の枠組み? 人々は、キリスト教を求めていない。キリスト教は求めていない。 ましてや、キリスト教信者になりたいとも思ってもいない。 所謂キリスト教を信じるのではない。人々が求めているのは福音なんだと、最近そう感じさせられるのです。
アフガンで昨年召された中村哲(なかむら・てつ)先生(福岡市西南学院、九州大学、1946〜2019)というお医者さんがいました。 敬虔なクリスチャンです。イエスさまのことを証ししたい、もうそういう思いで心が燃えるような、そういう信仰を持っておられた方です。 しかしこの方は、キリスト教から自由になっていました。 人道支援に徹していました。そして多くの人たちを助けました。 でもキリスト教を伝えるためではなく、福音を証しするためだった。 「天、我れと共にあり」これがこの先生のモットーでした。 「天、我れと共にあり」キリスト教から自由になって、イスラムの人たちにも歓迎され、そして感謝され、このアフガンの地域で本当に信頼される活動を続けておられた先生、まさに福音を証しされて生きた先生だった。 多くの人たちが、イエスさまのところに、イエスさまが持っているすばらしさに惹かれて行った。 教理や神学に惹かれて行ったのではない。イエスさまの持っておられるその本質、福音の本質、それに人々は触れて行った、この先生を通して。
●何が人々をイエスさまのところに行くのを邪魔するのでしょうか? もう一つ考えられるのは、誤解を恐れずに言えば、伝道です。 伝道熱心さが、人々を皮肉なことに(笑)イエスさまから遠ざけてしまっている。
私、高校二年生の時に初めて「あ、教会ってどういう所なんだろうか?」 もちろん批判的な思いだったんですけれども、行ってみたかった。 でも恐らく「行ってみたかった」という気持ちになったのは、心の奥底では求めていたんだと思うんですね。 教会ってどういう所なんだろうか? で、初めて勇気を出して、こっそりと教会を覗いてみようと思った。 あれは夜の伝道会だったんでしょうかね。 そしたらば、こっそりじゃなかった(笑)。 「よくお出でくださいました」と言って歓迎され、そして私の両脇に神学生が座った(大笑)。 そして、伝道会が終わった後に、「今日のお話分かりましたか?どうですか?」と聖書を開いてくださって、ここにこう書いてあります、こう書いてあります、と説明を受けた。 「止めてください」と私(戸塚伝道師)は思った。 「なんで!それ以上は止めてください、私はこっそり教会に来たのに、止めてください」 その時の、本当の意味での福音は「早く帰っていいですよ」と言うのが、本当の意味の福音だった。私にとっての良い知らせだった。 伝道、伝道の熱心さ。でも、往々にしてその熱く燃える伝道の熱心さが、イエスさまのところに行きたいという純粋な思いを持っている人たちの心に、邪魔することになる場合もあるのかと、そのように問われたことです。
伝道しないマザーテレサが、なぜあんなにも皆さんから愛されるんでしょうか? マザーテレサの生き方に、多くの人がなぜ惹かれるのでしょうか? マザーテレサが福音に生きていたからではないかと思うんですね。 子どものように神さまに依り頼んでいない私たちが、そのような人たちの邪魔をすることがある。 本当に申し訳ないけれども、そういうことがあり得るんだ。 で、叱られているのは、この朝もしかしたら弟子たちだけではない。 私も「邪魔をしないで。邪魔をしないで」とイエスさまからお叱りを受ける者なのかも知れない。 このようなイエスさまのところに行きたいと思っていらっしゃる方々のつまずきになっているのではないだろうかと、問われることでございます。 本当に私は神の国にふさわしい者なのか? 弟子たちでさえ、そうではないように、イエスさまから指摘された。 ましてや私はどうなんだろうか?神さまのために一生懸命やっていること、神さまのためにすべてを捧げて労していること―― でも結局はそれは自分のためだったんじゃないだろうか?とか、 人からの評価を気にしながらやっているのではないだろうか?とか、 自己満足のためにやっているのではないだろうか?とか、 何か自分の中を見る時に、「ああ、神の国にふさわしくないなぁ、子どものような心ではないなぁ」というようなものを、イエスさまから教えられることがあります。
「神さまを信じている」という方々は沢山いらっしゃるのに、「教会には行かない」という人が沢山おられる。 「イエスさまは大好きだ」と仰る方も「クリスチャンは苦手です」と仰る方がおられる。 私も友だちから指摘されたことがありました。 「おまえ教会に行っているとか、クリスチャンだって言っているけど、どうもおまえの姿を見ていると、自然体ではないんだなぁ。何か違うんだよんなぁ」 私は自然体じゃないなどと思ってはいないんですけれども、何か自然体じゃないもの、そういう印象を相手に与えてしまうんだなぁと。 何かこう善人ぶっているとか。何か「救われている、あなたたちまだ救われてないでしょう?」とか、なんかそんな印象を無意識のうちにあたえているのかなぁとか。 口先だけの慰めの言葉だとか。何かこう裏をそういう方々から見透かされているような自分がいるんですね。 「クリスチャンイメージ・かきくけこ」というのがあります。 堅い、苦しい、暗い、気高い、怖い(大笑)。私のことかも知れない。 でも恐らく人々が求めているのは、行ってみたい教会でしょうね。行ってみたい教会。 「行きたい教会・あいうえお」というのがあります。 明るい、居心地がいい、嬉しくなる、笑顔いっぱい、面白い(大笑)。 福音に生かされている教会は、恐らくこんなすばらしい教会なんでしょう。 高津教会はどうでしょうか?
●「邪魔をしてはいけません」――そのように憤られたイエスさま。 珍しく憤られたイエスさま、それほどまでに子どもたちを、あるいは子どものような心をもって自分のところに来られる人たちを大切にされたイエスさまのお姿。 「神の国は弟子たちのものです」と仰らなかった。 「神の国はこのような者たちのものです」と、イエスさまは仰った。 「神の国は子どもたちのもの。あるいは子どものような心を持った者たちのものなのです」と。 ああ、子どものように素のままで、イエスさまのところにすばらしい何かがある、と信じて、イエスさまに触れてもらいたい、と願う人たちの者なんだなぁと。 それが神の国だ。私はそのような人たちの邪魔をしているのかもしれない、と気づかされました。 この朝、もう一度子どものような心をもって、単純にイエスさまのところに行きたいと思うんです。 そして、神の国の恵みを与えていただきたいと思うんです。 福音に生かされる者とさせていただきたいと思う。そのようにイエスさまに願わされました。 「子どもたちを、わたしの所に来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」(マルコ10:14)
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
イエスさま、本当は多くの人たちがあなたのところに行きたいと願っておられることでしょう。しかし、なかなか教会にはいらしていただけません。私たちに問われている大きな宿題なのかもしれません。
イエスさま、あなたは憤って言われました。「子どもたちを私の所へ来させなさい。邪魔をしてはいけません。神の国はこのような者たちのものです」(マルコ10:14)と。 今もう一度原点に立ち返って、子どものような心であなたに依り頼み、あなたのところに行きたいと願います。
どうぞこの朝、私たち一人ひとりを抱きしめてください。そして頭に手を置いて、祝福してください。そして素のままで、福音そのものを証しする者とさせてくださいますように。聖霊のとりなしの内に、愛するイエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。ありがとうございました
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